浅田次郎は時代設定としての幕末、そして旅ものが好きですよね。
幕末ものとしては新撰組を取り上げた「壬生義士伝」「輪違屋糸里」、「五郎治殿御始末」「お腹召しませ」「黒書院の黒兵衛」とかありますが、新撰組物が断然面白いかな。
浅田ロードムービーと言えるような旅ものでは「一路」は参勤交代での中山道、そしてこの「流人道中記」は江戸から青森の三厩迄の流人押送の旅です。
不義密通の罪によって、本来ならば切腹してお家を残すべきところを、あろうことか切腹を拒み、闕所改易となり身分はく奪の上、蝦夷松前藩に預かりに。
その青山玄蕃を江戸から押送する役を押し付けられた石川乙二郎の珍道中。
行く先々で青山が騒動に巻き込まれ、引き起こし、それでも大身の旗本の知恵と経験でうまく収まるところに収めていくのを半人前与力の石川がはらはらしながら見つつ、旅は進んでいく。
青山玄蕃は旗本の中でも最も家格の高いお殿様。もっとも生まれ落ちたのは妾腹の三男坊で食事も満足に取れぬ貧乏暮らしだったのが、長男次男が急逝して急遽お家に呼び戻された。
そのため、思考として武士としてお家大事にまじめに生きていくだけとはならず、世情にも詳しく、庶民の気持ちも汲みとめる。
一方の石川も最下層の同心家の次男坊から文武の才を認められ与力の跡取りとして養子に入った身。義父は病気で寝たきり、妻はまだ幼く、義母には厳しく当たられて、職場でも右も左も分からないまま心細い半人前の身。
二人とも貧しい幼年時代を過ごした点では共通しているのですが、世が世なれば顔を見ることもできないような身分違いなのですが、咎人と押送人。でもどことなく埋めることが出来ない貫禄の差があって、旅は青山ペース。宿は上宿でないといけないし、酒はたらふく飲む。挙句に自分から騒動を引き込んでいく。
どう考えてもあり得ない設定なのですが、そこは浅田次郎のうまいところで上下700ページ以上を一気に読んでしまいました。
浅田が幕末をよく取り上げるのは、太平の世が200年以上続く中でさすがに制度がきしみをたてていて、戦国時代を終わらせた習いが最早建前だけになってしまい、崩れ去っていくのが見えてきた中、自分なりに物を考えて生きて行こうとする人を書きたかったのだろうか。
青山玄蕃がどうして不義密通のような破廉恥な罪を背負うようになったのかは、旅をしていく中でおいおい明らかになり、最後に種明かしがされるのですが、どうもこの小説、最後のカタルシスがなくて、途中のひと騒動も、水戸黄門的な解決ではなくて、これが時代の限界かと言うようなもので、フラストレーションがたまってしまいます。
種明かしされても、この話はやっぱりあり得ないと言う思いが強くて、幕末ものでは断然新撰組物に軍配を上げます。多分登場人物が実在の人が多くて制約が多い分、フィクションなんだろうけど本当にありそうな話になっているからでしょう。
幕末ものとしては新撰組を取り上げた「壬生義士伝」「輪違屋糸里」、「五郎治殿御始末」「お腹召しませ」「黒書院の黒兵衛」とかありますが、新撰組物が断然面白いかな。
浅田ロードムービーと言えるような旅ものでは「一路」は参勤交代での中山道、そしてこの「流人道中記」は江戸から青森の三厩迄の流人押送の旅です。
不義密通の罪によって、本来ならば切腹してお家を残すべきところを、あろうことか切腹を拒み、闕所改易となり身分はく奪の上、蝦夷松前藩に預かりに。
その青山玄蕃を江戸から押送する役を押し付けられた石川乙二郎の珍道中。
行く先々で青山が騒動に巻き込まれ、引き起こし、それでも大身の旗本の知恵と経験でうまく収まるところに収めていくのを半人前与力の石川がはらはらしながら見つつ、旅は進んでいく。
青山玄蕃は旗本の中でも最も家格の高いお殿様。もっとも生まれ落ちたのは妾腹の三男坊で食事も満足に取れぬ貧乏暮らしだったのが、長男次男が急逝して急遽お家に呼び戻された。
そのため、思考として武士としてお家大事にまじめに生きていくだけとはならず、世情にも詳しく、庶民の気持ちも汲みとめる。
一方の石川も最下層の同心家の次男坊から文武の才を認められ与力の跡取りとして養子に入った身。義父は病気で寝たきり、妻はまだ幼く、義母には厳しく当たられて、職場でも右も左も分からないまま心細い半人前の身。
二人とも貧しい幼年時代を過ごした点では共通しているのですが、世が世なれば顔を見ることもできないような身分違いなのですが、咎人と押送人。でもどことなく埋めることが出来ない貫禄の差があって、旅は青山ペース。宿は上宿でないといけないし、酒はたらふく飲む。挙句に自分から騒動を引き込んでいく。
どう考えてもあり得ない設定なのですが、そこは浅田次郎のうまいところで上下700ページ以上を一気に読んでしまいました。
浅田が幕末をよく取り上げるのは、太平の世が200年以上続く中でさすがに制度がきしみをたてていて、戦国時代を終わらせた習いが最早建前だけになってしまい、崩れ去っていくのが見えてきた中、自分なりに物を考えて生きて行こうとする人を書きたかったのだろうか。
青山玄蕃がどうして不義密通のような破廉恥な罪を背負うようになったのかは、旅をしていく中でおいおい明らかになり、最後に種明かしがされるのですが、どうもこの小説、最後のカタルシスがなくて、途中のひと騒動も、水戸黄門的な解決ではなくて、これが時代の限界かと言うようなもので、フラストレーションがたまってしまいます。
種明かしされても、この話はやっぱりあり得ないと言う思いが強くて、幕末ものでは断然新撰組物に軍配を上げます。多分登場人物が実在の人が多くて制約が多い分、フィクションなんだろうけど本当にありそうな話になっているからでしょう。