「松島や ああ松島や 松島や」が芭蕉の俳句だと紹介されることがあるが、俳句とはなにかという基本的なことがわかっていれば、これを「俳句」と認識することなどありえない。これは江戸時代後期に田原坊が作った狂歌で、仙台藩の儒者である桜田欽齊が書いた「松島図誌」に掲載された田原の「松嶋やさてまつしまや松嶋や」の「さて」が「ああ」に置き換えられて広まったものである。しかし、芭蕉が松島について憧れを抱いていたのは事実らしい。『おくのほそみち』の旅において芭蕉が松島を訪れたのは元禄2年5月9日(新暦1689年6月25日)から翌10日(同26日)にかけての一泊だけである。手元に山本健吉の手になる『芭蕉全発句』(講談社学術文庫)があるのだが、その記述を引用しておく。
(以下引用)
嶋々や千々にくだけて夏の海(蕉翁文集)
五月九日、塩竈を船出して午の尅松嶋に着船。瑞巌寺に詣で、雄嶋に渡り、八幡社・五大堂を見て、その夜は松嶋に宿った。松嶋を見ることはこの旅の目的の一つであったが、紀行の中でも松嶋のくだりは改まった態度で文を彫琢し、また『風俗文選』に収める「松嶋ノ賦」も残っている。ただし松嶋では、佳景に眼を奪われて句が口に上らなかったと見え、紀行には句を載せていないが、この句は松嶋で作った唯一の句で、左の前文とともに『蕉翁文集』に収められている。
前文、「松嶋は好風扶桑第一の景とかや。古今の人の風情、此嶋にのみ思ひよせて、心を尽し、たくみをめぐらす。をよそ海のよも三里斗にて、さまざまの嶋々、奇曲天工の妙を刻なせるがごとし。おのおのまつ生茂りて、うるはしき花やかさ、いはむかたなし。」
句意は、嶋々が千々に松嶋湾内に散在していることと、夏の海の波が千々にくだけて嶋々の岸辺を洗っていることを掛けて言った、湾内の叙景で、さして手柄のない句である。
(山本健吉『芭蕉全発句』講談社学術文庫 398頁)
日本三景のひとつにかぞえられ、芭蕉があこがれたという松島だが、観光地と化すと品格が落ちるのは避けられないということなのだろう。海岸沿いにどこの観光地にもあるような宿泊施設、土産物店、飲食店が軒を連ね、いかにも一見客相手ですといわんばかりの粗末なものを出している。海の方の景色にしても、ひとたびがっかりしてしまった眼に起死回生の強い印象を与えるほどのものには思えない。日本の観光地はどうしてどこも同じようになってしまうのだろうか。
今回松島を訪れたのはあの地震から1年を経て被災地が今どのようになっているのか自分の眼で見たかったからだ。つまり、松島である必然性は無いのだが、東京からのアクセスが良いということと、最近興味を持っている俳句に絡んで芭蕉ゆかりの土地ということからここを選んだ。芭蕉が松島にあこがれ、『おくのほそみち』行の目的の一つとして松島を訪れるということがあったのは有名な話だ。
大宮からMaxやまびこ129号に乗って終点の仙台に着くのが午前11時08分。仙石線の高城町行き普通列車が仙台を発つのが11時21分。13分の待ち合わせは余裕があるように見えるが、新幹線ホームと仙石線のホームとは思いの外離れているので要注意だ。仙石線ホームは地下なのである。仙台を出ると陸前原ノ町までは地下を走る。地上に出て車窓に飛び込んで来る風景はどこの都市近郊にも見られる密集した住宅街だ。走行中の電車から見る風景に地震の爪痕は感じられない。小鶴新田からは駅名の通り田園風景に一変する。そして陸前高砂あたりになって再び住宅が増え始めると、その屋根が妙に新しいことに気付く。瓦屋根に限って屋根だけ新品というような家屋が目立つので、それが震災で補修を余儀なくされたことが想像できる。そして終点の高城町に着く。が、高城町は仙石線の終点ではない。いまだに高城町と陸前小野の間が復旧していないのである。
高城町から海岸へ向かって歩く。高城町駅周辺は何事も無いかのようだが、松島病院が足場に囲まれているのは震災と関係があるのだろうか。橋を渡り国道45号線に入る。地図上でファミリーマートとなっているコンビニ跡の手前を海岸へ向かって折れる。このあたりは津波の被害があったはずなので、ファミマが「跡」になっているのもその所為かもしれない。ちなみにすぐ近くのセブンイレブンは営業中だ。海岸沿いの細い道路は通行止めだが歩行者は通ることができる。落石の危険がある旨の看板があるが、その崖の上はホテルで、営業している様子だ。
その通行止めの区間を過ぎると観光客の姿が多くなる。福浦橋の袂にある料金所兼食堂から先、雄島のあたりまでが観光区域のようになっている。例年の今時分がどのような様子なのか知らないが、ほどほどに賑わっているように見える。それでも観光船などが発着する埠頭の一部が海中に陥没したままになっていたり、海岸と雄島を結ぶ渡月橋がなくなったままになっていたり、注意してみれば震災の被害が残っている。瑞巌寺は今まさに修復工事の真最中で、境内にはプレハブの工事事務所が構えられ、建物は足場に囲まれ、内部も工事用に樹脂のシートで覆われている。それでも公開できるところは公開し、通常ならば秘仏で33年に一度しか御開帳のない仏様も特別にお出ましになり、復興へ向け寺自身も総力を挙げている様子が伝わってくる。
今回初めて訪れたのだが、瑞巌寺というのは寺というより丸ごと聖地のような風情がある。境内には国宝や重文がいくらもあるくらい古い寺だが、古すぎて由来についても諸説あるらしい。ただ、松島海岸界隈はこの寺の持ち物と言っても過言ではないようで、現在橋で結ばれている福浦島も五大堂も雄島もこの寺の関連だ。別院の円通院は縁結びにご利益があるのだそうで、良縁に恵まれるようお参りをしておいた。そんなこんなでうろうろきょろきょろと歩き回り、松島海岸駅を午後4時02分に発車する列車で仙台市内へ戻った。
仙石線で終点のあおば通で下車し、歩いて予約しておいたカプセルホテルへ向かう。チェックインを済ませて荷物を置いてから、夕食を食べたり街の様子を見たりするために外出する。仙台の繁華街はさすがにもう震災の痕跡は見られない。人や車の往来も活発で、「がんばれ仙台・宮城」とか「がんばっぺ」というような標語を入れたポスター類がなければ震災は遠い過去のことであるかのようだ。しかし、仙台駅前の陸橋が一部補修工事中だ。これも震災と関係あるのだろうか。
それで夕食だが、宿の近くで見つけた「ほそやのサンド」というハンバーガー屋でハンバーガーとコーヒーをいただく。店にある説明文によれば、ここは仙台におけるハンバーガー発祥の地なのだそうで1950年創業だという。ハンバーガーは洋食屋のハンバーグをバターロールと同じ生地で作ったかのようなバンズに挟んだだけの至ってシンプルなもので、旨いとか旨くないとか、そんなことはどうでもよくなってしまう味である。その味というのも、ハンバーガーだけのことではなく、店まるごとの深い味わいがある。なんかとってもいいなぁ、と思う。