大阪・五月山を一望できる池田氏の居城だった①「池田城跡公園」のつづき・・・
勾配のある階段を上がった西門から入って、展望台に向かっています。
14世紀前半 建武年間に池田教依が築城したと考えられ
戦国時代末期まで摂津国で勢力を持った池田氏代々の居城でした。
発掘調査で出てきた排水溝跡の復元
1569年当時の当主であった池田勝正は摂津に侵攻した織田信長の軍門に下りました。勝正は摂津守護を任され、1570年 信長が朝倉義景に敗れた金ケ崎の戦いでは殿軍を務めるなどの活躍をしましたが、家臣の荒木村重と一族の池田知正の下剋上により城を追われてしまいました。
虎口(こぐち)
城の出入り口である城門で、築城当時の出入口はこの虎口のみだったようで
この先に空堀がありその上を木橋が渡っていたと推定されています。(復元図より)
土塁
この段差は主郭を囲む土塁の遺構です。
1578年に荒木村重が本拠地を有岡城としたことで廃城になり、荒木村重が織田信長に背いことにより起こった有岡城の戦いでは、攻城側の陣城として池田城が活用されたと考えられています。
風展望台のすぐ横にある南門
ここから空堀跡を散策することが出来ます。
展望台
展望休憩舎の前には池があり、舞台も設置されています。
毎年5月に、この舞台で「薪能」が催されるそうです。
五月山が一望できます。
勾配のある階段を上がった西門から入って、展望台に向かっています。
14世紀前半 建武年間に池田教依が築城したと考えられ
戦国時代末期まで摂津国で勢力を持った池田氏代々の居城でした。
発掘調査で出てきた排水溝跡の復元
1569年当時の当主であった池田勝正は摂津に侵攻した織田信長の軍門に下りました。勝正は摂津守護を任され、1570年 信長が朝倉義景に敗れた金ケ崎の戦いでは殿軍を務めるなどの活躍をしましたが、家臣の荒木村重と一族の池田知正の下剋上により城を追われてしまいました。
虎口(こぐち)
城の出入り口である城門で、築城当時の出入口はこの虎口のみだったようで
この先に空堀がありその上を木橋が渡っていたと推定されています。(復元図より)
土塁
この段差は主郭を囲む土塁の遺構です。
1578年に荒木村重が本拠地を有岡城としたことで廃城になり、荒木村重が織田信長に背いことにより起こった有岡城の戦いでは、攻城側の陣城として池田城が活用されたと考えられています。
風展望台のすぐ横にある南門
ここから空堀跡を散策することが出来ます。
展望台
展望休憩舎の前には池があり、舞台も設置されています。
毎年5月に、この舞台で「薪能」が催されるそうです。
五月山が一望できます。