愛媛新聞から依頼されて半年間にわたって、月に1回書いてきた伊予弁コーナー。
今回5月が最後の掲載となりました。
先日連休中「昭和の日」もありましたし、
遠い過去のようになりつつある昭和という時代について書いてみました。
「昭和という時代」
『昭和に生まれ、生きた時間は平成の方が長くなった。
過ぎ去りし日の昭和に思いをはせることがある。
ちょうど一年前、祖父の六十六回忌と祖母の七回忌法要を行った。
父に祖父のことを聞いてみた。
三歳の時に太平洋戦争に出征したため、その記憶はほとんどないという。
出征の日、故郷をあげて見送られ、父は峠道を肩車をしてもらい三崎港へと向かった。
多くの人が岸壁から見送るところを、一緒に行くと泣いて聞かず、沖まで小舟に乗せてもらったそうだ。
この時、小舟から別府行きの繁久丸に乗りこむ祖父の後ろ姿が脳裏にやきついているらしい。
これが最後の別れとなった。
その後、女手ひとつで二人の子どもとしゅうとを支え、激動の昭和を生きた祖母。
休むことなく働き続けた祖母が晩年、平成夢の架け橋であるしまなみ海道を渡ってみたいと言い、
最初で最後の旅行をみんなでしたことが忘れられない。
今ある故郷は、先人の努力の積み重ね。
いつでもその人たちの前進し続けた足音が聞けるような耳と、
その姿が見えるような眼を持ちたいと思う。』
写真は、しまなみ海道に行ったときのものです。
みなさんの「昭和」はどんな時代でしたか?
今回5月が最後の掲載となりました。
先日連休中「昭和の日」もありましたし、
遠い過去のようになりつつある昭和という時代について書いてみました。
「昭和という時代」
『昭和に生まれ、生きた時間は平成の方が長くなった。
過ぎ去りし日の昭和に思いをはせることがある。
ちょうど一年前、祖父の六十六回忌と祖母の七回忌法要を行った。
父に祖父のことを聞いてみた。
三歳の時に太平洋戦争に出征したため、その記憶はほとんどないという。
出征の日、故郷をあげて見送られ、父は峠道を肩車をしてもらい三崎港へと向かった。
多くの人が岸壁から見送るところを、一緒に行くと泣いて聞かず、沖まで小舟に乗せてもらったそうだ。
この時、小舟から別府行きの繁久丸に乗りこむ祖父の後ろ姿が脳裏にやきついているらしい。
これが最後の別れとなった。
その後、女手ひとつで二人の子どもとしゅうとを支え、激動の昭和を生きた祖母。
休むことなく働き続けた祖母が晩年、平成夢の架け橋であるしまなみ海道を渡ってみたいと言い、
最初で最後の旅行をみんなでしたことが忘れられない。
今ある故郷は、先人の努力の積み重ね。
いつでもその人たちの前進し続けた足音が聞けるような耳と、
その姿が見えるような眼を持ちたいと思う。』
写真は、しまなみ海道に行ったときのものです。
みなさんの「昭和」はどんな時代でしたか?