今月読んだ本は以下の通り。
1 赤瀬川原平・藤森照信・南伸坊(編) 『路上觀察學入門』 ちくま文庫
先月読んだ「トマソン」続き。けっこう深い言葉があって、赤瀬川という人のものを何故もっと早くに読んでおかなかったのだろうと後悔する。
2 柳家小満ん 『小満んのご馳走 酒・肴・人・噺』 東京かわら版新書
昨年11月にイイノホールで「鰍沢」の会があって、そこのロビーで出演者関連の商品が売られていた。この本はそこで知ったのだが、家計管理上という個人的な理由で書籍類はなるべくアマゾンでの購入に集中させるようにしているので、会の後でアマゾンで検索した。ところが、あの品揃えのアマゾンにこの本は無かった。以来、ずっと気にしていたら、今年1月30日の「よってたかって新春らくご」の会場で販売されているのを見つけて購入した。
一時期、落語協会がネットで桃月庵白酒と春風亭ぴっかりをMCにした番組を流していて、そのタイトルを小満んが書いていた。そのタイトルは忘れてしまったのだが、検索しても引っかからないし、今から思えば放送終了の仕方も唐突だったので、たぶんまずいことがあったのだろう。その番組ではゲストがお土産を用意していて、視聴者が応募するということをやっていた。私は宝井琴調がゲストのときに応募して、講談かぶら矢会のCDボックスを割引価格で購入させていただいた。当選の礼状を琴調に書いたら、講談のチケットが送られてきて、大変嬉しかった。
それで小満んの本だが、山口瞳の『行きつけの店』のようなテイストだ。噺家や作家が生活のなかで何を大切にしているのか、別の言い方をすれば、どのような視線でものをみると創作が生まれるのか、ということがなんとなく伝わってくるような内容だった。
3 赤瀬川原平 『千利休 無言の前衛』 岩波新書
トマソン以来、赤瀬川の追っかけのようになっているのと、自分も裏千家の稽古をしたことがるので、読んでみた。読んで面白かったので、『利休』のDVDも買った。DVDのほうはまだ観ていない。
以下、備忘録。
見えないものを見える形で説明しようとするから面白いのである。しかもその説明しようとする人に確信があるから面白いのである。たしかに自分が出し入れできるものがあって、それがいま形でいうとスイカぐらいになっている。でもそれは形では見せられず、言葉にもならず、その見えない玉の大きさをなでてみせるしかない。お茶というものも、そのようなものではないか。(19頁)
路上観察は自己観察であった。新しい物件が、新しい感覚の皮をめくる。目玉を境界として、その外側世界と内側世界が等価なのだ。それが根底からの楽しさの原因である。(43頁)
要するに風土ということだろうが、無用となってなお存在する、そういう危うい、あいまいなものを見つめる空気というものが流れていない。ヨーロッパにはそういうあいまいさの余地がないのだ。もちろん生活のリズムの中で、町の中にも人々の感情の中にも、余裕というものは組み込まれている。しかしそれとはちょっと違う。解釈のつかぬままにそのものを楽しむ、その解釈の余地というものを温存するシステムがない。すべてが人々の意志に強くつながれて出来ているような気がする。
そのときはトマソンが日本的なものらしいとほんのり感じただけであったが、路上観察では、その日本的なるものの心臓部にいる利休に直接つながってしまったのである。(46頁)
木が生えていると人は態度をはっきりさせない。木にごまかされて境界があいまいになる。木がなくなるといろんなものが見えて、理性的になってくる。砂漠に一人立てば、自己を強く意識し、主張することで生きていくほかはない。(63頁)
利休はその新しい価値のために、ある意味でその権威を利用していたということはあるかもしれない。じっさいのところ、創造力を含む感性というのは、そう何人も持ち合わせていないものだ。そこでその新しい価値を一般に認めさせるには、高い値段を示すほかはない。高額という経済上の権威に頼らざるを得ない。(99頁)
日本では茶の湯もそうだし、俳句でもそうだし、ほんのわずかなもので多くを語ろうとしたがる民族なのだ。(150頁)
人々の思想にしても、それは風土が人間にもたらす意識表現にすぎないわけだ。(156頁)
形式の中に身を潜める快感というものを、人は基本的にもっているものなのである。(226頁)
お茶にしてもお花にしても、お稽古ごとといわれるもの一般が同じ構造を生きている。そこにある形式美に身を潜めることの快感があるのである。そうではない、本来の侘び茶というものは形式美ではなく、それを崩すことにあるのだ、それを打ち破って新しい気持ちのひらめきを見出すことにあるのだ、とマラソンの先頭ランナーが説いたとしても、それは後方集団では何のリアリティももたないのである。私たちはこれでいいの。決められた形が上手に出来ることが嬉しいわけ。あたなは早く前に戻って、先頭を走りなさいよ、となってしまうところが、前衛の悲哀というものかもしれない。(227頁)
考えてみれば、そもそもは自力創作の不毛を見たところから、他力の観察発見に転じているのである。だから路上の物件を見ても、それが無意識的に作られたものほど面白い。こちらに向けて作られたものは、おうおうにしてうるさい、暑くるしい、どうしても避けてしまう。
利休の言葉に、
「侘びたるは良し、侘ばしたるは悪し」
というのがある。それは路上観察をやっていればおのずからわかることだ。人の恣意を超えてあらわれるもの、そこにこそ得がたいものを感じる。利休の言葉もそれを指している。人の作為に対して自然の優位を説いているのだ。(238頁)
4 河北秀也 『河北秀也のデザイン原論』 新曜社
以前に何年かに亘って「芸術新潮」という雑誌を購読していたことある。その裏表紙は大分の焼酎の広告になっていて、それが広告らしくなくて面白いと思っていた。たまたまその広告を作っているのが河北秀也氏であることを知り、何か書いたものでもあるかとアマゾンを検索してみたら何冊かヒットした。これがその一つである。
5 赤瀬川原平 『東京随筆』 毎日新聞社
新聞連載のエッセイをまとめたものなので、買うのをためらったのだが、筆力のある人の文章は短いものにおいてこそ発揮されるので、これまで読んだ数冊の実績に基づいて買う。期待は裏切られ無かった。ほっとする。
6 関容子 『日本の鶯 堀口大學聞書き』 岩波現代文庫
小満んの本のなかでしばしば言及されていたのが本書である。言葉の商売の人というのは、そもそも言葉に対する感受性の強い人なのだろう。堀口大學という人がどのような作品を残したのか、というようなことは全く知らない。それでもこの本を読んで、堀口大學よりもその師匠である与謝野晶子の作品に興味を覚えた。短歌や俳句が「すぐれている」というとき、なにがどう「すぐれている」のか知りたいと思うのである。