熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記 2016年5月

2016年05月31日 | Weblog

1 竹内てるよ 『静かなる夜明け 竹内てるよ詩文集』 月曜社

ブックオフ送料対策品。この人の詩は不思議だ。かなり悲惨な様子を詠んでいるのに、湿度を感じない。いろいろあったなかを生き抜いた人が持つ強さが言葉に力を与えているのは確かなのだろうが、それだけではない気がする。

 

2 竹内てるよ 『わが子の頬に』 たま出版

一読したところ際物のようにも感じられるが、おそらく書いた本人にとっては紛れのない現実なのだろう。しかし、同じ著者の本のなかでこの本を最初に読んだとしたら、『海のオルゴール』に感動できかたかどうかわからない。

 

3 竹内てるよ 『いのち新し』 たま出版

この出版社のカラーなのだろうが、『わが子の頬に』と同類の作品。

 

4 土屋耕一(著) 和田誠/糸井重里(編) 『土屋耕一のことばの遊び場。』 ほぼ日ブックス

「ほぼ日」でこの本のことが言及されている日があり、ブックオフで検索したら中古があったので購入した。和田が編集した『回文の愉しみ』と糸井が編集した『ことばの遊びと考え』の2冊で構成されている。ことばというものに素朴な興味があり、いつか俳句や短歌を作ってみようと思いながら何もせずにいる。落語に出かけるのもことばへの興味の一環とも言えなくはないし、たまたま落語のまくらで聴いた歌会始のことに触発されて、2014年9月に歌会始に応募したこともあった。その時に買い揃えた書道の道具は、それ以来一度も使われることなく押入れで眠っている。今年の正月に妻の実家に帰省した折に、義父の手になる文机をいただき、いよいよ書くことに関する物理的な準備は完璧なまでに整ってしまった。しかし、…

土屋耕一という人のことは知らなくても、彼が作ったコピーのほうは少なくとも私の世代ならなにかしら知っていると思う。それくらいコピーライターとしては活躍した人だ。その人がことばについて語ったものを集めたのが本書だ。見た目はカジュアルだが、書いてある内容はかなりハードルが高い。また、書き手もやさしく書こうとは思っていないようだ。そういうものを読んでもくじけないところが、今の私のことばに対する興味の強さである。2014年秋から2015年冬にかけて暦の講座に通ったが、当時のテキストや歳時記を引っ張り出して、まずは毎日のことをじっくり観察してみよう、などと思い始めた。

それで、この本だが、『ことばの遊びと考え』の「表4だよ」という文章が特に印象的だった。

 

5 モンテーニュ(著) 原二郎(訳) 『エセー』 1, 2 岩波文庫

ずっと読んでみようと思っていた古典のひとつ。岩波文庫版だと全6巻で、全巻読み通すことができるかどうか、まだわからない。少なくとも第1巻と2巻に関しては読んでよかったと思う。

かねてより、自分が生きている時代の変化がそれ以前とは異質のものであるかのような言説に違和感を覚えていた。確かに40数億年の地球の歴史のなかで人類のそれは原人を含めてもわずかに数万年でしかない。歴史が浅いのだから変化のボラティリティが大きいのは当然のことであろうし、それを大げさにとやかく言い立てることに馬鹿っぽさを感じてしまうのである。また、自然の営みという文脈のなかに人類というものを置いてみれば、その有り様の変化というのは唐突なものではなしに、コアとなるものが在る上での枝葉末節の激しい変化であるように漠然と感じている。つまり、「転換点」だとか「革命的」というような形容は傍観者的立場の器の小ささ故の認識でしかないと思うのである。

モンテーニュが生きた時代は16世紀、『エセー』が刊行されたのは1580年だそうだ。それが今でもこうして手軽に読むことができるという事実こそが、人間の有り様に大きな変化のない証拠だろう。当時は今我々が手にしているようなテクノロジーは殆どなかってあろうし、そうしたものの上に立つ文化や文明とは隔絶した時代である。にもかかわらず、そこで語られる人間に対する洞察に何ら違和感を覚えない。

以下、1巻と2巻の備忘録。

あんぐは欲望がかなえられても満足しないが、知恵は現にあるもので満足し、けっして自己に不満を持たない。(1巻 26頁)

人は誰でも、(死ねば)自分が生命から完全に引き離され投げ出されるのだと信じない。そして、無意識のうちに、自分の後に何かが残ると考えて、投げ捨てられた死体から自分を解き放つことをしない。(1巻 28頁)

われわれはわが身に降りかかる不幸については、どんな理由でもでっちあげる。(1巻 40頁)

われわれはある作品を評して、油と灯芯の匂いがする、というが、それは、大部分が努力だけでできた作品の中には、何かしら生硬でぎすぎすした調子が刻み込まれているからである。だが、それだけでなく、うまい作品を作ろうと心をつかい、その企てのために緊張しすぎることが、その仕事を痛めつけ、破壊し、妨害する。(1巻 72頁)

われわれの考えが事物の価値を左右するのだということは、われわれが多くの事物において、それ自体のもつ価値だけを見ることをせずに、それらがわれわれに対してもつ価値を考慮することから明らかである。そして、われわれはそれらの品質や有用性ではなく、ただそれらを獲得するのに払う苦労だけを見る。まるで、それが事物の本質の一部であるかのように。そして、事物がわれわれにもたらすものではなく、われわれが事物にもたらすものを価値と呼ぶ。このことから、私はわれわれが出費について非常な節約家であることに気がつく。出費は重ければ重いだけそれだけわれわれの役に立つのである。われわれの考えは、出費が不当に少なく評価されることをけっして許さない。買値がダイヤモンドに価値をつけ、困難が徳に、苦痛が信仰に、苦さが薬に価値をつけるのである。(1巻 110頁)

運命はわれわれい幸福も不幸も与えない。ただその素材と種子を提供するだけだ。それを、それよりも強いわれわれの心が好きなように変えたり、用いたりする。われわれの心がそれを幸福にも不幸にもする唯一の原因であり、支配者なのである。(1巻 118頁)

奇蹟は、われわれが自然について無知であるから存在するのであって、自然の本質によって存在するのではない。(1巻 210頁)

徳を求め過ぎると、賢い人も狂人といわれ、正しい人も不正な人と呼ばれる。(1巻 383頁)

欺瞞の本来の領域と主題は人の知らない事柄の中にある。なぜなら、第一に、不思議であるということ自体が人に信用を与えるからである。次に、そういう事柄は通常の理性の埒外にあるために、反駁の方便を与えないからである。だからプラトンも、「神々の本性について語るほうが人間の本性について語るよりもずっと人を承服させやすい。なぜなら、聴衆の無知が、隠れた事柄を論ずるのに都合のよい広い舞台とあらゆる自由を与えてくれるからだ」と言っている。(2巻 9頁)


舟徳

2016年05月22日 | Weblog

「舟徳」という落語がある。四万六千日の日の或る船宿を舞台にした噺だ。江戸の落語には隅田川の舟運が登場する噺がいくつかある。今は隅田川というとコンクリートの堤防で仕切られた大きなドブのようだが、昔はオツなものだったのだろう。人々に愛されていた風景であればこそ、噺に語られるのである。

娘と三井記念美術館で北大路魯山人展を観て、昼飯でもいただこうと日本橋交差点方面へ日本橋を渡ったところに遊覧船の受付のテントが出ていた。橋からテントのほうに降りていくと、10分後に出る遊覧船がある。昼飯は後回しにして乗ってみようかということになった。

船は定員12名の小さなもので、乗客は我々を含めて6名、船頭とガイドが各1名。日本橋の袂、野村證券本社ビル下を出て、日本橋川を下り、隅田川を上る。永代橋はかつての勤務先の近くなのでしょっちゅう目にしていたが、いつ見ても、どこから見ても美しい橋だと思う。隅田川はその昔は大川と呼ばれていたそうだが、こうして小さな船で川を行くとなるほど大きな川だと実感する。清洲橋も美しい姿だ。ちょうど橋の中央にスカイツリーが重なるのも面白い風景。清洲橋を過ぎると大きく西へ蛇行する。

両国橋を過ぎたところで船は隅田川を離れ神田川へと入る。隅田川から神田川へ上ったすぐのところに架かるのが柳橋。この界隈には料亭が並んでいたそうだが、今残るのは亀清樓だけだ。山口瞳の『行きつけの店』にこんな一節がある。

小泉信三先生は、隅田川の川開きの日に、桂文楽、古今亭志ん生、三遊亭円生の三人を柳橋亀清樓へ招んで落語を聞き、みんなで花火を楽しまれたという。そのとき、志ん生は大津絵を歌った。すると、小泉先生は、いつも涙を流されたそうだ。風の強い寒い日に、火消しの女房が出かけてゆく夫の身を案ずるという歌であって、その歌いだしは「冬の夜に風が吹く、…」である。まことに哀れ深い歌であるが、これはどうしても志ん生でなくてはいけない。(新潮文庫 72頁)

私も行きつけの店というものをいくつか持ち、家族や親しい友人といっしょに贔屓の芸人を呼んでオツな遊びをしてみたい。果たしていまからそんな身分になれるものかどうかわからないが、希望を述べるだけならタダでできる。目下の現実は、行きつけの店などと公言できるようなところはなく、呼びたいような芸人もいない。尤も、芸を語るに足る知性も感性も持ち合わせていない。きちんと生きてこなかったということだ。今更どうしょうもないが、ただ諦めて開き直るというのではなく、いけなかったと思ったらいけなくないようにするだけのことだ。行きつけの店を開拓しようとか、贔屓の芸人を見出そうと言っているのではない。「店」とか「芸人」に象徴されるような自分自身の関係性をきちんと構築しようということだ。何ができるわけでもないが、たとえ小さなことでもできることを重ねていく。それよりほかにどうしょうもない。

柳橋から浅草橋にかけては屋形船が多数係留してあるが、そこを過ぎるとコンクリートの壁のような岸が続く。昌平橋の北側を走る総武線の松住町架道橋は、毎日の通勤のときにも目にしているのだが、いつ見ても姿の良い橋だと思う。神田川橋梁とのコンビネーションも良い。丸ノ内線の神田川橋梁は、橋としてはどうということのないものなのだが、地下鉄が通るというところに値打がある。地下鉄がポッと地上に出たかと思うと橋を渡って川を越え、またトンネルに戻っていく、というのがなんとなく楽しい。その橋を船で潜るのがさらに楽しい。

船は神田川から日本橋川へと入る。川は一橋まで首都高5号線、その先も首都高環状線が蓋をしたような形になっている。江戸城の古い石垣があったり、川鵜が水に潜って魚を獲る風景が楽しめたりというようなことはあるものの、風景としては今ひとつだ。それでも面白かったという満足感を胸に日本橋に戻ってきた。


心地よい疲労

2016年05月21日 | Weblog

夜、家路での電車で、向かいの席の人が財布を広げたところで眠りに落ちてしまった。たまに財布から小銭が転がり落ち、その度に転がっていった先の人が小銭を持って来る。そのときは寝呆けながらも礼を言って小銭を受け取り財布に収めるのだが、また直ぐに眠りに落ちる。そんなことを繰り返しながら20分近くが経ち、私は電車を降りてしまったが、その後どうなったのだろう?

よく電車やバスの中で寝るのは日本人くらいだ、などというのを耳にする。昨年、アウグスブルクに遊びに行ったとき、彼の地の路線バスの車内で爆睡している若い女性がいた。眠りは人間共通の生理現象なので、事情が許せば洋の東西を問わず人は眠るのだ。公共交通機関の車中で居眠りができるというのは、やはりそれだけ安全な土地なのだと思うのである。それは、美しい姿とは言えないが、安全であるということは今や希少価値であり自慢してもよいことかもしれない。尤も、いつまで寝ていられるものなのか、心もとない気もするが。


晩年の心得

2016年05月20日 | Weblog

今日のニュースで柳家喜多八が5月17日に亡くなったことを知った。4月30日に横浜にぎわい座での落語教育委員会を聴いたばかりだったので、少なからず衝撃を受けたものの、ここ半年ほどの間に首から下が顕著に小さくなっていたので、近々こういうことになるかなとは思っていた。足の具合が良くないことを知ったのは昨年10月24日の三田仏教伝道センターでの白酒との二人会だった。それでもこの時は這うようにして高座に上がっていた。ちなみにこの時の演目は「寝床」と「首提灯」だった。その後、喜多八を聴いたのは今年3月21日の国立名人会と4月30日の教育委員会だ。名人会では歩くことがままならないようで、高座の前後に幕を下ろして歩けない状況を客に見せないようにしていた。口跡は教育委員会でも冴えていたが、それでも三田、国立、にぎわい座と回を追う毎に身体が小さくなっていた。そういう変化がはっきりわかるようになるとお迎えが近いということなのだろう。ちなみに演目は名人会も教育委員会もともに「やかんなめ」。もうこの人の噺を生で聴くことができないと思うと、とても寂しい。

自分もいつお迎えが来ても不思議のない年齢になっている。少し前から意識しているのは、なるべく後悔しないように日々を送ることだ。見たいことを見、聴きたいものを聴き、やりたいことをやる、ということを事情の許す限りやっていきたい。そして清々とした気持ちで永遠の眠りに就きたい。現実は、生活の瑣末なことに心を砕く愚から脱することができず、なかなか清々とはできないのだが、少なくとも志はしっかりと持っておきたい。

喜多八師匠のご冥福をお祈りする。合掌。

 

4月30日 落語教育委員会 柳家喜多八・三遊亭歌武蔵・柳家喬太郎 三人会

  三遊亭歌太郎「片棒」

  柳家喬太郎「任侠流山動物園」

  柳家喜多八「やかんなめ」

  三遊亭歌武蔵「胴切り」

   横浜にぎわい座

   開演 17:00 終演 19:10


実は親分

2016年05月05日 | Weblog

昨日、東京都美術館で若冲展を観た後、せっかくなのでパンダを観に上野動物園に立ち寄った。なにが「せっかく」かというと、4月30日に聴いた落語教育委員会に遡って説明しなければならない。その会で喬太郎が「任侠流山動物園」を演ったのである。白鳥が作った新作なのだが、噺の中では上野動物園を仕切っているのはパン太郎親分ということになっている。人間の観客が広く共有しているであろうイメージに反して、その人間の観客の人気が権力の裏付けとなって動物たちの間で権勢を享受しているのがパンダである、ということなのだ。言われてみれば、なるほどと思う。改めて権力者のご尊顔を拝謁して、その権勢にあやかろうというセコイ了見で動物園を訪れた。パンダ舎の入り口には見物客の行列ができていて、それがゆっくりとパンダ舎のなかにむかって流れている。大きなガラスの壁を前にして観客が鈴なりになっている。たまたまこのときはお食事の時間で、飼育係が所定の場所に笹を置いて回っていた。準備が整うとパンダが登場する。ガラス越しの観客の姿などを気に留める様子もなく、悠々たる様子で笹を食べ始める。「任侠」の噺の印象がまだ強い所為もあるのだろうが、その姿に親分の貫禄を見る思いがした。


並んでまで見る

2016年05月04日 | Weblog

昨夜からの強い風と雨が朝まで残っていた。風雨が収まってきた頃を見計らって東京都美術館で開催中の若冲展を観に出かけてきた。

特に若冲が好きというわけでもないのだが、今回は「動植綵絵」30幅が全て展示されるという滅多にない機会なので拝んでこようと思ったのである。「動植綵絵」全幅を観るのは2007年に京都の相国寺承天閣美術館での「若冲展」以来だ。初めて観たときはさすがに圧倒された。今回は前回以上に観客が多い所為もあり、また、そのために絵の下のほうが見えない所為もあり、圧倒されるというほどのことはなかったが、観て嬉しいという気分にはなった。この人の絵は眺めていて嬉しくなるのである。

世に絵画は星の数ほどあるけれど、作品や作家によって嬉しくなったり、感心したり、面白いと思ったり、眼とか心が刺激されることがある。私は絵の技巧的なことは全くわからないので、絵を前にして何かを思うか、感じるか、ただそれだけである。若冲の作品が嬉しいのは、夢見心地にさせてくれるからだろう。例えば「動植綵絵」は緻密に描かれているが、緻密であることではなく、緻密に描く姿勢とか意志といったものの向こう側にあるものが作品を通じて観る側を刺激するのだと思う。だから、緻密であることは二の次で、伏見人形であっても、大描きされた野菜であっても、それを前にすればやはり嬉しいと感じる。

行列に並んでどうこうするというのは嫌いなのだが、今日は嬉しくなることが予見できたので、列に並ぶことさえも嬉しく感じられた。

 


「休む」ということ

2016年05月03日 | Weblog

今では「休む」ことが当然の権利のように語られている感を受けるのだが、本当にそれは「権利」なのだろうか?例えば職人に休日というものはない、と言われる。農業だって自然相手なのだから、人間の都合で勝手に休むわけにはいかないだろう。一方で、昨今しばしば話題になるバスやトラックの運転手のように十分休養を取って体調を整えて仕事に臨んでもらわないと深刻な不都合が生じる類の職業もある。当然といえば当然だが、生活のサイクルは人それぞれの状況によって様々で、一律に日に三食とか、週休ン日とか、労働時間の規制とか、敷かれるものではないはずだ。

妻が連休に普段の週末よりも少し遠くに遊びにでかけたいという。一昨年の5月の連休には遠山記念館を訪れ、昨年は鎌倉にでかけてきた。ささやかな遊びである。今日は益子に出かけてきた。当初は静岡に行って、県立美術館と芹沢介美術館を見てこようというような会話をしていたのだが、天気予報が芳しくなく直前までぐずぐずしていたら新幹線の切符を取り損なってしまったので、在来線を乗り継いで行ける範囲でということで益子になった。何か目的があっての益子ではないので、経路などは特に考えていなかった。

後段に益子までの往復について記載するが、道中の車窓に広がる田畑ではどこも農作業の真っ最中であった。田圃には綺麗に苗が植えられ、田植機を操作する人の姿がぽつぽつと見える。畑も手入れがされていて、ところどころに作業中と思しき人影が見える。そういうなかをいかにも行楽客という風情の人々で混み合った列車が走り抜けるのである。そういう風景をなんとなく面白いと感じた。

別に休日だからといって遊びにでかけなければならないわけではないのだが、そうしないと家庭人としての義務不履行であるかのような空気が漂う家庭というのはあるだろう。遊びたい人は事情の許す範囲内で遊べばいいだけのことで、働きたい人は誰に気兼ねすることなく働けばいいだけのことだと思うのだが、世間では何事も「管理」しないと気が済まない人たちが要所要所にいて、労働時間の管理だとか休日取得を強制するかのような仕組みを作りたがる。私の職場も主に不正行為防止という観点から、職種によって連続5乃至10営業日の休暇取得が義務付けられている。

休みというのは心身を休めることだと思うのだが、義務付けられたり強制されたりする「休み」は果たして「休み」なのだろうか?そういう「休み」があることが生活の豊かさなのだろうか?

益子では陶器市の真っ最中で、たいへん賑わっていた。自分が陶芸をやっているのに、陶器市に並ぶ作品には全くと言っていいほど興味を覚えなかった。ところどころで営業中の店や屋台をひやかしながら、そういう雑踏を通り抜け、益子参考館を訪れた。陶器市の賑わいが嘘のように静かな空間が広がっていた。この空間に出会うことができただけで、今日は益子まで出かけてきて本当によかったと思えた。

ところで、今日の道中だが、自宅から益子までの経路をネットで検索をしてみたら、秋葉原から高速バスがあるというので、それに乗れたら乗ろうということになった。そのバスは予約を受けるということはせずに先着順で乗車するとのことなので、普段よりも早起きをして出かけた。満員で乗れなれけば、そのとき別の手段を考えることにした。

自宅最寄りの駅を7時31分に出る電車に乗って市ヶ谷に行く。
市ヶ谷から8時04分発のJR総武線各駅停車に乗り、秋葉原には8時13分に着いた。ホームから地上階へ降りる途中、高速バス乗り場に長蛇の列ができているのが見えた。念のため、その列が益子行きのバスの列であることを確かめ、列の後ろに並んでみた。程なくバス会社の人が臨時でバスの手配中であること、そのバスが到着するのが9時過ぎになる見込みであることを、大きな声で説明して回ってきた。ちょうど秋葉原なので、つくばエクスプレスに乗ってみることにした。以前、仕事でつくばへ出かけて帰社する際に利用して、その「エクスプレス」感に感心したので、妻にそのことを話して乗ることにしたのである。

秋葉原発8時30分の快速に乗り、守谷に9時03分到着。
守谷からは関東鉄道常総線に乗り換え、9時11分発の水海道行き(2両編成)に乗る。
水海道で9時23分発の列車(1両編成)に乗り、下館に10時13分到着。

関東鉄道に乗るのは何年ぶりだろうか。昔、仕事でキヤノンを担当していたことがあり、水海道にあったキヤノンアプテックスに何度かお邪魔した。当時の勤務先を辞めたのが1998年9月で、キヤノンアプテックスのほうも2003年に同じキヤノンの子会社であったコピアと合併してキヤノンファインテックになっている。常総線は車体のカラーリングは変更されていたが、車体自体は当時と変わっていない気がした。相変わらずのディーゼルカーで、しかも水海道で乗り換えた列車は1両編成で、なんだか妙に嬉しかった。

下館からは真岡鐵道に乗り換える。蒸気機関車が牽引する特別列車があり、ホームには長蛇の列ができていたが、入線していた10時17分発の茂木行きに乗る。乗客が多くて発車が遅れているようだったが、単線で途中2回すれ違いのための待ち合わせがあったので、益子に着く頃には定刻になったのではないだろうか。11時過ぎに益子に着いたが、料金の支払いの順番待ちもあり、初めて下車する駅の物珍しさもあり、駅構内でしばらく時間を費やす。関東鉄道はスイカやパスモが使えるのだが、真岡鐵道のほうはそういうものが使えず現金決済で下車の際に支払うので、今日のように乗客が集中すると臨時の窓口を設けても多少時間がかかることになる。これは仕方がないと思う。

益子からの帰りはバスで宇都宮に出ることも考えないではなかったが、道路の渋滞が酷かったので真岡鐵道を利用することにした。益子駅には15時少し前に着いた。ちょうど15時01分発の下館行きSL列車がある。出札の人に尋ねたところ、500円の追加料金で乗車可能とのことだったので思いがけなく蒸気機関車が牽引する3両編成の列車に乗車することになった。この列車は一部の駅を通過して15時56分に下館に到着した。下館からは以下の経路だ。

下館発15時59分発JR水戸線普通列車小山行きに乗り、小山に16時20分到着。
小山発16時33分発JR上野東京ライナー熱海行きに乗り、赤羽に17時39分到着。
赤羽発17時42分発JR埼京線新木場行きに乗り、新宿に17時57分到着。
新宿発18時07分発京王線準特急高尾山口行きに乗り、途中各駅停車に乗り換えて18時半過ぎに自宅最寄駅に到着。