宿は甲突川の近くにあり、対岸が加治屋町だ。ここは明治維新前後に活躍した人々が生まれ育った地域で、そうした土地と人物の歴史を展示説明する鹿児島市維新ふるさと館という施設がある。午前中はこのふるさと館を見学したり、周辺を散策して過ごす。西郷隆盛、大久保利通、大山巌、東郷平八郎、などなど日本の近代史に必ず登場する人物たちが同じ町内の出身なのである。郷士教育という薩摩藩独特の人材育成システムがあったにせよ、権力中枢を担う人物が同一地域の出身者に集中するというのは、異様だ。しかし、それを異様と思うのは自分が薩摩の外の人間であるからで、そこに生まれ育った人にとっては当然と感じるのかもしれない。当然と思うなら、薩摩という土地が日本そのものであると認識しても不思議はないだろう。では、今はどうなのだろう?もちろん、人によって違うだろうが、この土地の一般的感情として鹿児島は他所とは違うという意識が強いのだろうか?
昼頃に駅前に集合してバスでしょうぶ学園へ。ここが今回の民藝夏期学校の会場である。何の予備知識もないままに、ここに来た。障がい者施設は珍しいものではないが、かといって自分には何の具体的知識とか体験といったものがない。小学生の頃、「特殊学級」と呼ばれるクラスがあり、そこに少し様子の違う子供たちがいたということはあった。小学5年のときだったか、そのクラスが無くなり、他の学校か施設に転校した子もいたが、一般の学級に編入した子もいた。記憶にあるのはH君のことで、隣のクラスではあったが、新設校で児童数が少ないこともあり、学校の委員会活動や児童会の活動といった学級を超えた児童間の交流もあり、多少の接点があった。昨今何かと話題のいわゆる「いじめ」があったかどうか、それは本人や周囲の感じ方の問題でもあるので、あったとも言えるし無かったとも言えると思う。私の認識としては、H君は「いじめ」には遭っていない。いじめるには問題が多すぎて、その前にあれこれみんなで面倒を見ないといけないという感じだったと思う。「いじめ」に遭っていたのはU君やY君で、H君は素朴に面白がってその「いじめ」の側に立ったり、素朴に正義感を発揮して「いじめ」を阻止する行動に出てみたり、ちょっと超然とした存在だった。みんな今頃どうしているかな?
しょうぶ学園に入所していたり通所したりする人たちは、H君よりもたいへんな感じがした。図工の時間にH君がどんなものを作っていたのかということについては全く記憶がない。しょうぶ学園の人たちは、専門のスタッフの支援があるとはいえ、陶芸、木工、紙製品、刺繍、布製品、絵画、園芸、その他様々な生産活動に従事している。今日はその作業風景を一通り見学させていただいた。どのような意識で作業に従事しているのかは、それこそ人それぞれだと思う。一心不乱に手を動かしている人もいるし、我々見学者に自分の作品を誇らしげに見せてくれる人もいる。そこに精緻さとか職人芸的な形式美のようなものは感じられないが、自分の生活のなかに取り入れてしっくりきそうな感じは受ける。人の手の仕事は自分と世界とを自然につなぐような気がする。人の手が作ったものを使ったり消費したりすると、そのことがとても自然に自分のなかに取り込まれるような感覚を覚える。料理はその典型だし、生活の道具類なども手仕事のものはその場の雰囲気を好ましい方へ変化させるような気がする。しょうぶ学園の人たちが作ったものは、誰かに強制されて作ったり、自己を主張するために作ったりしたものではなく、作ることが自然であるように作ったものなので、使う人が安心できるのではないだろうか。