僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

デジタルがアナログ人間を育てる

2010-04-05 | Weblog
デジタル製品の普及はすさまじく、私たちに数多くの恩恵を与えてくれている。
その代表格がパソコンであり、自分の趣味の立場から見るとデジタルカメラである。
一般にデジタルの大局にあるのはアナログであり、商品というカテゴリー内では、
デジタル化が進むとアナログ製品は減っていく。が、こと思考や表現といった観点
からみるとこの限りではない。
PCでの例を上げれば仕事面。例えばエクセルなら社内LANを通して他の人のエク
セルの使い方を学べるし、考えかたも盗むことができる。範囲を広げれば、ブロード
バンドの発展も同様の効果があるだろう。
また、デジタルカメラでは、「フィルムの現像・焼付け費用を気にせず撮りたいだ
け撮ってその場で写りを確認」というアナログではできなかったことが可能になり、
カメラ本体も素人には十分すぎる性能を有するものが安価で売られている。
これにより写真は好きだがカメラを始めれない、といった人たちが気軽に写真を撮
れるようになった。デジタル楽器等も同様でサイレント機構で深夜でも練習できる
楽器がたくさんある。
このようなことから、デジタル化は人の心(=アナログ)を飛躍的に伸ばしてくれる
可能性が大いにあり、優れた表現者は間違いなく増えてくるだろう。
常識や良き慣習が失われつつある現代、「デジタルのアナログ的効果」は決して
忘れてはいけない。
ただし、「デジタル音痴」はさすがに直せないと思うが。

新しさは自分の中に

2010-04-02 | Weblog
発想法のひとつであるアナロジー(類推)には「ごっこ」「つもり」という着眼点がある
とされる。ようするにお医者様ごっこ等の類で自分がその立場になったら同感じるのか
という発想法である。
今朝、テレビで「外国人が撮った日本(人)の写真」というテーマで特集を組んでいたが、
これがとても面白かった。工事現場のイラストだったり、コンビニでの立ち読み風景だ
ったり、女性の内股であったり、と俺たちが普段どうとも感じないものがいっぱい切り
撮られていて彼ら外国人から見るとそういうところが日本らしさなんやと。
でも、ちょっと考えるとそれは俺たちが普段持っていなければいけない視点でもある。
50歳を超えて大抵のことは経験してしまい、そう新しいことは身の回りに起こらないん
じゃないか、と思いがちだがそうではない。
「外国人になったつもり」「外国人ごっこ」はもちろん通勤電車で女子高生になってみ
るのもよし(ええことないなこれは。気持ち悪いぞ)、車掌さんになってみたり、とさま
ざまな新しい発見をする機会があるではないか。
仕事上、クライアントやエンドユーザーの気持ちになって考えることはするが、最近少
しそういう遊び心を無くしていたように思い、大いに反省しているところである。
ということでとりあえず今日一日は「外国人になったつもり」で過ごそうと思うが、
「外国ではこんなに働かないので帰っていいですか」という考えがまず浮かんできた
時点で「社会人ごっこ」の域から抜けていない自分にあきれている次第でございます。

若者文化

2010-04-01 | Weblog
今ウチの会社に関係クライアントから2週間ほどの予定で研修生が来ている。
仕事の内容については研修生なので何もいうことはないのだが、先日この研修生の帰りの
挨拶に度肝を抜かれてしまった。
普通にお先に失礼します。と言ったまでは良かったが、そのあと誰かにバイバイと(口に
は出さないが)手を振っている。その視線の先には俺も含めいいおっさん達が数人いたの
だが、皆お互い目を合わせて、「ん?誰か知り合いなん?」と尋ね合う状況になった。
結局誰もそういう関係ではなく、これはどうも最近の若者の文化らしい、ということにな
ったのだが、俺は、こんなものを文化などと言われては文化が怒る、と思ったね。

尊敬する作家の司馬遼太郎さんは著書の中で、「文化は濡れているいるものだ」と言った。
文化の本質をものの見事にひとことで表していると思う。捉え方は個人によって違うだろ
うが、俺は“人に浸透していくもの”という意味合いで捉えても間違いじゃないと思う。

それを当てはめてみるとどうだろうか?こんなに乾き切った行動を文化などと定義しては
いけないだろう。大体からして「個人」→「チーム」→「組織」→「業界」・・・という
階層にある文化の「組織」の壁を超えなければ会社にとっては文化ではない。遠くで文化
と呼ぶのは勝手だが。

今度俺に手を振ったら、「俺のこと好きなん」と聞いてやろうかと思うが、「セクハラお
やじ」という文化語で呼ばれて一巻の終わりなんやろね。