熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記 2022年3月

2022年03月31日 | Weblog

和田誠 『お楽しみはこれからだ 映画の名セリフ』 国書刊行会

3月の最初の土曜日、陶芸の帰りに目的もなく立ち寄った三省堂書店池袋店で購入。平台にシリーズ二巻目『PART2』が積んであって、パラパラと読んだら面白かったので、奥の棚にあった本書と併せて買い、今月刊行予定の『PART3』を予約した。

和田誠のことはあまり知らなかったのだが、昨年、東京オペラシティのアートギャラリーで開催された「和田誠展」をなんとなく観たら、自分の暮らしが和田誠に囲まれていることを知って唖然とした。本の装幀、さまざまなポスター、イラスト、広告デザイン、エッセイ、映画監督、その他諸々たくさんの仕事をした人だ。平野レミのダンナであるとか、上野樹里の義父であるとかということよりも、やはり膨大な仕事がこの人の真価だ。先日noteに書いた『銀座百点』に和田が連載していた『銀座界隈ドキドキの日々』は単行本にまとめられて講談社エッセイ賞を受賞している。

本書は副題に「映画の名セリフ」とあるが、原語ではなく字幕や吹き替えの日本語のセリフを扱っている。これは大変良いことだ。読者と同じ目線でいながら、読者の眼を超えたところを語ってみせるところにこういう本の値打ちがあると思う。そもそも原語と言語に余程精通していないと映画の原語のセリフについて語れるものではない。

まず、本書の表題「お楽しみはこれからだ」からして名セリフだ。何が「名」かといえば、やはり訳文だ。

昔、人生を変えようと思って勤め帰りに映像翻訳の学校に通ったことがあった。字幕にしろ吹き替えにしろ、ただの翻訳ではないのである。字幕も吹き替えも尺の制約がある。映画の字幕であれば1秒のセリフに3乃至4文字を当て、字幕一行12文字以内というのが一般的な尺だ。「1秒」のセリフというのがミソで、早口のセリフもゆっくりのセリフも、ジム・キャリーのセリフもアーノルド・シュワルツェネッガーのセリフも、一律に1秒何文字という同じ尺である。吹き替えは訳文が原文と同じ尺にならないといけない。原文を忠実に翻訳したら尺に合わないのである。つまり、映像翻訳は創作なのだ。

傾向としては尺の文字数が減少している。敗戦直後に進駐軍と共に大量に入ってきた海外の映画に付けられた字幕は1秒5乃至6文字だったそうだ。それが私が映像翻訳学校に通っていた20年前あたりでは4文字が標準で、ぼちぼち3文字のオーダーが入り始めたという状況だった。たぶん、今は3文字の方が一般的なのではないか。これ即ち、視聴者の読解力の低下を反映している。平均的日本人が文章をパッと見せられて読み取る能力が落ちているのである。この調子でいくと字幕はやがて無くなって全て吹き替えになるのかもしれない。ちなみに海外で上映されている外国映画は吹き替えが圧倒的に多い。

ところで、映像翻訳者のギャラだが、同じ作品でも公開先によってかなり違う。例えば飛行機の機内エンターテインメントで使う映像作品はざっくり1本5万円弱。その同じ作品が劇場公開用となると20倍近くなる。テレビの「ナントカ洋画劇場」のような番組は字幕ではなく吹き替えなので単純に比較はできないが、劇場のように料金を徴収するメディアではないので、無料メディア向けに近い方の翻訳料ではなかろうか。言いたかったのは、同じ作品が用途によって異なる翻訳者によって字幕や吹き替え原稿が作られているということだ。これは私が映像翻訳の専門学校に通っていた20年ほど前の相場だが、世の中の流れから推察するに、感染症の流行の有無に関係なく、今はもう少し安くなっている気がする。尤も、このところのドサクサで物価が久しぶりに上昇に転じつつあるので、物価上昇が広範に波及すれば、翻訳料のようなサービス物価もそのうち上がるかもしれない。

それで「お楽しみはこれからだ」は「ジョルスン物語(原題:The Jolson Story (1946年))」の中のセリフ。

ライリ・パークス扮するアル・ジョルスンがショウのクライマックスで使う言葉。オリジナルはYou ain't heard nothin' yetで、「あなたがたはまだ何も聞いていない」となるわけだが、スーパーは「お楽しみはこれからだ」であった。
(4頁)

もちろん、作品全体の中で個々のセリフが決まるわけだが、ここだけ読んでもすごいなと思う。セリフ、それも一言だけ抜き出して、サマになるというのはそうあるものではない。確かに、今の感覚からするとクサイと思う。しかし、映画なのだからクサイ方がいい。作りものは徹底的に作りものであって欲しい。作りもので人の心を動かすのを芸というのではないのか。近頃はすっかり映画と縁が無くなってしまったが、敢えて限られた経験から言えば、古い作品の方が印象に残るシーンやセリフが多い気がする。

本書に登場するのは117作品。その中には複数回取り上げられている作品もある。と言っても、一番多くて「カサブランカ」の3回だ。「カサブランカ」は1943年の作品で、名セリフ、名シーンの宝庫のような作品で、その後の映像作品に本作のシーンやセリフにまつわるパロディが盛り込まれていることも少なくない。本書に紹介されているセリフは以下のものだ。

「ゆうべどこにいたの?」
「そんなに昔のことは憶えていないね」
「今夜会ってくれる?」
「そんなに先のことはわからない」
(10頁)

「十年前、君は何をしていた?」
「歯にブリッジをしていたわ。あなたは?」
「職をさがしてた」
(20頁)

「ルイ、これが友情の始まりだな」
(略)
 カサブランカの警察署長になるクロード・レインズは飄々と演じてなかなかうまい。ワイロをとったり、ナチにお世辞を言ったりというダメな署長で、ボガードと友だち同士でありながらお互いに腹を割らない妙な付き合いである。それがラストでボガードがナチの高官(コンラッド・ファイト。「カリガリ博士」の時代からの名優である。「会議は踊る」のメッテルニヒ、「バグダッドの盗賊」の悪宰相など、いずれも印象深い)を射殺してから、急転直下二人の友情が固く結ばれるという演出もうまいものである。ただし、ラストまではダメなフランス人として描かれているので、フランスでは国民感情をおもんばかってか、つい最近までこの名作は公開されなかったのだそうだ。
(240頁)

これだけ並べても、映画を観たことのない人には何のことかさっぱりわからないかもしれない。しかし、それは観ていないほうが悪いし、わかろうとしないほうに咎がある。自分はここに挙がっている117作品の殆どを観ていないが、それでも十分に楽しく読むことができたのは和田の筆力のおかげでもあるのだが、映像作品には特定の箇所を抜いても何かに使える要素を持っているからだと思う。人の一生、あるいは人生の何事かを2時間足らずのストーリーに押し込めたものが映画であるとするならば、その中のどのシーンを抜き出しても何事かの意味を持つということに納得がいくだろう。また、そうでなければ映像「作品」にはならないのではないか。

以下、本書からテキトーに抜粋。

「秘密を教えよう。〈フランケンシュタイン〉と〈マイ・フェア・レディ〉は同じ話なんだ」
 人間が人間を作る、または作りかえるという発想は同じで、やり方によっては怪奇物にもなるし、ロマンチックなものにもなるという、いわば脚本作法を言ったものである。
(68頁 「パリで一緒に(PARIS WHEN IT SIZZLES)」(1964))

「一人を殺せば犯罪者だが、百万人を殺せば英雄だ」
 このセリフ、映画をはなれて、反戦運動のスローガンとして有名になってしまったのではないかと思う。革命家が吐いた言葉のようにも思われる。映画ファンにとっては言わずと知れた、「チャップリンの殺人狂時代」における殺人者ヴェルドー氏の言葉である。
 チャップリンは、「モダン・タイムス」において機械化文明を皮肉り、「独裁者」においてファシズムをやっつけ、「殺人狂時代」では戦争による殺戮の正当化を弾劾した。
「戦争を商売にしている人たちに比べれば、私は殺人者としてアマチュアです」
(72頁 「チャップリンの殺人狂時代(MONSIEUR VERDOUX)」(1947))

テイラー「お金がすべてじゃないわ」
ディーン「持っている人はそう言うんです」
(86頁 「ジャイアンツ(GIANT)」(1956))

 ほかに彼の言葉でぼくが好きなのはこうだ。"ニューヨークは嫌いだ。エレベーターが多すぎる。俺はエレベーターを信用しない。テレビジョンも、ロケットも。月へ行く男なんて信じられるか。俺は嫌だね"
(142頁 「ねえ!キスしてよ(KISS ME, STUPID)」(1964))

「戴冠式もコメディ・フランセーズもバチカンも、儀式はみんな仮装舞踏会だ」
(略)
 第一次大戦中、とあるフランスの町をドイツ軍が爆破するという情報で町の人がみんないなくなってしまう。精神病院の患者だけが残っていて、その町を自由に歩きまわる。それぞれ大僧正になったり床屋になったりバレリーナになったり自分の思い込んだ職業に勝手についてしまう。そこへイギリスの偵察兵(アラン・ベイツ)が、爆破を防止しようとやってくるが、たちまち王様にされてしまう。
 爆弾がどこに仕掛けてあるのかという謎解きの興味も加わって、てんやわんやのうちにイギリス軍とドイツ軍が乗り込んで来て市街戦となり、両軍全部死んでしまうのを患者たちは高いところから見物している、という戦争を痛烈に皮肉った喜劇なのである。ラストはもう飽きたから帰ろうと患者たちは病院に引き上げる。意外にも冷静にそれぞれの役をわかって演じていたようにも思えるのだ。
 あのセリフはイギリス兵をハートの王様に仕立てる戴冠式の場面でジャン・クロード・ブリアリが言う(「ハートの王様」という原題であった)。他にピエール・ブラッスールやミシュリーヌ・ブレールなど豪華キャスト。とにかく気違いたちの占領している町は平和でのどかで、正気の人間たちが殺し合いをしているのだから、大笑いする映画なのだが主題はなかなか強烈なのだ。
(184頁 「まぼろしの市街戦(LE ROI DU COEUR)」(1967))

 

和田誠 『お楽しみはこれからだ 映画の名セリフ PART2』 国書刊行会

PART1は洋画だけだったが、本書は少し邦画も取り上げている。あとがきの中で和田がこんなことを書いている。

残念ながら、ぼくは日本映画のセリフをほとんど思い出すことができなかった。観た数で言えば、洋画に比べて邦画の本数はたしかに少ないのだが、まるで観ていないというわけでもないし、決して日本映画を軽んじているのでもない。それでもセリフに関する記憶が少ないのは、日本映画にいいセリフが少ないのではなく、たぶん人間の記憶というものは耳で聴くより文字を読む方が強く頭に残るためだろう。
(249頁)

そういうところもあるかもしれないが、記憶に残るのは何かしら引っ掛かりがある所為ではないかと思うのだ。日本語を母語とする者が、腹の底から感動するような日本映画を観たとしたら、かえって一つ一つのセリフが独立して記憶に残るということは無い気がする。それは当たり前に美味いと思うものが毎日何気なく食べているものであって、所謂「御馳走」は自分のナマの状態から少し距離がある「美味しさ」であるのと似ている。本当に腑に落ちるものは自分と一体になるので言葉に表現して外部化することができないのではないか。

「芝居じみた」とか「芝居がかった」という形容詞はあまり良い意味には使われない。洋画のセリフは字幕であれ吹き替えであれ、自分の生活とは異なる文化の中から生まれたものであって、それを決められた尺の中に収めるという無理矢理の中で捻り出したものだ。そこに記憶への引っ掛かりが生じるというところもあるだろう。映画や芝居で聴いて、自分もいつかそんなセリフを吐いてみたいと思っても、たいていはそんな機会に恵まれないものだと思う。たまに他人が語る芝居じみたセリフを聴くと嘘臭さが鼻についたりする。それは、そういうものだからだ。

だからこそ、日本映画から生まれた名セリフというものは、それを語る俳優の力量に依るところが大きいのだと思う。本書に取り上げられている邦画作品の中で、確かに名セリフだと思うのは、ありそうであり得ない世界を描いた作品の中のありそうであり得ない言葉のやりとりだ。

「よお、相変わらずバカか」
(124頁)

「男はつらいよ」の寅さんのセリフ。私はこのシリーズを映画館で観たことは一度もないが、たぶん意識するとしないとに関わらず、全作品を目にしていると思う。それは毎年年末にテレビで放映されていたからだ。自分の暮らしの中では年末の風物詩として家族で「男はつらいよ」をテレビで観るということがあった。そういうことも含めて、自分の生活に溶け込んでいる作品である。だから「よお、相変わらずバカか」というセリフだけ抜き出しても勝手にそのシーン全体の空気感が脳裏に蘇るのである。世の「映画好き」が何を以って「映画」と呼ぶ映像作品の鑑賞を愛好するのか知らないが、ある時代の一般常識のようになった作品というのは映画としては本物だろうと思うのである。

断っておくが、私は「映画好き」ではないし、ましてや「男はつらいよ」を愛する者でもない。一時期、無闇に多くの映画を観たことがあり、その中で「男はつらいよ」のいくつかの作品をビデオやDVDをレンタルしたり買ったりして観たことがある。そうするとどれも特別どうというほどのことはないのである。たぶん、それだからこそ、作品の中のキャラクターやセリフが独り歩きできるのではないかとも思う。

ついでに、「男はつらいよ」に関して本書に紹介されていたもう一つのセリフも良い。

「俺とお前は違う人間に決まってるじゃねぇか。早え話が、お前がイモ食ったって、俺のケツから屁が出るか」
(125頁)

ものすごく深い言葉だと思うのである。

本書を読んで気づいたのだが、戦争映画が多い。戦争という非日常を舞台にすることで人の本性のようなものが描き易くなるのかもしれない。とりあえず本稿は本書の日本映画に関することだけにとどめておくことにする。

 

前野直彬 『精講 漢文』 ちくま学芸文庫

学生時代は文系だ。高校で漢文の授業は当然あった。しかし、たぶん授業以外に勉強はしていない。受験科目として軽いものだったからだ。受験の得点獲得戦略として有利なことに時間と労力を優先配分する、そういう姿勢に象徴される安っぽい合理性思考がいかに人生を不毛にしたか思い知らされた。

本書は高校生向けの学習参考書を文庫にしたものだ。先日、たまたま時間つぶしに立ち寄った高田馬場駅前の芳林堂で見つけた。目的なく書店に行く時はとりあえず平台を眺めるのだが、本書は文庫の棚前の平台にあった。手にとってパラパラとめくり始めたら、目が離せなくなってしまった。

短歌や俳句を読んだり詠んだりするようになって、日本人の頭脳とか日本語の成り立ちを否応なく考えるようになった。明治に欧化政策が採られる以前、日本人の教養の標準は漢学で、現在我々が使っている言葉にはその片鱗が残っている。日本の歴史で圧倒的な期間において支配的な教養素養であった漢文あるいはそれに基づく思考というものを無視して日本や日本人を語ることはできない、はずである。本書を手にして、そういえば高校時代に「漢文」という科目があったっけな、と思ったわけだ。

本書の元は1966年6月に学生社から刊行されたものだ。巻末の解説によれば、現代の学説では否定されているような箇所もあるらしい。しかし、全体の価値を損なうほどのものではないとのことでもあり、細かいことは読後にすぐ忘れてしまうことがほぼ確実でもあるので気にしない。それよりも、そもそも漢文という科目は何だったのか、というところから思い返さないといけない。

それが、教科書が薄かったということくらいしか記憶にない。担当の先生が何故か若かった。私が通った高校の先生はジジイが多かった。前にもどこかに書いた気がするが、都立高校の校長を定年で辞めてこの高校に来たという人が多かった。少なくとも、地理、世界史、化学、物理、数学がそうだった。書道の先生もやはり元校長だったかもしれない。英語に至っては陸軍士官学校の教官だったという先生だった。そうした面々の中で、漢文の先生は例外的に若かった。漢文の授業では読解が中心で中国の歴史や文化などのことは習わなかった、気がする。そういうことはむしろ書道の時間に聴いた記憶が濃厚だ。中国の王朝のざっくりした流れは今でも暗唱できる。書道の授業は墨を擦るところから始まった。墨を擦りながら「いんしゅうしん ぜんかんごかん さんごく ぎ ご しょく ずいとうそうげんみんしん」と繰り返し唱えるのである。寺子屋の世界だ。漢字で書くと「殷周秦 前漢後漢 三国(魏呉蜀)隋唐宋元明清」となる。

本書を読んで思ったのだが、「漢字は中国から」と言う時の「中国」が一つではないという史実の意味を考えないといけない。「いんしゅうしん…」と暗唱できても、今まで考えていなかったと猛省した。漢字の音に漢音と呉音があるという程度のことは知っているつもりだったが、日本と大陸との交流の歴史を振り返れば、そんな程度であってはいけないのである。しかし、今更どうしようもない。

結局のところ、現在の漢文訓読は、奈良朝から江戸末期に至るまでの日本語が、雑然と同居しているわけだ。雑然としているからと言って、どれかの時点に統一しようとしても、もはやそれは不可能となっている。むしろ、訓読の中に見える日本語のさまざまな姿を見て、遺物を発掘する考古学者のような興味を味わうことができたら、それも楽しいことの一つに数えられるであろう。
(93頁)

今の中国語(北京語とか広東語とか)のことは知らないが、日本語はこれまでに積み重ねてきたものが「雑然と同居している」ものだということに気付かされただけでも本書を読んだ値打ちがあると思う。時間は無造作に流れる。工程表のようなものがあって計画的に流れるものではない。雑然となるのは当然なのだが、歴史を見るときに何がしかの法則性のようなものを探し求めてしまうのは、自分の存在を正当化したいという本能にも近い欲求によるものなのだろう。しかし、無造作、雑然、混沌、そんな言葉に象徴されることが人の在りようの実際なのではないか。それを象徴するのが母語たる日本語の漢文訓読の在りようということだろう。母語すなわち思考の根源たる言葉だけが独立して雑然としているはずはない。

雑然としているのは、その時々の都合で知識を導入した所為もあるだろう。中国には科挙という全国レベルでの上級官僚採用試験があった。試験というものには必ず正解がある。つまり、答案を作成する際の言語が「正しい」ことが何よりの大前提で、その上に試験問題に対して「正しい」解答を記述しないといけない。その「正しさ」は中国の広い国土のどこにあっても統一されていないといけない。この科挙の制度が一応の完成を見たのが隋唐の時代だという。広大な統一国家の成立と官僚採用のための統一試験の整備が表裏一体となっているのは、国家というものが意味するところの何事かを示唆している。

科挙を受験するには一定の資格を必要としたが、そこに家柄や財産の多寡は問題とされなかったという。当然だろう。「正解」は身分や政治経済を超えて「正解」として成り立っていなければ試験とそれを実施する権力の正当性を得られない。「試験」と言われて人々が必死になる社会は権力が広く承認されている社会であると言える。試験があっても不正が横行する社会は、権力が相当揺らいでいる社会ということになる。無闇に試験ばかりがある社会というのは権力の側に自信がないことの表れであり、人々が相手の「人間」を判断するに足る信頼関係が脆弱な社会と言えるのかもしれない。

科挙は、国家の倫理観の基礎であった儒教の経典である経書についての知識を問う「帖経」、詩を作らせる「詩賦」、時事論文を書かせる「時務策」から成っていた。試験に合格すれば上級官僚への道が開けるという公平な制度ではある。しかし、ある程度の経済基盤がなければ受験勉強のための知識の吸収とそのための時間を持つことができないのは現代に通じることでもある。「公平」とはそういうものだ。周知の通り、科挙制度はこの後多少の変容をしながらも清の時代まで続く。

日本が現在の姿の原型を成した奈良平安時代に、隋唐を国家運営の手本として留学生を派遣して人材育成を図り、国家としての制度構築を行ったことは、日本人や日本語の成り立ちに大きな影響を与えているはずだ。科挙に象徴される統一国家の在り方に範を求めて国家の建設を行いながら、結局はそれほど強力な中央権力の成立には及ばず、長らく地域単位のローカルな権力が並び立って覇を競う時代が続く。天下統一の後には鎖国政策で知識管理と貿易管理を行うことで権力の維持保全を図る。その間に範としたはずの大陸とは縁が薄くなり、漢文を基礎にしながらも、その本家とは異質の文化が花開いた、ということになるのだろうか。中国の方も、隋唐の後、宋元明清と国家が変転するのだから、日本の漢学漢文は、あちら側から見れば「雑然」として見えるのは当然だろう。

漢文を学ぶことの意味は、その「雑然」の背景を知ることであり、「雑然」として見えることの基礎に通底しているはずの大きな流れを感じ取ることではないかと思うのである。それによって日本人としての自分、人としての自分というものが多少は見えてくるのかもしれない。今更漢文や漢詩がきちんと理解できるようになるはずもないのだが、わからないということを識ることも心穏やかに暮らすには大事なことだと思う。

 

折口信夫 『日本藝能史六講』 講談社学術文庫

若い頃から民俗とか習俗というものに興味があって、学生時代は経済史のゼミに籍を置いていたりもしたのだが、そういう方面の本を読んだり話を聴いたりするようになったのは50歳を過ぎたあたりからだ。東京で暮らしているのに大阪の国立民族学博物館の友の会に入ってみたり、柳田國男や宮本常一の著作を読んだりするのもそういう流れの所為である。柳田は文庫になっているものは一通り読んで、遠野にも出かけてみたりもしたのだが、その流れにある折口信夫の著作は手にしたことがなかった。何か思うところがあってそうなったのではなく、気が付いたら読んでいなかったというだけのことだ。本書は私が初めて読了した折口の本だ。

折口は民俗学者、国文学者、国語学者であるが、釈迢空しゃくちょうくうと号する歌人でもある。この釈迢空というのは折口が歌を詠むときの号だが、折口の戒名でもある。生前に戒名を考え、その名前で歌を詠んでいた。このことは別の機会に改めて触れる、かもしれない。それはさておき、折口の時代は知識層の人々が歌を詠むのは当たり前だった。

軍人が決戦に臨んで命令文や報告文に歌や歌に類するものを添えるのも当然だった。日露戦争の日本海海戦ではバルチック艦隊を前にして連合艦隊参謀の秋山真之が起案した命令文「アテヨイカヌ ミユトノケイホウニセッシ ノレツヲハイ ハタダチニ ヨシス コレヲ ワケフウメル セントス ホンジツテンキセイロウナレドモナミタカシ」の最後の部分の平文「本日天気晴朗なれども波高し」の部分はあまりに有名で、現在でも様々に引用されている。その前段は暗号文だが、全文を読み下すと「敵艦隊 見ゆとの警報に接し 連合艦隊 は直ちに 出動 之を 撃滅 せんとす 本日天気晴朗なれども波高し」となるらしい。実際の現場では旗艦「三笠」の通信室からモールス信号でツートンツートンと打電されたのだが、大海戦を目前にしている割には悠長な印象を受ける。しかし、「本日天気晴朗なれど…」に命令上の意味があったのかなかったのか知らないが、この一文があるとないとで、それを受け取った側の士気はだいぶ違ったのかもしれない。明治の日本はそういうものだったのではないか。

太平洋戦争の硫黄島での戦いで、玉砕に臨んで指揮官の栗林忠道陸軍少将(玉砕後、中将)が東京の大本営へ打電した訣別電報には三首の歌が添えられていた。その一つ「国の為重き務を果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき」は「散るぞ悲しき」の部分が本のタイトルに使われて有名になった。ちなみに、折口の養子であった春洋(藤井春洋)は硫黄島で戦死した。

その歌や句を詠むという「当たり前」に少しばかりのめり込んだ人が歌人や俳人となったのだろう、と単細胞的な想像をしている。折口の場合は「少しばかり」どころではなく、歌を詠むことの意味を問うことは人間の存在そのものを問うことでもあったようだ。ただ、歌人としては短歌界の中で異端のような位置にあったらしいが、晩年には宮中御歌会の選者を勤めている。また、書生として折口晩年の身の回りの世話をしたのが岡野弘彦で、岡野は後に宮内庁御用掛(1983~2007)、昭和天皇の作歌指南役、今上天皇皇后が皇太子皇太子妃の頃に和歌の進講をしており、歌会始選者も務めている。どのような姿勢で歌に臨もうと、力のある歌人であることは誰もが認めざるを得ないということだったのだろう。

「ほぼ日の学校」の万葉集講座で岡野の講義を聴いたことは、以前に書いた。その時から折口の書いたものを読まないといけないと思っていたのだが、3年間思い続けてようやく折口晩年の講義録のようなものを手にした。「日本藝能史六講」は昭和16年7月に藝能学会の前身の会が主催した公開講座の講義録をまとめたものだそうだ。このほか本書には「三味線唄の発想を辿る」と「翁の発生」が収載されている。

その万葉集講座では歌を詠み合うことは、単なる意思疎通というようなものではなく、言葉を発することで対象に対して霊的な働きかけがなされると当時の人々は信じていたのではないか、という話があった。言葉自体に何がしかの力があり、言葉を発声する、歌を詠む、そういった行為によって人と人との関係も、集団と集団との関係も、社会の中の秩序も、形成されたのではないかというのである。だから、歌は発声されるものである。読むのではなく、聴くものなのである。下の七七はリフレインされていたのではないかという先生もおられた。

そうなると、歌は現在のような趣味的なものではなく、呪術にも似た祭祀のようなことの一部を成していたはず、ということにもなる。つまり、現在は文学という括りで語られることも、源流を辿れば祭祀、祝祭、祭り=まつりごと=政=政治にも通じることであった、ということだろう。その残影が国の大事において歌が詠まれた、ということに通じるわけだ。例えば、

国の為重き務を果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき

という歌は国家存亡をかけた戦いに負けることの心情を詠んだのではなく、ここで自分達は斃れるが、自分達が属する国(いわゆる国家ではなく「自分」の拠って立つ土台のような存在としてのクニ、自己と不可分な存在根拠のようなもの)は普遍的に存在するのだということを訴えている、と捉えることができるのではないだろうか。

歌を詠むというのは、自己を確認する作業なのではないか。だから、歌を詠むのに必要な言葉を識るには、その源流を辿ることと必然的に結びつく。折口が歌人であり、文学者であり、民俗学者でもあるのは、そういうことなのではないか。そして、歌は舞や踊りとも結びついている。芸能もまた祭=政と関連するということになる。

本書の記述について触れながら、もっとまとまりのあることを書きたかったのだが、とりあえず備忘録として抜き書きを並べておくことにする。後で改めてまとめ直さないといけない。

大体「語ことば」といふものは、実感をもつて使つてゐる間は、定義によつて動いてゐるものではありません。使つてゐる間に語が分化して来て、そこで始めて定義づけてみよういふ試みが、行はれるのであります。
(9頁)

根本は都が藝能の中心であつたといふことであります。つまり結局平安の都を主にしてみてをるといふことです。
(16-17頁)

何事も発生学風に研究して行くことであります。その態度からは、藝能にしても最初から何かはつきりした目的を有もつて出て来たと考へることは間違つてゐると言へるでありませう。むしろ最初は、目的はなかつたのでせうし、或はあつたとしても、現在の吾々の考へてゐるのと全然違つた目的から出て来た、といふことが考へられるのかも知れません。
(18頁)

平たく申しますと、藝能はおほよそ「祭り」から起つてゐるもののやうに思はれます。だが、このまつりといふ語自身が、起原を古く別にもつてをりますので、或は広い意味に於て、饗宴に起つたといふ方が、適当かも知れません。
(19頁)

神を、家の外から家内へ招び寄せる形でありますが、そこへ来臨する客神は、日本の古い語でいへばまれびとで、その少し変つた語形では、まらうどとも言はれます。そしてこれが、客の中の主なる客です。(略)それからこのまれびとに対して対蹠の位置にある人があるじです。このあるじといふ語は、吾々は主人といふ風に考へ易いが、もとは饗応の御馳走のことを言うた語です。つまり来客の為に準備しておいた御馳走を、その客にすすめることをばあるじすと言うてゐますが、御馳走をすすめる役が、主人だつたのでせう。そしてそのことから、主人をあるじと言ふやうになつたのです。或は宴会とか、饗宴するとかいふことも、あるじと言うてゐます。これで、饗宴の二つの主な役目は訣ると思ひますが、更に、このあるじとまれびととの間に介在してゐるもの——主として舞をまふもの——があります。
(25頁)

つまり舞をまふといふことは、神に背かないといふことを前提としての行為なのですから、そこにはほんたうの見物人はあり得ないのです。
(32頁)

つまり、初めは結局無意識の跳躍行動に違ひありませんが、その行動を長く繰り返してをると、いはゆる一つの民俗の上の行動伝承といふものになつて来ます。そしてそこに自ら型が出来て、その型が更に選択せられて優秀な型ばかりが残り、藝能化して来る訣です。
(44頁)