大手の古着屋さんが民事再生法を出したというニュース
新しい生き方をこの機会に模索し「再生の」道を選ぶのであろう。この社長は常に社会情勢の中で「機を見るに敏」の方だ、きっと新しい仕事の仕方を構築しまた「あっと言わせる」商売を始めるのだろう
「着物は高い」といって敬遠していた女性に古着という言葉を「リサイクル」という言葉に変えて門戸を広げたのは偉いとおもう。これで多くの女性たちが安価な着物を手軽にもとめることが出来た
お店が出来たときすぐ社長に取材をした
「ブックオフに買い物に行ったとき、これって着物にも応用できるのではないか?」と思って半年ほど市場を調査して一号店を作ったという
「なるほど、必要のない人から買って、必要の人に売る」江戸時代に出来た商法だ
時代は「お姑様の着物の見るのもいや」「母が亡くなったけど私は着物を着ないから母の着物をどうしようか」
そういう人が大勢出てきた時代であった。着物が入った大きなビニール袋をゴミ捨て場で見たり、マンションの屋上から桐ダンスを落として壊し、ゴミ捨て場に置くという人もいた。そのころ代替わりの家では着物の処分に困っていた
バブルで着もしない着物を呉服屋の言われるままに購入し箪笥を増やし、そのタンスの中にぎっちりと着物が入って着ることもなく当人はこの世を去っていった。躾のついた着物がわんさとその古着屋に届いた
捨てようと思っていたがお金になるこんないいことはない。着物に興味のない人たちはそういう考え方だ
箪笥一棹1万円、中に何が入っていようが、一袋、一段ボール何千円にーー現場取材でその光景にあったとき、この着物を作った人たちの気持ちはいったいどうなるのだと、胸を衝かれた、人々は絹の尊さを忘れてしまった!
あの敗戦のころは着物一枚で米と野菜が手に入ったのだ、着物の暴落。つまりは作りすぎ、きものは大量生産をする必要
がないのに、あの狂気のバブル時代に売れに売れる着物を作りすぎた
ある意味そういう着物を日の目に当てたことの功績はあるかもしれない
会社に届いた古着は全部洗って消毒をしていた、全国に支店をたくさん作っている、これからそういう関連会社の処遇もどうなっていくのか、コロナさんがいろいろと新しい道を示していくのかもしれない
さて古着屋が江戸時代大繁盛したのだがその発端を作ったのがなんと「元盗賊」鳶沢甚内。日本橋の富沢町が発祥の地、鳶沢が富沢の町名になった。幕府につかまって犬となり子分の生活安定のため「古着屋」を開業、ビジネスモデルとして子分たちが店主になり各地に店が広がっていったらしい。
くだんのリサイクルの社長、この鳶沢親分のように肚を据え、傘下の人たちを助けられるかー―
#⃣民事再生法 #鳶沢甚内 #古着屋 #リサイクルショップ #富沢町 #タンスの肥やし 中谷比佐子