怪しい中年だったテニスクラブ

いつも半分酔っ払っていながらテニスをするという不健康なテニスクラブの活動日誌

「天空の蜂」

2015-09-19 16:14:07 | 映画
休暇を取ってアユを食べに行こうという計画だったのですが、天候不順で中止に。でも当日になったら結構いい天気になったのですが…
今更休暇を取り消すのも何なので久しぶりに映画でも見に行くことに。
何を見るかというと原作を読んでいて結構よかった(このブログにも2012.5.12レヴューを書いています)し、見てきたタケちゃんマンもよかったと言っていたので「天空の蜂」に。

朝一番に行こうと9時30分開始の上映で見たのですが、お客は少なく私の列は2人だけなので真ん中でゆったりと見ることができました。
堤監督らしいスペクトラムでハラハラドキドキで楽しめました。
映像で見る新型巨大ヘリは不気味で迫力満点。全面的に自衛隊の協力を得ているのでしょうがヘリの活躍はなかなかです。
でも映像にするとどうしても迫力ある活劇シーンが前面に出てきてしまい、原作にある考えさせられる部分は映像として表現することが難しいことからやむを得ないのですが希薄になっています。
ヘリに子供が乗ってしまいその救出劇がハラハラドキドキの展開だけに大きな山場になっているのですが、原作からいけばそれ言わば盛り上げるための枝葉のエピソード。もっと知的なゲームがあるのですが、映画の中でそれを盛り上げながら表現することは難しいだけに話の筋がわかる程度に端折ってあります。メッセージー性もうまくみんなに受け止められるようなものにマイルドに処理してあるのでは。映画は視覚に訴え感情に訴えないと面白くないのでそこが限界なのか。
映画としてはハラハラドキドキの迫力満点で楽しめましたが、まだ読んでいない人は映画を見てからぜひ原作を読んでください。
それにしても東野圭吾のこの原作は発表が95年。
福島の原発事故のはるか前にここまで書くことができる力量はさすがです。でも映画化できたのは福島があったからかも。
それにしては最後はちょっと不満が残ります。福島をスルーして震災被害者の救出作業をする姿はあえて避けているような感じがします。
ところで予告編も含めて午前の9時30分から12時まで。午前中の2時間半をトイレに行かないということは膀胱がいっぱいに…
事態はどんどん切迫してくるのですが映画も山場に向けてどんどん盛り上がっていきますので、ここで中座するわけにはいかない。我慢に我慢を重ね、エンドタイトルになったとたん暗いうちから出てトイレに駆け込むことに。そのことも最後に不満が残った一因かも。
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「僕の生物学講義」日高敏隆

2015-09-19 07:58:33 | 
2009年に亡くなった日高先生の精華大学で半年にかけて行ったたぶん最後の講義録です。

日高先生は動物行動学を日本に初めて持ち込み、ノーベル賞を受賞したローレンツの「ソロモンの指輪」や「攻撃」を翻訳しています。ローレンツは動物の利他的行動は種の存続策としては合理性があると述べていたのですが、それはサルの子殺し、ライオンの子殺しなどの観察から否定されたのですが、ドーキンスの「利己的な遺伝子」も翻訳しています。
そうは言っても「ソロモンの指輪」は今読んでも面白い本です。
で、この講義録ですが、できるだけ先生の講義の魅力や臨場感が出るように書かれているので、読みやすく、いろいろな研究者の個人的な付き合いから知った人となりもあちこちに出てきて、それでいて最新の研究成果とともに日高先生の知見を分かりやすく述べてあります。
人間はヘンな動物なのですが、体の構造からいうと直立二足歩行することが特徴。直立二足歩行するためには大腿骨がまっすぐなだけでじゃなく頭が前を向くように頭と背骨が直角についていないといけない。内臓を支えるためには背骨をS字型にしている。結構いろいろ苦労しているんですが、どうしてそこまでして二本足で立ったのか。森林から草原に進出?にした際に遠くを見るため?
ところで人間は毛がないのですが、毛の数自体はゴリラやチンパンジーよりはるかに多いとか。ではどうして他の動物のように毛が生えていないのか?これはデズモンド・モリス(「裸のサル」の著者です)の説では「体の過熱を防ぐために体の毛がなくなった」それでは頭髪と陰毛はなぜあるのか?これも諸説あるんですが興味があれば読んでください。
人間の乳房というのも体の正面にあって哺乳のための機関としてはむしろ扱いにくいという非常に変わっているのですが、これもどうしてこうなったのか?お尻に代わる性的信号を前向きに出したというのはデズモンド・モリスの説です。
今度は体ではなくて言語の話。これも人間に特徴的なんですが、基本的に言語というのは人間に生得的に備わった性質で、他の動物の言語とは違う。チョムスキーとソシュールの説を紹介していますが難しいのかさわりだけ。
学習と遺伝とは対立するように言われますが、動物行動学的には学習というものは遺伝プログラムの一環だと。つまり学習は生得的なもの、遺伝的なものをちゃんと自分の身につけていくためのもので対立するものではないと。
ドーキンスの利己的な遺伝子についても触れていきます。因みにドーキンスは利己的な遺伝子を発見した人ではなくてキャッチ―フレーズを作った人。頭にいい人です。
では社会とはというと今西錦司によれば「種が生きていくための組織」。今西は競争という概念自体が嫌いでダーウインの適者生存も嫌い。そこで「棲み分け説」を出すのですが、これは否定されてしまいます。自然というのはもともとは競争的にできているものみたいです。
遺伝子をたくさん残そうとすると自ずとオスの戦略とメスの戦略は大きく違ってくる。いろいろ観察してみるとそれぞれの戦略に従いいかに自分の子孫を残そうかとだましのテクニックあり嘘もありきれいごとだけではないのです。ここらあたりのことを紹介しつつ人間の行動をもっぱらセックス戦略で解き明かすのは日高先生の京都大学時代の教え子の竹内久美子です。ちょっとあざといですけどね。
でもオスとオスとの闘争はしょっちゅうあっても殺し合うことはほとんどない。自分の子孫をどれだけ残せたかを持って適応度というのですが、これは自分の子孫が残る確率をゲーム理論で考えれば回答が出るとか。
人間には財産をどう継承していくかという問題があって結婚という社会的制度ができた、動物には財産はないのでこんな制度は存在しない。その意味では同性同士の結婚というのも生物学的にはともかく社会的にはありかなと。
人間は何家族かの大集団で生活していたのですが、これも動物にはあまりない形態。そういう大集団の中で他人のやることを見て学習することをしてきた。これは集団が大きければ学習する機会は多く、周りのいろいろな人からいろいろなことが学べる。もともと人間は大集団で生きる動物で集団が好き。核家族化し学校も学力で分けられてしまい、あまり均一化した中で育つとどうなのか。
動物にはほとんどオスとメスがいるのですが、なんでオスとメスがいるのでしょう。
無性生殖だと親と子供は全く同じ遺伝子を持つ。環境の変化とか突然の病原体の侵襲に対して全滅してしまう恐れがあります。有性生殖によって遺伝子を混ぜて多様性を持たせることによっていろいろな場面での対応力を備えていく必要があったのです。親と子供の遺伝子は同じではいけない、クローンでは生き残っていけないのです。
まだまだあるのですが、実際に本を読んでみてください。こんな話を半年間受講できた学生は幸せですね。
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