喬太郎 子どもの頃に『ぼくの動物園日記』という漫画があったんです。カバ園長の若い頃の実話を漫画にしてるんですけど、時代は戦後すぐで、あるお客さまが上野動物園でキリンにミカンの皮を何となく放ったんです。するとキリンが食べるんですよ。「あ、ミカンの皮が好きなんだ」って、みんながミカンの皮を放ると、キリンは喜んで食ってるんですけど、そのうちバタバタ死んでいくんですよ。解剖すると、ミカンの皮が塊になってバケツに何杯も出てくるんです。消化しないんですね。それで、飼育員さんが「ミカンの皮をあげないでください。キリンが死にますから」って言っても「あんなに喜んで食ってるじゃないか。俺たちだって食えなかったんだ。やっちゃえ、キリンは食ってるぞ」ってあげちゃって。好意なんだけど、キリンは死んでいくんですね。たまにこの話を思い出すんです。(第1章 道徳 噺家の了見、お客さまの了見 35-36頁)
歌武蔵 とにかく何を言うかじゃなくて、誰が言うか、そこが大事なんだよね。酒席でもそうでしょ。何を飲むかじゃなくて、誰と飲むかなんだよ。(第1章 道徳 噺家の了見、お客さまの了見 38頁)
歌武蔵 真打になるまで十数年一緒にいると、師匠の嫌なところとか、おかみさんの嫌いなところがわかるわけ。そうすると、ほんとうの親子になっちゃうんだよ。百パーセント大好きじゃないの。
喜多八 そう、いいこと言う。師匠のことを書いた本でも、みんなわざとらしく書いてて、肌合いが感じられないよな。読む人はそう思うんだろうけど、ほんとうはそうじゃなくて、もっとお互いにドロドロしてて、だからこそ疑似親子なんだからさ。(第2章 社会 師匠と弟子の奇妙な関係 91頁)
歌武蔵 じゃあ、お二人とも『時そば』の時刻のこととか、まあ他のことでもいいんですけど、特に説明や解説は?
喜多八 そういうむずかしいことは、かえって説明しないほうがいいじゃない。
喬太郎 でも、説明なさるかたもいらっしゃいますよね。特に学校寄席なんかに行くと。だけどそうすると、やっぱり落語ってあらかじめ予備知識がないと聞けないんだ、みたいなことになっちゃうのが怖いんです。
喜多八 それだ、そこに落ちた。今は野暮ったい奴が多いんだよ。マクラで、やたらと俺は知ってます、みたいなさ。あんなのは素人のやることだよ。もっとお客さまを信用してやんなきゃダメなんだよ。逆に、私はこれまでです、どうぞあとは勝手にお取りくださいっていうのが、前で勝負するってこと、商売するってことなんだよね。だから、お客さまに「俺は知ってるぞ」って言うのはほんとうは一番野暮ったいんだと思うね。
(第3章 国語 高座と言葉のリアリズム 110-111頁)
喜多八 マクラとか出だしでどうお客さまをつかむかというのは、みんな苦労してるわけですよ。どう計算してるかじゃなくて、職人として何回もやってるうちに、どこか自分でその糸口を見つけていってるなというだけで、無理につくったって無理なわけで、でも若いうちは無理につうろうとしなきゃダメなんだよね。情熱がなきゃね。
失敗したものが勝ちなのよ。みんな失敗はしたのよ。つまりそれを恐れない度胸があるからこうなってる。
(第3章 国語 高座と言葉のリアリズム 122頁)
喜多八 そう、そう。なまじ突き詰めちゃうと、「それは嘘だよ」って言われたときにそこで破綻しちゃうんだよ。古典でもそうで、どうでもいい人がそういうところを突いてくるんだけど、ほんとうはそういうのはどうでもいいことなんだよな。(第4章 工作 「新しい」噺の作り方)
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