熊本熊的日常

日常生活についての雑記

仏像展にて

2006年10月25日 | Weblog
東京国立博物館で仏像展を観て来た。観終わって、良い物を観たなと思った。最終コーナーの「円空と木喰」の印象が良かった所為だ。2人とも多くの仏像を遺したが、彼等の彫る仏様は過度な装飾がなく、思わず抱きかかえたくなるような親近感がある。仏像は、人々の不安や恐怖を和らげるために作られたものであろう。そうした目的に即した仏様である。特に、木喰の作品が集められた一角は、ディズニーランドのイッツ・ア・スモールワールドのようだ。

解説によれば、木喰が仏像を彫り始めたのは60歳からだそうだ。それまでにどのような人生を歩んで来たのか知る由もないが、彼が生きた時代(1718-1810年)を考えれば、彼自身が仏様のような存在であったのだろう。僧侶として、多くの人々の人生に関わるうちに、人々の心を慰めるべく仏像を彫り始めたのだろう。勿論、仏像が人々の人生の課題を解決するわけではないが、木喰に悩みや不安を語り、彼の手による仏像を拝むことで、人々の心が安らいだことは想像に難くない。

数知れぬ人々の心を慰めたであろう、こうした仏像を自分も拝むことのできることを、幸せに思うのである。

「幸福のスイッチ」

2006年10月23日 | Weblog
家族というのは逃げ場の無い関係だと思う。良好な関係を築くことができれば、それに越した事は無いが、上手くいかない時には、互いに居心地を改善する知恵が要求される。それは、我を通して相手に反抗することかもしれないし、相手を無視することかもしれないし、とりあえず表面を取り繕うことかもしれない。

「幸福のスイッチ」では三姉妹のうち次女だけが父親と上手くいかない。次女からみれば、父親は仕事一途で家族を顧みない暴君のような存在だ。他の姉妹は、その父に洗脳された哀れな存在に見えるのである。しかし、このことはこの次女が家族という共同幻想を最も強く抱いていることの裏返しでもある。家族や人間関係の「あるべき姿」へのこだわりが強いが故に、家を出て社会人として生活をしても周囲と上手くいかない。自分に「私の世界」があるように、他人にもそれぞれの世界があることを認め合わないと世の中は居心地良くならないのだが、それがわからない。そのことに気づくきっかけになったのが、怪我で動けなくなった父に代わって、家業の電気店を手伝うことだった。父の世界を経験することで、今まで気付かなかった他人の論理が見えてくるのである。

家族は心安らぐ場所ではない。人は生まれる時も、死ぬときも一人である。生きて行くのも結局は自分だけが頼りなのである。家族はそのための学びの場なのだと思う。身近に人間というものを観察し、そこから生きる知恵を得るのに、家族ほど恵まれた環境は無いだろう。失敗しても許され、親身な助言や援助も得ることができる。しかし、そこは帰る場所ではない。いつかは巣立たなければならない場所でもある。そのことを、ラストシーンがきちんと押さえている。

ボランティア考

2006年10月21日 | Weblog
ボランティアとして、富士山の裾野にある自然林の修復作業に従事してきた。初めて間伐と枝打ちという作業を経験した。作業自体は愉快だった。特に枝打ちは、梯子や木登り用の道具を使って木に登り、鋸で枝を切り落とす、という一連の作業がとても楽しい。作業が進むにつれて、鬱蒼としていた林には、適度に木漏れ日がさすようになり、後には枝の切り口から発散される木の香りが広がる。気分が良い。

尤も、自分が自然林修復という目的のためにどれほど役に立っているのか疑問はある。本来の目的のために日々働いている人たちの作業を邪魔しているだけなのではないかとの危惧は感じないわけでもない。

たまたま、今日、作業現場でボランティアの指導にあたっていた営林署の人と話をする機会があった。今、富士山のゴミ拾いボランティアが問題になっているそうだ。富士山の登山道周辺も植生回復のために植林事業が行われている。その事業で植えた木々の苗を、ゴミ拾いのために無造作に踏みつぶしてしまうボランティアがいるという。

「ボランティア」という言葉には、世のため人のために労力を無償で提供する、というニュアンスがあると思う。果たして本当に「世のため人のため」になっているのか、一考に値しよう。善意という思い込みを押し売りするだけの「ボランティア」も少なくないような気がする。

縁について思うこと

2006年10月20日 | Weblog
「縁を切る」と言うと大げさに聞こえるが、それほど難しいことではない。自分から相手に接触しないようにしていれば、その縁は自然に薄くなり、やがて途切れる。

一方で、縁を持続するのは容易でない。相手に気を配り、たまには相手の気を引くようなことを考えないといけない。自分がそうした手間暇をかけるに値すると思う相手だけが縁として残る。

「腐れ縁」というのもある。これは、多少の不愉快を我慢するとか、金銭で解決を図るといったことが要求されるのだろう。

「類は友を呼ぶ」という。愉快な縁を結び、守るには、まず自分が相手から付き合って愉快な奴であると思われなければならない。そのためには、それなりの修養というものが必要だろう。楽をしていては楽しくなれないということだ。

「フラガール」

2006年10月19日 | Weblog
物語の舞台は昭和40年代の炭坑の街。産業構造の変化が進むなかで、かつての花形であった石炭産業も経済の表舞台から退場しようとしている。炭坑の閉山は時間の問題であり、そこで暮らす人々も新たな生活を模索しなければならないことはわかっている。しかし、彼等の多くは閉山に反対し、これまで慣れ親しんだ生活にしがみつこうとする。誰もが現実を認識しているはずなのに、自分に都合の悪い現実からは眼を背けてしまう。素直に現実に向かい合った人は、背けた人から非難を受ける。

物理的なものであれ、観念的なものであれ、自分が手間暇かけて築いたものがあれば、それを守ろうとするのは自然なことだろう。時代の価値観が変化して、自分が蓄えたと思っていたものが水泡に帰してしまった後でも、その幻影を追い求め続けるものである。

変化に対応して生きる力というのは、間尺に合わなくなった自分を潔く捨て去り、新たな現実に適応する能力だと思う。盲衆に惑わされることなく、自分を信じることのできる強さとも言える。自分で考えることを放棄し、過ぎ去った生活にしがみつく人の姿は醜い。結果がどうあれ、自分で考えて行動する人の姿は美しい。

「出口のない海」

2006年10月04日 | Weblog
つまらなかった。特攻についてはこれまでも数多くの作品があるが、敢えてこの作品を製作する意図が理解できなかった。新鮮さが無いのである。

戦争映画ということとキャストを見ると、それだけでかなりの金がかかっていると想像できる。しかし、そうした金が活きているかといえば、そうとは思えない。潜水艦という特殊な舞台が活かされていない。ストーリーは過去の特攻物と変わるところは無い。エンディングに至っては、まるで「プライベート・ライアン」である。製作に関与した人々にはクリエイターという自覚も誇りも無いのだろう。サラリーマンが作った作品だ。

エンディングロールが流れるなか、どうして今ここに自分がいるのだろうと自己嫌悪に陥ってしまった。ついでに言わせてもらえば、エンディングロールと共に流れる曲は浪花節のようだった。

陶芸教室

2006年10月03日 | Weblog
今日、陶芸を習い始めた。流通系のカルチャーセンターに通うのだが、陶芸には専用の部屋が用意されており、それなりに歴史を感じさせる雰囲気である。教室では生徒がそれぞれに自分で考えた作品を製作し、それを先生が見てまわりながら個別に指導する。3ヶ月が一単位になっており、今月の新入りは私だけだ。全くの初心者が最初に取り組む課題は、手びねりで飯椀を作ること。

先生から土を渡され、作り方について一通りの説明を受ける。最初は土に慣れることが目的なので、細かいことは気にしなくてよいとのこと。今日のところは椀の原形を完成させた。これを乾燥させて、来週は削って成形するのだそうだ。その後、素焼き、汚れ落とし、撥水剤塗布、下絵付け、施釉、本焼き、上絵付けを経て完成となる。この間、約1ヶ月。

無心に土をいじっていると妙に心地よい。出来上がりのイメージはあるが、上手く作ろうという気持ちは無い。こうやって作ったものが、どのような姿に仕上がるのか、興味津々である。とはいえ、当面の目標はシンプルで使いやすい器を作ることである。

対面する

2006年10月02日 | Weblog
普段メールだけでのやり取りしかないが、親しく感じている相手と初めて面と向かう時というのは妙な気分がする。

人と人との関係の持ち方は技術や文化の影響を受けながら変化するものだと思う。しかし、生き物として外部の存在と交渉を持つ、基本的な関係性のありようは大きく変わらないのではないだろうか。

意識するとしないとにかかわらず、我々は自他を識別している。国家が領土・領海・領空を持つように、個人も物理的・心理的な領域を有している。個人の場合は国家のような明確な線引きはなく、時と場合と状況によって「自己」という認識の領域が変化するが、他者をどこまで受け容れるかということは「自己」の存亡に関わる一大事であり、あらゆる感覚を用いてあらゆる尺度から相手との距離を計っている、はずである。

電話だけ、メールだけで知り合った相手と初めて対面したとき、そこには、それまでに築き上げた相手のイメージというものがあり、良くも悪くもそのイメージはダメージを受ける。その感覚を「妙」と感じるのかもしれない。

しかし、もともとのイメージを形成するのに収集蓄積した無数の情報に、対面による新たな、しかも莫大な情報が追加されることになるので、基礎のイメージが好ましいものであれば、対面することは、それをさらに好ましくするような作用を引き起こすことになりやすいのではないだろうか。

今日、メールだけで一緒に仕事をしている相手と初めて対面して、そのようなことを考えた。