永井宏『永井宏散文集 サンライト』夏葉社
永井宏がどういう人なのか全く知らなかった。夏葉社の本ということで手にした一冊。永井は自分と近い世代の人のようで、書かれていることはよくわかった。それでどうこうということではなく、読んでいて素朴に気持ちの良い文章だ。書いた人の徳のようなものの所為もあるのかもしれない。
安丸良夫『神々の明治維新 神仏分離と廃仏毀釈』岩波新書
「廃仏毀釈」などと馬鹿なことをどうして思いついたのだろうと疑問を抱いていた。あれはああするよりほかにあのときはどうしようもなかったのかもしれない、と今は思えるようになった。その時代を生きていたわけではないので、空想するよりほかにどうすることもできないのだが、新しい国家を創るというのはよっぽどのことではある。
いつの時代にも「難民」と呼ばれる人々がいる。『広辞苑』によれば「戦争・天災などのため困難に陥った人民。特に、戦禍、政治的混乱や迫害を避けて故国や居住地域外に出た人」とある。今「難民」といえばシリアとかイラクのあたりからトルコを経て欧州へ流れ込んでいる人々が話題の筆頭のようだが、その欧州の現在の国境が確定したのはそう昔のことではない。そこでの国境、物理的・制度的な「国」としての区分がどのようにして決められたのかは知らないが、その区分のなかで生活している人たちは果たしてどれほど「ナントカ国民」としての自覚を持っているものなのだろうか?
「日本は神国」であると声高に喧伝された時代があった、らしい。近くは「神風特攻隊」の頃だろうが、遡れば明治維新の頃もそうだったようだ。開国で「日本」として自他を認識することを迫られた時、「神」が必要とされたのである。しかし、「神」というようなものは信じようと思って信じることができる類のことではあるまい。人々の心的風景の根底にある何かと呼応するものがあればこそ「神」たりえるのだろう。今の時代の「神」とは何だろう?
シュレーディンガー 著 岡小天・鎮目恭夫 訳『生命とは何か 物理的にみた生細胞』岩波文庫
世に不思議なことはいくらもあるが、その最たるものは自分がここにこうしていて「世に不思議なことはいくらもあるが」などと考えていることだ。一応、我々の世界ではあらゆるものが原子によって構成されていることになっている。所謂生命のあるものも、そうでないものも分解に分解を重ねると原子になる。命はどこで生まれるのだろう?
「原子はすべて、絶えずまったく無秩序な熱運動をしており、この運動が、いわば原子自身が秩序正しく整然と行動することを妨げ、少数個の原子間に起こる事象が何らかの判然と認められうる法則に従って行われることを許さないからなのです。莫大な数の原子が互いに一緒になって行動する場合にはじめて、統計的な法則が生まれて、これらの原子「集団」の行動を支配するようになり、その法則の精度は関係する原子の数が増せば増すほど増大します。事象が真に秩序正しい姿を示すようになるのは、実はこのようなふうにして起こるのです。生物の生活において重要な役割を演ずることの知られている物理的・化学的法則は、すべてこのような統計的な性質なのです」(25頁)
「莫大な数」というのがどの程度のものなのかというのがミソのような気がする。例えば自分は一つの受精卵が分裂を繰り返した成れの果てであるが、どの時点で「ものごころ」がついたのか、明確にいつとは言えない。「ものごころ」のイメージとして、自分の記憶を遡ることのできる最初の部分という漠然とした思いがあるのだが、生命体としてはそれ以前に成立している。「私」は記憶のなかの最初の「私」なのか、生物としての「私」なのか。「私」の誕生があやふやなのに、死のほうはそれよりはっきりしている。事故や病気で意識のないままに生命体として存在している状態は「死」なのか、行方不明や生命体としての生のない状態なのに生きているものとして扱われている状態は「死」とは呼ばないのか。
「生命とは何か」という問いは結局のところ生きている本人には答えることのできないものなのではないかと思うのである。
永田和宏『象徴のうた』文藝春秋
職場の近くの丸善で平台にあったものだ。永田先生の書いたものでもあり、天皇というものへの興味もあり、買ってきた。
読んでいて途中何度か目頭が熱くなった。自分ひとりの暮らしさえままならないと思うことが多いのに、全国民の存在を背負って在り続けることへの偉大さにはただ頭が下がる思いがする。それぞれの人々の立場を超えてそれぞれの想いを窺うきっかけを得る歌というものの在り方にも感じ入るところがある。
本書の129頁に
昭和天皇の言葉として「雑草という名の草はない」との意味の言葉は有名だ
とある。ちっとも知らなかった。恥ずかしいことである。この背景は、昭和天皇が那須で夏を過ごして帰るというとき、吹上御所の前の庭草を宮内庁の判断で刈ってしまった。帰ってこられた天皇から侍従にお召しがあり、「どうして庭を刈ったのかね」とのお言葉があった。侍従は「雑草が生い茂っておりましたので」と答えた。天皇は「雑草ということはない」「どんな植物でも、みな名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる。人間の一方的な考え方でこれを雑草としてきめつけてしまうのはいけない。注意するように」と御叱りを受けたのだそうだ。昭和天皇が最初からそういう考えの持主であったのかどうかは知らない。しかし、国民を雑草のように兵にとり、あるいは扱い、国土を焦土にしたことと無縁のエピソードとは思えない。
一億に満たない人口の国が、あちらの戦場で何万人、こちらの戦場で何万にという調子で犠牲を重ね、空襲であの街では何十万、この街で何十万という罹災者を出した。単なる運なのか、何か特別なことがあったのか、そういう戦争を生き抜いた人々が今日のこの国を成している。自分も含めその末裔だ。あの人が生きていれば、この人が元気なら、という無数の想いがあちらこちらに満ちているなかで富栄えたのが我々なのである。責任ある立場であった人ほど、何かしら後ろ暗いものを抱えていて当然だろう。その後ろめたさが高度経済成長と呼ばれるものの原動力の一翼を担ったのではないか。そういうことも含めての国家の象徴が皇室だ。これほど重い責任というものが世の中にあるのだろうかとさえ思う。昭和、平成とほんとうに大変な象徴であられたと思う。その国民として素朴に有難いことだと思うのである。
『庄野潤三の本 山の上の家』夏葉社
夏葉社の本ということで手にした一冊。庄野潤三という作家を全くしらなかった。この作家の作品が大好きであったという人たちがまとめた本ということもあるのだろうが、読んでいてただ楽しい、そういう小品が散りばめられている。作家の子供たちや作家評の人たちの文章も穏やかでよかった。庄野の師とされる伊藤静雄の「小説は何かの思想や理念を表すものではなくて、わが手でなでさすった人生を書いてゆくものでしょうね」という言葉が、ここに収められている作品に表れているように思われる。たぶん、実感のある暮らしと、そういう生活に基づいた文章が読む人をも安らかにするのだろう。
小泉武夫『漬け物大全』講談社学術文庫
読み物というよりも辞書的あるいはガイドブック的な本だと思う。しかし、そうした類の本とは違って、語り口は熱い。小泉先生の漬け物愛に溢れた作品だ。
私は漬け物は好きではなかった。齢を重ねてようやく口にするようになった。昔、営業系の仕事をしていたとき。顧客に寿司が好きな人がいて、その人との夜のお付き合いは必ず寿司屋だった。締めにいただくのがヤマゴボウ、紫蘇、胡麻、鰹節を巻いたものだった。生ものを頂いた後に口の中を落ち着かせるには誠によいもので、以来、寿司屋に行くと締めはこの巻物をいただくことにしている。尤も、私は積極的に生ものを食べるほうではないので、寿司屋へは滅多に足を運ばない。私が漬け物を頂くようになったのは、このヤマゴボウが最初かもしれない。いまでも漬け物は積極的には頂くほうではないが、糠漬けであろうが沢庵であろうが、出されたものは美味しくいただく。それでも何年か前に滋賀のほうへ出かけたとき、彼の地の名物である鮒鮓には手を出しかねた。やはり、漬け物総体としては今でも好物にはなっておらず、おそらくこれからもなりそうにはない。