旧日本銀行広島支店を出て、原爆ドームに向かいました。
広島瓦斯株式会社跡 爆心地から210m
鉄筋コンクリート造り地上3階、地下1階のこの建物は、原爆の一撃により、南側の一部を残して崩壊し、屋内にた35人の職員は全員が死亡しました。すさまじい爆風圧によって、各階の床と天井が1枚になって崩れ落ちました。
元安川東岸のブロンズ像「原爆犠牲ヒロシマの碑」は
原爆の強烈な爆風に吹き飛ばされた犠牲者の姿を表現しています
地元の高校生たちを中心にした、原爆瓦のかけらを元安川から掘り出す体験学習が行われていました。 それをきっかけに、全国の小・中・高校生や一般市民に募金運動が広まって、1982年に建立された碑です。
元安橋の被爆した中柱2基
元安橋は、毛利輝元が広島城下を建設したときに架けられた橋です。
輝元の祖父・毛利元就の子の元康(もとやす)が架け渡したことから
その名が付けられたと伝えられています。
被爆した橋は1926(大正15)年に架けられ、両岸の親柱の上には、しゃれた球形の飾り照明が、その間には照明灯が設けられるなど、当時としてはとてもモダンな造りだったそうです。
元安川オープンカフェ
平和記念公園対岸、元安橋たもと水辺のオープンカフェです。
お洒落なお店が並んでいます。
動員学徒慰霊塔
平和の女神像と8羽のハトを配した高さ12mの有田焼の陶板仕上げで
末広がりの5層の塔の中心柱に慰霊の灯明がついています。
原爆投下当日、広島では大がかりな建物疎開が行われ
その作業に国民学校高等科、中学校、高等女学校の生徒8387人が動員され
うち6295人もの生徒が原爆の犠牲になりました。
原爆ドーム
原爆ドーム
写真などで何度も見たことのある「原爆ドーム」です。
原爆ドームの後ろ(写真右)に「おりづるタワー」が見えます。
現在の原爆ドームは、1915(大正4)年に広島県の物産品の販売促進を図る拠点とすることを目的として建てられたもので、設立当初は「広島県物産陳列館」という名称でした。その後「広島県立商品陳列所」「広島県産業奨励館」と改称されました。
大胆なヨーロッパ風の建物で、県下の物産品の展示・販売を行うほか、博物館・美術館としての役割も担っていました。
しかし、戦争が激しくなった1944(昭和19)年3月には産業奨励館としての業務が廃止され、内務省中国・四国土木出張所や広島県地方材木・日本材木広島支社などの統制会社の事務所として使用されていたそうです。
路面電車側の、原爆ドーム前から見た「原爆ドーム」
世界平和を訴えようと市民が一丸となって働きかけ
1996年に世界遺産への登録が実現しました。
原爆投下の目標点になった「T字の相生橋」
相生橋(あいおいばし)
橋名の由来は、2つの橋が「相合う」ことから。
相生橋は、広島県広島市中心部を流れる本川(旧太田川)と元安川の分岐点に架かる、相生通りと広島電鉄が通る併用橋は、全国的にも珍しいT字型の橋です。
相生橋のT字型という特徴は上空からも非常に目立つことに加え
主要軍事施設近くということから、原爆投下の目標点になりました。
相生橋は、平和記念公園の北の入口にあたる橋です。本川の両岸を東西に結ぶ橋と、その中央から南に伸のびて、平和記念公園のある中島町に渡わたる橋、二つの橋が「T」字型なっています。
すさまじい衝撃波で橋桁は変形し、北側の欄干らんかんは川に落ち歩道の一部が持ち上がりました。被爆後の数日は、燃え盛る炎の熱さで川に飛び込む人、橋の付近と下を流れる本川にも、被爆して亡なくなった人たちの死体が無数に散乱し、地獄のような光景だったと伝えられています。
私たちが歩いた「原爆ドームへのルート」
①爆心地→②袋町小学校→③旧日本銀行広島支店→④元安川オープンカフェ
この後、相生橋を通って「平和記念公園」に向かいました。
広島瓦斯株式会社跡 爆心地から210m
鉄筋コンクリート造り地上3階、地下1階のこの建物は、原爆の一撃により、南側の一部を残して崩壊し、屋内にた35人の職員は全員が死亡しました。すさまじい爆風圧によって、各階の床と天井が1枚になって崩れ落ちました。
元安川東岸のブロンズ像「原爆犠牲ヒロシマの碑」は
原爆の強烈な爆風に吹き飛ばされた犠牲者の姿を表現しています
地元の高校生たちを中心にした、原爆瓦のかけらを元安川から掘り出す体験学習が行われていました。 それをきっかけに、全国の小・中・高校生や一般市民に募金運動が広まって、1982年に建立された碑です。
元安橋の被爆した中柱2基
元安橋は、毛利輝元が広島城下を建設したときに架けられた橋です。
輝元の祖父・毛利元就の子の元康(もとやす)が架け渡したことから
その名が付けられたと伝えられています。
被爆した橋は1926(大正15)年に架けられ、両岸の親柱の上には、しゃれた球形の飾り照明が、その間には照明灯が設けられるなど、当時としてはとてもモダンな造りだったそうです。
元安川オープンカフェ
平和記念公園対岸、元安橋たもと水辺のオープンカフェです。
お洒落なお店が並んでいます。
動員学徒慰霊塔
平和の女神像と8羽のハトを配した高さ12mの有田焼の陶板仕上げで
末広がりの5層の塔の中心柱に慰霊の灯明がついています。
原爆投下当日、広島では大がかりな建物疎開が行われ
その作業に国民学校高等科、中学校、高等女学校の生徒8387人が動員され
うち6295人もの生徒が原爆の犠牲になりました。
原爆ドーム
原爆ドーム
写真などで何度も見たことのある「原爆ドーム」です。
原爆ドームの後ろ(写真右)に「おりづるタワー」が見えます。
現在の原爆ドームは、1915(大正4)年に広島県の物産品の販売促進を図る拠点とすることを目的として建てられたもので、設立当初は「広島県物産陳列館」という名称でした。その後「広島県立商品陳列所」「広島県産業奨励館」と改称されました。
大胆なヨーロッパ風の建物で、県下の物産品の展示・販売を行うほか、博物館・美術館としての役割も担っていました。
しかし、戦争が激しくなった1944(昭和19)年3月には産業奨励館としての業務が廃止され、内務省中国・四国土木出張所や広島県地方材木・日本材木広島支社などの統制会社の事務所として使用されていたそうです。
路面電車側の、原爆ドーム前から見た「原爆ドーム」
世界平和を訴えようと市民が一丸となって働きかけ
1996年に世界遺産への登録が実現しました。
原爆投下の目標点になった「T字の相生橋」
相生橋(あいおいばし)
橋名の由来は、2つの橋が「相合う」ことから。
相生橋は、広島県広島市中心部を流れる本川(旧太田川)と元安川の分岐点に架かる、相生通りと広島電鉄が通る併用橋は、全国的にも珍しいT字型の橋です。
相生橋のT字型という特徴は上空からも非常に目立つことに加え
主要軍事施設近くということから、原爆投下の目標点になりました。
相生橋は、平和記念公園の北の入口にあたる橋です。本川の両岸を東西に結ぶ橋と、その中央から南に伸のびて、平和記念公園のある中島町に渡わたる橋、二つの橋が「T」字型なっています。
すさまじい衝撃波で橋桁は変形し、北側の欄干らんかんは川に落ち歩道の一部が持ち上がりました。被爆後の数日は、燃え盛る炎の熱さで川に飛び込む人、橋の付近と下を流れる本川にも、被爆して亡なくなった人たちの死体が無数に散乱し、地獄のような光景だったと伝えられています。
私たちが歩いた「原爆ドームへのルート」
①爆心地→②袋町小学校→③旧日本銀行広島支店→④元安川オープンカフェ
この後、相生橋を通って「平和記念公園」に向かいました。
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