喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

まことや のパン

2011-05-13 | ブログ
お気に入りのパン屋があります。
大洲市長浜、長浜高校の目の前。
おじいさんのまことさんの人柄にひかれ、そのパンのおいしさにひかれました。

 今朝、松山への出張途中に立ち寄り、昼食のパンを楽しみに買いました。
いつも息子さんがレジで応対してくれます。
新作のパンをサービスしてもらい、地域へのやさしい思いを聞きました。

 高校一年生の息子さんが、パン屋を継いでくれるというのです。
お父さん、僕が継ぐけんまかせといてや、とのこと。
子どもは、親の背中を見て育っています。

 最後に、二名津の田村菓子舗、パン屋さんの話で盛り上がりました。
田舎に生きる、パン屋さん。
パンを通しての幸せづくり。
共通点が多くあります。

 お昼は、メロンパン、カレーパン、クリーム金時パン。
楽しみです。

さまざまな昭和の時代 ~しずちゃんより~

2011-05-12 | ブログ
 うれしいことにブログに対して、コメントを書いてくれる人がけっこういます。
ありがたいですね。

 こんなキャッチボール的なつながり。
または、書きこみ内容がブログにしたらいいようなものもけっこうあります。

 先日の「昭和という時代」の内容について、すてきな書きこみがありましたので紹介します。

 『あらあら皆さん、お若くて懐かしい顔ぶれ^^
岬人さんのお祖母ちゃんや私の母達の昭和は、まさに激動の時代で戦争抜きでは語れないでしょう・・・
毎日が生きることに必死だった事「爪に火をともす」・・・
 皆が倹約した生活ぶりだったということをよく聞かされました

 私は結婚した年に昭和~平成に変わりました。
 独身時代はよく松山までライブに行ったり、
映画館に足を運んだりと自由になる時間とお金があった輝いていた時代( ^ω^)

 鏡の中の自分を見ると、昭和~平成。
良い意味で「ビフォ~・アフタ~」ですよ^^』

 実は、しずちゃんのお母さんは、私の亡きばあちゃんと姉妹です。
「爪に火をともす」生活の様子を聞かされたようですね。
本当、すごい時代を生きてこられました。

 そしてしずちゃんの昭和とは、
輝いていた時代だったようです。

 昭和~平成への変化を、自分を見つめ直し
「ビフォー・アフター」と言われています。
うまく言われますね。
 
 平成の時代が、アフターですから
よりすてきになったとも思えます。

 しずちゃんいは、いつも平礒や我が家、そして喜久家プロジェクトを
応援してもらって感謝しています。

 写真は、亡きばあちゃんとしまなみ海道に行ったときに、
大三島の神社を訪ねたときのものです。

                 岬人(はなんちゅう)

ロサンゼルス情報 りえさんより

2011-05-12 | ブログ
 ふるさと佐田岬を離れ、ロサンゼルスに住みふるさとを応援してくれている
りえさんからの情報が届きました。
 
 先日のブログ内容「CoCo壱番屋」についてです。


『岬人さん、Coco壱番がLAにも出来たんですよ~!(笑)
 私は日本でもアメリカでも未体験です。
でも美味しいなら行ってみようかな?

 台湾人の友達はCoco壱番が大好きで、
日本に行っても、ハワイに行っても
Coco壱番にばかり行くそうです。

 そういうお店だったんですか、知りませんでした。
思わず行ってみたくなりますね。

 私も創業者の話に心打たれて好きになったお店があります。
ドトールコーヒーです。』

 この情報をもらって、ドトールコーヒーに興味を持ちました。
さっそく今、調べています。
 てっきり外国企業のコーヒーかと思いきや、
創業者が日本人なのです。
 とってもすごい物語と思いがあります。

 りえさんには、喜久家ロサンゼルス別館のように応援してもらっています。
 ふるさとを応援するカタチはいろいろあるようです。

                岬人(はなんちゅう)


 

おくりびと

2011-05-11 | ブログ
 今、地下室の書斎にこもってこのブログを書いています。
5月7日、早朝。
妻のおばあちゃんがこの世をさりました。
享年99歳。
8日が通夜。9日が葬儀でした。

 城川に帰り、ヨシエばあちゃんに手をあわせました。
とってもやさしい人柄にふさわしく、まるで微笑んでいるようでした。

 人が生まれてきたとき周りの人は赤ちゃんの誕生ということで笑っています。
 自分が亡くなるときも、泣いてお別れされるよりも、
周りの人に微笑んでお別れしてもらいたいな~というのが私の希望です。
 ヨシエばあちゃんはまさしくそんなふうに見送られました。

 でも、うちの子どもたち3人と義兄の子どもたち3人がヨシエばあちゃんに書いた手紙を棺に入れるとき、
周りの人たちにはこみあげてくるものがあったようです。
 
 ヨシエばあちゃんへ、と宛名書きされた手紙は、顔の横に置かれました。
思いはきっと届いているでしょう。
そして、いつまでも私たちの心に、生き続けることでしょう。

愛媛新聞伊予弁コーナー「昭和という時代」

2011-05-10 | ブログ
 愛媛新聞から依頼されて半年間にわたって、月に1回書いてきた伊予弁コーナー。
今回5月が最後の掲載となりました。
 先日連休中「昭和の日」もありましたし、
遠い過去のようになりつつある昭和という時代について書いてみました。


「昭和という時代」
 
 『昭和に生まれ、生きた時間は平成の方が長くなった。
過ぎ去りし日の昭和に思いをはせることがある。

 ちょうど一年前、祖父の六十六回忌と祖母の七回忌法要を行った。
父に祖父のことを聞いてみた。

 三歳の時に太平洋戦争に出征したため、その記憶はほとんどないという。
出征の日、故郷をあげて見送られ、父は峠道を肩車をしてもらい三崎港へと向かった。
多くの人が岸壁から見送るところを、一緒に行くと泣いて聞かず、沖まで小舟に乗せてもらったそうだ。
この時、小舟から別府行きの繁久丸に乗りこむ祖父の後ろ姿が脳裏にやきついているらしい。
これが最後の別れとなった。

 その後、女手ひとつで二人の子どもとしゅうとを支え、激動の昭和を生きた祖母。
 休むことなく働き続けた祖母が晩年、平成夢の架け橋であるしまなみ海道を渡ってみたいと言い、
最初で最後の旅行をみんなでしたことが忘れられない。
 
 今ある故郷は、先人の努力の積み重ね。
 いつでもその人たちの前進し続けた足音が聞けるような耳と、
その姿が見えるような眼を持ちたいと思う。』

 写真は、しまなみ海道に行ったときのものです。

 みなさんの「昭和」はどんな時代でしたか?

ばあちゃんのカレーとCoCo壱番屋

2011-05-08 | ブログ
カレーが大好き。亡くなったばあちゃんがガス台のそばで椅子に座り、根気強くとろ火でかきまぜてくれていた。 ばあちゃんのカレーが大好きだった。 カレーは、店で食べるようなものじゃないと思っていたので、一度も食べたことがない。 今日初めて大洲のCoCo壱番屋のカレーを食べた。 けっこうおいしかった。 きっかけは、創業者の宗次徳二さんのことを知ったからだ。 25歳のとき始めた小さな喫茶店のメニュー、カレー。 その後カレー専門店を始めた。1日の売り上げ2万円。40人足らずのお客。 夫婦で一年がんばれば達成できる目標を積み重ねてきた。 お客様への感謝の気持ちを忘れず、地道に継続し続けた。 徹底したお店掃除など、できることから始めた。 あたりまえを自然体に。 現在、日本と海外の店をあわせると1000店をこえている。 支店は、のれん分け制度。 しっかりとした力がなければ認められない。 大洲店もきれいで、店員さんの応対もすばらしかった。 今日の昼食は、お腹もココロも満たされた。

子どもチャレンジ

2011-05-08 | ブログ
 昨日は、えひめ子どもチャレンジ支援機構、八幡浜支部の第五回総会がありました。
マドンナ國分理事長を中心としたさまざまな人たちの集まり。

 子どもたち自らの企画による夢の実現をサポートします。
大人がしいたレールの上ばかりを歩かせるのではなく。
 過去、イルカに会いに行こう、無人島キャンプ、学校がなくなった大島で夜市をしようなどとびっきりのものばかり。

 今年は、東北地方へボランティア活動に行こうという企画が生まれるかもしれません。
 夜の懇談会は、大いにもりあがりました。
若松進一さんも講演をされていました。
あいさつに行きますと、あなたとはお互いのブログをいつも見ているので、久しぶりという感じがせんな、と言われました。
まさにそのとおりで、まるで近所づきあいの感じがします。
ブログの魅力です。

 新入会員として、教え子の兵頭侑加理さんもいて、むかし話に花が咲きました。
いつまでもチャレンジの心は持ち続けたいものです。

愛媛新聞 伊予弁コーナー

2011-05-07 | ブログ
今日の愛媛新聞、伊予弁コーナーに掲載されました。
半年間にわたり、月一回ずつ。

依頼をうけて、不安な面もありましたが、何とかやりとげることができました。
気をつけたのは、誰もが読みやすい表現で。
テーマは、ふるさと。

 今日の題名は、昭和という時代。
激動の昭和を生きた、亡き祖父と亡き祖母の物語

 今朝、妻の実家から連絡がありました。
祖母が亡くなったという電話。
97歳でした。
 大正の初めに生まれ、激動の昭和、そして平成を生きた祖母。
とてもおだやかで、やさしいおばあちゃんでした。

 本当に、今までよくがんばってこられました。

 ありがとう、おばあちゃん。

連休中日

2011-05-06 | ブログ
 風薫る5月。
この時期にゆっくりと休めるといいものです。

 仕事がらこの連休はほとんど休めません。

 3日に妹夫婦と2人娘、
4日に姉夫婦と2人の娘が実家に帰ってきました。
したがって実家は、総勢16人。
にぎやかな2日になりました。

 風通しのいい家は腐りにくく快適なように、
人通りのいい家は活気があって幸せだと思うのです。

 ふり返ってみると、実家はかつて
私たち4人兄弟姉妹、両親、祖母の7人でした。
 高校卒業とともに兄弟姉妹が1人いなくなり、そしてまた1人といなくなりました。
残ったのは、両親と祖母の3人。
寂しさあって犬を飼い始めたのもその頃です。

 時は過ぎ、祖母はいなくなりましたが、
弟がみかん農家を継ぎ、2月には私たち家族が引っ越して帰ってきました。
今や実家は8人。
 そして今回のように嫁いだ姉妹の家族が里帰りすると16人にもなるのです。

 いつものごとく夜は、男たちの談義。
 ふるさとづくり、東北大震災、原発問題、実家の柑橘経営など
さまざまな経験や考えを持つ人が集まっているので、
大いに盛り上がりました。

 疲れ気味の連休でしたが、元気をもらいました。

 さあ、明日、明後日も仕事をがんばります。

                      岬人

平礒の藤娘たち

2011-05-04 | ブログ
 

 我が家の庭には、毎年きれいな紫色の藤の花が咲きます。
これを見るのが毎年楽しみ。

 とてもきれいなので両親から
「写真に撮っておいてや」
とたのまれました。

 せっくなので、藤の花をバックに娘たちの写真を撮ろうと思いました。
すると母もやってきて、これまたせっかくなので
いっしょに写真を撮りました。

 藤娘とかつての藤娘のさわやかな1枚。
何十年か後、この1枚がとてもなつかしく思われるのでしょう。

 
「実家の塀からたれ下がる藤の花」

 
「季節の風物詩、藤の花」


 岬の山々にも野生の藤の花がたくさん咲いています。
山桜といい、野生の花は素朴で凛としていて、とてもきれいです。

天明の天変地異 ~二宮金次郎が生まれた頃~

2011-05-04 | ブログ
 二宮金次郎が生まれたのは、1787年。

 この頃、歴史上最大の餓死者を記録した天明の大飢饉(1781~89)が全国をおそっていました。
 長期間にわたって全国で天候の不順や天変地異が続き、
人々の間ではこの世の終わりかと騒ぎたてるほどだったようです。
 
 特に東北地方では、夏にかけてやませという冷たい風による冷害で壊滅的被害を受け、
おびただしい餓死者がでたようです。
 
 二宮金次郎が生まれた天明3(1787)には、長野県の浅間山が大爆発をおこし、
火砕流によって、ふもとにあった村を焼きつくし多くの人々が犠牲になりました。
 3ヶ月間続いた噴火は、大量の火山弾や火山灰を吹きあげ、東北地方の冷害に追いうちをかけ、
大凶作に拍車をかけました。
 
 江戸でも大風のため大火災が次々とおこり、丙午(ひのえうま)の1786年には、
箱根山が噴火し地震があいつぎました。
 また長雨により洪水がいたるところでおこりました。

 この年だけでの日本国中の米の収穫は、いつもの年の3分の1以下で、
米価は15倍にまではねあがりました。


 写真は、旧松小学校の二宮金次郎像です。

享保の飢饉 ~義農作兵衛~

2011-05-02 | ブログ
 二宮金次郎が生まれたのは、1787年。
その50年ほど前の1732年から、近世に入って最大の大飢饉が西日本を中心に起こった。
これが享保の飢饉。

 長雨によるウンカの異常繁殖による虫の害で、稲を食いつくしていったそうです。

 松山藩では、作兵衛という農民の話が語りつがれている。
 作兵衛は、飢饉によってほとんどの者が飢えで倒れるなかで、
一人、麦畑の耕作を一生懸命にしたそうです。
しかし、飢えには勝てず、とうとう作兵衛も衰弱して倒れてしまい、
まさに餓死寸前となりました。
 隣に住み人が、貯えている一斗(約18リットル)の麦の種を食べて命をつなぐべきだと言いました。
しかし、作兵衛はこれを食べてしまうと、来年は田畑に植えるものがなくなってしまうと言いはり、
とうとう麦の種の袋を枕に、45歳で餓死してしまったそうです。


 自分の命よりも多くの人々の命を救うことになる種を優先させた義農の精神は、
その後、「勤労」や「忠君愛国」のかがみのようにあつかわれ、
明治時代には国の教科書にもなってもてはやされることになりました。

 中四国・九州の46藩で餓死者は、12072人。
松山藩の餓死者は特に多く3489人。馬1403頭、牛694頭。

 この大飢饉は、自然災害だけが問題なのではなく、
もしもの時の備えをしていなかったことなども大きな原因であったようです。
そう考えると、人災でもあるのです。

 これが、二宮金次郎が生まれる前の様子です。

 写真は、旧松小学校の二宮金次郎像です。