怪しい中年だったテニスクラブ

いつも半分酔っ払っていながらテニスをするという不健康なテニスクラブの活動日誌

本郷和人「承久の乱」

2025-01-03 21:07:30 | 

源平の乱から鎌倉幕府成立から承久の乱までの歴史はほとんど高校日本史レベルの基礎知識も怪しいくらいだった(ちなみに私の受験科目は世界史と政治経済)のですが、NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を見て源平の戦いだけでなく、頼朝が鎌倉に幕府を開いてから承久の乱までの関東武士団内部の血で血を洗う抗争に興味を持ち、図書館で目にすると関係する新書を読んでみるようになってきました。本郷和人さんは中世史が専門なので時流に乗ってかいろいろ本を出していて、そのうち何冊かは読んでいます。でもこの「承久の乱」は「鎌倉殿の13人」の放送前に出版されたもの。

読んでみるとこれが面白い。実録鎌倉幕府仁義なき戦いともいえるもので、まさに権謀術策と剥き出しの武力行使。もともとは伊豆の小さな地方豪族に過ぎなかった北条氏が頼朝に従い時政、義時と実権を握っていく過程は何でもありの血に塗られている抗争の連続です。ドラマを見る前に読んでおけばよかったと後悔しています。

頼朝が鎌倉幕府を開いてからも政治の実態は朝廷と東国武士政権の二元支配体制。将軍はその支持基盤である東国武士団の上にのった神輿のようなもの。平氏との抗争には血統書付きの頼朝が必要だったのですが、平氏が滅亡すれば神輿は軽い方がいい!それが証拠に二代将軍頼家も三代将軍実朝も自分の考えと力で動こうとすれば東国武士団から排除されてしまう。承久の乱で朝廷の力がそがれてしまうと源氏の血統は必要とされずにお飾りの将軍が就任するだけとなってしまう。

承久の乱は日本の在り様を朝廷中心から武士の支配するものに変えるターニングポイントだったのであり、歴史の大きな転換点だったのです。その割にはあまり一般に知られておらず源平の争いの方に注目が集まっている。一つの要因は大きな転回点にもかかわらず承久の乱の戦いがあまりにも関東武士団の圧勝で大きなドラマになるような場もなく短期に終わったからなんでしょうか。
知らなかったのですが、後鳥羽上皇は決して文弱の御簾の中にいるだけの人ではなく、文武両道で経済的にも軍事的にも大きな力を持っていたそうです。
承久3年5月15日に後鳥羽上皇が北条義時追討の命令の出してから、5月22日には幕府軍は東国武士を糾合し京都に向けて進軍。因みにその際北条政子のの大演説があったと言うのは物語の世界で、政子は御家人たちの前に姿を現し話をしていないそうです。
当時の戦力としては本郷さんの推計によれば幕府軍が1万騎ぐらいで、朝廷軍が1700騎ではないかと。大軍に驚いた朝廷軍は早々に木曽川防衛ラインを放棄。関ケ原辺りで迎え撃つのが常道なんでしょうけど6月13日には京都の最終防衛ラインの近江の瀬田と山城の宇治で決戦となる。
幕府軍はこの戦いを制して京都に進軍、占拠。
後鳥羽上皇は6月15日には全面降伏ともとれる院宣をだす。追討令から1月というあまりにもあっけない敗戦なのだが、この院宣により朝廷は今後政務に口を出さず、武力を放棄することを宣言している。武士の統治する世界が名実ともに始まる訳です。
ではなぜ文武両道で大きな力を持っていたはずの後鳥羽上皇はこんなにも簡単に敗れてしまったのか。
後鳥羽上皇の敗因は第8章で分析されているのですが、動員できる武士はたまたま京都にいる武士だけで守護の支配国の武士たちを根こそぎ動員することは出来なかった。さらに上皇と武士の身分が違いすぎて、武士たちは軍事的な作戦についても上皇に直接話をすることが出来ずに朝廷の貴族を通してしか意思伝達が出来なかったと言うのは軍事戦略を練り、作戦立案するには決定的に不利になる。上皇一人が文武に優れていても軍事行動を起こすには朝廷の統治機構自体が不適だったのだが、上皇が徒に武に優れていただけに暴発してしまったと言うことか。
その後、幕府は六波羅探題を置き朝廷を監視下に置き、御成敗式目を制定し江戸時代へと続く武士の支配する時代へとなる。
承久の乱に至る朝廷と鎌倉幕府、東国武士団との凌ぎあいは、本当に知的好奇心を刺激されました。



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