「ブログ論壇」の可能性・・評・武田 徹(ジャ-ナリスト)
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フラット革命 価格:¥ 1,680(税込) 発売日:2007-08-07 |
流行語のようだったIT(情報技術)革命なる語も最近は鳴りを潜めて いる。あまりに漠然としているからだろう。本書はその仕切り直しを目 指すといえようか。マスメディアの情報配信「独占」をインタ-ネットが 崩した影響へと考察を集中させ、現在進行中の変化を確実に描こう としている。そこで引かれる概念がトマス・フリ-ドマンの「フラット化」 だ。ITによって「距離」が意味を失い、隣町と地球の裏側の都市が同 じ地平に並ぶことを示したフリ-ドマンのキ-ワ-ドを、著者はネット 上でマスメデアとブロガ-たちが一線に並んで発信をし始めている状 況を指して使う。このフラット化はマスコミが提示する情報を共有して 造成されていた「われわれ(=共同体)」意識をも崩壊させた。その結 果としての混乱も著者は的確に描いているが、一方で「ブログ論壇の 登場」に期待を寄せる。コメントやトラックバックといった仕組みを通じて 繰り広げられる議論の過程が今やすべて表層化、可視化されたのも またフラット化の一面だ。それはブログの劇場化を用意して時に「炎 上」を招いているが、瞬味(あいまい)な「われわれ」ではなく、個々人 が意見を積み重ねて新たな合意を形成する動きも見られる。その可能 性を評価する姿勢には共感できる。だがブログ論壇の中で新しい公共 性が確立されるのではという著者の予想は実現するだろうか。ブログ はだいぶ普及したとはいえ、ネット上の表現形式のひとつに過ぎないし、 ネットが世界のすべてをカバ-できるわけでももちろんない。たとえば 格差問題の議論はネット上でできるが、本当に格差の果てで苦しむ 人の声はネットには載らない。つまりフラットな地平での議論は当事者 不在の一種の「欠席裁判」になりかねず、そのままでは公共的なもの にはならないだろう。一部の「われわれ」にとって都合の良いことを「誰 にとっても望ましい」公共的なものだと称してきた歴史の轍をいかに踏 まないか、それがフラット革命の成否を分けるのではないか。