楽しい作品だった。イギリス映画には独特のユーモアのセンスと逆境にめげないことに価値を見出す性向があるように思う。この作品は倒産寸前の靴工場を独創的なアイディアと地道な努力で再生するという物語なのだが、今、思いつくだけでも「フル・モンティ」や「リトル・ダンサー」など信じた道をひた走るタイプの再生物語が目立つような気がする。
この作品の良いところは、観終わった後に希望が残ることである。登場人物はそれぞれに自分のあり方について深刻に悩んでいる。父親の突然の死で家業の靴工場を継ぐことになった主人公チャーリーは、工場の経営に自信がない。工場の従業員から受け入れられず、その上、経営難で人員削減もしなければならない。婚約者との間にも不協和音が響いている。どこにも居場所が無いのである。そのチャーリーが靴のニッチ市場として男性向け女性靴に注目するきっかけを与えたカリスマドラッグクイーンのローラは、勿論、男性であることの心地悪さと、世間からの差別に苛まれている。この2人が協力してオカマ向けの靴やブーツを作り出し、ミラノの権威ある展示会で注目を浴びるのである。これを機に、チャーリーの工場は業績改善へ向かい、ローラも自信を持つようになる。
チャーリーと婚約者ニコラとの関係も興味深い。ニコラは所謂キャリア女性のステレオタイプとして描かれている。仕事で順調にポジションを上げ、それとともに田舎で父親から継いだ靴工場の経営に苦悩するチャーリーに対する気持ちが薄れていく。結局、2人はそれぞれに新しいパートナーを見出すことになる。人間関係は、自分自身に対する認識の問題でもある。どのような人間とどのような関係を構築するかということは、自己表現でもあると思う。そして、自己というものは、勿論、生まれながらに持っている性向もあろうが、環境や経験によって変化を続けるのである。変化し続ける者どうしが良好な関係を維持するには、互いに相手を理解しようとする意志と理解できる能力が不可欠である。今、理解不可能なものは、時間が経てば理解できるようになるのかもしれないし、一層理解困難になるのかもしれない。不可解なものとの関係は不愉快なだけであり、その先には決裂しかない。ニコラが昇進してロンドン勤務になったことと、チャーリーが家業を継ぐためにノースハンプトンに戻ることになったことが時を同じくして起こったことは、ふたりのあり方が相容れない変化を重ねてきたことの象徴のように見えた。
一方、チャーリーと彼が一旦は解雇を申し渡したローレンとの関係は対照的である。ニコラが何よりも自分の人生のイメージのようなものに拘泥しているのに対し、ローレンは母性的視点でチャーリーに接している。チャーリーに対する言説は時に批判的だが建設的である。一方がキャリア女性で、もう一方が工場の事務員という違いあり、ローレンの場合は自身の人生に対するイメージがニコラのそれに比べると柔軟であり、それが結果として相手に対する許容度を大きなものにしているのかもしれない。家業の再建にひたむきに取り組むチャーリーの姿にローレンは惹かれるものを感じるようになり、チャーリーのなかでも彼に要所要所で助言を与えるローレンの存在感は大きくなる。ふたりの関係が親密になるのは予見可能と言える。
この作品では、ほかにもいくつかの危機とそこからの再生の物語が組み合わされており、それらの方向性が一致しているので、全体としての心地よいまとまりが感じられる。登場人物のキャラクターとか、個々の事件は突飛なものであっても、全体の物語の流れとそこに込められた一生懸命に何事かに取り組む姿勢への讃歌のようなものが観る者に好印象を与えていると思う。
この作品の良いところは、観終わった後に希望が残ることである。登場人物はそれぞれに自分のあり方について深刻に悩んでいる。父親の突然の死で家業の靴工場を継ぐことになった主人公チャーリーは、工場の経営に自信がない。工場の従業員から受け入れられず、その上、経営難で人員削減もしなければならない。婚約者との間にも不協和音が響いている。どこにも居場所が無いのである。そのチャーリーが靴のニッチ市場として男性向け女性靴に注目するきっかけを与えたカリスマドラッグクイーンのローラは、勿論、男性であることの心地悪さと、世間からの差別に苛まれている。この2人が協力してオカマ向けの靴やブーツを作り出し、ミラノの権威ある展示会で注目を浴びるのである。これを機に、チャーリーの工場は業績改善へ向かい、ローラも自信を持つようになる。
チャーリーと婚約者ニコラとの関係も興味深い。ニコラは所謂キャリア女性のステレオタイプとして描かれている。仕事で順調にポジションを上げ、それとともに田舎で父親から継いだ靴工場の経営に苦悩するチャーリーに対する気持ちが薄れていく。結局、2人はそれぞれに新しいパートナーを見出すことになる。人間関係は、自分自身に対する認識の問題でもある。どのような人間とどのような関係を構築するかということは、自己表現でもあると思う。そして、自己というものは、勿論、生まれながらに持っている性向もあろうが、環境や経験によって変化を続けるのである。変化し続ける者どうしが良好な関係を維持するには、互いに相手を理解しようとする意志と理解できる能力が不可欠である。今、理解不可能なものは、時間が経てば理解できるようになるのかもしれないし、一層理解困難になるのかもしれない。不可解なものとの関係は不愉快なだけであり、その先には決裂しかない。ニコラが昇進してロンドン勤務になったことと、チャーリーが家業を継ぐためにノースハンプトンに戻ることになったことが時を同じくして起こったことは、ふたりのあり方が相容れない変化を重ねてきたことの象徴のように見えた。
一方、チャーリーと彼が一旦は解雇を申し渡したローレンとの関係は対照的である。ニコラが何よりも自分の人生のイメージのようなものに拘泥しているのに対し、ローレンは母性的視点でチャーリーに接している。チャーリーに対する言説は時に批判的だが建設的である。一方がキャリア女性で、もう一方が工場の事務員という違いあり、ローレンの場合は自身の人生に対するイメージがニコラのそれに比べると柔軟であり、それが結果として相手に対する許容度を大きなものにしているのかもしれない。家業の再建にひたむきに取り組むチャーリーの姿にローレンは惹かれるものを感じるようになり、チャーリーのなかでも彼に要所要所で助言を与えるローレンの存在感は大きくなる。ふたりの関係が親密になるのは予見可能と言える。
この作品では、ほかにもいくつかの危機とそこからの再生の物語が組み合わされており、それらの方向性が一致しているので、全体としての心地よいまとまりが感じられる。登場人物のキャラクターとか、個々の事件は突飛なものであっても、全体の物語の流れとそこに込められた一生懸命に何事かに取り組む姿勢への讃歌のようなものが観る者に好印象を与えていると思う。