熊本熊的日常

日常生活についての雑記

中山道縁起

2010年10月31日 | Weblog
昨日、台風接近で終日雨だったので外出を控え、今日、実家に行ってきた。途中、ハニービーンズに立ち寄る。金曜日に町内会長からザンビアのコーヒー豆の話を聞いた。ハニービーンズがサンプルとして取り寄せたものを会長仕様の深煎りに仕上げてもらったのだそうだ。それを羽生田さんと私にもおすそ分けということで店に託してあるというのだ。それで、ハニービーンズを訪れた。
「こんちは。会長さんからザンビアの話聞いたんだけど」
と言うと、カウンターに置いてある豆の入ったジップロックを持ち上げて
「ありますよ」
一杯淹れてもらい、じっくりと味わう。
香りはマンデリンに近いものがある。味はマンデリンよりも軽めで洗練されているように感じられる。以前、「ンゴマ」というブルンジの豆を飲んだことがあるのだが、やはりボディの強い味だった。

立ち飲みでコーヒーをいただきながら、1時間ほどおしゃべりに興じる。近々、青梅の「ねじまき雲」が喫茶コーナーを止めるのだそうだ、というような話を聞く。カフェ愛好家の間では有名な店で、一度お邪魔してみたいと思っていた店だ。とにかく美味しいらしい。あとここでのおしゃべりで必ず登場するのが大喜多町にある「抱(HUG)」。店主の水野さんとは昨年4月にグラウベルで開催されたカッピングセミナーでご一緒させて頂いたのだが、会話をする機会に恵まれなかった。これまで豆売り専門だったが、最近になって喫茶コーナーを始めたという。表参道の大坊珈琲のような味なのだそうだ。もともと豆のほうでコーヒー好きの間では名前が知られており、店の駐車場にはそうしたファンが乗り付けるフェラーリが停まっていることもあるのだそうだ。

今日は、やはり会長からご紹介のあったカフェ、kikiを訪れるつもりだった。旧中山道を北へ30分ほど歩くと埼京線の板橋駅に出る。駅の近くにその店はあるのだが、生憎と今日は臨時休業だった。せっかくなので、近くをうろうろ歩いてみる。学生の頃、都営三田線の板橋本町の近くで家庭教師をしており、そこに出かけるときは板橋駅で国電を下りて新板橋駅まで歩いて三田線に乗り換えていた。通過するだけではあったのだが、板橋駅界隈の商店街はなんとなく懐かしい風景だ。

板橋本町も国道17号沿いだが、実家も同じ中山道に面したマンションにあり、今住んでいるところも中山道沿いだ。なんとなく中山道に縁があるなと思いながら、板橋から電車に乗って実家へ向かった。

嵐の日

2010年10月30日 | Weblog
台風接近で終日雨だったので、家から一歩も外へ出ずに過ごす。アイロンがけやら部屋の片付けやら、細々とした雑事で一日が終わる。

久しぶりにホッケをグリルで焼いて食べた。グリルは手入れが面倒だと思って、これまで滅多に使わなかったが、それほど面倒なこともなかった。かといって、これから焼き魚が増えるわけでもないと思う。

ちなみに、今日の昼は、そのホッケとなめこ汁と納豆でごはんを頂く。夜はギョーザとなめこ汁と納豆。ギョーザは蒸して頂く。台所や調理器具の片付けを考えると、油がはねるような調理は敬遠してしまう。蒸すという調理法は簡便で、しかも素材の旨味を活かすように感じられて好きだ。

磁場探訪

2010年10月29日 | Weblog
問い合わせたいことがあったので、出勤途上で橙灯に寄る。店に入ると席が全て埋まっていたが、町内会長氏はおひとりだったので相席させて頂く。結局、ふたりで1時間ほどおしゃべりに興じ、出勤時間が近づいたので私が先にその場を失礼させて頂いた。

この店は不思議なところで、以前にも書いた通り、予めこの店を訪れるという意志を持って出かけないと辿り着けない場所にある。さらに、週のうち2日が定休で、そのうえに店主の都合で頻繁に休みが入る。夏は1ヶ月以上連続で休業する。そういう店なので平均的な稼働率は低いのかもしれないが、今日のように満席だったりすることもある。客は私のように既存客から誘われたり連れてこられたりして常連化した人が殆どらしい。「ここには磁場がある」と客の間ではささやかれている。

客が常連化するのは雰囲気が心地よくて飲食物がおいしいからには違いない。店主の方針ですべてのメニューが手作り品で、しかも材料から吟味されている。そういうものを頂くと、身体が喜ぶ気がする。そしておそらく、同じような感覚を得た人たちが常連化するのだろう。感性に共通するものある者どうしなので、自然に客の間で会話が始まる。そして会話を通して、互いに人や場所を紹介しあい、そこから静かにそれぞれの世界が広がっていく。

カフェの経営、というと商売のイメージになるのだろうが、銭儲けをしてナンボ、というだけで満足できるほど単純な人間というのはそれほど多くはないと思う。市場経済の社会全体としては、人々の生活を維持するために、仕組みとして経済的価値を創造し続けなければならないので、例えばカフェという事業世界に関してはスタバのような巨大資本に、巨大資本にしかできないような経営努力を続けてもらわないと困る。だが、暮らしている社会が市場原理に基づいているからといって、個人が全生活を賭けて資本の論理に付き合う必要は無いだろう。資本の論理に従って社会に対する一定の義務を果たし、対価として生活の糧を得る、ということを満足させていれば、そこから先は各自それぞれの人生を生きればよいだけのことだ。ただ、その「先」を生きるのに便利なものや場所がなかなか無いのも困ったことだ。尤も、こればかりは他人任せにはできないので、そういう場を求めることにこそ精を出さないといけないのだろう。

以前にも書いたように、人は無数の関係性世界を生きている、と私は考えている。人を持続的に惹きつけ強い絆を形成するのは、結局のところ感性の響き合いではないだろうか。ところが、そういうものに出会うのは至難なので、現象面としては「金の切れ目が縁の切れ目」というようなことになってしまうのだろう。人の幸せというのは、響き合える他者との出会い以外にあり得ないのではないかと思っている。出会うためにはどうしたらよいか、自ずと明らかだ。

続 箱入り

2010年10月28日 | Weblog
先日の茶会で土産に頂いたもののなかに「小松こんぶ」がある。京都にある料亭「雲月」で作られたものだ。もちろん、炊きたてのご飯で、そのまま頂いても美味しいのだが、今日は野菜炒めの調味料として使ってみた。調味料というからには、味を調えるための材料なのだから、それを使うことで料理が変化するのは当然なのだが、それにしても格段に美味しくできた。こんぶ自体の味もさることながら、こんぶの調味料として使われている塩や山椒なども大いに力を発揮しているように感じられる。

このこんぶは写真のようにガラス瓶に入っていて、その瓶は包み布に包まれ木箱に入り、木箱は真田紐で結ばれている。外見が相当に華々しいのだが、外見にふさわしい、あるいは外見を凌駕するほどの充実した中身である。

茶会で学ぶことというのは、一言で表現すれば「人をもてなすこと」なのだが、その奥深さに今更ながら驚愕してしまう。茶会そのものだけでなく、手土産に至るまで心を尽くすという発想の広がりと深さは、なるほど「茶道」というにふさわしい修養があってこそ表現できるものだろう。こうしたものに触れると、自分の日常がいかに浅薄であるかを思い知らされる辛さもあるが、こういう深さを体験できることは幸せなことだと思う。

箱入り

2010年10月27日 | Weblog
木工で製作中だった焼き物用の箱が完成した。そのまま装飾にもなるようにと思い、蓋に透明のアクリルの天板を嵌めた。少し大きめのぐい飲みが3つ入るようにしてあるが、用途は使う人の自由になるように仕切り板は取り外しができるようにした。作ってみた感想としては、箱物は板取りをよく考えないといけないということだ。具体的には蓋の側板と箱の側板は同じ材から切り出すべきだと思う。そうしないと蓋側と箱側の材の伸縮が微妙に異なるために全体としての一体感が生れない。また、なるべく木材だけで作るべきで、アクリルのような異質の材と組み合わせると加工がやりにくい。今回は焼き物を入れることを前提に、何かの拍子で内容物が蓋に当たっても天板が壊れにくいようにガラスではなくアクリルにしたのだが、これも再考の余地はある。アクリルはその物性上、埃を吸引しやすく、表面の微細な傷も気になる。天板を透明にすることにこだわるなら、ガラスのほうがよかったかもしれない。ちなみにこの箱の素材は朴の木。

焼き上がり

2010年10月26日 | Weblog
陶芸で焼きあがったものを引き取ってきた。今回は11個で、これまでになく数が多い。今はまだ技能の習得に関心の重心があって、焼き上がりは自分の技能を確認するひとつの過程でしかない。このブログも書きたいことしか書かないので、後から自分で読んで面白いと思うのだが、陶芸も好きでやっていることなので、出来上がった茶碗や皿はどれも好きだ。過程ではあるけれど、そして結果がどうなるのか、結果があるのかないのかもわからないけれど、自分の行為の軌跡が明確にわかるというのが嬉しい。今回焼きあがった11個のうち、3個は底にひび割れがある。ひび割れは素焼きの段階で認識していて、それが釉薬で埋まるかと思ったのだが、そうならなかった。このひび割れを金継してみようかと思っている。焼き物の好きなところは、所謂「不良品」であっても、工夫次第でその瑕に価値を生ませることができることだ。ひとつのもののあらゆる可能性を見出す面白さがある。

柿食えば

2010年10月25日 | Weblog
一人暮らしを始めてから、毎日必ず果物を頂くようにしている。それは以前にも別のブログに書いたことがあるが、健康のためというよりは、なんとなくそうしないと落ち着かないからだ。毎日食べても毎日買うわけではないので比較的日持ちのよくて食べやすく、経済的にも負担が軽いもの、ということでリンゴを食べることが多い。リンゴの季節でないときは、ロンドンではバナナのお世話になっていたが、東京ではキーウィを食べることが多い。今年の夏に関しては、好きな白桃をたらふく食べたという印象がある。尤も、桃がおいしい時期は短いので、8月下旬からは途切れ途切れになり、今年の食べ納めは9月の3週目だった。以降、リンゴが復活し、それに柿も登場するようになった。写真は一昨日実家で調達した頂き物の柿だ。甘くて美味しい。夏の暑さが厳しくて、このまま秋が来ないのではないかと気を揉んでいたのだが、農作物によって豊作だったり凶作だったりするものの、秋の収穫の季節は必ず巡ってくるもののようだ。

一期一会

2010年10月24日 | Weblog
初めて茶会に参加した。先生のお宅で開催された会で、何組かがかわるがわる茶室に入ってお茶を頂くという、かなり規模の大きいものだった。先生のお宅はビルで、いきなり度肝を抜かれたが、下の階は事務所や店舗などに賃貸されていて、お住まいは最上階という構造だ。エレベーターを出たところが待合のような空間になっている。玄関は引き戸で、中に入って左手が上り框で右手は外に出る戸だ。外に出ると蹲がしつらえてあり、蹲で手や口を清めた後、躙口から茶室に入るようになっている。私の回は私を含めて客が5名だったので、濃茶はふたつの茶碗に分け、私のほうは3人分を大ぶりの天目茶碗で頂いた。濃茶を頂くのは初めてだったが、粘度が高くて飲みにくいが味は感動的だった。薄茶のほうは、旦入の赤楽で頂いた。先生は私が陶芸をやっているのをご存知なので、私の興味をそそりそうなものをわざわざ選んで頂いたようだ。勿論、本物の楽茶碗でお茶を頂くのは初めてである。あの独特の形状は、おそらく日本人にしかわからない美意識の現われではないかと思う。楽茶碗の本当の素晴らしさは手にしたときに実感する。茶碗が手の中にすっぽりと納まり自分の身体の延長のように感じられるのである。そして見た目に比して見込みが大きく感じられる。よく「茶碗は見込み」と言われるのだが、見込みが大きく見える茶碗を手にすると、茶碗の中が異次元空間への入口のように見えるものだ。茶菓子は主菓子が餅を栗きんとんを絞ったもので栗毬のように包んだもので、干菓子はマツタケ型の落雁や霜柱のような砂糖菓子などの取り合わせ。今年は栗が凶作なので、そういうときにこういう栗を贅沢に使った菓子を振舞われると、感じ入るものがある。

お茶の後、亭主のほうで予め手配されている店に案内され、そこで客だけで食事を頂く。同じ茶道教室の仲間なので、和気藹々と楽しくお食事をいただき、お開きとなった。茶会の前は、知っている人たちだけの会とはいいながらも少し緊張したが、終わってみれば愉快なひと時だ。本当に良い縁に恵まれたと幸せな気分になる。道具がどうこうとか、茶がどうこう、というのではなく、そこに込められた心配りが伝わるのである。茶の湯とはこういうものなのかと、少し認識が変ったような気がする。

お茶会からの帰りに橙灯に寄る。これまでは、この店に来たときに自分以外の客が居たことはなかったのだが、今日は先客の2人組が居る。店主の坂崎さんが頃合いを見計らって紹介してくれる。おひとりは編集者で「Oraho」の発行人でもある人で、もうおひとりは「mt」というブランドのマスキングテープを製造販売しているカモ井加工紙という会社の関係者(社長夫人?)。おふたりの会話をなんとなく聴いていたり、邪魔にならない程度に口を挟んでみたり、面白がっていたら1時間半ほど経ってしまい、雨も降り出したので店を出た。

巣鴨に着いて住処に向かう途中、コーヒー豆がなくなりかけていることを思い出し、ハニービーンズに寄る。するとそこには橙灯の常連でもある茗荷谷の町内会長氏が居て、そこで30分ほど会話を楽しむ。先週の日曜日に羽入田さんと会長と私の3人で、「すがものさんま祭」という落語会に出かけたので、その感想なども改めて語り合ったりする。会長は本職が大学教授で哲学者でもあるのだが、かなり厳しいご意見だった。また、私が橙灯に寄ってきたところで、店に「oraho」の山本さんが居たと言ったので、会津の話にもなった。会長は「oraho」に紹介されていた蕎麦屋に行ったそうで、そこの蕎麦をたいそう気に入っておられた。私は会津というと真冬にFASLにお邪魔して、危うく雪の中で身動きがとれなくなりそうになった記憶しかないのだが、そういう話を聞いたりすると行ってみたくもなる。

やっと住処に辿り着くと、母から携帯にメールが入り、学生証が届いたというので、そのまま荷物だけ置いて、実家へ向かう。学生証を手にしたことで、晴れて学割料金の適用を受けることができるようになる。昨日も実家に来たので、今日は長居をせずにすぐに巣鴨の住処へ帰る。

ところで、昨日頂いた栗だが、クックパッドで「おいしい茹で方」を検索して、その通りに茹でてみた。たいへん美味しく茹で上がり、しかも下ごしらえから茹で上がりまで丸一日以上も水に浸けた状態にあるため、皮がすっかり柔らかくなり、剥くのが楽である上に、渋皮がついたまま食べると香ばしくて美味しいということも発見した。外皮の直下にある渋皮はさすがに剥いたほうがよいのだが、実を覆うものは十分に柔らかくなっているので食べるのに何の問題もない。渋皮だけ食べて食べられないことはないが、やはり実と一緒に頂くのが基本のようだ。しかし、水からあげて乾いてしまうと、渋皮はもはや食べることのできる柔らかさを失ってしまう。同じものでも時期を変えることで違った味を楽しむことができるということだ。

小三治独演会

2010年10月23日 | Weblog
今日、小三治のまくらのテーマは水と栗とそれらに絡んだことだった。水に絡んでバリ島の話があり、バリ島に至る話として夕張の話があり、夕張に関連して「幸せの黄色いハンカチ」の話がある。跳躍する話の面白さ、とでも言うのだろうか。マクラを本にまとめて何冊か出ているが、それが漫談とは違うのは、視点が噺家のものだからなのだろうか。

水道水をそのまま飲用できるのは、世界でも11カ国だけなのだそうだ。私は若い頃にあちこち外国を観光したが、土地の水道水を飲んだ経験はあまり無い。それは直近のロンドン生活でも同じだった。初めての土地を訪れると、とりあえず商店街やショッピングセンターを覗いてみるのだが、そこに広大なミネラルウォーター売り場がある場合、その土地は水道水を直接飲まないのだと判断して、飲用水はミネラルウォーターを利用することにしている。この理屈でいくと、ロンドンではミネラルウォーターが1ポンド200円としても日本よりも遥かに安かったこともあり、そのよりどりみどりの水売り場から一番安いハウスブランドの5リットルボトルを買って使っていた。このブログにもある1985年当時のインドでは水売りの屋台があり、そこで喉が渇いているときにはコップ1杯単位で水を買っていた。今から思えば無謀なことだ。しかし、この時を含め過去に3回インドを訪れているが、腹をこわしたことは一度も無い。1984年にオーストラリアを訪れたとき、ちょっとしたもののはずみで民家に転がり込んだことがある。キャンベラという町でのことだったが、その家庭の水道水は白濁していた。それをその家の人たちは何事も無いかのようにコップに入れてそのままゴクゴク飲んでいた。私も飲んでみたが、ビミョウな味だった。

ミネラルウォーターには様々なブランドがあり、飲み比べてみれば味の違いはかなりはっきりしている。ボトルには詳細な採水地情報が記載されていることが多く、いかにも健康的な印象を受ける。しかし、果たして本当にそうなのだろうか。疑えばきりがないが、おそらく多くの人はミネラルウォーターが瓶詰めされるところを確認した上で購入しているわけではあるまい。人間の身体は約7割が水なのだそうだが、どのような水で出来た人であるかによって、人格とか性格が決まったりするのだろうか。そうだとしたら、水だけでなく水分を含んだものすべてについて、少し慎重に選ばないといけないのではないだろうか。

師匠は栗に凝っているのだそうだ。土地によって栗の味が違うという。今まで栗の産地を気にしたことが無かったが、土地が違えば味が違うのは当然だが、土地の個性と品種の個性とを比べたときに、どちらが強いかということも考慮する必要があるのではないか。とはいえ、言われてみて栗の味の違いというものが気になり始めた。全く偶然だが、今日、落語会の帰りに実家へ寄ると、母の友人からおすそ分けで頂いたという栗があり、それを私が頂いた。明日、茹でて食べることにする。

ところで、今日の演目は以下のようなものだった。
柳家三之助 「棒だら」
柳家小三治 「初天神」
(中入り)
柳家小三治 「一眼国」

「棒だら」:開口一番が真打というのは、初めてかもしれない。なんとなく得した気分になってしまう。「棒だら」というのは古い江戸言葉で、酔っ払いを蔑んで言うときに使うのだそうだ。いや、「使った」のだそうだ。明治初期には既に使われいなかったそうで、死語というより化石語だ。また「棒だら」を「棒鱈」と書いて、芋で作った鱈もどきという意味もあるそうだ。冷蔵技術の乏しかった時代は鮮魚は貴重品でもあり、さまざまな代用品があったそうだ。サゲのところで喧嘩の仲裁に入る板前が胡椒を手にしたまま板場から座敷にやってくるが、彼は板場で棒鱈を作っている最中だった、というのが噺の設定でもある。

「初天神」:よく前座噺で使われるネタだが、今日のお目当てはマクラが長いので、噺のほうが前座噺になってしまうことは自然な流れというものだろう。しかし、この人が演ると、そう思って聴く所為もあるのだろうが、噺の厚みのようなものがあって、胸に響く。噺の面白さというのは、物語の内容だけで決まるものではなく、長いとか短いということで決まるものではなく、結局は話し手の力で決まるということがよくわかる。

「一眼国」:サゲが深い。何が常識で何が非常識なのか、何が正しくて何が間違っているのか、実はそういう絶対的な価値尺度というのは存在しないのではないか、ということまで考えようと思えば考えることのきっかけになる。


開演 15:00
閉演 17:40

会場 志木市民会館 パルシティホール

炎の人

2010年10月22日 | Weblog
国立新美術館で開催中の「没後120年 ゴッホ展 こうして私はゴッホになった」を観てきた。ゴッホの絵が好きで、ゴッホの作品をたくさん観たい、という人には多少の不満があるらしい。事実、そういう会話をしながら私の傍らを通り過ぎた老婦人連が何組かあった。

私はゴッホの絵を観たことがある、と思っていた。そして、それは自分にとっては好きな絵ではない、とも思っていた。しかし、こうして彼の画家としての初期の作品から時間を追って眺めてみると、自分が観たと思っていたのは、彼の晩年に近いほうの一部の作品だけだったということがわかった。そして、初期においては私が好きなミレーを彼も好きだったということがわかった。そうしたことを知っただけでも、この展覧会を観に来てよかったと思う。画家、というよりひとりの人間の精神の変遷をその画風の変化から感じ取ることができるような気がするからだ。

絵画も写真も表現であり、当然に表現の主体が存在する。絵画や写真を観るのは、そこに描かれていたり写されていたりする世界を眺めるだけでなく、その世界を創造した思想や哲学にまで思いを馳せる行為だ。その作品の時代背景がどのようなものであり、そこで作家は何を考えていたのか、というようなことを想うのは、自分が年齢を重ねる毎に愉しくなってくる。まして私には絵心というものが無いので、必然的に関心の対象は技巧よりも表現にまつわる物語のほうに向かうことになる。だからゴッホのような著名な作家の作品に、今まで知らなかった背景知識を得て向き合うと、それ以前の印象と現在の印象との対比も愉しむことができる。そこに、作品を観ている自分自身の考え方とか目線のようなものを再発見することもある。美術品だけでなく、物事を見る眼というのは自己と対象との相互作用によって如何様にも変化するものだ。その変化を体験するだけでも嬉しいことである。

東京で普段目にすることのできるゴッホの作品といえば、損保ジャパン美術館の「ひまわり」、国立西洋美術館の「ばら」、ブリヂストン美術館の「風車」くらいだろうか。創価学会系の東京富士美術館というところに「鋤仕事をする農婦のいる家」という作品があるそうだが、ここは訪れたことがない。画家としての活動時期がわずか10年と短く、しかも評価されるようになったのは死後のことなので、明治から昭和初期にかけて日本の洋画界を築いた人々の目に留まることもなく、日本に入ってきた作品が少ないのだろう。おそらく日本でゴッホが注目されるようになったのは、安田火災(現:損保ジャパン)がロンドンのクリスティーズで「ひまわり」を落札し、大昭和製紙の齊藤了英氏がニューヨークのクリスティーズで「医師ガシェの肖像」を落札したバブル期の頃からではないだろうか。

ゴッホというと、自分にとっては同時代でもあるこれらバブル期の作品が思い浮かんでしまうので、バブルの恩恵から縁遠かった私にはゴッホの絵というものに否定的な印象がついて回るのかもしれない。また、そうした高額落札の華々しい報道と共に記憶されていることも、余計にゴッホの晩年の作品が脳裏に刻まれる理由のひとつになっているということもあるだろう。そうした印象を抱えたまま、20年前にドイツのアウグスブルクで通算3ヶ月を過ごした時には、ミュンヘンのノイエ・ピナコテークで「ひまわり」やオーヴェル=シュル=オワーズの風景画を観て、一昨年にロンドンで暮らしていた頃にはナショナル・ギャラリーの「ひまわり」や「アルルの部屋」、コートールドの「花をつけた桃の木々」や耳に包帯を巻いた「自画像」を観ているので、ゴッホは晩年の印象ばかりが強くなって自分の中に定着したように思う。

だからこそ、今回の展覧会で画業初期の作品を観て、初期から晩年に至る変遷を目の当たりにすると、彼の10年の重さのようなものが自然に伝わってくるのである。その変遷の大きさは、絵画についての専門教育を受けずに、27歳という比較的高い年齢で画業の道に入ったことで、短期間に職業画家として自立できるだけのことを吸収せざるを得なかったという切羽詰った状況にも拠るのだろう。しかし、そうしたことを差し引いても、彼の画を描くということに対する並々ならぬ情熱と覚悟とがあったということだろう。その真摯な熱さが彼の作品の背後に渦巻いているようにも見える。

ところで、この展覧会ではクレラー=ミュラー美術館の所蔵品の殆どに同じタイプの額装が施されている。以前は額にまで注意を向けなかったのだが、木工を始めてからは作品そのものと同じくらい額装も気になるようになった。会場での解説によると、ゴッホは自分の気に入った作品にしか額装を施さなかったという。つまり、彼の作品は「売れなかった」というより「売らなかった」のではないだろうか。自分が納得できるものは極めて数が少なく、それが「生前に売れた作品は1点だけ」ということになったのであって、決して評価を受けなかったわけではないのではないのだろう。そう考えると、彼の絵画に対する熱い思いは、「情熱」だの「覚悟」だのという表現を遥かに超えた病的なまでのものではなかったのかと思わずにはいられない。それならば、精神を病んだ晩年の在り様が了解されるというものだ。なるほど、彼は「炎の人」だ。

履修登録

2010年10月21日 | Weblog
大学の履修登録を済ませた。必修科目を選択し、その関連科目を選択したら、それだけでけっこうな数の科目になってしまう。それにしても、今はネットでたいていの事務的なことが済んでしまうので、私が大学生だった頃に比べると、自分の自由になる時間が増えている、はずである。おそらく現実はそうではないのだろう。別に学校の事務だけに限ったことではない。家電製品のおかげでひとつひとつの家事の負担はかつてにくらべれば軽くなっているはずだ。しかし現実にそうした実感があるわけでもない。浮いた手間にかかっていたものがどこに消えるのか、不思議なことに定かでないのだが、消えることは確かなようだ。

忘れえぬもの

2010年10月20日 | Weblog
昨日、「ビックリハウス」のことを書いていて思い出したことがある。あの雑誌には「筆おろし塾」という書道の投稿欄があって、そこで見た作品で何故かいまだに記憶に残っているものがある。
「越谷の冬」
こう書くと、それがどうした、という感じなのだが、書道の半紙にこの文字が並んでいるのを見て、私が埼玉出身である所為もあるのだろうが、妙な衝撃を受けた。
「秩父の夏」
とか
「大宮の秋」
といったものだと、おそらく衝撃はそれほどでもなかったかもしれない。「越谷」という中途半端な感じが、今から思えば良かったのではないかと思う。

ここで言う「中途半端」とは、その言葉から受ける内容が固定できずに浮遊した感じ、というような意味である。東京で暮らしているという前提で語るなら、「越谷」という地名を耳にしたとき、それが近傍であるらしいことはなんとなくわかるけれど、どこだかわからない、という人は多いと思う。お隣の息子さんは越谷の栄光ゼミナールで英語を教えているらしい、とか、同じ部署の寺島さんは越谷に住んでいる、というようなことはあるだろう。それなのに、越谷がどこなのかということはあまり知られていないのではないか。
「ね、越谷ってどこだか知ってる?」
「越谷? 東武伊勢崎線じゃなかったっけ?」
「東武? あぁ、池袋から出てるやつ」
「そりゃ東上線」
「で、どこ?」
近いようなのだが、どこだかわからない、どうでもいい程度のフラストレーション。地名そのものよりも、その地名に纏わる妙な気持ち悪さが、記憶に深く刻まれるのではないかと思う。

だから、観光地として有名な秩父とか、昔のクイズ番組で「埼玉県の県庁所在地は?」という問題で「大宮」という誤答が多いくらいに知名度が高い大宮では、人の感情に訴えるものが弱いので「筆おろし塾」のコーナーには採用されないのである。

例えば、写真では主題となる被写体を画面中央ではなく、上下左右に少しずらした場所にすることで画に奥行きとか動きが生れる。似たようなことが、言葉にもあるのではないだろうか。

「メカノ」の記事に想う

2010年10月19日 | Weblog
偶然、ニッチ市場で営業を続けているCDショップの記事を見つけた。記事のなかの写真にあるゲルニカは私が大学生の頃の音楽ユニットで、あのレコードは見覚えがある。ウィキペデイアのゲルニカの項には記述が無いが、「音版ビックリハウス」にも参加している。私はその「音版ビックリハウス」を持っていたが、何年も前にヤフオクか楽天のオークションで売ってしまった。今から思えば、また聴いてみたい気もするが、カセットテープなので持っていたとしても聴くことができない。確か落札した人の住所は箱根だった。ゲルニカを知ったのは「ビックリハウス」を知ったからで、「ビックリハウス」を知ったのは、通っていた大学の学園祭のイベントだった。大教室を使ったトークショーでパネラーが当時の「ビックリハウス」編集長であった高橋章子、同誌に「ヘンタイよいこ新聞」という投稿コーナーを主宰していた糸井重里、同誌にも参加していて「幻想としての経済」などで話題を呼んでいた栗本慎一郎、あとひとりかふたりパネラーがいたような記憶がある。もちろん、トークショーの内容など全く記憶に残っていないが、面白かったという印象はあって、その後しばらく「ビックリハウス」を買っていたし、単行本として発行された「ヘンタイよいこ新聞」も持っていた。「ビックリハウス」のイベントが池袋西武の屋上で開かれたことがあったが、そこにゲルニカも出演していた。戸川純が美しかったことは今でも記憶に生々しい。そこで高校時代の同級生にばったり会ったことも憶えている。彼は高校時代は生徒会長だったのだが、会長選挙のとき、自分の宣伝ソングを作って選挙戦を戦った。その歌が、忘れようにも忘れられないくらいにしょーもないものだったのだが、そのあまりのくだらなさが功を奏したのだろう。

そんなことはともかく、なぜこの記事が興味を引いたかといえば、ここに書かれていることと似たような話を、以前、ボストンに本社のある会社に就職するときに、面接のなかで私が語ったのを思い出したからだ。自分にとっては初めての転職だったのだが、勤務地は東京でも入社のための面接などはボストンにまで出向かなければならなかった。ボストンまでの往復の航空券とボストンでの宿泊は先方が負担してくれた。当時の勤務先では休暇を取り、時差もあるので3泊5日でボストンまで往復した。ボストンでは就職後に同僚となる人たちから個別に10人ほど面談を受け、ボストン郊外にあるなんとか研究所というところにほぼ終日缶詰にされて心理テストを受けた。その心理テストはアポロ計画で宇宙飛行士候補を選考する際に使われたものが基になっているものだそうで、似たような質問が執拗に繰り返され、それにどこまで根気強く回答を続けられるかというようなものだった。発狂しそうな試験だったが、なんとか通過して転職を果たした。後に転職を重ねてから知ったのだが、このような入社選考は当時の所属長の趣味のようなものだ。欧米企業では人事権は各部門の部門長が掌握しているので、採用方法も部門長が決める。当時、私を採用した上司は、かなりマニアックな人で、要するに変わり者だったのである。私が入社して数ヵ月後に引退されてしまったので、この入社時の面談が彼と話を交わした最初で最後の機会となってしまった。

このとき面談をした同僚のひとりとの会話で、CDショップを例にした商品管理のことが話題になり、彼はPOSシステムの話をしたのに対して、私はそれに反対する意見を語った。この記事のなかで中野氏が語っているようにPOSは在庫を落して商品の回転率を上げるはずのツールだ。確かに、客が買いたいものを心に決めているなら、売れるはずの商品だけを店頭に置いたほうが売り場の利用効率は高いように見えるかもしれない。では、客はいかなる情報を基に買いたいものを決めるのだろうか。「はじめに購買意欲ありき」というのでは、そもそも店舗を構える意味が無いだろう。店頭に並ぶ商品を眺めながら、客は自分自身の音楽歴や友人知人との会話などを思い起こし、「これ聴いてみようかな」という気持ちを起こすのではないか。そのためには、店舗の品揃えは刺激的でなければいけないはずだ。店舗というのは物理的な制約があるのだから、闇雲に品揃えを広げるわけにはいかない。こういう音楽が好きなら、こういうものも気に入るのでは、というようなある程度の誘導や秩序が必要だろう。そのために店員がいるはずだし、店舗そのものの存在意義もあるはずだ。店舗は購買意欲を喚起する場所でなければ商売にならないのである。喚起するには、そのものが売れなくとも、関連する別の商品への需要を刺激するようなものもあるだろう。それは売上情報としては「不良在庫」になってしまうが、「売上」を喚起しているというところまで、果たしてPOSでわかるだろうか。データというのは、利用する側が価値を与えたり見い出したりするものであって、データそのものに価値があるのではない。「売上」とか「利益」という結果だけに目を奪われると、なんのためにその店が存在しているのかという本源的なことが見失われてしまうのではないだろうか。

音楽CDに限らず、実店舗とネット販売との使い分けができていないと思われることが多いように感じる。それは商売をする側に、自分が扱っている商品がどのようなものなのかという知識や認識が欠落しているということではないだろうか。記事のなかで中野氏が例に挙げていた話が示唆に富んでいる。
「…… だって「この魚なに?」って聞かれて「知らん!」と答える魚屋はあり得ないですよ。」
身の回りを眺めれば、その「あり得ない」ことがたくさんある。

これまでに何度か、自分で店をやりたいというようなことを書いた。それは「あり得ない」ことが蔓延している世の中だからこそ、自分の考える世界というものが受け入れられる余地があるのではないかと思うからだ。もし、その店ができたとして、さらにその店の経営が落ち着いたとしたら、その次は、どこかに山を丸ごと買って、その山を使ってやってみたいことがある。妄想は果てしなく広がる。

「RAILWAYS」

2010年10月18日 | Weblog
けっこう突っ込みどころ満載だが、細かいことを抜きにして、全体としては雰囲気の良い作品だ。主人公は私とほぼ同世代。親の介護という事情が無いとしても、自分の人生の着地をどうするか、自然に考えてしまう年頃だ。あくまでスポンサーあっての映画なので、そこは希望の持てる話に仕上げる必要があることは理解できるし、実際にそういう作品になっている。気分良く観終わることができるのだが、観終わって考え始めると、やっぱり違うんじゃないかとの違和感が湧き上がってきてしまう。

百歩譲って、自分が好きなことを仕事にして、家族からの支持も得るとする。しかし、50歳目前で電車の運転手になったとして、定年まで10年か、せいぜい15年だ。運転手に応募するに際して辞めた前の職場では、早期退職優遇制度を利用したので退職金の加算があり、それで住宅ローンの返済は終わったとする。妻も働き、子供も大学を卒業して就職するので、経済的にはさし当たって問題はない。しかし、勤続10年や15年では運転手を辞めたときの退職金はそれほど期待できるものではないだろう。妻の仕事はハーブティー・カフェの経営で、しかも店舗は賃貸のようなので固定費を考えるとそれほど儲かるものでもあるまい。子供は新卒で、勤続10年程度では自分のことで精一杯程度の所得だろう。とすると、運転手を定年退職した後はどうなるだろう。

結局、メーカー勤務から鉄道会社勤務に変ったというだけで、組織依存型の生活であることには変わりはない。勤め人として働くことのできる最後の10年かそこらを好きなことに打ち込むというのも悪くはないだろうが、それで終わればその先が無い。映画のなかでは主人公は実家のある松江で暮らすことになっていて、実家もあれば、自給自足の真似事くらいはできそうな農地もあり、何よりも地縁に恵まれている。一応の設定としては無理がないように見える。しかし、妻のほうも東京で事業を始めたばかりで、ようやく軌道に乗りかかっているような雰囲気だ。それまですれ違いを重ねてきて生じていた所謂「夫婦の危機」を乗り越えたものの、この先も平穏に東京と松江の二重生活が続くわけではあるまい。明るく描かれている物語なのだが、どこかすっきりとしないのは、登場人物の根本的な課題が残されたままになっているからなのだろう。

観終わったときには希望があっても、いざ考え始めると課題が次々に浮かんできて暗澹たる思いに変わってくる。そういう面白さのある作品だ。

崩れゆく街並み

2010年10月17日 | Weblog
子供とふたりで渋谷から青山にかけて歩いた。宮益坂を登って246へ、道なりに青学方面へ向かい、骨董通りに入ってそこから413に折れて根津美術館へ。根津を出て、近くの岡本太郎記念館へ。そこから路地を阿弥陀籤のように表参道へと抜ける。青山アンデルセンで食事をして、表参道を原宿方面へ向かう。途中、表参道ヒルズを覗いた後、神宮前交差点でラフォーレの裏に回って、太田記念美術館に立ち寄る。

昼間はそれほど気付かないのだが、都心はどこでも工事をしている。それは街並みが頻繁に変化するということでもある。青山も例外ではない。すこし時間を置いて訪れてみると、新しい建物が並んでいたり、コインパーキングがあったり、昔あった店がなくなっていたりする。街はそこに生活があるという点で生き物と同じなので、新陳代謝はあって当然だ。しかし、変化にも秩序がないと、癌細胞が増殖するような事態に陥りかねない。

土地建物が私有を前提とし、不動産市場で流通している限り、原則として不動産の所有者が自己所有の土地や建物をどのように使おうと所有者の勝手である。古くからの住宅街でよく見かけることだが、大きな屋敷が売りに出ると、そこを開発業者が購入してマンションを建設したり、小さく分筆して建売住宅が並んだりする。屋敷があった頃には、屋敷森があり、立派な植栽や味わい深い塀があったりして、それなりの佇まいを見せていた一画が、無機質なコンクリートの箱や安普請の小屋が並ぶ薄っぺらな街区に成り下がってしまう。街並みをどう見るかは主観の問題なので、「薄っぺら」とか「成り下がる」という表現はあくまで私の主観に過ぎないことは重々承知しているつもりだし、そこに住んでいる当事者にしてみれば、「薄っぺら」とは感じていないかもしれない。私自身、結婚していた頃に家を建てたが、その土地はもともと大きな屋敷があったところで、それを4分割して売りに出されていたところの一区画を購入したものだ。何を隠そう「成り下がり」の当事者である。こうした土地の細分化や高度利用といった現象は至る所で進行しているので、相続などに際して多額の税金が賦課されるような地域ほど街並みは崩壊しやすくなる。

この6月に訪れた京都の町屋も虫食いのようにコインパーキングがあったり、マンションが建っていた。かつて京都の街並みを維持してきたのは町衆と呼ばれる各地域の有力者たちだったのだそうだが、そうした世話役のような人たちが時代の流れのなかで力を失ったり、後継ぎがなかったり、後継ぎであるはずの人に街並みや都市景観への関心がなかったり、関心があっても維持できる状況にないというようなことなのだろう。

不動産が市場経済のなかで流通するという当然の状況のなかで、街並みを維持管理することは果たして可能なのだろうか。そもそも街並みは維持されるべきものなのだろうか。維持されるべきだとすれば、その目的は何であり、そのことによってどのような便益があり、誰が当事者として維持の責任を負うべきなのだろうか。

結論から言えば、市場経済の下で都市景観を維持管理することはできない。維持管理するためには、市場メカニズムに対し規制をかける必要がある。規制をかけるには、その規制が妥当であるとの承認を利害関係者から受けるべきだろう。果たしてそれは可能だろうか。

現実には建築基準法、都市計画、景観条例、景観法など様々な規制が存在する。いずれも防災や文化資源の維持という目的での法規制だ。防災目的は別にして、守るべき景観とそうではない景観を分ける基準は何だろうか。特定の景観を取り出して、そこだけを守り抜くというのは、ある種の美容整形術のようにも思われて、かえって奇異な印象を受けることもあるだろう。思想や哲学のない中途半端な規制なら、規制などしないほうが公共の利益に即しているということになるのではないか。形あるものは必ず滅ぶ。結局はそれが自然の摂理なのだろう。