小さな小さな町工場の社長が、出荷できない繭を何とか生かせないかと
繭にセリシンが付いたまま糸状態にし
其れをお湯で溶かし、手で糸を紡ぎ、その糸をどうしたら袋状になるかを考えて、ニットに編める機械を作り出し、まず腹巻から編み始めた
袋状になる編み物
細かい袖付けなどできる編み機も考案
それらをすべて絹で作り輸出にも貢献
なんと絹のストッキングはこうやって誕生し、アメリカで大流行
それも岡谷を中心に生産された
今でも岡谷は精密機械の町として栄えているが、つまりは絹糸の処理の知恵が新しい街づくりになっていたのだ
昭和の戦争前までは絹のニットが盛んで、偉い軍人さんたちのシャツはシルクニットが当たり前、今思うとなんと贅沢。でも屑繭からできたシルクニットなので、貴重品とかぜいたく品という感覚はなかったようだ
いわゆる股引もシルク
そういえばチャ子ちゃん先生の姉たちは、女学校の制服に黒の絹のストッキングをはいていた。そして思い出した、後ろにセンターがついていて足が細く見えるといっていた。そうだ私も大学一年までは絹のストッキングをはいていた、そうだそうだ。伝染が入ると新宿の森英恵さんの店の側に、伝染を直す小さなお店があり、一本いくらで直して履いていたな
その後ナイロンのストッキングが大流行して一気に絹のストッキングは消えていった
それと同時に養蚕農家も少なくなり、くず繭が今度は貴重品となって「真綿紬」という高価な着物に栄転(笑)してしまった
ニットは絹からウール、そしてナイロンに、手織り機のようなニット織機は埃をかぶったままだ
先日京都でシルクニットの手袋や五本指ソックス、へやーキャップなどを紹介されたが、値段が高すぎて購入できず。昭和の初期は女学生が絹のストッキングをはいていたんだもの、なんだか時代の移り変わりには驚くばかり
まだこの編み機は元気で使えるらしいから、養蚕を増やして絹のストッキングをはきたいものだと思った