川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

NHKの夜九時のニュース

2009-12-14 18:40:22 | 韓国・北朝鮮
 昨日は東京でのフォーラム、今日は新潟港埠頭での追悼集会「あの日を忘れない」に出席して18時頃に帰ってきました。これらの報告はまたの日にします。
 
 今夜9時のNHKのニュース番組で「北朝鮮への帰還事業から50年・脱北女性の切実な思い」が放送されるそうです。新潟の追悼集会の模様も紹介されるかもしれません。ごらんになってください。

 北朝鮮帰国第一船が新潟港を出て50年目の日、日本への帰郷を果たせないままなくなった日本人妻や在日コリアンに思いをはせ、多くの友人たちと追悼のときをもてたことはまことにありがたいことでした。

 追加 7時のNHKニュースで追悼集会が紹介されたのを見ました。ぼくの姿も映っていました。

 帰還事業から50年 追悼集会

           (NHK12月14日 19時3分)
在日韓国・朝鮮人と日本人の妻ら9万人以上が北朝鮮に渡った「帰還事業」が始まってから14日で50年がたち、最初の船が出港した新潟港で、日本へ戻ることもなく亡くなった人たちの追悼集会が開かれました。

昭和34年から昭和59年まで25年間続いた帰還事業では、在日韓国・朝鮮人と日本人の妻ら9万3000人余りが、当時、「地上の楽園」と宣伝されていた北朝鮮に渡りました。背景には、日本での貧困や差別がありましたが、北朝鮮でも厳しい監視の下、苦しい生活を強いられ、その後の消息が確認できない人も少なくありません。集会は、50年前の12月14日、最初の船が出港した新潟港で行われ、帰還事業で肉親が北朝鮮へ渡った人たちなどが参加しました。このうち、日本人妻として北朝鮮に渡ったおばを亡くした、広瀬直子さんが遺族を代表してあいさつし、「帰還事業とは何だったのか、おばはユートピアを見たのか、国は何をしていたのか、さまざまな思いが去来します。再び会うことがかなわず残念でなりません」と話しました。続いて、参加者が次々に献花し、日本へ戻ることもなく亡くなった人たちを悼みました。北朝鮮から逃れてきた人たちを支援している団体の代表で、集会を主催した坂中英徳さんは「北朝鮮に残された人たちは高齢になっている。この問題は現在進行形であり、政府は、日本人妻など里帰りさえかなわない人たちの帰国に向け、北朝鮮と交渉してほしい」と求めました。

  出典http://www.nhk.or.jp/news/k10014399551000.html

高麗王若光の墓のなぞ

2009-12-13 08:38:28 | 川越・近郊
12日(土)前日とはうってかわって、暖かくよく晴れたので、高麗(こま)を散歩することにしました。

 高麗神社から聖天院に向かう小道に入ってからすぐに神社裏の山に登る小道が見えたので行ってみることにしました。何十回と訪ねてはいますが裏山に登るのは初めてです。

 杉の木立の中を息を切らせながら登っていくと墓地が広がっています。その一番奥まったあたりに小さな鳥居があり、それをくぐると円墳が三つ並んでいます。どれも芝草で覆われており、韓国・慶州で見た王陵のミニ版です。

 それぞれの円墳に黒御影石の小さな墓誌が建っており、一番左側のそれには「伝若光之墓」と刻まれています。

 妻は十年ほど前、高麗神社の神官にここを案内してもらったそうです。高句麗から亡命してこのあたりに住み着き、高麗郡のリーダーとして活躍した「高麗王若光」の墓はこの円墳ではないかと高麗さん(神官)は言われたとのことです。それより数年前、最初に見たときは墓域全体が木立に覆われていたそうです。

 高麗神社の境内にある高麗家住宅の裏からこの円墳までは今はきちんとした道が整備されているのですが普段は閉ざされており、ぼくも入ったことがなかったのです。今日は当てのない裏山の散歩をしていて偶然たどり着いたというわけです。

 ここからの眺めは絶景といってよく、遠くの木立の向こうはまるで海のように見えます。この場所はリーダーの墓地にふさわしいかもしれません。

 高麗で若光の墓といえば誰もが聖天院にある「高麗王廟」を思い出すに違いありません。近年、韓国の金鐘泌元首相の字で「高句麗若光王陵」と書かれた碑が建てられたので、これが若光の墓だと誰もが思うかもしれません。「陵」といえば墓を指す言葉で「廟」とは違います。。それに「王(こきし)」というのは大和の王権が渡来系の若光に与えた姓(かばね)で、高麗王若光(こまのこきし じゃっこう)です。「若光王」という王様がいたわけではありません。

 覆い屋の中にある砂岩を重ねた供養塔(ストゥッパ)は、鎌倉時代の頃のものだろうというのが、今では定説になっているようです。ですから「高麗王廟」を若光の墓とするのは素人のぼくでも無理があるように思います。高麗神社の裏山にある「伝若光之墓」の方がずっとリアリティを感じます。

 それでも高麗神社のどこにも「伝若光之墓」の説明も道案内もありません。しかも参道は閉鎖されたままなのです。これはどういうことなのでしょうか?

  聖天院の「高麗王廟」http://www.bell.jp/pancho/travel/saitama/shodenin.htm

 聖天院は近頃あちこちが建て替えられたりして様相が一変しました。入場料をとるようになりました。そのせいもあってぼくは門前から引き返すようになりました。

 読者の皆さんが高麗郷にいくことがあったら高麗神社の裏山の小道を登って「伝若光之墓」を訪ねてみてください。どんな感想を持たれるでしょうか。


 高麗郷http://www.h6.dion.ne.jp/~arc-yama/sketch/machi/doc/koma.html#map

 今日はこれから「牛込箪笥町ホール」に行って、「北朝鮮帰国者問題の本質と課題」という集まりに参加します。
 高句麗は今の北朝鮮から中国にかけてを版図としていました。668年唐・新羅の連合軍に攻められ首都・平壌は陥落、滅亡しました。その遺民の一部がこの列島に亡命し、大和の王権の庇護を受けて高麗郡を作ったのです。

 今も昔も朝鮮半島や大陸の激動と日本列島は無縁ではあり得ません。


日本人妻問題・続報

2009-12-12 04:37:15 | 韓国・北朝鮮
 坂中英徳さんが中井洽拉致問題担当相を訪ねて、日本人妻の救出を訴えた記事の続報です。今朝の「産経」に大きく出ています。移民政策研究所が主催する集会・追悼集会の詳細はHPをご覧ください。

  http://jipi.gr.jp/


「地上の楽園」は地獄だった…帰国事業から半世紀 (3/3ページ)
                    (産経2009.12.11 22:59)


 帰還事業開始から丸50年を迎える14日、北朝鮮で亡くなった在日朝鮮人や日本人妻の追悼集会が新潟港で行われる。主催は脱北した帰還者の日本定住を支援する「移民政策研究所」。坂中英徳代表は「50年の節目は日本人妻救出への機運を高めるチャンス」と語る。

 法務省によると、渡航した日本人妻は1831人。坂中氏は「生存者は推定で100人前後。人質外交が常道の北朝鮮にとって日本人妻問題は切り札の一つ。必ず交渉に乗ってくるはずだ」と分析する。

 数年前に脱北した70代の女性は「在日コリアンの立場から客観的に見ても日本人妻は悲惨。何とか祖国に帰してあげたい。日本人妻は、真冬に零下40度にもなる北朝鮮北部の炭坑や鉱山などに追いやられた。粗末な食事や最悪の医療水準で、どんどん倒れていった」と振り返る。過酷な労働にかり出され、思想統制の集会でも「日本人が朝鮮にどれだけ悪いことをしたか」と集中攻撃されていたという。

 自殺する人も多かったが、北朝鮮で自殺者は逆賊。葬式は許されず、家族はさらに山奥へ追放された。女性と親しかった日本人妻は「ここで死ぬのだけは嫌だ。里帰りできれば、墓参りをしてその場で死にたい」と話したという。この日本人妻は脱北を試みて失敗。安否は不明だ。

 坂中氏は「帰還事業と日本人妻の現実に光をあてたい。50年前、歓喜に沸いた新潟港で追悼する意味を感じてほしい」と語る。

     ◇

  北朝鮮を脱出し日本に戻ってきた日本人妻らを支援する「移民政策研究所」の坂中英徳代表は11日、内閣府に中井洽拉致問題担当相を訪ね、日本人妻の早期帰国を政府として北朝鮮との間の外交問題にするよう要請した。

 坂中氏は、鳩山由紀夫首相あての要請文の中で、「世界は北朝鮮の日本人拉致を指弾している。北朝鮮が50年間も日本人妻の出国を阻んできたことについても国際社会は非難を浴びせるに違いない」と指摘。日本人妻の帰国について「緊急を要する邦人保護問題」としている。坂中氏は元法務省東京入国管理局長。

 出典・全文はhttp://sankei.jp.msn.com/politics/policy/091211/plc0912112304021-n1.htm


 毎日新聞・新潟地方版が北朝鮮帰国事業に関わる検証記事を連載し始めました。貴重な努力ですがなぜか全国版には載っていません。1959年から始まる「帰国事業」で新聞の果たした役割は小さくはありません。「犯罪的」という人もあるくらいです。毎日・新潟支局の取り組みに注視していきたいと思います。

 日教組に組織された教職員の中にも積極的にこどもたちを北朝鮮に送った人たちがいます。日教組指導部やこれらの人々は黙ったままか、今も朝鮮総連と「連帯」して活動している始末です。その罪は深いと言わなければなりません。
 

 ボトナムは知っている(二)http://mainichi.jp/area/niigata/news/20091210ddlk15040067000c.html

 ボトナムは知っている(三)http://mainichi.jp/area/niigata/news/20091211ddlk15040047000c.html

日本人妻問題 坂中英徳さん、中井国家公安委員長に要望書を提出

2009-12-11 19:53:44 | 韓国・北朝鮮
 夕方5時前のNHKニュースで坂中英徳さんが中井国家公安委員長に面会して「日本人妻」の帰国実現に向け、北朝鮮と交渉するよう求める要望書を提出したと報じました。

 日本人妻問題が政府の担当責任者にきちんと受け止められたとしたら画期的なことです。13日に東京で集会、14日に新潟で追悼集会をやります。皆さんが明日朝の新聞報道にも注視し、積極的に参加してくださるように改めてお願いします。

 集会案内http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/719be9545347b489e4f260fa3390c9a6

 

“日本人妻”早期帰国求める
   
              NHK(12月11日 17時18分)
かつて在日韓国・朝鮮人の夫とともに北朝鮮へ渡り、日本に帰れないままになっているいわゆる「日本人妻」について、支援団体が11日、政府に要望書を提出し、早期の帰国の実現に向け、北朝鮮に働きかけるよう求めました。

昭和34年から25年間続いた北朝鮮への帰還事業で、在日韓国・朝鮮人の夫とともに北朝鮮へ渡った日本人妻は1800人余りに上りますが、その多くが日本への一時帰国すら認められず、安否の確認もできないままになっています。この問題について、日本人妻や北朝鮮から逃れてきた人たちの支援をしている団体が11日、中井国家公安委員長を訪ね、鳩山総理大臣にあてた要望書を提出しました。要望書の中で、この団体は「日本人妻は差別や貧困で苦しみ、日本への帰国を強く望んでいる」として、早期の帰国の実現に向けて北朝鮮に働きかけるよう求めています。面会のあと、この団体の坂中英徳代表は「日本人妻は皆、高齢になっており、いつかは日本へ帰りたいと待ち続けています。緊急を要する邦人保護の問題として、政府として一刻も早く全員が帰国できるよう取り組んでほしい」と話していました。

   出典http://www.nhk.or.jp/news/t10014353571000.html

 
 夜になって産経のニュースでも報じられています。


「北日本人妻の帰国を外交問題に」 支援組織が首相あてに要請文

                (産経 2009.12.11 19:16)
 北朝鮮を脱出し日本に戻ってきた日本人妻らを支援する「移民政策研究所」の坂中英徳代表は11日、内閣府に中井洽拉致問題担当相を訪ね、日本人妻の早期帰国を政府として北朝鮮との間の外交問題にするよう要請した。

 坂中氏は、鳩山由紀夫首相あての要請文の中で、「世界は北朝鮮の日本人拉致を指弾している。北朝鮮が50年間も日本人妻の出国を阻んできたことについても国際社会は非難を浴びせるに違いない」と指摘。日本人妻の帰国について「緊急を要する邦人保護問題」としている。坂中氏は元法務省入管局長。


 今朝の毎日新聞に鈴木琢磨記者の「日本人妻」問題に関する記事が出ています。

http://mainichi.jp/select/opinion/eye/news/20091211k0000m070144000c.html

讃岐から鳴戸へ 四国路⑤

2009-12-10 06:12:15 | ふるさと 土佐・室戸
 四国の旅のメモ、最終回です。

 11月24日(火)晴れ後曇り

 高知から32号を吉野川沿いに走り、脇町へ。パルシーという巨大なショッピングセンターで総菜を買ったがその豊かさに驚く。手作りでおいしそうな地の料理が川越では考えられないほど並んでいる。店内のベンチでゆっくり昼食。

 うだつのあがった町並みを散歩したあと吉野川の土手に出てみた。「四国三郎」のゆったりした流れに時を忘れる。

   吉野川 脇町http://www.udatsu.vs1.jp/fubutsu-3.htm


 阿讃の山並みを縫って讃岐の大窪寺(おおくぼじ)を訪ねる。四国霊場88カ所の結願の寺である。思っていたよりは境内は宏壮で歩き甲斐がある。訪問は2回目だが前回の記憶は残っていないことに気づく。鐘を撞かせてもらう。「南無大師遍照金剛」。

 
   大窪寺http://f46.aaa.livedoor.jp/~taxi/junrei/88/88z.htm

 讃岐平野に出て津田の松原を散歩。ベッセルおおちという宿に泊まる。海を目の前にした露天風呂で四国の旅の疲れをとる。雨模様になってきて小豆島は見えない。

 http://www.shikoku.ne.jp/vessel/


 25日(水)晴れ

 瀬戸内の海岸沿いに鳴戸へ。四国はあちこちに行ったがここは初めて通る気がする。鳴戸スカイラインからのウチの海の眺めがよかった。今度来たときにはウチの海をゆっくり探索してみよう。

 11時半徳島港発、オーシャン東九フェリーは一路東京へ。

 http://hajikaga.ashita-sanuki.jp/e110526.html 

北朝鮮帰国者問題の本質と課題

2009-12-09 07:22:50 | 韓国・北朝鮮
 昨日は「ふるさとの湯」に行ってサイクリングの疲れをとり、ゆっくり休むことができました。さて13日にはぼくにとっては今年最後にして最大の集会があります。友人たちが心を込めて準備しました。皆さんがご出席くださるようにお願いします。

 フォーラム「北朝鮮帰国者問題の本質と課題…50年の節目を迎えて」

 とき 13日(日)14時から16時45分まで

 会場 牛込箪笥区民ホールhttp://www.enjoytokyo.jp/OD003Detail.html?SPOT_ID=l_00019317
 

 入場無料

 パネリスト  萩原 遼(ノンフィクション作家)
        菊池嘉晃(読売記者)
        田 月仙(ちょん・うぉるそん・声楽家)
        呉 ユンビョン(人道移民センター相談員)
        坂中英徳(移民政策研究所人道移民支援センター代表)
     司会 小牧美和(移民政策研究所事務局長)


 趣旨 「1959年12月14日、975人の在日コリアンおよび日本人妻らを乗せた第一次帰国船が新潟港から北朝鮮の清津港に向けて出港した。
 総計93,340人に及ぶ人々が北朝鮮に渡った。
 あれから50年、祖国で迫害を受けた人たちが元いた日本に次々と亡命して来るという前代未聞の出来事が起きている。
 戦後の歴史として、また同時代に生きる我々の良心として…この“悲劇“を闇に葬らせるわけにはいかない。」

 フォーラム終了後、映画『海峡のアリア』を上映します。兄さんたちを北朝鮮で失った田さんの半生を描いた作品です。

 翌日は新潟港で追悼集会です。今なお、北朝鮮で助けを求めている人たちに希望があることをなんとしても伝えなければなりません。


われ、荒川河口に到達す

2009-12-08 22:02:06 | 川越・近郊
 12月7日(月)晴れ

 荒川河口を目指すサイクリング2日目。

 9時15分浮間舟渡駅を出発。浮間公園を横断して荒川右岸の土手に登り一路南下。岩淵水門までは右に新河岸(しんがし)川、左に荒川を見ながら快走。

 岩淵水門のところで新河岸川は隅田川となり浅草などを経て豊洲で東京湾に注ぐ。昔は荒川本流も隅田川に流れ込んでいたが荒川放水路ができてからは東流することとなった。今はこちらを荒川と呼んでいる。放水路の工事に従事していた朝鮮人が大震災時に虐殺された歴史を知る人は少ない。

 今日のコースhttp://arakawa.cycling.jp/map/map.html
 岩淵水門http://www.f-banchan.net/tokyo/iwabuchi/iwabuchi.htm 
 
 川越から江戸までは「栗(九里)より旨い十三里半」といわれた。新河岸川を下る舟運で川越芋が浅草や日本橋に運ばれたのだろう。十三里半は54kmということになる。

 ぼくは岩淵水門を渡って隅田川とはお別れ。荒川右岸沿いに広く立派な道が続いている。
 この道は非常時の避難道路なので通常は車やバイクの通行を認めていない。だから通るのは人と自転車だけである。実質的にサイクリングロードとなっている。走ってみるとあちこちで河川敷の工事が行われており、トラックが時折通行するがどの車も徐行運転で危険性は感じなかった。

 北区、足立区、荒川区、墨田区、江戸川区、江東区と過ぎていく。あちこちで家庭訪問した人たちや友人たちの姿を思い浮かべた。会いたくても長く音信不通の人もいる。池商は全都が学区だったから、地元の北区以外の荒川流域の区からの通学者が多かったのだ。

 荒川ロックゲートなど寄って見学したいところもあるが立ち止まる程度で通過する。

   荒川ロックゲートhttp://www.ara.go.jp/location/loc/16.html

 河口近くの清砂大橋で左岸に渡ることにする。自転車を押して橋に登る。わかりにくいのはここだけだった。橋の中央部分で河口部を見る。水面に陽光が反射してまぶしいばかりだ。左手に洪(ほん)さんの住む高層マンション群が見えるので訪問を予告する。11時半。ここまで2時間15分。順子号の時速は12,3kmくらいか。

清砂大橋からの眺めhttp://blog-imgs-36.fc2.com/d/a/n/danchotei/IMG_3307.jpg

 急な訪問だが洪さんは喜んでくれ?、西葛西駅近くのラーメン屋で昼食をともにする。これがまた美味。おつゆを一滴も残さなかった。川越からママチャリで食べにきたよと言うと店員が驚いたり、喜んだり。

 一時半頃、洪さんと別れ、荒川沿いの(少し上流で中川が合流しているので中川沿いでもある)「健康の道」を葛西臨海公園へ。数キロに亘って続くこの道は実にすばらしい。大河海に入る風景である。 

 荒川河口の風景(葛西臨海公園に続く健康の道)
http://shukas.exblog.jp/tags/%E8%91%9B%E8%A5%BF%E8%87%A8%E6%B5%B7%E5%85%AC%E5%9C%92/

 臨海公園は前にもきたことがあるが荒川を下ってたどり着いた東京湾の広がりは格別である。
 ぼくの生徒だった桂子さんが働いている水族館もあるが今日は遠慮することにする。日没前に北区王子に着かなければならない。海辺を一周してもと来た道をたどる。

 帰り道は北風が強くなってやや難渋する。休み休み走行するが清砂大橋が間近に見えるところで恵美ちゃん宅に電話して予定変更を告げる。今日の走行はここまでとし、自転車は洪さんに預かってもらうことにする。もうすぐ3時だ。この調子ではとても日没までに王子にはつけないし、体力も心配だ。

 洪さんは手ぐすね引いて待っていた?風情。こういうことがあることはそれぞれに考えてはいたことなのである。

 清新町の高層マンションの眺めのいい部屋で男二人が6時近くまであれこれと四方山話。焼酎の湯割りが心地よい。
 
 洪さんは今年このマンションのいわば村長さんを引き受けており、「村民」から「ほんさん」と呼ばれていろいろと世話をするのが気に入っているようである。
 在日コリアン二世だが幼くして両親を失い、兄に育てられたがお兄さんも若くしてなくなった。苦労続きの青年時代だったがアイデンティティの核として民族名を大切にしてきた。その名前を「村」中の人が呼んで親しんでくれるのである。

 いつあっても家族を大事に思う気持ちが伝わってくる。今日はみんなで羽黒山に登った話をしてくれた。自然にテーマは「東北論」になる。このあたりの問題意識もぼくと共通する。多賀城を始め古代の「柵」あとも訪ねている。

 コリアンの中でどんなテーマでも心おきなく話ができる数少ない友人の一人である。洪さんはぼくのことを「先生」と呼ぶが、ぼくが彼の「先生」であったわけではない。しかし、いつの頃からか、ぼくは彼の名前をさん抜きで呼ぶようになった。友達には違いないが「生徒」か「弟」扱いに近くなったのだろう。勝手なことで迷惑かもしれないが…。

 今日はこれでまたよかったなあ、帰りの電車の中で思いおこしつつ、眠り込んでしまった。それでも8時過ぎにはきちんと駅からバスに乗って帰宅することができ
た。

 恵美ちゃんには申し訳ないことをした。いつになるか、風のない暖かい日に洪さんのところから順子号で訪ねるので悪しからず、よろしく。



 

荒川を河口まで走る

2009-12-07 07:00:51 | 川越・近郊
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6日(日)快晴、無風の予報なので荒川河口を目指すサイクリングに挑戦することにする。

 朝靄がはれず、出発が9時45分になる。 入間川大橋の半ばから荒川自転車道にのり、上江橋(かみごうばし)で左岸へ。途中、あちこちで堤防の強化工事のため迂回を余儀なくされたが、だいたいは堤防の上の道を走る。

 秋が瀬橋を渡って右岸に出て一路南下、板橋区新河岸についたのが12時半頃。卒業生の圭子さんの家が土手下にあるので寄ってみたが留守だった。
 舟渡小学校前の食堂で昼食。

 食事が終わったのは1時半頃か、疲れが出てきたのでこの日の行動はここまでとする。浮間舟渡の駅に行って自転車を預ける。一日100円、二日分なので200円也。
2時過ぎの埼京線の電車で川越に帰る。

 思っていなかった展開になった。

 今日(7日)も好天のようなのでこれから電車に乗り、浮間舟渡から荒川右岸の土手を河口まで行ってみたいと思う。25kmぐらいだからふつうの人には何でもない距離だが…。
 河口の葛西臨海公園あたりで疲れたら、江戸川区の洪さんの家に自転車を預かってもらおうかな。でも、なるべく引き返して、北区王子の恵美ちゃん宅まで走ろう。
 そのあとをどうするかは未定である。新築、一戸建ての恵美ちゃん宅でしばらく自転車を保管してもらう相談は整っている。

 今日もやってみなければどうなるかわからないが、無理をしないことを第一に順子号を走らせてみよう。荒川河口までのサイクリングは昔からの夢だったのだ。

  荒川サイクリングロードhttp://kanata2003.hp.infoseek.co.jp/arakawa.html

土方久功(ひじかたひさかつ)

2009-12-06 04:48:28 | ふるさと 土佐・室戸
(丸木)俊さんは若いころ、パラオにわたり、しばらく過ごしました。その時の、腰みの一つ、おっぱい丸出しの写真が面白いです。この時、世話をしたのが、土方久功(ひじかた ひさかつ)ですが、今、土方のほとんどの作品は高知県立美術館に収蔵されました。土方も先祖は高知ですので、丸木とは縁が濃いですね。

 高知の梅原さんのメールにこんな一文がありました。妻は高知の美術館で土方の作品を見て俊さんとの関係を思ったと言いますが、ぼくはすっかり忘れていました。雨の一日だったので家にこもり、パソコンで土方という人のことを調べて見ました。土佐の出の土方久元の孫で演劇の土方与志の縁戚のようです。

 池澤夏樹さんの文章に出会いました。長いけれど勉強になったので紹介しておきます。

 幸福な人生(土方久功展)
  書評者名:池澤夏樹初出:「よむ」初出年月日:1991年2月

 
   幸福な人生というものはあるだろうか。
 自分が幸福だと感じる時はあるし、脇から見ていて今あの人は幸福だと思えることもある。しかし、一つの人生が全体として幸福だったと言うことはできるか。そういう人生は成立するか。
 いかにも満ち足りて、すべてがうまくいっている時期、何の不満もなくて、たしかに幸福だと言える時、それが生まれてから臨終までずっと続くとしたら、それはたしかに幸福には違いない。しかし、人間にとって歳月とはそんなに単調なものではないし、もしも一生の間ずっと自分は幸福だったと言いきる人がいれば、いったいこの人は何をしてきたのだろうと、われわれはその人生観の方を疑うかもしれない。
 では、いったい、どんな順序で混乱と苦労と充足が来れば、その人の生涯はうまく設計された幸福なものだったと言えるのだろう。若い間は活動的な、従って混乱もあれば失意の時期もある生活、老いてはそういう昔を思い出す余裕と手段に恵まれた安楽の日々。若い時の記憶をたどるには、ただ坐って考えているだけでは駄目で、何か手段がいる。それを手中に収めるのが幸福な生涯を得るための秘訣かもしれない。
 土方久功(ひじかた・ひさかつ)の展覧会で、彼の晩年の木彫レリーフと水彩画を見ながら、そういうことを考えた。彼の名はさほど広くは知られていない。彫刻家であり画家であったが、それは本人の意志と才能においてそうであったので、絵画売買の業界は彼を画家とは認めていなかった。民族学者として偉大な仕事をしたけれども、彼がフィールド・ワークをしていた時期には、日本には民族学などなかった。その成果を役立てることができたのは戦後もずいぶんたってからのことである。つまり、大正から第二次大戦の終わりまでの間、日本の社会から突出して生きた人なのである。
 生まれは一九○○年、父は軍人で、なかなかの名門の出。だが、そのことは久功の人生にはほとんど影響を与えなかった。むしろ親しく交わった同年輩の従兄の子、土方与志の方が二○代までの彼には大事だったかもしれない。後に久功が作った俳優座のマークは、与志をきっかけにはじまった演劇界との縁の一つの成果である。上野の東京美術学校彫刻科を卒業して、二七歳の時には丸善で個展を開いている。

 彼の人生にとって最も重要なことは、しかし、その後に始まる。二九歳の時に、南洋に渡ったのだ。当時の日本は、国際連盟の委任統治領として預かったミクロネシアの島々をずいぶん勝手に開発し、植民をはかり、すっかり自分の国の領土のようにしてしまっていた。その統治の中心である南洋庁はパラオにあった。土方久功はそこに住んで、公学校(国民学校の外地版)で少し彫刻を教えたりするかたわら、島内を精力的にまわって島民の生活を見ていった。
 人と土地の出会いは、時として人と人の出会い以上にドラマチックである。かりそめの旅である土地に行った者が、そここそは自分が暮らすべき場所であったと思い込んで、そのまま根をおろしてしまうことがある。前の日までまるで知らなかった土地に、船から降りた途端にすっかり魅了されてしまう。土方久功と南洋の出会いもあるいはそれくらいの衝撃的なものであったかもしれない。少なくともこの後の彼の生きかたにはそれをうかがわせるものがある。
 彼は一九二九年から一九四二年まで、ずっと南洋にいた。最初の二年半はパラオに住み、一九三一年の九月に人口わずか三八○人の離島サタワル島に渡る(サタワルはサテワヌとも表記される)。島の言葉を覚え、習俗や民話を記録し、島民の相談ごとを聞き、一九三八年まで滞在する。そして、再びのパラオ。この後の方のパラオ時代に中島敦が赴任してきて土方久功と親しくなっている。戦争がはじまって三か月目に中島と同じ船で帰国。
 そういうことは一通り知っていた。彼が作った木彫レリーフや水彩画を複写で見たこともあった。南洋での民族学的調査については、この二○年ほどの間に復刻された『流木――ミクロネシアの孤島にて』(未来社)、『覆刻 サテワヌ島民話』(アルドオ)、それに『パラオの神話伝説』(三一書房)などは手元にある。しかし、彼の創作活動の最盛期が晩年にあったことは知らなかった。うかつだったと展覧会の会場で思った。作品の中には制作年代として大雑把に一九二九-一九四二と記したものもあり、それはつまり南洋で作られたということなのだが、木彫レリーフなどは戦後の方がずっと多いし、水彩画の場合はもっとはっきりしていて一九六九年以降に限られている。心臓の発作で倒れて以来、力のいる木彫を捨てて水彩画にしたらしい。それもかつて作った木彫レリーフをそのまま絵にしているから、作品の多くが対になっている。いずれの作品もモチーフは南洋である。ただ、それが現地に滞在している時にではなく、帰国して二○年もしてから生み出されていることに驚いた。
 木の板に絵画的な構図で浅く彫られたレリーフにはどれにも枠が彫りこまれ、水彩画にも窓枠のようなフレームが描かれている。だいたいが一人ないし二人の人物像で、顔の表情はエジプト美術のように横顔に正面からの目を描いたものが多い。そして背景にはおびただしい植物。明るく、装飾的で、いかにも幸福な図柄。彼が住んだ土地に何度か行っているぼくには懐かしい顔。芸術家の記憶の中で純化したために、これらの顔は描かれたのだろうか。その土地に住んでいる時には、目前のさまざまな問題や義務やお互いの立場に邪魔されて図像として表せなかったものが、歳月の果てにいちばんよい姿になって戻ってくる。
 

 そうだとすれば、土方久功は若い間に実によいものを仕込んで、晩年の到来を待ったということになる。そして、その晩年は確実にやってきた。彼の人生の全部を見てとることはできないが、最後にこれらの作品を残した以上、これはなかなかうまく作られた、幸福な人生であったと想像することができる。そう、満ち足りた日々を描いた作品を前にして、その余光にあずかるのも後生として悪いものではない。
(なお、土方久功の著作集八巻が三一書房から刊行されている。また、岡谷公二による伝記『南海漂泊』(河出書房新社)も参考になる。)

 出典http://www.impala.jp/bookclub/html/dinfo/10110006.html

 偶然のことながら,帰ってきた娘の口から池澤夏樹さんの名が出てきました。2001年の同時多発テロ事件以来この方の言動に助けられたというのです。帯広の出身で埼玉大を中退した人だそうです。娘は埼玉の出身で帯広畜大を中退しているので縁を感じているのかもしれません。
 そういえば娘に勧められて『イラクの小さな橋を渡って 』(池澤 夏樹 著 本橋 成一 写真)を読んだことがあります。今は光文社文庫になっているようです。まこと人はいろんなところでつながり助け、助けられているものですね。

 世田谷美術館で開催された土方久功展には丸木俊の作品も展示されたとのことです。
 「パラオーふたつの人生 鬼才・中島敦と日本のゴーギャン・土方久功展」http://www.geocities.jp/seppa06/0712toi/setagaya.html

白鳥 丸木美術館 落日

2009-12-05 08:01:43 | 川越・近郊
 12月4日(金)

 昨夜来の雨が上がってものすごい青空。10時半頃、川伝いに丸木美術館に行くことにしました。

 川島町の越辺川(おっぺがわ)に今年も白鳥がやってきています。岸辺まで降りてしばし眺めました。親が20羽、子が8羽。やや黒っぽいのがこどもだと教えてくれる人がいます。

  白鳥http://www.mitsuiseiki.co.jp/topics/photo/2009/091203.html


 12時半頃、丸木美術館着。都幾川の崖上に立つ美術館からの初冬の風景はなんと表現すればいいのか。こんなところで働くことができる娘は果報者だ。

 美術館から都幾川をみるhttp://www.aya.or.jp/%7Emarukimsn/4seasons/DCP_1439.JPG

 丸木丈二さんのお宅を訪ねて小一時間昔話を聞きました。高知の梅原さん夫妻が学生だった頃ここで世話になったと聞いたからです。丈二さんはお二人のこともよく覚えておられました。

 共産党から除名されたり、脱党した人たちが何かにつけて丸木夫妻の家にたむろしていました。土地の人たちからは「アカの巣」のように見られて敬遠されていたと言います。

 丈二さんは地元の人ですがそのころからここに住んで位里先生の「助手」をつとめてきたと言う方ですから、興味深い話が次々と出てきます。

 いつか、梅原さんご夫妻が尋ねてくれることがあったら昔話に花が咲くことでしょう。そんな日のあることを楽しみにしておいとましました。


 帰りも同じ路をたどります。家が近い入間川の土手の上で落日を見ました。左手に富士山、なんと表現していいかわからない荘厳な風景です。空のブルーが透き通るような美しさです。

 ちょっと(かなり)違う色合いですが同じようなアングルの落日の写真がありました。
http://blogs.yahoo.co.jp/sgkumagai/56327513.html
   

破滅的な戦争に協力してはならない

2009-12-04 06:26:40 | 政治・社会
社民党の連立政権からの離脱をおそれたせいか、沖縄の基地問題の決着は先延ばしにされ、鳩山首相は普天間基地の移転先を改めて探すように外務・防衛大臣に指示したとのことです。移転先にはグアムが想定されていると「読売」は報じています。

 ぼくは勘違いをしていたようです。鳩山さんが国外県外移設という話をしているのはそれなりの当てがあるものだと思っていたのです。グアム、関空、静岡、…。
 でもそうではなかったようです。なんだかとても心許ない話です。

 国民新党の下地幹郎さんと社民党の阿部知子さんがおととい橋下大阪府知事と会ったようです。それ自体は一歩前進でいいことですが、今頃になってこんなことをやっているのかと驚いてしまいます。

 下地議員のブログhttp://www.mikio.gr.jp/blog/index.php



 橋下知事にアポなし面会 沖縄の下地議員「考えに感激」

(2009年12月2日22時48分 朝日)

沖縄県選出の下地幹郎衆院議員(国民新党)が2日、大阪府庁を訪れ、橋下徹知事と面会した。両者によると、普天間飛行場の移設問題をめぐり、沖縄の米軍基地の負担を全国に知ってもらうことなどを話し合った。下地議員が主張している基地の機能の一部を関西空港に移す話は出なかったという。

 下地議員は、沖縄だけでなく日本全体で沖縄の米軍基地の負担軽減に理解が必要と訴えている橋下知事の真意を確かめようと、「アポなし」で訪問。面会後、「知事の考えに感激した。話を聞いてみたら、と外相や防衛相に伝えたい」と報道陣に話した。

 橋下知事は会見で「沖縄の負担軽減のためには、いずれかが受け入れを考えなきゃいけない。各知事が認識すれば政府も動きやすくなる」と述べ、全国知事会でも問題提起する意向を示した。

 一方、兵庫県の井戸敏三知事は、橋下知事が基地機能移転の議論の中で神戸空港の名前を挙げたことに「思いつきで話していいのか。日米で深刻な議論をしているのにあまりに無責任」と批判した。


 アメリカのオバマ大統領はアフガニスタンでのアルカイダ・タリバン殲滅戦争の遂行を宣言しました。本当に恐ろしいことです。

 タリバン勢力がここまで根強いのは何かの理由があるからです。結局のところ、アフガンやイスラム圏の人々の支持があるということでしょう。オバマさんはこれらの人々を皆殺しにすると宣言したに等しいのではありませんか。

 出口のない殺戮が続くような気がします。イスラム圏とキリスト教圏の全面戦争の匂いもします。アメリカ社会の荒廃も行き着くところまで行くでしょう。

 日本はこの戦争に協力してはなりません。

 沖縄の基地の問題はアメリカの世界戦略と深く関わっています。アメリカが破滅的な戦争に踏み切ろうとしているときです。私たちはアメリカとどういう関係を結んでいったらいいのか、私たちの戦略を持って基地問題に向かい合うことが大事です。

 自民党はアメリカと一蓮托生しか日本の進路はないと国民を導いてきました。鳩山民主党はどうかんがえているのか?どうもきちんとした考えはなさそうです。
 
 やっかいで困難な問題ですが沖縄の基地問題を通じて私たちはなんとしても新たな路を切り開かなければなりません。アメリカの言いなりになってはなりません。

 

交友Ⅲ 四国路④

2009-12-03 08:45:58 | ふるさと 土佐・室戸
 11月23日(祝)つづき

 葉牡丹という居酒屋での交流会は午後1時からです。高校同級の一郎くんと9月に東京で会っていただいた大崎さんがきておられるところにコニヤンと私たちが定刻ぎりぎりに駆けつけました。一郎くんと大崎さんは初対面ですがもうすっかりなじんでいるようです。

 何がテーマというわけではありませんが故郷土佐の山河に抱かれ、友人たちと談論風発するひとときは心が和んでほんとうにうれしい。それぞれに多忙な人々がせっかくの休日を割いて集ってくれたのです。

 一郎くんは同級生ですから古くからのつきあいですがこうして個人的に酒を酌み交わすようになったのは最近のことです。東京に住むある方の帰郷を支援する事業の中でお互いに縁戚関係にあることもわかりました。コニヤンと大崎さんはこの一二年のうちにブログが縁で出会うことができました。
 でも、こうして酒を酌み交わしていると百年の知己のような気がします。どこかに共通する願いを持って生きてきたという信頼があるからでしょう。元気に生きてまたこんな機会を持ちたいと思わせてくれます。感謝あるのみです。

 今日、別のところで講演をされている梅原孝司という方がコニヤンの尊敬する先輩教師だということです。健ちゃんと梅原さんは同級生と聞いています。日程が重なって惜しいことをしたものです。

 会場の都合で3時過ぎには再会を約して散会。一郎くんと一緒にNC商会まで歩いてみました。健ちゃんは一郎くんの隣町に住んでいるので紹介しておきたかったのです。当然のことながらお二人は留守です。
 
 一郎くんの家にたどり着いて新しく整備した庭を見せてもらいました。表の店構えしか知らなかったものですから、初めて家庭訪問をさせてもらったような感じです。

 一郎くんの店の写真があります。大正の末期、師範学校に通っていた父が一郎くんのおばあちゃんたちに世話になったようです。この建物は当時のものでしょうか。

 中橋金物店http://ryofu.blog.so-net.ne.jp/2008-02-13

 

 川越に帰ってから梅原さんからメールをもらいました。こんなことがあるものですね。コニヤンとは竹村一水という共通の師、一郎くんとは遠戚、梅原さんとは「丸木美術館」。縁(えん)つづき。

 高知にもう一人新しい友人ができたような気がしてうれしいやら心強いやら。何ともすばらしい旅になりました。

 

 はじめまして、高知の梅原 孝司(うめばら たかし)と申します。ブログを通じて、健ちゃんとと、コニヤンのところに寄られていたことを知りました。ちょうど、23日は、健ちゃんから聞いたと思いますが、その日の夕方から「小夏の映画会」で、話をすることになっていましたので、残念ながら、お会いできず、またの機会に、ぜひお目にかかりたいと思います。

 私も中学の社会科教師をやっていましたが、この春、定年まで、5年を残して早期退職しました。ブログを見ますと、ご夫婦で、丸木美術館に関わっておられるようで、それにも驚きました。
 実は家内(長野県出身、今は小学教師)が高校卒業後、丸木美術館においてもらい、俊さんからデッサンを習っていました。家事を手伝いながらの1年間の居候だったようです。私たち2人も学生時代は「8,6」行事には前日から泊まり込みで、手伝ったものです。いま美術館にいる、俊さんの姪にあたる村上ひさ子さんと家内は同じ年で、仲良しです。

 25年以上昔、高知市教育研究所創立40周年の記念講演は、私たちからお願いして、俊さんに来てもらいました。そのあと、窪川の原発反対運動のメンバーのところに行ったり、2日ほど、土佐路を案内したものです。

 今回、西村のケンちゃん(近所で彼とは保育園の同級生でもあります)と、コニヤン(古くからの教師仲間です)の2人のブログに、同時に丸木美術館のことが出て、驚きました。2人とはいつも、ブログを見たり、メールでやり取りしています。2人は面識がありませんが、2人を鈴木さんの来高(帰郷?)を通じて、繋ぐ役割ができましたので、近いうちに3人でいっぱいやらないかんねと考えているところです。私は、鈴木さんとはまだ、面識がありませんが、今回の縁を通じて、ぜひ、また、高知にお帰りになる時は会いたいなという気持ちです。「川越だより」は今後とも、読ませていただきます。今後ともよろしくお願いします。



交友Ⅱ 四国路③

2009-12-02 12:17:40 | ふるさと 土佐・室戸
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 11月23日(祝)晴れ

 朝、新装なった高知駅周辺を散歩していると啄木父子の歌碑があることに気づく。父・一禎は娘一家とともに晩年をここで暮らしたという。

 石川啄木・一禎歌碑http://d.hatena.ne.jp/takuboku_no_iki/20090913/p1

 よく見るとそのすぐ近くに「帰国事業」で北朝鮮に「帰国」したひとびとが植えた蘇鉄と記念碑があった。50年前に高知駅からもたくさんの人々が新潟に向かったのだ。
 今これらの人々の運命について想像を巡らし、その救出に尽力しようという人は高知にはいるのだろうか。
 左派と思われる人のブログが目に入ったがノーテンキそのものである。日教組・高知なども相変わらず、在日コリアンとは「朝鮮総連」と考えているようだ。自分たちや自分たちの先輩がよかれと思ってやったことが当事者に地獄の苦しみを与えたことに気づこうともしないのである。
 高知は共産党や社会党が強かったところである。帰国事業の頃、北朝鮮を「地上の楽園」だと本当に思いこんで協力したという共産党の元議員の話を聞いたことがある。これらの人々の中から萩原遼さんのような人は出てこないのだろうか。

 コニヤンのおもちゃのギャラリーを訪ねる前に少し時間があるのでブログで交流してきた健ちゃんに電話して電撃訪問を敢行した。突然のことで迷惑だっただろうにNC商会を尋ねあてるとご夫妻が迎えてくださった。

 NC商会http://www.nc-21.co.jp/company/index.html

 健ちゃんはもう少し太っている人かと勝手に想像していた。幅広くいろいろな分野の人と交流し、自分の考えを点検・深化させているところが川越市議だった菊池さんに似ているので体つきもそうかと思っていたフシがある。実際はスマートな好青年?だった。

 いきなり、今日の飲み会に誘ったら「映画と講演」の会に出席とのこと。今回はご夫婦に会えたことに感謝してコニヤン宅に向かう。奥さんがミカンと野根饅頭を持たせてくださった。これがブログに出てくる野市の農園のミカンで今も毎日ごちそうになっている。濃厚な味でおいしい。

 健ちゃんのブログ

 http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-819c.html

 

 コニヤン宅は高知市街の西北部の住宅街のただ中だった。やはり学校の先生である奥さんと元気印のおばあちゃん(コニヤンのお母さん)にもお会いすることができた。

 玄関脇の一室がおもちゃのギャラリーになっている。しっかりした訪問記があるので勝手に紹介させていただく。(三回に別れているので「次の記事へ」というところをクリックすると全部見ることができます)。

 私たちが来るというので野外の展示も見やすいように工夫してくれている。

 とにかく家の少なくとも一階部分はどこもかしこもおもちゃである。娘さんからブーイングが出たこともあるらしい。

 ぼくにも懐かしいおもちゃがあるがここまで来ると理解しがたいところがある。カネもかかるだろうなあ、とか。

 コニヤンのおもちゃのギャラリー訪問記http://blogs.yahoo.co.jp/kitchen_junk/8182691.html

 奥さんがお茶の接待をしてくださった。土佐ジローの卵を使ったロールケーキが美味。
 幡多の佐賀の出身だという。午後の飲み会で一郎くんが「幡多の人は情が深い」といっていた。コニヤンが時には壊れそうになりながら、自分を貫いて生きてこられたのはこの方がいてくれたおかげだろうと思った。ぼくも同じことだが。

 娘さんが東京に遊学中だ。今度は川越にもきてくれるかな。

 コニヤンのブログhttp://blogs.yahoo.co.jp/gogokoniyan/49764401.html
 

鳩山首相は橋下知事と協議しないのか

2009-12-01 18:05:10 | 政治・社会
 昨日一日寒空で閉じこもっていたため、今日は自転車で狭山まで行ってきました。

 沖縄の基地問題で橋下大阪府知事の発言を読み、えらいひとやなあと思いました。

 鳩山内閣の関係大臣や首相は何を考えているのでしょう。早々とアメリカの圧力に屈する気配です。沖縄県民をコケにしてしまったら、早々と信を失うでしょう。

 この際、時間をかけてでも大阪府などとも協議し、少なくとも沖縄県外に移設する強力な交渉をアメリカとやるべきです。橋下知事が協議には応じると言っているのです。
 この問題では社民党と国民新党の意見や提案を無視してはなりません。沖縄県民の意志をそれぞれに代表していると考えられるからです。沖縄一区選出の国会議員は国民新党の下地幹郎さん、沖縄二区(普天間基地・嘉手納基地がある)は社民党の照屋寛徳さんです。
 
 関空などに移設する案は下地さんが国会で提案するのをTV中継で観ました。自民党の町村信孝議員が「関西の人はどうおもうか」とヤジを飛ばしていました。日米安保は日本の生命線などといいながらこのようなヤジを平気で飛ばすその神経がぼくにはわかりません。これが日比谷高校ー東大の教育の成果なのでしょうか。

 政権交代の今こそ、国民的な議論を巻き起こして少なくとも沖縄県民の犠牲を少なくする方向で意志結集をはからなければなりません。私たちは町村信孝という人とは違うのです。
 
 鳩山さん、ぐらぐらしてどうするんですか。あなたがリーダーなのですよ。

[普天間移設]「話あれば関空に」橋下大阪府知事

2009年11月30日11時55分 / 提供:毎日新聞
 

米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題で、大阪府の橋下徹知事は30日朝、記者団に、関西国際空港への移設について「政府から正式に話があれば、基本的に(議論を)受け入れる方向で検討していきたい」と述べた。「あくまで個人的な意見」とし、政府からの要請は「正式にはない」としながらも、嘉手納基地の騒音軽減対策としての訓練の一部受け入れも視野に、関空の軍民共用化や神戸空港の活用も検討事項に挙げた。

 普天間問題が大詰めを迎える中、関空移設を前向きに検討する姿勢を示した橋下発言は波紋を広げそうだ。

 橋下知事は沖縄での地上戦を挙げ、「沖縄には多大なご負担をかけたので、本州の人間は十分配慮しないといけない」と述べ、「あくまで日米安保が軸の話だが、国から提案があれば、最初から一切拒否するわけにはいかない」との考えを示した。【福田隆】


参考記事 下地幹郎案http://www.excite.co.jp/News/society/20091120/JCast_54479.html