その昔、4月29日は天皇誕生日だった。天皇が代替わりをした後も名称を変えて国民の祝日になっている。天皇誕生日が国民の祝日であるのは何故か、同じく祝日である建国記念日の根拠は何なのか、ということを素朴に思うのである。この国の起源は何だろう。例えば米国には独立記念日というものがあり、中華人民共和国は毛沢東が建国を宣言したことによって成立している。日本の場合はその起源が神話の世界のことになっている。このような国が他にどれほどあるのだろうか。不思議な国だと思う。
映画『神宮希林』を観た。式年遷宮を題材にしたドキュメンタリー作品だ。樹木希林をナビゲーター役にして神宮式年遷宮の様子をまとめたものである。神様というものをどのように意識するものか人それぞれなのだろうが、宗教とか信心とかいうこと以前に、生物が自分の置かれた環境を知覚認識する際に五感を超えたものを感じているものなのではなかろうか。呼吸をし栄養を摂取することで生命が維持されていても、その状態が未来も継続するとはわからない。暗黙のうちに未来が現在の延長線上にあると思い込んではみるものの、そこに何の保証もないことは自身が十二分に承知していることだろう。その不安が、自分の知覚認識している環境の背後にあるものを無意識のうちに探らせるのではないか。しかし知覚認識できないものはどうしようもないので便宜的に神仏というようなものを想定せざるを得ないのではないか。体系化された宗教を信じようが、身の回りにある自然現象に漠然とした絶対的存在の影を想定しようが、あるいは科学技術の合理性に己の存在の根拠を求めようが、根本にあるのは不安なのではないか。形あるものを求める欲というのは、こうした不安を緩和するための内的運動ではないかと思うのである。
「歴史は繰り返す」というような信心は不安解消には絶好だ。循環というのは永久運動のイメージを持つ。生命は個体という単位では誕生から死滅までの一回性ものだが、生殖という行為を間に挟むことにより、誕生して生殖を経て新たな個体を残すことで種という単位では継続性を獲得する。そこに輪廻というものを持ち込めば、同じような営みをいつまでも続ける永遠という幻想を得る。式年遷宮のような周期性の行事はそうした幻想を強化する。そこに農産物の収穫というような毎年繰り返されることを重ねるとさらに効果的だ。
ところが現実は違う。同じことの繰り返しで時間が進行するなら、例えば1,000年前の暮らしと今のそれとは同じでなければならない。人口は一定で、世界を構成する自然も一定でなければならない。絶滅種などあってはならないし、天変地異も起こらない、はずだ。そこで、人類だけは他の種とは別だという例外を想定することになる。進歩というような一方向の変化の概念を持ち込まないと世界観が成り立たない。「歴史は繰り返す」と言った舌の根が乾かないうちに、それを否定しなければならなくなる。要するにほんとうのことは誰にもわからないのである。わからないことばかりだから「真理」を探求するはずの学問や科学には価値があるのである。わからないことばかりだから自分とは何者かという漠然とした不安から救済してくれる宗教や神事を尊いと思うのである。都合の良いデータだけを寄せ集めて「真理」を語る学者や科学者は法律を犯していなくとも人類暗黙の了解を犯しているという点で犯罪者であり、神仏の存在を語ることのできない宗教者も同様だ。「真理」とは完璧な嘘のことなのである。
ところで、今日は映画を観た後、根津美術館に回って毎年恒例の「燕子花図」を観てきた。美術館の庭園には本物の燕子花が咲いている。光琳の「燕子花図」にも本物の燕子花にもそれぞれの美しさがある。今この瞬間の花の美しさ、この瞬間の絵の美しさ、それを感じることのできる今この瞬間の命に感謝したい。