1 竹内てるよ 『静かなる夜明け 竹内てるよ詩文集』 月曜社
ブックオフ送料対策品。この人の詩は不思議だ。かなり悲惨な様子を詠んでいるのに、湿度を感じない。いろいろあったなかを生き抜いた人が持つ強さが言葉に力を与えているのは確かなのだろうが、それだけではない気がする。
2 竹内てるよ 『わが子の頬に』 たま出版
一読したところ際物のようにも感じられるが、おそらく書いた本人にとっては紛れのない現実なのだろう。しかし、同じ著者の本のなかでこの本を最初に読んだとしたら、『海のオルゴール』に感動できかたかどうかわからない。
3 竹内てるよ 『いのち新し』 たま出版
この出版社のカラーなのだろうが、『わが子の頬に』と同類の作品。
4 土屋耕一(著) 和田誠/糸井重里(編) 『土屋耕一のことばの遊び場。』 ほぼ日ブックス
「ほぼ日」でこの本のことが言及されている日があり、ブックオフで検索したら中古があったので購入した。和田が編集した『回文の愉しみ』と糸井が編集した『ことばの遊びと考え』の2冊で構成されている。ことばというものに素朴な興味があり、いつか俳句や短歌を作ってみようと思いながら何もせずにいる。落語に出かけるのもことばへの興味の一環とも言えなくはないし、たまたま落語のまくらで聴いた歌会始のことに触発されて、2014年9月に歌会始に応募したこともあった。その時に買い揃えた書道の道具は、それ以来一度も使われることなく押入れで眠っている。今年の正月に妻の実家に帰省した折に、義父の手になる文机をいただき、いよいよ書くことに関する物理的な準備は完璧なまでに整ってしまった。しかし、…
土屋耕一という人のことは知らなくても、彼が作ったコピーのほうは少なくとも私の世代ならなにかしら知っていると思う。それくらいコピーライターとしては活躍した人だ。その人がことばについて語ったものを集めたのが本書だ。見た目はカジュアルだが、書いてある内容はかなりハードルが高い。また、書き手もやさしく書こうとは思っていないようだ。そういうものを読んでもくじけないところが、今の私のことばに対する興味の強さである。2014年秋から2015年冬にかけて暦の講座に通ったが、当時のテキストや歳時記を引っ張り出して、まずは毎日のことをじっくり観察してみよう、などと思い始めた。
それで、この本だが、『ことばの遊びと考え』の「表4だよ」という文章が特に印象的だった。
5 モンテーニュ(著) 原二郎(訳) 『エセー』 1, 2 岩波文庫
ずっと読んでみようと思っていた古典のひとつ。岩波文庫版だと全6巻で、全巻読み通すことができるかどうか、まだわからない。少なくとも第1巻と2巻に関しては読んでよかったと思う。
かねてより、自分が生きている時代の変化がそれ以前とは異質のものであるかのような言説に違和感を覚えていた。確かに40数億年の地球の歴史のなかで人類のそれは原人を含めてもわずかに数万年でしかない。歴史が浅いのだから変化のボラティリティが大きいのは当然のことであろうし、それを大げさにとやかく言い立てることに馬鹿っぽさを感じてしまうのである。また、自然の営みという文脈のなかに人類というものを置いてみれば、その有り様の変化というのは唐突なものではなしに、コアとなるものが在る上での枝葉末節の激しい変化であるように漠然と感じている。つまり、「転換点」だとか「革命的」というような形容は傍観者的立場の器の小ささ故の認識でしかないと思うのである。
モンテーニュが生きた時代は16世紀、『エセー』が刊行されたのは1580年だそうだ。それが今でもこうして手軽に読むことができるという事実こそが、人間の有り様に大きな変化のない証拠だろう。当時は今我々が手にしているようなテクノロジーは殆どなかってあろうし、そうしたものの上に立つ文化や文明とは隔絶した時代である。にもかかわらず、そこで語られる人間に対する洞察に何ら違和感を覚えない。
以下、1巻と2巻の備忘録。
あんぐは欲望がかなえられても満足しないが、知恵は現にあるもので満足し、けっして自己に不満を持たない。(1巻 26頁)
人は誰でも、(死ねば)自分が生命から完全に引き離され投げ出されるのだと信じない。そして、無意識のうちに、自分の後に何かが残ると考えて、投げ捨てられた死体から自分を解き放つことをしない。(1巻 28頁)
われわれはわが身に降りかかる不幸については、どんな理由でもでっちあげる。(1巻 40頁)
われわれはある作品を評して、油と灯芯の匂いがする、というが、それは、大部分が努力だけでできた作品の中には、何かしら生硬でぎすぎすした調子が刻み込まれているからである。だが、それだけでなく、うまい作品を作ろうと心をつかい、その企てのために緊張しすぎることが、その仕事を痛めつけ、破壊し、妨害する。(1巻 72頁)
われわれの考えが事物の価値を左右するのだということは、われわれが多くの事物において、それ自体のもつ価値だけを見ることをせずに、それらがわれわれに対してもつ価値を考慮することから明らかである。そして、われわれはそれらの品質や有用性ではなく、ただそれらを獲得するのに払う苦労だけを見る。まるで、それが事物の本質の一部であるかのように。そして、事物がわれわれにもたらすものではなく、われわれが事物にもたらすものを価値と呼ぶ。このことから、私はわれわれが出費について非常な節約家であることに気がつく。出費は重ければ重いだけそれだけわれわれの役に立つのである。われわれの考えは、出費が不当に少なく評価されることをけっして許さない。買値がダイヤモンドに価値をつけ、困難が徳に、苦痛が信仰に、苦さが薬に価値をつけるのである。(1巻 110頁)
運命はわれわれい幸福も不幸も与えない。ただその素材と種子を提供するだけだ。それを、それよりも強いわれわれの心が好きなように変えたり、用いたりする。われわれの心がそれを幸福にも不幸にもする唯一の原因であり、支配者なのである。(1巻 118頁)
奇蹟は、われわれが自然について無知であるから存在するのであって、自然の本質によって存在するのではない。(1巻 210頁)
徳を求め過ぎると、賢い人も狂人といわれ、正しい人も不正な人と呼ばれる。(1巻 383頁)
欺瞞の本来の領域と主題は人の知らない事柄の中にある。なぜなら、第一に、不思議であるということ自体が人に信用を与えるからである。次に、そういう事柄は通常の理性の埒外にあるために、反駁の方便を与えないからである。だからプラトンも、「神々の本性について語るほうが人間の本性について語るよりもずっと人を承服させやすい。なぜなら、聴衆の無知が、隠れた事柄を論ずるのに都合のよい広い舞台とあらゆる自由を与えてくれるからだ」と言っている。(2巻 9頁)