上野の山では寒桜が咲いていた。娘と上野にボッティチェリ展を観に行く。明治のお雇い外人たちが、日本の子供たちの幸せそうな笑顔に感心させられたそうだ。大人が子供と一緒になって遊ぶ姿にも驚いたという。親が子を思う、大人と子供が一緒になにかをする、というのは我々にとっては当たり前のことのように思うのだが、「大人」「子供」の区別というのは文化によって様々なのだろう。やはりお雇い外人のなかには、日本の「大人」と「子供」の関係をだらしがないと感じた人もいたらしい。親子というのは生物学医学上の定義もあるだろうし、それとは別に社会的な位置づけもある。大人と子供にしても一人の人間について言えば、時間は連続しているのだから切れ目など入れようがないのである。文化の問題と言ってしまえばそれまでなのだが、実は多分に幻想にすぎないことが多いのだろう。
今回のボッティチェリ展に限らず、西洋の絵画には聖母子を描いたものがたくさんある。その時代や文化によって表現の決まりごとがあって、今の感覚とは必ずしも合っていないのは承知しているつもりだが、少なくとも今日観た母子像に親子の情は感じない。「聖」なので下々とは違うのだ、と言われればそうなのかもしれないが、それにしても、母が子に対して抱くであろう慈愛であるとか素朴な喜びのようなものは微塵もない。子の方も、それがやんごとなき人であることを承知している所為もあるだろうが、子供に当然に観られる依存心が見えず、唯我独尊といった風情のものが多い。つまり、親子というのは役回りであって、親という個人と子という個人が描かれているように見えるのである。
家に帰ってからも気になって、書棚にある図録類をぱらぱらと捲ってみたが、ボッティチェリと同時代に活動した作家の作品としてはダ・ヴィンチの「聖母子と聖アンナと洗礼者聖ヨハネ」とかミケランジェロの「聖母子と聖ヨハネと天使たち」は今風な感じを受けた。尤も、ブロンツィーノの「ヴィーナスとキューピットのいるアレゴリー」は極端だが、ラファエロの「聖家族」もかなり微妙な「家族」だ。
今日は娘が饂飩を食べたいというので六本木の黒澤に行って、その後、国立新美術館で開催中の大原美術館展を観た。こんなに主要作品を出してしまって、倉敷のほうは大丈夫なのかと心配になってしまうような大展覧会だ。そのなかに小出楢重の「Nの家族」があった。見る人の視線によるだろうが、私はボッティチェリ展に並んでいた母子像よりも家族らしい雰囲気を感じた。だからどうというわけでもないのだが、聖と俗であるとか親と子といった座標軸の置き方には興味を覚えた。