二宮金次郎が生まれたのは、1787年。
その50年ほど前の1732年から、近世に入って最大の大飢饉が西日本を中心に起こった。
これが享保の飢饉。
長雨によるウンカの異常繁殖による虫の害で、稲を食いつくしていったそうです。
松山藩では、作兵衛という農民の話が語りつがれている。
作兵衛は、飢饉によってほとんどの者が飢えで倒れるなかで、
一人、麦畑の耕作を一生懸命にしたそうです。
しかし、飢えには勝てず、とうとう作兵衛も衰弱して倒れてしまい、
まさに餓死寸前となりました。
隣に住み人が、貯えている一斗(約18リットル)の麦の種を食べて命をつなぐべきだと言いました。
しかし、作兵衛はこれを食べてしまうと、来年は田畑に植えるものがなくなってしまうと言いはり、
とうとう麦の種の袋を枕に、45歳で餓死してしまったそうです。
自分の命よりも多くの人々の命を救うことになる種を優先させた義農の精神は、
その後、「勤労」や「忠君愛国」のかがみのようにあつかわれ、
明治時代には国の教科書にもなってもてはやされることになりました。
中四国・九州の46藩で餓死者は、12072人。
松山藩の餓死者は特に多く3489人。馬1403頭、牛694頭。
この大飢饉は、自然災害だけが問題なのではなく、
もしもの時の備えをしていなかったことなども大きな原因であったようです。
そう考えると、人災でもあるのです。
これが、二宮金次郎が生まれる前の様子です。
写真は、旧松小学校の二宮金次郎像です。
その50年ほど前の1732年から、近世に入って最大の大飢饉が西日本を中心に起こった。
これが享保の飢饉。
長雨によるウンカの異常繁殖による虫の害で、稲を食いつくしていったそうです。
松山藩では、作兵衛という農民の話が語りつがれている。
作兵衛は、飢饉によってほとんどの者が飢えで倒れるなかで、
一人、麦畑の耕作を一生懸命にしたそうです。
しかし、飢えには勝てず、とうとう作兵衛も衰弱して倒れてしまい、
まさに餓死寸前となりました。
隣に住み人が、貯えている一斗(約18リットル)の麦の種を食べて命をつなぐべきだと言いました。
しかし、作兵衛はこれを食べてしまうと、来年は田畑に植えるものがなくなってしまうと言いはり、
とうとう麦の種の袋を枕に、45歳で餓死してしまったそうです。
自分の命よりも多くの人々の命を救うことになる種を優先させた義農の精神は、
その後、「勤労」や「忠君愛国」のかがみのようにあつかわれ、
明治時代には国の教科書にもなってもてはやされることになりました。
中四国・九州の46藩で餓死者は、12072人。
松山藩の餓死者は特に多く3489人。馬1403頭、牛694頭。
この大飢饉は、自然災害だけが問題なのではなく、
もしもの時の備えをしていなかったことなども大きな原因であったようです。
そう考えると、人災でもあるのです。
これが、二宮金次郎が生まれる前の様子です。
写真は、旧松小学校の二宮金次郎像です。