山崎努『俳優のノート』文春文庫
演劇や演技に興味があるわけでもないのに、愉快に読了した。読んでいて落語のことを思った。演劇は書下ろしのようなものも勿論あるだろうが、所謂古典とか定番のような演目も少なくないはずだ。シェークスピアのような外国の話だと言葉そのものの解釈以前に文脈や行間の解釈が翻訳者の世界観によっても左右されるというようなことがあるものの、ストーリーの全体像については長い歴史を通じて定着している型のようなものがあるだろう。落語も古典と呼ばれるものは大まかな展開からサゲに至るまでほぼ決まった型のようなものがある。観客はその全体像を承知の上で演者の芝居や噺を観たり聴いたりするのである。演劇のほうのことは知らないが、落語なら同じ噺が演者によって面白かったりそうでもなかったりするのは当たり前のことで、同じ演者によっても毎回同じではないし、どこで聴くかによっても違う。場所については寄席による客層の違いのようなものは当然あるのだが、メディアに記録されたものを聴く場合でも、自分のほうの心持によって楽しめたりそうでもなかったりするものである。メディアに記録したものが流通するということはあるにせよ、基本はライブだ。一回こっきりの出会いである。後には何も残らない。それで商売をするのである。こう考えると、そういうものに金を払おうというのは大胆なことだし、そういうもので生計を立てようというのは無謀なことだ。しかし、現実にそういうものが成り立っているのである。それが人間の偉大さというものだと思う。
以下、本書のなかから備忘録的引用。
言葉と言葉の間に余計な装飾がないから、「飛躍」できるのだ。(14頁)
四十過ぎるとな、友達がいなくなる(33頁)
困ったことに人間は、この唯我独尊の完全なナルチシズムの状態を生涯忘れることができない。(72頁)
手がかりを増やすことが役の人物に近づくことだと思ってしまう。それは間違いなのだ。(208頁)
芝居はビデオには映らない。(281頁)
言うまでもなく守りに入ったら死んだも同然である。(296頁)
大切なものは自分の日常にある。(333頁)
目の前にある仕事を一つ一つ根気よくやって行くと、いつの間にか出来上がっているんだ。(340頁)
田村隆一(語り)、長薗安浩(文)『言葉なんかおぼえるんじゃなかった 詩人からの伝言』ちくま文庫
ブックオフで購入。いかにも古本という汚い本。しかし、これだけ汚いと書き込みをするのに抵抗がないから、面白い本は古本のほうがいい。ただ、面白いかどうかは読んでみないとわからない。
この本も『柔らかな犀の角』で取り上げられていた。今、通信教育で俳句を勉強しているのだが、詩そのものには興味はない。詩が存在することには興味がある。これはいったい何なんだ、と。俳句というものを習ってはじめて知ったのだが、俳句は特定の個人へ宛てたメッセージだそうだ。おそらく短歌もそうだろう。詠み手と読み手の間に共有するものがなければ、わずかばかりの言葉の連なりは意味を成さない。そりゃそうだ。芭蕉とか子規とか「俳人」として語り継がれている人たちがいて、その作品が「俳句」という文学ジャンルを形成しているのは、かれらの作品が特定の相手を想定しながら、その相手を超えて多くの人々にも伝わる普遍性を持っているからなのだろう。俳句は説明的であってはならず、かといって単純な単語の羅列でも俳句とは言えない、らしい。修辞や言葉の在庫の多寡だけでは俳句の良しあしにはつながらない。俳句に限らず、言葉にはそれを伝える先がなければ言葉として成り立たないのである。言葉で商売ができる人というのは、詩人だろうが小説家だろうがジャーナリストであろうが、特定を超えた先にまで伝えることのできる何かを常に持っている人、ということになる。世に「文筆業」と言われる商売の人がいるが、圧倒的大多数はあっという間に世間から忘却される。当然だ。俳句を習ってみて、そういう当たり前のことを知り、目から鱗が落ちる思いだ。
ところで、本書で線を引いた箇所から備忘録的に抜き書きをしておく。
醜い真実より、美しい嘘。(77頁)
自分が実際に経験した辛いこと、痛いこと、面白いことを素直に次の世代に伝えるのが、教養なんだよ。いろんな本から引用してしゃべることを、ぼくは教養と思っていない。(80頁)
手紙ってのは、思いを伝えるのに向いているんだ。まあ、そのためには言葉と字が大切になってくる。自分の思考や感情を表現するにふさわしい言葉を識らなけりゃ、一文字だってペンは進まない。(98頁)
便利さの追求、進歩がすべてという強迫観念から生まれた技術では、モジリアニやゴッホの作品を真似することはできても、生み出すことはできない。(101頁)
Common Senseという言葉がある。常識、良識と訳されるけど、このSenseがある部分で一致しないと、共同体は成立しない。(187頁)
会話が存在しない。つまり、人間関係ができない。そこには何が残る? 孤立した子どもと会話も人間関係もできない孤立した大人が残るんだよ。(218頁)
基本的に、人に勇気を与えないものは芸術じゃないんだから。(251頁)
長薗安浩『あたらしい図鑑』ゴブリン書房
小説は滅多に読まないのだが、『柔らかな犀の角』での記述に惹かれて中古本を購入。もちろん作者の筆力によるところが大きいのだろうが、文字が大きいことにも大いに助けられ、一気に読了。本作に登場する「村田さん」という背の高い老人は田村隆一をモデルにしているのだそうだ。5月から7月までという短い間の中学一年生の少年と老詩人の交流が描かれている。その村田さんが主人公の少年にスケッチブックをプレゼントし、「もやもやして言葉にならないならないもの」をそこにスクラップすることを勧める。しばらくあって、少年は自分が作った5枚のスクラップを村田さんに見せる。それを見た村田さんが少年に語る言葉が本書のエッセンスだと思う。
大事なのは、ここに、あなたの言葉にならない感情が採集されているか、どうかだ。たとえば、この貧弱なひまわりが醜いまでに枯れ果てても、あなたが見れば、他の人間には見えないものが感じられる。あなたの中にある何かが、すっとよみがえる。それは、あなたの目にも見えないけれど、あなただけはそのものの深さや、豊かさに近づくことができる。それは、真夏の日ざしもとどかない、暗い海底の、さらに岩陰のような場所で、原始の言葉を抱いてうたた寝をしているんだ。でもな、気まぐれな詩の女神が運よく手助けしてくれたら、あなたは、その言葉を手にいれることだってできる(164頁)
人から人へ、世代から世代へ、何事かを伝え継承することの豊かさがあると思う。言葉でこれはこうでああでと伝えることができるようなことは、たぶん、伝えなくてもわかることだ。伝えなくてもわかることは伝える必要がない。それならば言葉はいらないのか。言葉はなんのためにあるのか。伝える、ということの意味、伝えるものの豊穣さ、そこで改めて言葉というものを考えないといけない。
中島義道『私の嫌いな10の人びと』新潮文庫
『柔らかな犀の角』で知った本。本書カバーの裏表紙に「日本的常識への勇気ある抗議の書」とあるが、そんな大層なものではない。この国の社会は同調圧力が大きいなどという話をたまに耳にするが、そういうものがあるから「社会」というまとまりが維持できるのであって、日本だけが特別というわけはないだろう。尤も、他所の国のことは私は知らないし、この国にしても自分がこれまでに関わってきたのはわずかばかりの領域でしかない。ひょっとしたら、本当に特別なのかもしれない。ま、そんなことはどうでもよい。
本書の内容については、特にどうということも感じなかった。別に特別なことが書いてあるようにも思われなかった。ただ気になったのは、例を挙げて説明するときにテレビドラマでのやりとりをあたかもそれが世間一般の反応であるが如くに語っていることだ。ドラマだの映画だのは現実のある側面をデフォルメしたものだろう。意識するかしないかは別にして、視聴者はそれが他人事だからこそ同調して見入っているのである。自分自身のことだと感じてしまったら身の置き場がないと感じるか、あるいは、心底バカバカしいと感じるかして見るのを止めてしまうのではないか。この著者は何か根本的なところを勘違いしているような気がする。それにしても、著者はテレビドラマがお好きなようだ。
ところで、本書にも登場していた小谷野君。学者というのは別の学者の言うことに難癖をつけるのが仕事なのだろうか。それが飯のタネというのなら仕方がないが、そうだとしたら馬鹿馬鹿しい仕事だ。
吉本隆明・糸井重里『悪人正機』新潮文庫
糸井を聞き手として吉本が語ったことをまとめたもの。聞き語りという形式の所為もあり、吉本晩年で枯れの味わいが出ている所為もあるのだろう。愉快に一気に読んだ。ただ、各章のイントロ部分にある糸井の文章が少し目障りな気がしないでもなかった。あれは本当に必要なのだろうか?
「死は自分に属さない」(22頁)
鈍刀のほうがよく切れるんだってこととを本当によく知っている、それが、小林秀雄の批評家としてのすごさなんで、すごいっていうのは、別に、鋭さでも学識でもないってことになってきちゃうんですね。(26頁)
「清貧の思想」とか、そういうものはダメなんです。人間は、そういうふうには生きられない生き物なんですから。(98頁)
伝統がなくなって、それで普遍的になるっていうことじゃなくて、伝統的なもの、固有なものっていうのは、今、見えているよりももっとよく見えるようになるっていうか、過去がよく見えるようになるっていうことと、これから近代国家という形態が壊れていくっていうこととは、パラレルに同じことになっていくだろうなと思ってますけどね。(112頁)
戦後半世紀たって、我々は資本主義から消費過剰の超資本主義に相応しいカタチに変化することができずにいる。(135頁)
知識とか、人間らしさってなんなんだというような重要なことについての変化は、身体と同じように、四世紀くらいからないわけだから、いくら学者や研究者本人がこれは重要なんだって言っても、ほんとはどんな研究も、たいしたことはないんだよ、とも言えますね。だから、一生学問をしていくなんてことは、よっぽど好きでさ、それが楽しくってしょうがねえんだというのでなければ、あり得ないことなんだと僕は思います。(153頁)
素質とか才能とか天才とかっていうことが問題になってくるのは、一丁前になって以降なんですね。けど、一丁前になる前だったら、素質も才能も関係ない。「やるかやらないか」です。そして、どんなに素質があっても、やらなきゃダメだってことですね。(172頁)
ウソをつくつもりはなくて言えてしまう言葉というのは、古い時代にみんな言えちゃっていて、あとはだめになる一方なんだよという感じです。(327頁)
磯田道史『徳川がつくった先進国日本』文春文庫
本書はテレビ番組とのメディアミックスのようだが、放送のほうはたぶん面白かったのだろう。いまどき「先進国」というのもどうかと思う。ブックオフで購入。送料を無料にするのにあれこれ買わないといけないので、こういうものも混ざる。そういうもののなかで掘り出し物のような本に巡り合うこともあるのだが、そういうことは珍しい。
高間大介(NHK取材班)『人間はどこから来たのか、どこへ行くのか』角川文庫
『柔らかな犀の角』で知った本。付箋だらけになった。テレビ番組を元に構成された本なので語りに無駄が多くて不愉快なのだが、書かれている内容は取材されている側が語っていることなので面白かった。
今、私が暮らしているところは今まで暮らした他の場所に比べて身近にいる鳥の種類が多いように思う。雀とか鳩とか烏はもちろん当たり前に飛び回っているが、尻尾を小刻みに動かしながら地面を歩いている小さい鳥とか、立派な青い尻尾で飛びっぷりが優雅なのに鳴き声が無様な鳥とか、たまにカワセミも見かける。今月は駅前の商店の軒下に巣を営んでいた燕の親子が無事に巣立ちをしていった。鳥を眺めていて不思議に思うのは、眼が左右についていて正面を見るのに不自由そうではないことだ。それを言い出すと、馬とか牛も同じことだが、聞くところによると、彼らは左右の視界がそれぞれ180度展開していて二つの目で360度の視界を得ているらしい。なんだか便利なような気もするが落ち着かないような気もする。
それで、本書の7章に表情のことが書かれている。顔面を平面にして眼を2つ並べることで、確かに前しか見えなくなってしまうが、奥行きを認知できるようになる。そもそも哺乳類は耳が良いのだそうだ。両眼立体視と優れた聴覚。つまり、表情と音声で類人猿はかなり複雑なコミュニケーションができるようになったというのである。さらに人類に至っては音声が言語に発達。空気を読むという言い方があるが、まさに人類は空気を読むのである。
ところが、所謂ITの発達で直接対面することなく言語、しかも筆致の消された記号的言語のみのやりとりが爆発的に増えている、と思う。これが人間関係や社会の有り様に影響を与えないはずはない。何となく目から鱗が落ちるような心持ちがしている。
以下、備忘録は章立て事にまとめる。
第1章 DNAが教えるアフリカからの旅路
DNA分析が明らかにしたのは、同じ民族が必ずしも遺伝的に近い関係だけで構成されているわけではないという事実(19頁)
移住の原動力が農耕(30頁)
地球に存在するすべての生き物は、DNAという同じ記号で書かれた生命の設計図でつくられている。つまり、同じ祖先から派生した子孫同士という関係なのだ。(35頁)
第2章 私という”不思議のサル”
人間の精子を調べてみると、運動能力はかなり低い。乱婚のチンパンジーなどとは比較にならないほど緩慢な動きであり、濃度も極端に薄い。これは子宮内競争があるか、ないかという違いに起因するそうだ。(47頁)
「性を秘匿し、食を公開した」という不思議(48頁)
「人間は多産だ」というのは、産もうと思えば産めるということなのだ。もっとも端的には出産の間隔である。人間の場合、出産後、もっとも早くて40日で妊娠が可能になるそうだ。ところが、ほかの類人猿はまったく違う。ゴリラの出産間隔はおよそ四年。チンパンジーで五年。オラウータンでは八年になる。(57頁)
多産戦略は当然、子育ての負担が格段に大きくなることを意味する。…そこで少しずつ家族という絆を強め、集団で育てるという選択が広まっていったのだろう。(58頁)
人間は異様に老年期が長いのだ。これは寿命が長いということではない。「生殖活動を終えたのちの時期」が延びたということで、女性でいえば、閉経後の時期に当たる。繁殖に関与しなくなったのちも長く生きつづけるというのが人間の特徴なのだ。(64頁)
見つめ合うのが人間だというわけだ。それが端的に表れているのが、目の構造だ。人間の目には、黒目と白目がある。そのため、視線の微妙な動きで相手の感情の動きがわかってしまう。ところが人間以外の霊長類は類人猿でも、白目と黒目がない。(71頁)
「ヒトとは他者の中に自分を見たがる動物である…人間が一人で独立して生きているんではなくて、他者とつねにこう融合、和合しながら生きるようになった、そこに本質があるんだと思うんですね。要するに、他者と自分との境界をどこかで取り払うような社会性を身につけてしまったということなんです。それが教育を可能にし、家族というものを可能にし、そして家族を超えた地域社会というものをつくることを可能にしたんじゃないかと思いますね」(72頁)
第3章 ロボットが問う”人間の証明”
「ヒトは相手が心をもっていると信じることができる生き物である」(90頁)
第4章 私が知らない私の心
私たちの社会が基本的には打算に報いる(当面は損をしても、それが将来の得として返ってくる)仕組みを持っている(114頁)
「人を見れば泥棒と決めつけている人がいるとします。その人は他人は信頼できないと決めてつけていますから、危ない場所には近づかない。そうしますと、騙されることはないんですが、学習するチャンスもないんです」(121頁)
第5章 私のなかの「動物」VS「文化」
生物の生息可能数は、自然環境の制約によっておおよその上限が決まっている。…野生の草食動物の場合、生えている草の量から生息数の上限がほぼ決まる。…およそ100キログラムの草食動物の場合、基本的に一平方キロメートルあたり二匹しか存在できないとされている。草食動物をエサとする肉食動物はさらに密度が小さくなる。平均体重が50キログラムになると、一平方キロメートルあたりの生息数は一匹を下回る。人間は雑食だ。草食動物と肉食動物のちょうど中間の性質をもつとすれば、人間の平均体重を仮に65キログラムとすると、一平方キロメートルあたりに住める人数は1.5人という計算が成り立つ。(156頁)
第6章 言葉はどのように誕生したか 心を生んだ装置その一
言葉には実存と非実存、その二つのあいだにあるはずの垣根を崩す力があるのだ。(192頁)
第7章 表情という”心の窓” 心を生んだ装置その二
視覚を発達させた霊長類(201頁)
表情によるコミュニケーションで、相手の心を理解し、互いに絆を深め、無駄な争いを避ける。表情があるおかげで、群れの秩序は守られるのです。(219頁)
いままで人と話すというときは必ず相手がそばにいたわけです。電話でも、相手の息づかい、声色は聞こえていたし、手紙ならその人々の字が見えた。つまり、その人の気持ちが伝わっていたんですよ。それが電子媒体の普及で、コミュニケーションは言語的な部分と人格的な部分が分離してしまっているんです(223頁)
第8章 1400グラムのアイデンティティ 心を生んだ装置その三
第9章 農耕・人類の職業選択のゆくえ
誰かが農耕をはじめてしまったら、農耕の広がりを食い止めることは難しいだろうということだ。近くで農耕をはじめるグループが出たら、周りもそれに付き合わざるを得ないし、いったんはじめたら、途中で止めることも難しいというのだ。(269頁)
農耕以前と農耕以後の本質的な違いとは何だと問えば、組織的に特化するか否かという点が浮かび上がる。農耕とは、たくさん利用していた食料のなかから、数種類あるいはほぼ一種類を選び出し、集団で一致してその育成に心血を注ぐことであり、いわば集団として食料確保の方法を切り替えることではないか。(273頁)
第10章 死と向き合う心
磯田道史『日本人の叡智』新潮選書
朝日新聞土曜日版<be>の連載をまとめたものだそうだ。人と言葉の組み合わせでこれほど広がりのある語りができることに感心する。短いコラムのような造りだが、一次史料に基づいた考察は洞察に富み、時に心地よく胸に突き刺さる。
磯田道史『江戸の備忘録』文春文庫
ちょっとした所作や言動にその人の人格のようなものが表れるものだと思う。これは家庭とか社会といった人の集団にも敷衍できるのかもしれない。
磯田道史『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』新潮選書
たぶん、誰にでも自己肯定欲求というものがある。「自己」を何をもって自分のなかで定義するのかは人それぞれなのだろうが、例えば日本に日本人として生まれ育った人ならば、「自己」の基盤のようなものに「日本人」というような意識があると思う。また、都合のよいことに、日本は世界屈指の経済力と世界のどこよりも長い歴史と他に類を見ない国民の同一性を備えている。「歴史」というと所謂「四大河文明」とか古代ナントカというようなものがあるが、それは国家というまとまりとしてはどれひとつとして今日まで継続していない。日本は国家の存亡という点ではいくつもの危機があっただろうが、元寇にしろ、幕末の開国や維新にしろ、先の大戦にしろ、なんとか潜り抜けて今がある。殊にアジアの広範な地域が帝国主義の時代に欧米列強の植民地と化した時代に、国家体制の刷新と西洋化近代化を一気に進めることができたのは、めぐり合わせとか運のようなものも当然にあっただろうが、私にとっては謎に満ちている。たかだか150年ほど前のことに過ぎないにもかかわらずだ。
本書を読んで、そうした謎の部分がかなり自分のなかで整理ができた。例えば「封建制」というとき、その中身は欧州史のそれと江戸時代とではかなり違っているということだ。それぞれの土地に積み重ねられた歴史が異なるのだから、他所に敷衍できる歴史的概念というものはそうあるものではないのだが、つい考えるという作業を省略して安易に既成の言葉頼っていたから「謎」ができてしまったのである。「謎」は己の怠慢でもある。
それで、整理できたことのほうだが、
今日、明治維新によって、武士が身分的特権(身分収入)を失ったことばかりが強調される。しかし、同時に、明治維新牛を身分的義務(身分費用)から解放する意味をもっていたことを忘れてはならない。(77頁)
という本書の記述にはっとするのである。「武士」の内実も江戸時代のどこのどの時代かによって一様ではない。もの見方考え方というような基本を本書によって改めて認識させられるのである。