怪しい中年だったテニスクラブ

いつも半分酔っ払っていながらテニスをするという不健康なテニスクラブの活動日誌

「天災から日本史を読みなおす」磯田道史

2015-06-03 22:46:12 | 
最近はテレビでもよく出ている(BS歴史館とか英雄たちの選択)ので顔も売れてきていますが、もともとは「武士の家計簿」で一躍有名になった磯田教授の最新著書です。

朝日新聞のbeに連載していたものをまとめたもので連載中から毎回読んでいました。今回あらためてまとめて読んでみて、今まであまり体系だって研究されていなかったのではと思うのですが、こういう形の歴史研究の優れた有用性を感じます。さすが、「目の付け所が磯田です」ね。

自然災害は人間の寿命とは時間的尺度が違っています。大地震は百年何百年の周期で起こります。火山の噴火なら千年に1回ということもあります。台風や高潮はもう少し頻度が高いのですが、自分が体験したことについては深く記憶が刷り込まれるのですが、先祖の言い伝えというのはなかなか伝わらないものです。
磯田先生は母が徳島で津波被害に遭った経験があることからか、武士の家計簿を書く前から震災の記録が書いてある古文書を集めていたそうですが、東日本大震災の経験からこの記録が役に立つのではないかと本格的にこのテーマに取り組んだ結果です。
それにしても平安時代から文書にした記録は残っているものです。特に江戸時代の日記の類には様々な記載があり、当時の一般人の知的水準の高さがうかがいしれます。
ところで最初の章は秀吉と二つの地震、天正地震と伏見地震について。この2回の地震はそれぞれ歴史の節目というか転換点に起こっていて、天正地震について言えば秀吉に準備万端だった徳川攻めを踏み留めさせ、たぶん結果として徳川の命脈を保たせている。
伏見地震ではその時秀吉の元にいち早くはせ参じたのは謹慎中の清正だったが、諸大名の秀吉というか豊臣家への忠誠度が露わになっている。そして震災後の処理の稚拙さと震災を顧みない更なる朝鮮出兵が豊臣政権の弱体化の端緒になるのです。
最近富士山が噴火したらというようなことが週刊誌にも出てきていますが、江戸時代の宝永噴火についてもたくさんの記述が残っています。読んでみるとその一月前には宝永地震が起こっており同時に津波も来襲している。静岡の人にとっては踏んだり蹴ったりだったわけです。
この時の宝永津波は広範囲に被害を及ぼしていて、高知や大阪にまで記録が残っている。津波がどこまで到達したかは神社とかお寺の言い伝えとして結構残っており、その記録を丹念に検討することで被害を未然に防ぐことができるかもしれません。
富士噴火の記録は江戸詰めの武士の日記にも詳細が記載されていますが、噴火による降灰は江戸の町まで飛んでいて、火山灰は12日間降ったとか。仮に現代であれば東京の都市機能はたちまちマヒしてしまうのでしょう。交通機関は軒並み止まり細かい火山灰が電子機器の隙間から入ってしまうとどうなるのか、携帯も使えなくなるとパニックです。
この時の噴火については新田次郎が「怒る富士」という小説に書いていますが、災害時における為政者の覚悟と迅速な対応について考えさせられたというのがはるか以前読んだ時の記憶です。もう一度読みかえしてみようかと思う次第です。
このところ火山の噴火が断続的にあり日本列島が活動期と言われるといつ起こるかもしれず祈るしかありません。
日本は定期的に台風が襲来するので高潮被害も侮れません。私にとっては伊勢湾台風の記憶が鮮明ですが、海抜の低いところに住宅がどんどん建っている中で何十年に一度の台風が襲来した時には果たしてどうなるのでしょうか。今は防潮堤がしっかりしているからと緊迫感が薄れているのですが、ハードでどこまでカバーできるのか難しいところです。
これら天災の記録を読んでいくと、ことに及んで多くの教訓が得られます。
まずは家族で災害時の対応をあらかじめ決めておくこと。津波が予想される場合はどこに逃げるとか、避難の際には誰が誰をサポートするとかです。
そして避難する時は時間が勝負、忘れ物(それが親であっても)があろうと自分の命より大切なものはないので取りに戻らない。
幕末の高名な儒者、藤田東湖と猪飼箕山の運命はここで正反対に分かれている。
東日本の大震災でも広島の土砂災害でも地名の由来を学び先人の記録を学んでいたならというところが多々あります。
私たちが歴史から学ぶことはまだまだたくさんあるみたいです。
コメント
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