2018年5月 名古屋から 母と妹が引っ越して来ました
何だかんだと文句も言いますが 鹿児島の水にもすぐに慣れてくれました
時間を見つけては 大好きなドライブに連れ出して
妹には内緒ででかけた 片平農園で食べた イチゴのかき氷
ジェラートは 妹も一緒 やはり この二人はペアで 仲良し
私はカメラマンで ドライバーなので なかなか一緒に写ることがありませんが・・
高峠のイチョウを見に行った時は リレントレスのメンバーとも ばったり会いました
何よりも 食べることが大好きな母 食べる姿は いつも必死です
この頃は パーキンソン病の気があると言われて 歩くのが危ないので
車いすで出かけることが 多くなりましたが 県内のいろんなところを楽しんでいるようです
獅子舞に 頭をぱくっとされると 健康に過ごせるらしいです
喜入では 西郷さんとパチリ 言葉の壁は少しありましたが・・
私はお肉嫌いですが 母も妹も だ~~~い好きで ご満悦です
美味しい?って聞くと なぜか小声で 「 美味しい 」と答えます
会社のビアパーティーでもらった 高級なお肉で すき焼きを頂きました
こんなに美味しいお肉は 生まれて初めてだと 大喜びでした
が 2019年9月 突然 気分が悪いと言って倒れました
今でも 本当の原因はよくわかりませんが 診断は 「 肺炎 」でした
前日まで お腹いっぱい晩御飯を食べ トイレも歩いて行っていたのに・・
いきなり 寝たきりになり そのまま ベットから起き上がることはできなくなってしまいました
縁あって 素晴らしい施設に入所させて頂き こんなコロナ渦で 面会もままならない状態でしたが
本当に 施設の方には 良くして頂き どれだけ感謝しても 足りないです
入所中も 2021年10月 脳梗塞の後遺症とみられる てんかん発作で入院
2021年12月 謎の高熱のために また入院 会えないうちに衰弱は進んでいきました
やっとのことで 年を越すことはできましたが 「看取り」に入りますと告げられ
今年に入ってからは 毎週1回 30分ほどでしたが 面会させて頂きました
このまま7月のお誕生日がくれば 米寿のお祝いできね って思ったのに
3月25日(金) 午後2時30分 病院の院長先生から電話がありました
血圧・酸素濃度・アルブミンの値が下がり、体のむくみもあるので点滴も刺せません
このまま看取りということで良いですか? と・・ 最後の確認でした
はい よろしくお願いしますと応え 母の元に向かいましたが
この日は 見た目はいつもとあまり変わらない様に見えました
3月26日(土) 午前4時30分 施設から 血圧が50まで下がっています と連絡が・・
看護士さんが来て様子を見ますとのことで その後連絡が無かったので
10時過ぎに施設に行き ここから夕方まで ゆっくり母と話しをさせてもらいました
話と言っても 返事が返ってくるわけではありませんが 最後まで耳は聞こえるとのことなので
色々な話をして 感謝の気持ちも伝えて よく頑張ったねと・・
そのうち 血圧も酸素濃度も安定して 「 家族の力って凄いですね 」って驚かれました
3月27日(日) 午前3時30分 施設から 呼吸が浅くなっています と連絡が・・
病院長にも連絡しましたが できるだけ早く来てくださいと
4時過ぎに駆け付けましたが 病院長からは 「 私も間に合いませんでした 」と
看護士さんの話だと 「 3時20分小さな呼吸をして 一筋の涙がこぼれたのが 最後でした 」と
危ないと言われてから 準備をする時間はたっぷりあったはずですが
結局何もしていなかったので ここから 葬儀屋さんを決めて・・
とにかく 何もかも初めてのことなので どうして良いやらわからず大変でしたが
仲間のみんなの協力をもらって 無事に 仮通夜・通夜と 穏やかに時間が過ぎていきました
妹と 2人だけで 静かに送ってあげるはずが にぎやかに送って頂いて
母も 私たちのまわりに こんなに素敵な仲間がいることがわかり 安心しているかの様です
祭壇にお花が飾られると さらに華やかになり 母も喜んでくれていると思います
葬儀・告別式は 通夜とは うってかわり 本当に2人きりでしたが
お陰様で ゆっくりと最後のお別れをさせて頂くことができました
12時出棺 この日の天気予報は曇りだったはずですが 涙雨?
祖母の時は この火葬の時が一番辛かったのですが 淡々とおわり
母の骨は 骨粗しょう症だったわりには しっかり残っていたのに ちょっと驚きでした
戻って 引き寄せの初七日法要 これで一連の葬儀は終了です
自宅に戻りました 長い間 自宅を離れていたので
なんだか 家に帰って来てくれたような 不思議な気持ちです
この3日間 あらためて 友達の有難さが身に沁みました
母への感謝と みなさんへの感謝を胸に・・
これからも よろしくお願いします。