「須賀敦子全集」を読み返している。何年か前に河出文庫版の全8巻の全集を読み通し、そのまま書棚に並べておいたのだが、そろそろ子供に譲ろうと思った。手放す前に再読しようと思い、今日、第1巻を紐解いた。
読んだ本のなかで、子供に譲るものと手元に残すものとアマゾンのマーケットプレイスに売りに出してしまうものとがある。確たる基準があるわけではないのだが、何度も読み返すことに耐えるようなもの、読み返す度に発見があるようなものは、とりあえず手元に残している。そのなかで、子供も興味を持ちそうなものは譲る。尤も、最終的には手元に残したものは全て子供のもとに行くことになるのだが。
今日は通勤の往復で読んだだけなので、ほんのわずかしか読むことができなかったのだが、それでも味わいのある文章を十二分に堪能できた。ただ読むだけではもったいなく、できることなら朗読したいような文章だ。
文章もさることながら、内容も興味深い。今日読んだなかで、このブログに取り上げてみようと思ったのは「チェデルナのミラノ、私のミラノ」だ。
チェデルナというのは、カミッラ・チェデルナという批評家だそうだ。彼女の書くものはヨーロッパの社会の裏側、特に貴族社会が発散する匂いのようなものを語っているのだという。本編の主題はチェデルナその人のことではない。筆者がミラノに住んで2年目にイタリア人と結婚することになったとき、夫となる人の古くからの友人が結婚指輪を作ってくれる店を紹介してくれたのだそうだ。その友人というのはミラノの由緒ある家柄の出で、その父親は名の知れた銀行家だという。そういう人が紹介してくれる貴金属店がどのようなものだったかというと、
「意外なことにそれは、都心ではあったが、少々うらぶれた小さな通りに面した、古い建物の三階だか四階だかにあった。せまい階段を上って行ったところのふつうの部屋に私たちを迎え入れてくれたのは、品のよい初老の女性だった。」(河出文庫 須賀敦子全集 第一巻 25頁)のだそうだ。
勿論、当時のミラノには立派な貴金属店も怪しげな貴金属店もあった。しかし、筆者が紹介された店はどちらにも属さない、よくわからない店だったというのである。
「実際、その値段は私たちの想像していたのよりはるかに安かった。ほっとしたのと同時に、私は例のヨーロッパの秘密の部分の匂いをかすかながら感じとった気がした。この町の伝統的な支配階級の人たちは、表通りのぎらぎらした宝石店と、この女主人の店を見事に使い分けている。彼らの家には先祖代々の宝石類があるから、自分たちがふだん身につけるものは、こういう店でいろいろと手を加えさせたりするのだろう(ちょうど私たちが母の形見のきものを仕立てかえさせたり、染めかえたりするように)。ずっとあとになってから、やはりミラノの古い家柄の女性たちと、ある内輪の晩餐の席をともにしたとき、彼女らが、ある新興ブルジョワの家庭の度はずれた贅沢を批判しているのを耳にしたことがある。「だって、あそこでは始終Bでお買物よ」Bというのは、まさに大聖堂ちかくのぎらぎらした貴金属店の名だった。あたらしい貴金属を「始終」買うということはその家に先祖代々伝わったものがないからだ、と言わぬばかりの彼女たちの口ぶりだった。」(河出文庫 須賀敦子全集 第一巻 26-27頁)
家柄と経済力とは必ずしも比例しないので、筆者が参加した晩餐の席でのブルジョワ批判は、単なる嫉妬心が根底にあるのかもしれない。それにしても、人の行動や思考が均衡を求めるという性質があるのは事実ではないだろうか。自分のなかに欠落しているものを認識したとき、人はそれを補うべく発想し、行動するものだろう。いくら経済力に恵まれていたとしても、成り上がり者には積み重ねてきたものの脆弱さに対する不安があるのだろう。恵まれている経済力を駆使して、不安のある自己の存在基盤を固めようとする、というのも均衡を求める行動に他ならない。
自分のことを振り返ったとき、確かに若い頃はなにかと背伸びを試みることが多かったように思う。個別具体的には語らないが、今から思えば、それらは傍目にはどうしょうもなくつまらないことで、自分ひとりがたいしたことのように思っていたというような滑稽なことばかりのような気がする。齢を重ね、何時死んでも不思議ではない今となっては、人には努力でどうにかなることと、どうしても越すに越されぬものがあることがある、という当たり前のことを了解できる。ただ、了解できるようになるためには、やはり自分を取り巻く壁を乗り越えて新たな地平に飛び出す試みをしないわけにはいかない。その意味では人生に無駄というものは微塵も無い。かといって、どれほどのことを積み重ねることができたのか、やはり心もとない。無限に続く時間が自分にあると思えば、現在を多少犠牲にしてでも布石を打ちにいくのだろうが、終わりを意識してしまうと、あるものをあるがままに受け容れるのが最善の選択であるとしか思えなくなってしまう。
読んだ本のなかで、子供に譲るものと手元に残すものとアマゾンのマーケットプレイスに売りに出してしまうものとがある。確たる基準があるわけではないのだが、何度も読み返すことに耐えるようなもの、読み返す度に発見があるようなものは、とりあえず手元に残している。そのなかで、子供も興味を持ちそうなものは譲る。尤も、最終的には手元に残したものは全て子供のもとに行くことになるのだが。
今日は通勤の往復で読んだだけなので、ほんのわずかしか読むことができなかったのだが、それでも味わいのある文章を十二分に堪能できた。ただ読むだけではもったいなく、できることなら朗読したいような文章だ。
文章もさることながら、内容も興味深い。今日読んだなかで、このブログに取り上げてみようと思ったのは「チェデルナのミラノ、私のミラノ」だ。
チェデルナというのは、カミッラ・チェデルナという批評家だそうだ。彼女の書くものはヨーロッパの社会の裏側、特に貴族社会が発散する匂いのようなものを語っているのだという。本編の主題はチェデルナその人のことではない。筆者がミラノに住んで2年目にイタリア人と結婚することになったとき、夫となる人の古くからの友人が結婚指輪を作ってくれる店を紹介してくれたのだそうだ。その友人というのはミラノの由緒ある家柄の出で、その父親は名の知れた銀行家だという。そういう人が紹介してくれる貴金属店がどのようなものだったかというと、
「意外なことにそれは、都心ではあったが、少々うらぶれた小さな通りに面した、古い建物の三階だか四階だかにあった。せまい階段を上って行ったところのふつうの部屋に私たちを迎え入れてくれたのは、品のよい初老の女性だった。」(河出文庫 須賀敦子全集 第一巻 25頁)のだそうだ。
勿論、当時のミラノには立派な貴金属店も怪しげな貴金属店もあった。しかし、筆者が紹介された店はどちらにも属さない、よくわからない店だったというのである。
「実際、その値段は私たちの想像していたのよりはるかに安かった。ほっとしたのと同時に、私は例のヨーロッパの秘密の部分の匂いをかすかながら感じとった気がした。この町の伝統的な支配階級の人たちは、表通りのぎらぎらした宝石店と、この女主人の店を見事に使い分けている。彼らの家には先祖代々の宝石類があるから、自分たちがふだん身につけるものは、こういう店でいろいろと手を加えさせたりするのだろう(ちょうど私たちが母の形見のきものを仕立てかえさせたり、染めかえたりするように)。ずっとあとになってから、やはりミラノの古い家柄の女性たちと、ある内輪の晩餐の席をともにしたとき、彼女らが、ある新興ブルジョワの家庭の度はずれた贅沢を批判しているのを耳にしたことがある。「だって、あそこでは始終Bでお買物よ」Bというのは、まさに大聖堂ちかくのぎらぎらした貴金属店の名だった。あたらしい貴金属を「始終」買うということはその家に先祖代々伝わったものがないからだ、と言わぬばかりの彼女たちの口ぶりだった。」(河出文庫 須賀敦子全集 第一巻 26-27頁)
家柄と経済力とは必ずしも比例しないので、筆者が参加した晩餐の席でのブルジョワ批判は、単なる嫉妬心が根底にあるのかもしれない。それにしても、人の行動や思考が均衡を求めるという性質があるのは事実ではないだろうか。自分のなかに欠落しているものを認識したとき、人はそれを補うべく発想し、行動するものだろう。いくら経済力に恵まれていたとしても、成り上がり者には積み重ねてきたものの脆弱さに対する不安があるのだろう。恵まれている経済力を駆使して、不安のある自己の存在基盤を固めようとする、というのも均衡を求める行動に他ならない。
自分のことを振り返ったとき、確かに若い頃はなにかと背伸びを試みることが多かったように思う。個別具体的には語らないが、今から思えば、それらは傍目にはどうしょうもなくつまらないことで、自分ひとりがたいしたことのように思っていたというような滑稽なことばかりのような気がする。齢を重ね、何時死んでも不思議ではない今となっては、人には努力でどうにかなることと、どうしても越すに越されぬものがあることがある、という当たり前のことを了解できる。ただ、了解できるようになるためには、やはり自分を取り巻く壁を乗り越えて新たな地平に飛び出す試みをしないわけにはいかない。その意味では人生に無駄というものは微塵も無い。かといって、どれほどのことを積み重ねることができたのか、やはり心もとない。無限に続く時間が自分にあると思えば、現在を多少犠牲にしてでも布石を打ちにいくのだろうが、終わりを意識してしまうと、あるものをあるがままに受け容れるのが最善の選択であるとしか思えなくなってしまう。