「えらいてんちょう」こと矢内東紀の生い立ちを読むとちょっとびっくり。両親は東大全共闘でそのまま中退し就職することなく仲間と毛沢東主義的なコンミューン的な活動を続け、当初は沖縄で農業をやり、その後全国各地を転々として、今は東京で自営業(弁当屋)をしているとか。当初十数人いたメンバーは徐々に脱落していったのですが、その指導者の子どもとして矢内は5歳ごろまで誰が母親かも知らなかったとか。持続した志を持ちいまだに原始共産制のようなコンミューンを実践している人たちがいたことに驚き。まあ、矢内はそこを飛び出しているのですけど。
ところで矢内が「えらいてんちょう」と名乗っているのは、内田の「センセイはえらい」を読んで触発されたから。そんな矢内と内田の対談なのですが、司会はイスラム学者の中田考。なんか不思議な取り合わせですが、世間の本流から少し離れた人ばかりなので自然と言えば自然か。
現代の金儲けがすべての金融資本主義の潮流にオルタナティブな生き方を提示し実践していくことの大切さが浮かび上がらせています。内田先生の霊的な面への傾斜とかオカルト的な志向には全面的には同意できない面もあるのですが、そこかしこに深く納得する部分が出てきます。
内田先生の持論で既読感があるものが多いのですが、思いつくままに気になったところを書いてみると
・公共と言うのは、どれだけ公共から「自分の取り分」を奪還するかではなくて、どれだけ手持ちの資源のうちから公共に差し出せるものがあるかを考えるところから始まる。絶えず公共の場に手持ちの資源を供託し続けるダイナミックな運動によってしか共同体は成り立たない。政府に金よこせという運動家が自分のお金を出していないというのはよくある話です。
・予防と対症では、予防のほうが圧倒的にコスパがいい。でも予防のために骨を折る人は少ない。それは何を予防したのか可視化されないから。予防的英雄が沢山いた方がもちろん社会は住みやすくなるのだが、自分の功績が可視化されないことを嫌がる人がいるから、と言うかトランプにしても小池にしても河村にしても自分ファーストで自分が一番目立たなければ不機嫌なのだから、どんなに社会のためになってもマスコミに取り上げられそうもないことは無視するでしょう。地域で近所を掃き掃除したりしつつ地元を支えている人たちは、目立たないだけに目に入らない。本当はそういう人たちを正当に評価するのが政治家の仕事とも思うのですけど。
・矢内はある意味来るもの拒まずの開かれた共同体で生活していたのだが、「個人の平等と、子供や親は特別と言うことは矛盾している」ということを結婚して子供が生まれて実感している。人類皆兄弟と言いつつ、わが子だけはとか、親だけはとか、日本人だけはとか言っている人は多いよね。これは内田の「先生はえらい」に書いてあるそうなんですが、誰かが死んだときに、まず速報が伝えられて「その時になぜ俺に伝えてくれないんだろう」と思う人が家族であると。となると小中学校からの連れとか高校の同級生とか大学のゼミ仲間とか、テニス仲間とか、かなり家族の範囲が広がってしまいそうですが、実感としてなんとなくわかるし、そういう人とはお互いに濃厚な時間を共有していたんだろう。
・家は空き家にしておくと痛みが激しいので、誰かに住んでもらいたい。そこで引き籠りの人にいてくれるだけでいいのでお金を出して住んでもらえば、過疎集落の問題がちょっと解決できるかも。う~ん、いかに空き家に好きに引き籠ればいいと言っても、そういう人って一人でご飯作って掃除洗濯できるんだろうか。ネット環境を整備しろとか公共サービスを受ける権利はあるとかうるさそうですけど。
・今の学校教育は「工業製品を作る」という産業形態に合わせて制度設計されている。適切に管理された工程をたどって、仕様書通りの「製品」が出来てゆくプロセスを教育についても理想としている考え方。少し前の時代は学校教育は農業のメタファーだったけど、産業構造の変遷により変わっていった。でもそれも時代遅れに。現代における支配的な産業構造のメタファーを適用するなら「離散的なネットワークの中で様々なアクターが自由に出会うことでその都度一回的に価値物が創造される」というイメージだそうですが、これには脳軟化気味の私には具体像が浮かんできません。
・生物の進化と言うのは複雑化と言うことだから、成熟と言うのは複雑化と言うこと、どんどん「訳が分からないもの」「一筋縄でゆかないもの」になっていくこと。それを今の社会は「単純であることはいいことだ」としている。ワイドショーなり情報番組でも複雑な事象を単純に割り切って一見わかりやすく話すコメンテーターが重用されている。断定できずに口ごもる人はもう呼ばれない。
二人の話には、そうは言ってもとか違うんでないかなと言うところもちょこちょこあるのですが、知的刺激を得ることができた本でした。
ところで矢内が「えらいてんちょう」と名乗っているのは、内田の「センセイはえらい」を読んで触発されたから。そんな矢内と内田の対談なのですが、司会はイスラム学者の中田考。なんか不思議な取り合わせですが、世間の本流から少し離れた人ばかりなので自然と言えば自然か。
現代の金儲けがすべての金融資本主義の潮流にオルタナティブな生き方を提示し実践していくことの大切さが浮かび上がらせています。内田先生の霊的な面への傾斜とかオカルト的な志向には全面的には同意できない面もあるのですが、そこかしこに深く納得する部分が出てきます。
内田先生の持論で既読感があるものが多いのですが、思いつくままに気になったところを書いてみると
・公共と言うのは、どれだけ公共から「自分の取り分」を奪還するかではなくて、どれだけ手持ちの資源のうちから公共に差し出せるものがあるかを考えるところから始まる。絶えず公共の場に手持ちの資源を供託し続けるダイナミックな運動によってしか共同体は成り立たない。政府に金よこせという運動家が自分のお金を出していないというのはよくある話です。
・予防と対症では、予防のほうが圧倒的にコスパがいい。でも予防のために骨を折る人は少ない。それは何を予防したのか可視化されないから。予防的英雄が沢山いた方がもちろん社会は住みやすくなるのだが、自分の功績が可視化されないことを嫌がる人がいるから、と言うかトランプにしても小池にしても河村にしても自分ファーストで自分が一番目立たなければ不機嫌なのだから、どんなに社会のためになってもマスコミに取り上げられそうもないことは無視するでしょう。地域で近所を掃き掃除したりしつつ地元を支えている人たちは、目立たないだけに目に入らない。本当はそういう人たちを正当に評価するのが政治家の仕事とも思うのですけど。
・矢内はある意味来るもの拒まずの開かれた共同体で生活していたのだが、「個人の平等と、子供や親は特別と言うことは矛盾している」ということを結婚して子供が生まれて実感している。人類皆兄弟と言いつつ、わが子だけはとか、親だけはとか、日本人だけはとか言っている人は多いよね。これは内田の「先生はえらい」に書いてあるそうなんですが、誰かが死んだときに、まず速報が伝えられて「その時になぜ俺に伝えてくれないんだろう」と思う人が家族であると。となると小中学校からの連れとか高校の同級生とか大学のゼミ仲間とか、テニス仲間とか、かなり家族の範囲が広がってしまいそうですが、実感としてなんとなくわかるし、そういう人とはお互いに濃厚な時間を共有していたんだろう。
・家は空き家にしておくと痛みが激しいので、誰かに住んでもらいたい。そこで引き籠りの人にいてくれるだけでいいのでお金を出して住んでもらえば、過疎集落の問題がちょっと解決できるかも。う~ん、いかに空き家に好きに引き籠ればいいと言っても、そういう人って一人でご飯作って掃除洗濯できるんだろうか。ネット環境を整備しろとか公共サービスを受ける権利はあるとかうるさそうですけど。
・今の学校教育は「工業製品を作る」という産業形態に合わせて制度設計されている。適切に管理された工程をたどって、仕様書通りの「製品」が出来てゆくプロセスを教育についても理想としている考え方。少し前の時代は学校教育は農業のメタファーだったけど、産業構造の変遷により変わっていった。でもそれも時代遅れに。現代における支配的な産業構造のメタファーを適用するなら「離散的なネットワークの中で様々なアクターが自由に出会うことでその都度一回的に価値物が創造される」というイメージだそうですが、これには脳軟化気味の私には具体像が浮かんできません。
・生物の進化と言うのは複雑化と言うことだから、成熟と言うのは複雑化と言うこと、どんどん「訳が分からないもの」「一筋縄でゆかないもの」になっていくこと。それを今の社会は「単純であることはいいことだ」としている。ワイドショーなり情報番組でも複雑な事象を単純に割り切って一見わかりやすく話すコメンテーターが重用されている。断定できずに口ごもる人はもう呼ばれない。
二人の話には、そうは言ってもとか違うんでないかなと言うところもちょこちょこあるのですが、知的刺激を得ることができた本でした。
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