天理の駅前でレンタカーを借りて長谷寺、室生寺、談山神社、安倍文殊院、大神神社を巡ってきた。奈良でレンタカーを借りてもよかったのだが、桜井線に乗ってみたかったのと、多少なりとも目的地に近いところまで鉄道を利用したほうが身体が楽かと思って天理までは桜井線を利用した。奈良=天理の往復とも105系の2両編成だ。105系は8月に福塩線でも乗った。福塩線ほど楽しく揺れないのだが、先頭車両の運転席の後ろに立って線路を眺めると、枕木がコンクリートのものと木製のものが不規則に敷かれている。こういう風景がまた楽しい。
天理駅前から長谷寺までは車で30-40分だ。初めて訪れる土地で車を運転するとき、カーナビはほんとうに便利だ。ただ、目的地周辺で駐車する場所を探すのは、やはりある程度の勘が必要だ。参道に接近あるいは参道に入ると駐車場の看板が目立つようになる。なかには客引きをしているところもある。料金はどこも同じだ。ここで駐車してしまうか、もっと寺の近くまで行くか。秋の行楽日和の三連休の中日、それなりに人出はあるが、賑やかというほどではない。そのまま寺の駐車場に行く。ガラガラだ。
8月に福山・倉敷・吉備・岡山を歩いたときも大小さまざまの神社仏閣に参拝したが、どこも駐車場はガラガラだった。おそらく、施設の性質上、こうしたところのこういう施設はピーク稼働時に照準を合わせて作られている。神様仏様が近隣住民に迷惑を撒き散らすわけにはいかないからだ。土地の費用が大きくない地域なら大らかに施設を準備できるが、そうではない地域だと費用対効果を考えないわけにはいかなくなる。神様仏様はこの世のものではないからそんなことは気にもしないだろうが神社仏閣を運営するほうは生活があり遣り繰りを考えないといけない。生活というのは、それぞれに工夫が要求されるのである。
寺は山と関係があるらしい。寺の名前には山号というものが含まれていることが殆どだ。長谷寺には豊山という山号がある。大きな寺というと、山門(三門)があって、その先に長い階段とか坂道が続き、登りきったところに視界が開け、立派なお堂が目に入り、なんとなくありがたいという気分になる、という印象がある。「ありがたい」という気持ちにさせるのは、ちょっとした苦行なのだろう。苦があって楽がある、楽があって苦がある、楽は苦であり苦は楽である、というような印象の陰影や緩急が人の心に何事かの作用をもたらすのは確かだろう。寺とはそもそも何か、という認識を寺の側が持っていないと、人を惹きつけることはできない。信仰を集めたいのか、信仰は取っ掛かりでそれを集めた上でやりたいことがあるのか、信仰は方便であって存在意義や目的は全く別のところにあるのか。そういうことがビジュアルにも反映されているはずだと思うのである。
長谷寺は686年、道明上人が天武天皇のために「銅板法華説相図」を初瀬山西の岡に安置したことに始まり、727年に徳道上人が聖武天皇の勅願によって御本尊十一面観音菩薩を東の岡にお祀りした(寺発行のパンフレットによる)そうだ。現在の御本尊十一面観音菩薩は1538年の作で、さんざん古い仏様を拝んでみると、新しいものに感じられる。御本尊が収められている本堂は徳川家光の寄進によって1650年に建立された。実はけっこう新しい寺だ。でも起源は7世紀にさかのぼるので、境内には源氏物語のネタになった場所があったりする。境内駐車場から細い道を少しだけ登ったところに「二本の杉」という杉の大木がある。「にほんのすぎ」と読んではいけない。これは「ふたもとのすぎ」という。根元が繋がっているのである。これが源氏物語に登場するのである。源氏物語はフィクションだ。しかし、なにかしらネタがないと物語というものを紡ぐことはできない。紫式部が長谷寺を訪ねたのか、長谷寺が京でも有名だったのか、そのあたりのことは知らない。源氏物語の「玉鬘」という段で、光源氏と夕顔との間の子である玉鬘が長谷寺に籠るらしい。玉鬘が旅の途中で夕顔の侍女で夕顔亡き後は光源氏に仕えている右近と出会い、どうしてそうなるのかはしらないが、二人で長谷寺に籠るのだそうだ。そのなかで、右近がこの「二本の杉」を「二本の 杉の立ちどを 尋ねずは ふる川のべに 君を見ましや」と詠み、玉鬘が「初瀬川はやくのことは 知らねども 今日の逢う瀬に 身さへながれぬ」と返す場面があるのだそうだ。建物は江戸期の新しいものでも、寺自体は源氏物語に登場するくらいのものなのである。
駐車場から初瀬川沿いの道を少し下って長谷寺の総受付に行く。「受付」といいながら、無人である。ここから石段を登ったところに参拝受付があり、参拝料を納める。今日は長谷寺、談山神社、大神神社の3箇所を訪れるつもりでいたが、細い予定は立てていなかった。参拝受付で「奈良大和四寺巡礼共通拝観券」というものがあるのを知った。これは長谷寺、室生寺、安倍文殊院、岡寺がセットになった拝観券だ。セットになっているからといって割引があるわけではない。四寺の拝観料の単純合計の価格が付いた拝観券だ。有効期限は無期限で、今回巡礼できなかったところは別の機会に、という使い方もできる。なんとなくそのセット券を買おうと思った。
長谷寺は、参拝受付のすぐ脇に仁王門がある。ここを過ぎると登廊が本堂まで続いている。この屋根付きの通路はどういうわけで作られるのだろうか?昨年、京都の東福寺を訪れたとき、森の上を歩くかのような屋根付きの橋を渡ってたいそう気分がよかった。今年8月に吉備津神社を訪れたときも、なにがどうというわけではないのだが、なんとなく感心した。長谷寺もなんとなく良い雰囲気だ。屋根があるということで安心感が醸成されるのだろうか?
「清水の舞台」という慣用語句があるので木造の大規模な舞台状の建築は京都の清水寺の専売特許のような印象があるが、規模の違いこそあれ木造舞台はけっこうあちこちにある。長谷寺の本堂にも比較的大きなテラスがあり、そこから境内を一望できる。しかし、本堂で注目すべきはテラスではなく御本尊の十一面観世音菩薩だ。先に記したように16世紀前半の作で、全国の長谷観音の根本像である。御身の丈三丈三尺で大盤石に立つ。先日、根津美術館で仏様の乗り物に焦点を当てた企画展を観てきたが、石の上に立つ仏様というのは珍しいのではないか。写真ではわかりにくいが、だいぶ平べったいお姿だ。立体像であるには違いないのだが、自立像というよりも板に浮き彫りを施したようなスタイルである。このため、光背が御本尊に負けず劣らず肉厚で、御本尊も自立することについての気遣いが薄いので頭上の十一面像の存在感がかなり強い。結果として、御本尊を見上げたときに、視線が御本尊の頭上に吸い寄せられる。頭頂仏の存在感が強いのは度重なる火災で頭頂仏だけが焼け残ってきたことも関係あるのかもしれない。御本尊全体は16世紀の作でも頭頂仏はそれ以前の作なのである。また、御本尊が参拝者の視線を強力に吸引するあまり、脇侍の存在感が弱くなってしまう。寺院によっては、須弥壇に並ぶ仏様のなかで、御本尊よりも脇侍とか壇の端のほうの仏様のほうが存在感を放っていたりすることもあるのだが、ここは断然御本尊だ。
長谷寺の後は室生寺に向かう。長谷寺から国道165号線に出て、30-40分で室生寺に着く。長谷寺も山の中の寺だったが、こちらはもっと奥だ。国道から寺の間の道は山道で、沿道には何もないのだが、寺の周りは少しだけ賑やかだ。寺には室生川に架かる太鼓橋を渡って行くのだが、橋の袂に飲食店や宿が集まっている。寺に詣でる前に、こうした店を覗いてみる。きちんと数えたわけではないが、門前の商店のうち約3割あるいは4割は営業していない。今日は連休の中日、陽気も良く天気も良い。バス停にはバスを待つ人の列がけっこうな長さであるのだが、駐車場はガラガラで旅館は飲食のほうの客は賑わっていても宿泊のほうはどれくらいいるのか、というところだ。東京で暮らしているとわからないのだが、たまに地方の観光地などを訪れるとゴーストタウンのような街があちこちにあることに愕然とする。おそらく日本全体の人口はそうした街が当たり前に賑わっていた頃のほうが少なかったし、一人当たりの国民所得とかGDPも今のほうが多い。それなのに、大都市圏から少し離れると、廃墟進行形のような街や集落に容易に行き当たるのである。恐ろしいことだと思う。
室生寺は太鼓橋の袂から仁王門の間が工事中である。仁王門の前にお札などの授受所があり、それなりに人出はある。全体にこじんまりとした印象だ。仁王門をくぐると左手に石段がある。石段を登ったところが弥勒堂と金堂。弥勒堂も工事中だが金堂は公開中。
金堂は建物の朱が剥げてだいぶ寂びを感じさせるが参観者が絶えることがなく、建物の風情の割には賑やかだ。ここに御本尊の釈迦如来が薬師如来、地蔵菩薩、文殊菩薩、十一面観音を従えて立ち、その前には十二神将が一列に並んでいる。この十二神将は伝運慶だ。御本尊の背面には帝釈天曼荼羅があるのだが、釈迦如来と薬師如来の間にちらっと見えるだけだ。仏様は如来がいい。しかし、いかんせんお堂の中には入ることができず、庇の内ではあるが外からの拝観なので仏様との距離が大きい。長谷寺の十一面のように大きな仏様ならそれでもよいのだが、ここはもう少し近くで拝ませていただきたい。
金堂の裏手の石段を登ったところが本堂。こちらの御本尊は如意輪観音菩薩。さらに本堂の脇の石段を登ると五重塔。ここの塔はこれまでに見たことのないような軽やかな塔だ。塔からさらに階段を登っていけば奥の院だが、ここで引き返す。
門前の旅館で昼食をいただく。温かい素麺。店の自家製だという柚子唐辛子が付いている。旅館のほうに客がいる様子はなく、食事の客ばかりの店に見えるが、メニューは至ってシンプルなものばかり。しかし、素麺の汁は丁寧に出汁が引かれていて大変美味しい。柚子唐辛子を入れても入れなくても美味しい。柚子唐辛子は持ち帰りもできるとのことだったので1パック買い求めた。勘定の時、店の人に柚子唐辛子の作り方を教えていただいたので、使い終えたら自分で作ろうと思う。
門前の 煮麺に香る 柚子辛子
室生寺の近くに龍穴神社というそれほど大きくない神社がある。禰宜が常駐しているような神社ではないのだが、境内は手入れが施されて清潔な印象だ。その名が示すように龍が住むと言われる洞穴があり、ここの本殿はその洞穴に対する拝殿のようにも見える。尤も、その洞穴までは足を伸ばさなかった。龍穴神社は室生寺よりも古く、室生寺がこの神社の神宮寺であった時期もあったそうだ。私たちは室生寺に向かう途中、たまたまこの神社の幟を目にしたので、室生寺の参拝の後に立ち寄ることにしたのだが、次から次へと参拝客が現れるところを見るとこのあたりでは有名な神社なのかもしれない。
室生寺から一時間ほどかけて談山神社に移動する。ここは塔が有名だ。神社に仏塔があったり寺に鳥居があったりするのは珍しいことではない。そもそも神社と寺を分けるということが明治以降のことである。信心に妙な形式を持ち込む馬鹿なことをよくも国を挙げてやったものだと感心してしまうが、それで大量の仏像や仏具がタダ同然で国外に流出したのは誰もが知るところだ。明治維新を切欠にこの国は迷走し続けている。先人が築き上げた文化が古い地層のように強固に堆積しているから、まだなんとか持ち堪えているようなものの、この調子で皮相な合理主義に侵食され続ければそのうち消滅してしまうだろう。その前に人口が消滅するだろうから、どう転んでも消えてなくなる。今ここに生きていることを喜ばないではいられない。
談山神社はその日本の素となった場所と言ってもよいかもしれない。ここの地名は多武峰。「談山」の由来はこの地で誰かが何事かを談じたことにある。談合の主は中臣鎌足と中大兄皇子。何を談じたかといえば政治改革。当時、朝廷の実権を握っていた蘇我蝦夷・入鹿親子を討伐して政治を変えようというのである。討伐ということは殺すということだ。実際の政治がどのようなものであったのか、今となってはわからないが、結果として武力による政権転覆は「大化改新」と呼ばれ、その後の天皇中心の統一国家成立となる。中臣鎌足は天皇から藤原姓を賜り、その後の藤原氏の栄華へとつながる。鎌足の死後、長男の定慧が弟の不比等とともにこの地に鎌足の墓所を定め、妙楽寺と称し明治の神仏分離で談山神社となった。と、書くと、「ん?」と思うだろう。藤原氏の氏寺は興福寺だ。藤原氏がどうでもよい氏ならその始祖の墓所と氏寺が別であっても問題はなかったのかもしれないが、日本の政治の実権を握る家となると元祖と本家の争いというか、まぁそういう争いになるのは自然なことなのである。坊主も人間だ。俗世間とは違うというような顔をしていても腹の中は俗世間以上に俗なのである。要するに興福寺と妙楽寺の争いが絶えず、坊主なのに問題を平和裡に解決することができなかった。仕方がないのである。人間だもの。
ところで藤原鎌足と中大兄皇子がどのようにして知り合ったのかというと、法興寺の蹴鞠会で知り合ったらしいのだ。法興寺は現在の飛鳥寺で、蹴鞠会は今でいうとさしずめゴルフだろうか。そういうことに因んで談山神社には「蹴鞠の庭」と呼ばれる広場があり、今でもここで蹴鞠会が行われるのだそうだ。権力というのは一人では握ることができないし、特定個人に集中する権力というのは長続きしない。権力が権力たりうるには仕組みが不可欠だ。つまり、適度な規模の集団によってチームとして運用され、適度にメンバーの交代を容認しながらも堅牢なギルド組織のなかで機能が完結するようにしなければならない。日本の歴史を見れば、統一国家成立後ほぼ一貫してその核に天皇がある。天皇があるから統一国家が持続しているとも言える。武士の世の中だという時でも、政治行政軍事の長は天皇から征夷大将軍に任命された人が担う仕組みになっていて、明治になると天皇は天皇大権と呼ばれる広範な権限を行使したが、第二次世界大戦後は実権はなくなったが日本国の象徴として君臨している。つまり不動の地位を得ている。天皇とは何か、というのは興味深い問いだと思うのだが、あまり表立ってそういう研究をする人は聞いたことがない。たぶん、現在のこの国ではそういう問いはタブーなのだろう。
天理駅前で借りたレンタカーは午後6時までに返さないといけない。営業所が6時までしか営業していないからだ。レンタカーというものはどこでも24時間借りたり返したりできるものだと思っていたが、それができるのは限られた営業所だけだそうだ。それで、談山神社からはそろそろ天理へ向かって移動しないといけないことになった。長谷寺で四寺拝観券を買ったので、そこに含まれている安倍文殊院に向かう。
安倍文殊院の「安倍」は安倍晴明の「安倍」だ。安倍晋三は関係ないらしい。安倍文殊院の拝観料には僧侶による当院の説明と抹茶が含まれている。その説明のなかで「安倍といえば皆さんが思い浮かべる方はおひとりだけだと思いますが」というところがあり、その時私の脳裏には安倍晋三しか思い浮かばなかった。話は前後するが、実は談山神社と安倍文殊院はつながりが無いわけではない。安倍文殊院を創建したのは大化改新で左大臣になった安倍倉悌麻呂である。安倍倉悌麻呂は当然、中臣鎌足や中大兄皇子と知り合いだったのである。その安倍一族からは遣唐使でもあった安倍仲麻呂、陰陽師として高名な安倍晴明が出ている。寺としては安倍晴明ブランドで押したいらしく、他の寺院ではあまに目にしたことの無い陰陽師関係のお札やお守りが授与所に並んでいる。せっかくなので魔除札を頂戴してきた。
安倍文殊院の御本尊は文殊師利菩薩で、快慶の作だ。文殊菩薩といえば獅子に乗り普賢菩薩は像に乗っているわけだが、ここの文殊菩薩の獅子は不必要に立派な気がする。本堂の中央、一段高い須弥壇に渡海文殊菩薩群像が並んでいる。その群像を見上げるように僧侶が読経する。ちょっと珍しいスタイルではないか。それにしても、かなり個性の強い仏様だと思うのだが、絶妙な組み合わせだとも思う。以前、東京の美術館で善財童子が展示されたことがあったが、善財童子はこの群像のなかにあってこその存在感だと思った。それにしても、獅子がこれだけ大きいのは何を意図しているのだろうか。
時刻は午後4時、日がだいぶ傾いている。文殊院の本堂の周りにはコスモスが夕日のなかで揺れている。
秋桜で 結界を結ぶ 文殊様
安倍文殊院から大神神社までは車ですぐだ。大神神社の大鳥居をくぐるとすぐに神社の大きな駐車場や民間の駐車場が視界に入ってくる。車の入ることのできるぎりぎりまで行くという選択肢もあったが、午後4時を回っているのに思いの外道行く人の数が多かったので、ガラガラの駐車場に入れてしまった。
歩き始めて間もなく桜井線の踏切を渡ると、参道に露店の姿が目立つようになるのだが、片付けに入っている店が多い。それでも、二の鳥居から拝殿方面へ向かう人の流れが絶え無い。その流れに乗って参道を行く。今日これまでに参拝した神社仏閣と比べると日本語以外の言葉を話す人が多い印象だ。
大神神社には本殿がない。御神体が三輪山で、拝殿から三輪山を拝む。しかし、境内の様子としては本殿があるとかないとか、あまり関係がないように思う。これほど大きな神社ともなると参拝者の視界に映る境内の様子は個々の建物が何であるかを一見して認識できるようなものではない。神社仏閣を扱うメディアには必ずといっていいほどに登場する神社だけに、先入観が大きいということもある。正直なところ、期待を満足するようなところではなかった。
無事に営業時間内にレンタカーの返却を完了。天理から桜井線で奈良へ戻る。
今日は宿を出るときに夕食の予約をしておいた。駅からぶらぶらと宿へ戻り、一服してから宿のレストランで洋食のコース料理をいただく。フロアのウエイターやウエイトレスの数が多い割に右往左往していて傍目に動きに無駄が多く、身だしなみも今ひとつなので少し不安になったが、料理は大丈夫だった。さすがに奈良を代表する宿屋のレストランだけのことはある。コンソメスープが美味だ。コンソメが美味いと、とりあえずほっとする。たいていはそこでその後の料理が想像できるからだ。酒はあまり呑まないので、ソムリエに料理に合わせてグラスワインをいくつか選んでもらい、そこから自分たちで選んだが、これも良かった。奈良では食事にハズレがない。