馬鹿話ができる相手というのは思いの外少ない。本書のふたりの会話は私には憧れだ。世間では「話し相手」というのは容易に誰もがなれるかのように思われているようだが、それは幻想だろう。「話」が成り立つには相互に共有した何事かがなくてはならない。普通に社会人として生活していると職場とか仕事関係でいくらでも会話の機会はあるのだが、同じ相手と全く別の状況で会話が成り立つかというと、そうではないことのほうが多いのではないだろうか。それは、所謂「給与生活者」とか「賃労働」というものが細分化・専門化された「部分」を担うのみで、全体的・全人的な存在ではないからだ、と思う。破片どうしで会話もクソもないのである。だから「雑談」のハウツーが語られたりするという世紀末的なことになる。ハウツーなしに成り立つ会話こそが「雑談」なのに。多くの人は人格ある個人としては存在しておらず、その時々で個別特定の役割を演じている機能としての存在にすぎないのである。自我という意識の総体を押し殺し、部分部分で生活しているから、心身に不調をきたし、極端な場合は社会に適応できなくなって「病気」という扱いになるのではないか。
馬鹿話ができる相手というのは、互いに「ふつう」にしていられる関係性だ。価値観を共有する、なんていう大それたことではなしに、個人の生活や生活史の何事かを共有できれば容易に成り立つ関係性ではないだろうか。尤も、それが容易ならざることなのだが。
南:あの、赤塚さんのお葬式で、タモリの弔辞が白紙だったっていうのは、あれはほんとうなの?
糸井:ああ、持ってた紙が白紙だったっていう話ね。
南:そうそう。白紙を見ながら朗々と語ったっていう。
糸井:ほんとうでしょ。タモリさんにしてみれば。原稿を書いてそれを読むなんて、やりたくないでしょ、やっぱり。
南:まぁ、そうだね。で、勧進帳みたいな弔辞に。
糸井:うん。タモリさんらしい話だよね。ちょっとした美談みたいに語られてたけど。
南:そうだったね。
糸井:でも、美談じゃないよな。ふつうだよ。
(中略)
糸井:そういえば、前にも言ったけど、ナベゾのお葬式で伸坊の弔辞はよかった。弔辞っていうかね、ちゃんと真面目に話しかけてね。赤瀬川さんと伸坊の弔辞は、すごくよかったなぁ。ふつうに、ちゃんと、よかった。
南:ふつうにね。
糸井:なんていうか、うまくやってやろうなんてまったく思ってないわけだから。
南:うん。
糸井:だから、自然に。やっぱり、親しかったってことなんだね。
(153-154頁)
自分はもう晩年なので、このさき「ふつう」に付き合いのできる相手ができる可能性はいよいよ小さくなる一方だ。馬鹿話ができる相手は尊い。
中学生のとき、技術科の授業でラジオのキットを組み立てた。電池を付けてスイッチを入れて、チューニングをして真っ先に聞こえてくるのはTBSラジオだった。3歳から最初の結婚で家を出た30歳まで、勤務先の留学制度で2年間留守にした以外は埼玉県戸田市で過ごした。実家は今も戸田にある。ラジオを組み立てた当時、戸田にはTBSラジオの発信アンテナがあった。その所為でAMラジオはTBSが抜群にはっきりと受信できた。
あの頃、中学生はラジオを聴くものだった。テレビは卒業、という感じだった。ラジオで、歌詞の意味もわからないのに洋楽を聴いてみたり、深夜放送を聴いたりして、少し一人前に近づいたつもりになった。私が中学生だった1976年はThe Beatles来日10周年で、ビートルズ関係の放送が多かった印象がある。また、Bay City Rollers、Kiss、Queenが日本で人気化したのもこの頃だし、Eaglesの『Hotel California』が大ヒットしたのもこの前後だった。が、そういうのは夜の比較的遅い時間の放送で流れていた。夕方は『子供電話相談室』があって、続いて若山弦蔵の『お疲れ様5時です』があり、その中の一部として『小沢昭一の小沢昭一的こころ』という15分のコーナーがあった。小沢が一人で語る番組で、語りの最後は「また明日のこころだァ」という言葉で締めるのだった。今から思えば、中学生ごときにわかるような内容ではなかったはずなのだが、中学生は中学生なりに面白いと思ったのだろう。ただ、流石に当時は「やなぎ句会」のことはもちろん、俳句というものすらわかっていなかった。それは当然そうなのだ。今だってわかっていないのだから。
それで俳句だが、このnoteを始めた頃に書いたように、素朴な憧憬だ。おそらく五七調というのが日本語に馴染み易い調子なのだろう。その最小限の構成で何事か大きな世界を表現できたらカッコいいなぁ、と思うのである。しかし、五七五で何事かを伝えるには、自分と相手との間に共有できているものが余程ないと、とてもじゃないが文字数が足りない。尤も、五七五程度で意思疎通ができない相手に何千何万文字を尽くしても所詮何も伝わらないのも現実ではある。別の言い方をすると、五七五である程度分かり合える相手が「友達」で、そうでないのはなんでもない相手とも言える。童謡で『一年生になったら』というのがあるが、「友達」は100人もいたら身が保たない。子供に希望を与えるのが童謡であるということと、人にはそれぞれの容量というものがあることを差し引いても、100人は多すぎる。持続可能な人間関係を維持するのは、そんな生易しいものではない。
自分が俳句も短歌も詠めない所為だと思うのだが、本書では著者の俳句暦が浅い前半の方が心に引っ掛かる句が多い。勿論、しばらく経って読み直したら違った受け止め方になるだろう。あくまでも今現在の話だ。しかし、まずは、何も詠めない自分の方をなんとかしないといけない。俳句や短歌を詠むことができるような生活をする、というのがまずは基本。詠むのは明日のこころだァ。
ちなみに、本書で引っ掛かった句の中から。
スナックに煮凝りのあるママの過去(昭和44年1月)
母の日の常のままなる夕餉かな(昭和44年5月)
古寺の朽ちし敷居や寒雀(昭和44年12月)
三味線の裂けて乾きし寒夜かな(昭和45年1月)
老猫の微動だにせずおぼろかな(昭和45年2月)
電線を五線譜にして燕哉(昭和46年3月)
田楽の竹串の青みつめおり(昭和47年2月)
体温計振る二の腕や春の夜の(昭和47年3月)
塩漬けの茄子のきりりと紫に(昭和47年5月)
人けなき昼や床屋の金魚鉢(昭和47年6月)
釣堀の背中あわせの話かな(昭和48年5月)
枝豆や庭から裏へ抜ける風(昭和49年9月)
獅子舞ひややかな街におどけけり(昭和53年1月)
ぼた山を花札にする月夜かな(昭和61年9月)
寄せる波あれば引く波去年今年(平成9年12月)
掘炬燵死んではいない老婆かな(平成15年11月)
撃たれたる熊の両眼閉じてやり(平成18年10月)
大火あり人の情けのおもてうら(平成18年12月)
人の世の短きを問ひ長き夜(平成21年9月)