熊本熊的日常

日常生活についての雑記

Wanderlust

2008年06月30日 | Weblog
同僚がURLを送って来た。その同僚の友人の友人が旅行記サイトを作っているのだそうだ。

http://traveler.design-ichi.com/

若い頃は旅行が好きだったが、歳を取ってすっかり出歩くのが億劫になってしまった。しかし、先日St Ivesに出かけてみて、やっぱり見知らぬ土地を歩くのは楽しいと改めて感じた。

この旅行記の主は現在東南アジアを旅しているようだが、その風景になんとなく懐かしさを感じるのは、自分のなかのインドやタイの風景が重なるからであろうか。ベトナムもラオスもカンボジアも行ったことはないが、サイト上の写真を眺めながら、ベトナムには一度行ってみたいと思った。ベトナムで見てみたいのは、サイトにもあった戦跡である。何を以って「国力」と称するのか定かではないのだが、少なくとも軍事力という点において大きな違いがあったであろう大国を相手に、1946年から1975年に至る断続的な戦争を戦い抜いたという事実に素朴に興味を感じる。

大学を卒業するときにインドに行って来たが、私はざっくりとした方向だけ決めて、そこで何をするかということは現地で考えることにしていた。この時の旅行で知り合った人たちのなかには、詳細な計画を作り、しかも不測の事態に備えた代替案まで考えて、それをA4のごついファイルにまとめて持参している人もいた。彼は以前このブログにも登場している(2008年1月30日付「念ずれば通ず」)が、某金融機関に就職し、現在もそこで働いている。当然のことながら、人の行動というのは、その人の性格を反映する。人の仕草とか癖を観察するのも楽しいし、自分の癖を改めて自覚するのも面白い。

この旅行記サイトの作者はODA関連の仕事をしているようだが、自分の交友範囲にはODA関連が3人いる。ひとりは以前の職場の同僚で、現在もODAコンサルとして忙しく飛び回っているようである。ひとりは留学仲間で、ODA関連の仕事で主に農業の指導などをしていたようだ。その後、家業を継ぐことになり、今は大阪で暮らしている。ひとりはインド旅行で知り合った人で、教育関連の仕事をしていたが、海外青年協力隊に参加したことをきっかけに、今は外務省の専門職員として中南米を転々としているようだ。現役のODAコンサルの人とは年に一度くらいは会う機会があるのだが、他のふたりとは疎遠になってしまった。それでも、大阪の人とは今でも年賀状は続いている。協力隊は、最後に会ったのが2000年か2001年だ。私の勤務先が渋谷であった頃、昼食を食べに街へ出た時に、国連大学の前でばったり会ったのである。人生というのは面白い。一人の人生を辿るのも面白いが、それが交錯する様子も面白い。

旅行の面白さというのは、見知らぬ土地へ出かけ、自分が知らなかったことを知る面白さもあれば、旅先で出会った人や風景や出来事に触発されて、それまで自分のなかで燻っていた考えが明確になったり変化したりする面白さというものある。旅行というのは、帰る場所があることが前提なので、気楽である。気楽に日常から離れることで、自分の内部に思いもよらぬ変化が生じることもあるかもしれない。わずか数日、長くても数ヶ月の旅行で生じる変化など取るに足りないものかもしれないが、その微妙な変化がその後の大きな転換をもたらすことだってあるだろう。おそらく、日常から離れる、ということに何がしかの意味があるのだと思う。同じ物事を見る角度がわずかにずれることで、新しいことが見えるのだろうし、何がしかの気づきがあるのだろう。

個人的には世界一周することに興味はない。少なくとも今はない。ただ、世界一周にでも出かけるか、と思う心の余裕というか、遊びのようなものは日常生活を豊かに生きるためには必要なのではないだろうか。

備忘録 York

2008年06月29日 | Weblog
雨が降っている。午前7時に宿をチェックアウトする。昨日着いたManchester Piccadillyではなく、市街の北側にあるManchester Victoria駅へ向かって歩く。Victoria駅には7時20分頃に着く。駅は閑散としている。売店も閉まったままである。出発列車を示す電光表示板を見ると自分が乗るはずの列車が無い。駅員に尋ねると、6番ホームから出発すると言って、照明が落ちたままになっている3両編成の列車を指差した。今日は7時43分発のNewcastle行きに乗ってYorkで下車することになっている。

その真っ暗な列車が停車しているホームには5人の乗客がベンチに腰掛けたり寝そべったりしている。その数は少しずつ増え、10人ほどになった7時25分頃に列車のエンジンが始動する。この列車は気動車なのである。英国では幹線でも電化されていない路線は珍しくない。7時30分頃に照明が灯り開扉し、定刻通り出発。出発時刻までに乗客はそれほど増えず、3両編成でも車内も駅と同様に閑散としていた。列車は緑の丘陵地帯を、時々トンネルをくぐりながら進行する。ロンドンでもマンチェスターでも、都市部を離れるとすぐにこうした広々とした風景が広がる。日本との人口密度の違いを感じるのは、こうした郊外の風景を眺めている時だ。定刻通り9時7分にYorkに到着。

ヨークに着いてまずは腹ごしらえ。エキナカのカフェでMini English Full Breakfastというのを注文する。飲み物の選択を尋ねられたのでコーヒーを頼む。サイズをRegularとLargeから選ぶようになっていたので迷わずRegularにする。まず、コーヒーが運ばれてくる。そのカップの大きさにのけぞる。自分の中の「コーヒーカップ」の範疇を大きく逸脱した大きさだ。しかも既にミルクがたっぷり入っている。コーヒーというよりホットコーヒー牛乳という感じ。しかし、下手なコーヒーよりは、こちらのほうが美味しい。ほどなくして料理も運ばれてくる。「mini」で正解だ。ゆっくりと時間をかけて食事を頂き、駅の待合にあった自動販売機で市街地図を買って外に出る。雨は降った様子が無く、薄日がさしている。

駅舎から外に出ると、いきなり目の前に城壁がある。歩き出した途端に壁にぶつかるというのは、なんとなく自分の人生のようで苦笑してしまう。地図には城壁の内側が書かれているが、これから行こうとしている鉄道博物館は壁の外側なので、とりあえず地図は役に立たない。街の至るところに道標があり、主な施設の方向がわかるようになっているのは英国では当たり前のこと。その指し示す方向に向かって歩いていくと、ここにも大観覧車が現れた。英国では観覧車が流行らしい。博物館は10時開館で開館時間まで10分ほどあるが、すでに入り口には30名ほどの人が並んでいる。

博物館は入場無料なのだが、入場の際に登録をする必要がある。その受付でガイドブックを購入することができる。普段、博物館や美術館のガイドブックなど買ったりしないのだが、ここは特別なので迷わず購入。博物館のガイドブックと鉄道に関する知識をまとめた小冊子の2冊で5.5ポンド。

秋葉原にあった交通博物館の価値は、実物車両もさることながら、精巧に作られた模型にあると思う。少なくとも自分のなかでは、交通博物館と言えば、ガラスケースのなかに並ぶ模型である。ここNational Railway Museumの場合は実物のほうが展示の要である。ここが「世界最大」の鉄道博物館と称されるのは、30両という数の英国鉄道史を物語る動態保存車両による、と私は思う。しかし、せっかくここに来ても、そうした動態保存車両が勢揃いしている姿を見ることはできない。英国内各地の保存鉄道に貸し出されているからだ。となると、ここは「世界最大」とは呼べない状況になるのではなかろうか。それでも、実機中心の展示は興味深いものばかりで、特に第二次大戦中、兵員や兵器の輸送のために、生産資材不足のなかで工夫しながら設計・製造したという機関車は印象的だった。日本の場合、戦時に設計されたものは既存の形式のものの部材を代替品に変更するというのが主で、これほど外見を変えてしまうというのは例が無い。その発想の大胆さにこの国の人々の創造性を感じた。

ここに日本の新幹線0系の先頭車両が一両保存されている。車両の中に入ることもでき、その所為なのかもしれないが、この新幹線車両が展示車両のなかで最も人気があるように見えた。ただ、このような形で日本の鉄道が紹介される機会もあるわけだし、来日した外国人が日本の鉄道を利用する機会も当然あるのだから、車内の快適性というものを世界に誇れるような利用者本位のものへ高める必要があるのではないだろうか。新幹線普通車両の3-2という座席配置はいかにも窮屈である。英国の長距離列車は2-2が基本だし、欧州大陸では2-1という列車に乗車したことがある。確か、オーストリア国鉄の客車だったと記憶している。速くて快適で安全、というのが鉄道のあるべき姿だと思うのである。

鉄道博物館を1時間半ほど見学した後、市街へ向かう。もう見たいものは見たので、後はロンドンへの列車の時間までの暇つぶしでしかない。とりあえずヨークの象徴とも言えるYork Ministerを訪ねる。今日は日曜なので礼拝が行われている。ふと道標に"Art Gallery"の文字を見つける。George Stubbsの"Whistlejacket"がロンドンのNational Galleryからここヨークの美術館に貸し出されていることを思い出し、せっかくなのでその馬を見に行く。

York Art GalleryではGeorge Stubbs展の開催中だった。Stubbsは画家としてのキャリアの初期をヨークで過ごしていること、Whistlejacketも競走馬としてのキャリアにおいて重要なレースでの勝利をヨークで収めていることから今回の展覧会が企画されたのだそうだ。Whistlejacketを観ることも価値があるのだが、Stubbsの手による馬の解剖学の本の実物を見るのも貴重な体験だ。馬好きの画家だったということは知ってはいたが、これほどまでに馬に入れ込んでいるとは画家というよりも馬の獣医のようですらある。

この美術館は小さなものだが、常設展示のなかには興味深いものもある。コンテンポラリーのコーナーがあるのはどこの公共美術館も同じなのだが、ここで特筆すべきは陶芸作品のコレクションである。数は少ないが、世界各地から作品を集めており、日本の作品としは富本憲吉の東京時代の作品とみられる絵皿、濱田庄二の酒瓶などがある。バーナード・リーチのいかにもそれらしい絵皿もあった。こうして眺めてみると、アフリカの作品はアフリカでしか発想されないような意匠や色使いがなされ、オーストラリアの作品にはアボリジニー的なものと英国的なものが混ざり合ったような雰囲気がある。スペインの作品にはアフリカの素朴な風合のようなものが感じられる。同じ欧州大陸でも、ベルギーやデンマークの作品はモダンで、ドイツの作品には均整のとれた形式美がある。英国の現代作家によるものは、やや饒舌に過ぎる印象がある。そんなことを思いながら舐めるように眺めてしまった。

Art Galleryを出たのが12時半頃。城壁の中に入り、昼ご飯を食べる場所を探す。Art Galleryの向かいにある城門を抜け、High PetergateからLow Petergateへと進み、ごちゃごちゃとした細い路地に入っていく。昔ながらの建物が意図的に残されているのだろう。木造の歪みきった古い家屋が並ぶ。通りは狭い所為もあるのだが、観光客で溢れ返っている。昔はこんなふうに外国の町を歩いていると、なんともいいようのない微妙な不安を感じたものだが、今はどこに行っても自分がその風景のなかに溶けて消えてしまっているかのような気分になる。あるいは本当に、もうこの世にはいないのかもしれない。

人込みを抜け、少し広い通りへ出る。Parliament Streetと書いてある。やけに大きな公衆トイレが道路の真中にある。そのトイレを過ぎたところでCoppergateという通りに折れ、川のほうへ向かう。橋の手前でCastlegateへ折れ、軒を並べるカフェを覗いてみるが入る気が起こらない。そのまま進むと目の前が開ける。Clifford's Towerが立っている。この風景もヨークの絵葉書などによく登場する。この古い塔を見上げる場所にある翠園という中華料理屋に入ることにする。先客は2組。中国人の4人組と西洋人の4人組。どちらも賑やかなテーブルだが、何故かどちらからも女性の声しか聞こえてこない。男性陣はどうしたのか。ここでランチセットのメニューから、コーン卵スープと焼豚と野菜のオイスターソース炒めとバニラアイスを頂く。

子供の頃は中華料理のスープといえばコーン卵スープが自分の中では定番だった。今でも記憶にあるのは、新宿の伊勢丹のなかにあった留園という中華料理店だ。本店は芝にあり、リンリンランランという中国人姉妹の歌手がテレビコマーシャルをしていた。ここの焼売は、それまで母の手作りとか、赤羽のセキネとか、駅弁の崎陽軒の焼売しか知らなかった私の舌には革命的な味に感じられたものである。その留園のセットメニューのスープがやはりコーン卵スープだった。そういえば最近、コーン卵スープを食べていないと思い、メニューの前菜の一番最初にあったコーン卵スープを注文したのである。そもそもロンドンに渡ってきてからは中華料理を食べる機会に恵まれない。勤務先の日本人会の集まりで職場近くの中華料理店に2回行っただけである。昨日のブログにも書いたが、前回、留学でマンチェスターにいた頃はチャイナタウンの中華料理屋に出かけることもあった。当時は自炊ではなかったこともあり、米飯を食べたいと思えば、ちょっとヘンな日本料理屋へ行くか、まともな中華料理屋または韓国料理屋へ行くしかなかった。今は自炊なので、毎日のように米飯を食べており、わざわざ外食に出かける動機も機会もない。そんなわけで、久しぶりの中華料理はとてもおいしく頂いた。

中華料理屋を出ると雲がそれまでより低く垂れこめている。目の前のClifford's Towerの周りを歩いているうちに雨が降り出した。まだロンドンへの列車の時刻まで1時間半ほどあるが、このまま駅へ向かうことにした。Skeldergate Bridgeを渡り、城壁の上に登る。そこから城壁の伝いに駅近くまで行き、Station Roadに降り、そのまま通りを駅へ行く。城壁の内側は、川の東側は古い街並みだが、西側はどこにでもあるような家並みであった。雨は激しさを増し、傘をさしていたにもかかわらず、駅に着く頃には膝から下がびっしょり濡れてしまった。

駅では列車の時刻まで1時間近く余裕があった。その間に雨が上がり日がさしてきた。天気が変わりやすいのは英国内どこでも同じようだ。駅に着いたときには乗車予定の列車が15分ほど遅延している旨の表示があったが、いつのまにか定刻通りということになっている。結局、その列車は1分遅れて15時32分にYorkを発車した。車内は満席で、しかも予約したはずの席が埋まっていたりということがあちこちで起こっており、少し混乱していた。私の座るはずの席にいた人曰く、予約システムが壊れている、とのこと。確かにそうかもしれない。しかし、客のほうが、間違えて別の席を占拠し、それで玉突きのように全体の座席が狂ってしまったという可能性もあるだろう。そもそも間違いの元は車両の編成にある。長距離列車の場合、起点(この場合はロンドン)に向かって車両A、B、C、…とアルファベットが振られている。ところがこの列車はA、B、C、E、F、…とDが抜けている。私の席も車両Dにあるはずなのだが、その席が車両ごと無いのである。ところが、車両Cの乗降口近くの窓に「D」と書いた紙が貼ってある。だから私もこの車両C(D)に乗車した。そして、この有様なのである。別にたいしたことではないので、手近に空いている席を確保し、そのままロンドンまで来てしまった。列車は定刻通り17時30分にLondon King's Cross駅に到着した。

ついでながら、こちらでは鉄道の「座席指定料金」というものは無い。事前に列車の予約をすると座席が指定されるが、それによる追加料金は発生しないのである。それどころか、乗車券は当日購入するより、事前に購入したほうが安いのである。確かにこのような混乱があるから、指定料金などを設定してしまうと混乱が助長される懸念はある。追加料金が無いから乗客が席に執着せず、混乱があっても諦めがつくという面もあるだろう。

King's Crossからは地下鉄Northern LineでLondon Bridge駅へ行き、そこで地下鉄Jubilee Lineに乗り換えてNorth Greenwichに出る。Jubilee Lineに少し遅れが出ていたが、住処には18時45分に着いた。

備忘録 Manchester

2008年06月28日 | Weblog

晴れている。午前6時少し前に住処を出て、最寄の駅から6時2分発の列車に乗る。終点London Charing Cross駅にはほぼ定刻の6時29分に到着。ここで地下鉄Northern Lineに乗り換え、6時36分発の列車に乗る。London Euston駅には6時43分頃に到着。ここでManchester Piccadilly駅行きの列車に乗るのだが、まだ時間に余裕があるので、駅構内のCostaというカフェでカプチーノを飲みながらBLTサンドをいただく。

British Railの時代もマンチェスターへの列車はEustonを発着していた。今、ロンドン・マンチェスター間はVirgin Trainsという会社が運営している。7時26分発の列車に乗り、Manchester Piccadilly駅には定刻よりやや早く10時15分に到着した。昔と違うのは、乗客が多いことと、その乗客に日本人が目立つこと。Eustonからの乗客も多かったが、最初の停車駅であるMilton Keynesでほぼ満席になり、Stockportでかなりの客が降りた。それにしても、昔もこんなに混んでいただろうか? 2人掛けの座席で、隣に誰かが座っていたということは一度も無かったと記憶している。余談になるが、先日の新聞に、マンチェスター発ロンドン行きの飛行機の乗客の95%が乗り継ぎ客だと書いてあった。おそらく、ビジネスセンターとしての機能が強化され、英国の一地方都市という位置付けから、直接海外とつながる中核都市に成長したということなのだろう。

マンチェスターに降り立った瞬間、駅がきれいになったことに気付いた。ホームの屋根はそのままに駅舎を建て替えたのである。昔は、ロンドンからの列車が発着する駅だというのに、バスターミナルまでは少し歩かなければならないし、駅前の客待ちのタクシーも少なく、使い勝手が悪そうな印象があった。今もバスターミナルの位置は昔のままだが、そこまで路面電車が結んでいる。タクシー乗り場も整備され、常にかなりの台数のタクシーが停まっている。その変貌ぶりに、何故か心が躍った。

まず大学へ行くことにした。駅から大学へ向かう道の風景は昔と殆ど変わらない。空き地であったところに建物ができたくらいである。自分が通っていた校舎も、住んでいた寮も、少なくとも外観は昔と同じ姿である。懐かしいというより、まるで昨日もここにいたかのような感覚がする。わずかに2年間ではあったが、慣れ親しんだ曇天の下にいる所為かもしれない。寮は大学の寮の中では唯一の高層建築で、確か15階まであっただろうか。私の部屋は何度か移動したが一番長く暮らしたのは8-1という8階の角部屋だ。晴れた日には遠くにピーク・ディストリクトの山並みが見える快適な部屋だった。

今日の昼は、Abdulsのケバブを食べると最初から決めていた。問題はその店がいまでもあるかどうかということだった。寮を後にして学生会館の前を過ぎると、見覚えのある看板が見えた。まだ昼前だったので、その場はそのまま店の前を通り過ぎ、Whitworth Art Galleryへ行く。この美術館は大学の施設で、昔から入場無料だった。ターナーのコレクションでは世界でも有数の規模と言われていたが、何年か前に、そのターナーが盗難に遭ったことが発覚した。発覚、というのは、いつ盗まれたかわからないというのである。確かに、昔はやる気の無い美術館だった。それが、建物の外観はそのままに、内部は見違えるようになっていた。展示の主体はコンテンポラリーに変わっているが、展示に主体性とテーマ性があり、見ていて楽しい。都市の風景というようなテーマの部屋には、古今東西の都市をテーマにした絵画、版画、写真が展示されている。ちょうど今、大英博物館でアメリカの風景というテーマの銅版画展を開催しているが、規模こそ違うが企画の面白さでは互角ともいえる。その都市の風景に東京も登場する。歌川広重の「両国花火」と「猿わか町」であるが、そうした浮世絵がニューヨークやロンドンの風景とか都市生活者をモチーフにした絵画と並べられると、自分が日本人である所為か、強力な存在感を放っているように見えた。

再び大学本部へ向かう道すがら、Abdulsでドナ・ケバブを買い、自分が住んでいた寮の足元にある広場のベンチでそれにかぶりつく。店の人は見覚えの無い人だったが、店の構えもカウンターの設えも昔と同じだ。ケバブがどのようなものか改めて説明の必要はないだろうが、この店はパキスタン人の経営なので、パンにナンを使う。それも普通サイズのナンなので肉厚で大きい。その大きなナンに収まりきれないほど肉や野菜を載せ、ヨーグルトソース、チリソース、マンゴーソースをかけてもらい、無理やり包むのである。私がここの学生寮で暮らしていた頃、平日の朝食と夕食は寮費に含まれており、寮の地上階にある学生食堂で食べることができた。週末は食堂が休業なので外食になるのだが、たいがい勉強が追いつかなくて、ゆっくり食事をしている余裕などなかったので、寮から至近距離にあるAbdulsのケバブの世話になっていた。とにかく量が多く、自分の部屋に持って帰って手をべとべとにしながら食べたものだが、それでも食べきるのに難儀はしなかった。今日はやっとの思いで平らげた。20年の歳月を自分の食欲の衰えで実感した。ドナ・ケバブは3ポンドだった。昔は2ポンドくらいだったと思う。

満腹になったところで、Oxford Roadを北へ歩く。BBCのあたりまでは、多少、商店が入れ替わってはいるものの昔とそれほど変わらない。週末の食事でAbduls以外の選択肢のひとつは、持ち帰りピザのBabylonであった。これは昔よりもきれいな建物に移ってピザレストランになっており、その隣にはAbdulsの支店がある。Abdulsに支店ができるとは驚きだ。自分に馴染みのある店が発展するのを見るのは自分のことのように気分がよい。

鉄道のガードをくぐったところにあった、保険会社の名前が付いた巨大な廃墟ビルがホテルになっていた。大きな建物の半分は既に営業中で残りの半分も足場が組まれ、外壁を工事しているようだった。このビルに限らず、昔のマンチェスターには廃墟になった大きな建築物が数多くあった。かつて産業革命発祥の地として栄え、1950年代まではロンドンに次ぐ英国の中核都市であったが、英国全体の国力低下とともに荒廃が進み、私が暮らした頃はその陰の極か、あるいは再生が始まった頃だったのではないだろうか。英国がサッチャー政権の下で外資の導入を梃子に経済力の再生を目指したとき、その誘致政策に乗って、このあたりには日本の電機メーカーが進出した。当時のマンチェスター・ユナイテッドのスポンサーがシャープで、マンチェスター・シティがブラザー工業だったのは、そうした動きを象徴していた。

その元廃墟ビルのホテルとパレス・シアターという劇場がある交差点を越えるとOxford RoadはOxford Streetという名前に変わる。この劇場の並びに何軒か間を置いて映画館があり、その裏に日本料理屋があったはずだ。映画館は閉鎖されており、日本料理屋のあった場所もシャッターが固く閉ざされている。この日本料理屋は値段が少し高めであったのと、その値段に見合った満足度を得たことがなかったので、人に誘われればついてきたが自分から行くことは一度もなかった。何年も前にここの経営者一家は日本に帰国しており、東京で一度お会いしたので、この店がもうなくなっていることはここに来る前から知っていた。

この映画館の前を過ぎるとすぐに市立図書館の円筒形の近代風建築とゴシック様式の市庁舎が並ぶ。その前にSt Peter's Squareという広場があったが、その広場に今は路面電車の駅がある。この路面電車の線路は、その昔、マンチェスターが繁栄していた頃に走っていて、その後廃線になった路面電車の軌道を掘り返して建設したのだそうだ。勿論、全線が廃線再生ではないだろうが、都市再生の方法としては興味深い事例ではないだろうか。東京の幹線道路を掘り返したら、やはり都電の軌道が現れるのだろうか?

この市庁舎のすぐ近くに、大昔、鉄道の中央駅があった。そして、その中央駅と市庁舎の間に、Midland Hotelがある。20年前も今もホリデー・インの傘下にあるが、その割に敷居が高い。今日も中には入らなかった。中央駅は既に私が留学していた頃から見本市会場となっていた。今もそれは変わらない。が、この駅の隣に、壁に「GREATE NORTHERN RAILWAY COMPANY’S GOODS WAREHOUSE」と大きく書かれた廃墟ビルがあった。それがその文字も含めて外見を残したまま、シネコンとショッピングセンターと駐車場のビルに再生されていた。留学時代もひょっとしたら駐車場として使われていたかもしれない。そのあたりは記憶が定かでない。そして、この旧廃墟に隣接して広がる荒地だった場所にホテルの高層ビルが立っている。ただ、そのように再生された現在でも、この一帯がそれほど賑わっているようには見えなかった。

このあたりはDeansgateという地域である。その名の由来はローマ時代の城門にあるそうだ。実際に、城門跡とされる土台部分の石組みが今でもあり、その遺跡を囲むように小さな公園になっている。ここにある重要な遺跡は城門跡だけではない。世界初の商用旅客鉄道であるリバプール・マンチェスター鉄道のマンチェスター駅の跡もこの近くである。世界初の商用鉄道はダーリントン鉄道だが、これは石炭輸送のための鉄道で1825年に開業している。世界初の旅客鉄道はこのリバプール・マンチェスター線なのである。この旧マンチェスター駅を含むその周辺は、現在Museum of Science and Industryとなっているが、駅舎であった建物の壁には銘板が取り付けられおり、そこにはこのように記載されている。

LIVERPOOL ROAD STATION
THE WORLD'S FIRST PASSENGER
RAILWAY STATION. TERMINUS OF THE
LIVERPOOL AND MANCHESTER
RAILWAY WHICH WAS OPENED BY
THE DUKE OF WELLINGTON
ON 15TH SEPTEMBER 1830.

鉄道関連施設としてはこの駅舎以外には見るべきものはない。しかし、日本人としては見逃せない展示物がある。「桜花」である。太平洋戦争末期に製造された特攻機だ。戦後、日本に進駐した連合軍によって捕獲された機体がここで展示されている。桜花は1944年に開発され、1945年3月21日に初出撃。終戦までに10回にわたる出撃が敢行され、結果として桜花搭乗員55名、その母機である一式陸攻の搭乗員368名の戦死者に対し、桜花による確実な戦果は米駆逐艦撃沈1隻、その他数隻の米駆逐艦が損傷。このようなものは武器とは呼べないであろうし、このような作戦は作戦とは呼ばないであろう。そもそも特攻という発想は何だったのであろうか。桜花の実機を見ることができるのは、ここ以外ではワシントンDCにある海軍博物館とスミソニアン博物館だけだそうだ。あの戦争に関しては個人的に極めて強い感情をもってある考えを持っている。しかし、それはおそらく誰にも話さないと思う。

繁華街の人出はかつてとは比べ物にならない。以前から便の良かったバス路線に加えて路面電車が運行されるようになったほか、市内を循環する無料バス路線が3系統もあるというような足の便の改善による効果もあるのだろう。さらに、おそらく、ロンドンの地価高騰で、ビジネスセンターとしてのこの都市の相対的な位置付けが上昇し、雇用と人口が増加しているのではないだろうか。しかし、一方でチャイナタウンは少し寂しくなったような気がする。やはり週末の食事の場として同じ寮にいた日本人研究者の人々とでかけたクァン・デ・ジュという鴨料理専門店とか1人でふらりと出かけるのにちょうどよかった栄華飯店という中華料理屋、韓国人のご夫婦がひっそりと経営していたコリアナという韓国料理屋などはもうなかった。

市街の中心にAndaleというショッピングアーケードがあるが、これが20年前に比べてかなり拡張されていた。かつてはなかったSelfridgesがAndaleに隣接していたMarks and Spencerとツインビルであるかのような作りで建っていた。そして、唐突に大観覧車。London Eyeがよほど成功しているのか、それに比べればはるかに規模は小さなものだが、ここにもある。高級ブティックが並ぶKing Streetは、多少店舗が入れ替わっているものの、相変わらず高級店が軒を並べている。市街地の裏通りにある古いビルが新しいビルに置き換わっているし、その置き換えは現在も進行中である。

この街はロンドンとは全然違う。それは以前もそうだったのだが、ロンドンは英国の都市というよりも無国籍なのである。マンチェスターはやはり英国の都市である。歩いている人たちの肌の色がロンドンとは違う。例えば、ロンドンの街角とかバスや電車の車内の風景を切り取って「ここはヨハネスブルクです」とか「今、カラチにいます」と言っても通用する雰囲気があるが、マンチェスターにはそうした風景はない。

宿泊先に選んだホテルはManchester Conference Centreという一角にある。昔、ここがどのような場所であったのか記憶がないのだが、ホテルのすぐ近くにあるパブには見覚えがある。典型的なビジネスホテルで一泊くらいならよいが、長居はしたくないような場所である。何かが不快ということではなく、単に落ち着かないというだけのことだ。


須賀敦子

2008年06月27日 | Weblog
須賀敦子という人の書いたものを、何故、自分は今まで知らなかったのだろうと不思議に思った。須賀敦子という文筆家を知ったのは、3月に休暇で東京に帰った時、宿泊先のホテルで手にした日経新聞の文化面に特集記事が出ていたからだ。新聞を読むという習慣を失って久しいのだが、その日の朝はたまたまロビーに積んであった新聞を手にしたのである。

その記事で、須賀敦子が「静かなブーム」だと書いてあった。記事の中央左側にコルシア・デイ・セルヴィ書店で撮影されたという若き日の須賀氏の写真があった。この書店がただの書店ではないことは、その時はまだ知らなかった。興味を持った本をアマゾンのサイトで検索し、読みたいと思ったものをカートに入れ、カートの中身が送料も含めて2万円くらいになると発注することにしている。さっそく河出文庫に収められている須賀敦子全集全8巻をカートに入れた。その全集は他の本とともに5月21日に手元に届いた。届いた本を一冊ずつ読んでいき、6冊目に手にしたのが須賀敦子全集の第1巻だ。

不思議な本である。これまでに自分が出会ったことの無い種類の本だ。内容が面白いわけではない。作者の個人的な出来事が淡々と綴られただけのものだ。ミラノという場所もイタリア人という人たちも、自分にとっては全く無縁である。作者が生きた時代にしても、自分にとっては現実感の伴わない過去のことに過ぎない。それなのに、ひとたび読み始めると、その文章の流れから目が離せなくなってしまうのである。他人の書いた文章をとやかく言える立場にはないのだが、それにしても、美しいというのか、好ましいというのか、その文章によって描き出される風景のなかに引き込まれてしまう、とでも言えばよいのだろうか。

以前にも書いたと思うが、本を読むときはいつも付箋を手元に用意して、気になったり気に入ったりしたところに貼っていく。この本に貼られた付箋の数はわずかなものでしかない。それなのに、読み終わった後の満足度が異様に高い。文庫とはいえ、400頁を超えるので、一気に読み通すというわけにはいかないが、それでも全8巻を読み終えるのにそれほど時間はかからないような気がする。

聖地巡礼

2008年06月26日 | Weblog
ふと思い立って週末にマンチェスターへ出かけることにした。前回、留学のために渡英したのが、ちょうど20年前の今頃であったのを思い出した。それで、あの町がどのようになっているのか、急に見てみたくなったのである。ついでに、留学時代に行きそびれてしまったヨークの鉄道博物館にも足を伸ばすことにした。ロンドンを発ってマンチェスターへ行き、そこで一泊してヨークへ、そしてロンドンへ戻るという経路を考えた。

まずは列車の予約である。昔はインターネットというものがあるにはあったが、今のような姿ではなく、それを使って切符を買ったりするという芸当はまだできなかった。鉄道の切符を買おうと思えば、駅まで出かけて長い列に並ばなければならなかった。記憶が定かでないが、マンチェスターからロンドンまでの往復は割引料金で21ポンドであったと思う。当時は国有鉄道だったが、それなりに営業努力はしていて、曜日や時間帯によって同じ区間でも複数の運賃が設定されていた。マンチェスターとロンドンを往復するにしても、どちらを起点にするかで料金は違ったし、正規料金もあるのに、その料金で乗車しているのは1人もいないのではないかと思えるような状況だった。鉄道が民営化された今でも、そうした料金体系の複雑さは昔と変わらない。結局、ロンドンからマンチェスターまでが26ポンド、マンチェスターからヨークまでが6ポンド、ヨークからロンドンまでは34ポンドということで予約を完了した。これらの運賃は距離と比例していない。宿は、マンチェスターのブリタニア・ホテルを予約しようかと最後まで迷った末に、それより30ポンド安い新しいホテルにしてしまった。

ブリタニア・ホテルはマンチェスターの中心部、ピカデリー公園の近くにある、かなり年季の入った建物である。その威風堂々とした立ち姿がいかにも英国風という感じがしたものだが、もとは木綿の倉庫である。その成り立ちの所為か、単に経営方針の所為なのかは知らないが、立派な外観の割に中のレストランやパブはお手軽で、留学中はよく利用した。私はカスタードプリンが大好きなのだが、そのプリンのことを英語で「cream caramel」と呼ぶことを知ったのはここのレストランでの夕食の時のことだった。英国にもコロッケがあるということを知ったのもこのレストランでのことだ。ただ、当然ながら宿泊する機会は無かった。このほかに、ミッドランド・ホテルという当時のマンチェスターでは最高級とされるホテルが市役所の近くにある。既に当時からホリデー・インの経営であったが、その割には敷居が高く、とうとう一度も利用することはなかった。今回もミッドランド・ホテルのレートをチェックしたが、やはり問題外であった。

ヨークの鉄道博物館は鉄道ファンなら、行ったことが無くても当然その存在は知っているという聖地のような場所である。別に自分が「鉄道ファン」であるとは思っていないのだが、小学生の頃は毎週のように秋葉原にあった交通博物館へ足をはこび、小遣いの制約で容易に数は増えなかったが鉄道模型を集め、近所の書店には並ばない鉄道雑誌をバスと電車を乗り継いでわざわざ遠くの書店まで買いにでかけた身としては、ロンドンに暮らしていてヨークの鉄道博物館を無視するわけにはいかないのである。通うつもりは勿論ない。たぶん一度訪れてみればそれで気が済むと思うのである。

博物館といえば、秋葉原にあった交通博物館も元は万世橋駅だった場所を再開発したものだったが、マンチェスターの科学産業博物館(Manchester Museum of Science and Industry)も元は鉄道の駅だった場所である。世界初の商用鉄道は1825年開業のストックトン・ダーリントン鉄道と言われているが、1830年に開業したのがマンチェスター・リバプール鉄道で、ここはそのマンチェスター駅という由緒ある場所なのである。それほど規模は大きくないのだが、興味深い展示がたくさんあったと記憶している。ここも今回の訪問の目玉のひとつだ。

この小旅行についても備忘録を掲載する予定である。

未来は君たちにかかっている

2008年06月25日 | Weblog
ここでの暮らしで東京と違うことのひとつは、子供が多いということだ。街中でもベビーカーを押した人は多いのだが、職場に連れてくる人も驚くほど多い。ただでさえ無駄口多くて騒々しい職場なのに、赤ん坊の泣き声まで聞かされてはたまったものではない。人は義理で「かわいいねぇ」と言うだろうが、赤ん坊、しかもぐずる赤ん坊を可愛いと思うのは親くらいのものである、と思う。

しかし、子供の姿が多いということは、それだけ未来を担う潜在力が大きいということでもあろう。たとえ朝夕のラッシュ時にベビーカーを押して当然のように混雑した車両に乗り込んでくる奴がいても、しかもそのベビーカーがマクラーレンのゴツいやつであっても、そのベビーカーの中身が自分の将来を支えてくれると思えば許せるのかもしれない。

東京ではあまり聞いたことがないのだが、こちらでは職場に託児所を備えたところが珍しくないようだ。通勤時間帯にベビーカーを押してくる人たちは、そういう職場で働いているのだろう。子供を大切にするというのは社会として当然だ。調べたわけではないが、国としての政策・戦略として、子育ての支援というものがあるのだろう。子育て支援政策というのは、「少子化担当大臣」というポストを置いて事足れりとすることではない。家庭を営むこと、子供を育てることに前向きになれるような社会を作るという、もっと大掛かりな政策であるはずだ。個別具体的には様々な育児支援策も勿論必要だが、より根本的には、国民が希望を持って暮らせるような仕組みが必要だろう。経済効率を追求するあまり、長時間労働が強いられたり、何に使われているのかわからないような税金でせっかくの稼ぎがごっそり無くなるのでは、そもそも生きることに希望が持てない。自殺者が多いのが何故なのか、その気になれば就労可能なのに敢えてそうしない人々が存在するのは何故なのか、日本では国家や政府として誰もまともに考えているようには思われないのだが、すべて一体の問題だと思う。

客を見ればわかること

2008年06月24日 | Weblog
近所にThe O2という多目的ホールがある。昔、ミレニアム・ドームと呼ばれていたと記憶している。よくこのホールでコンサートや芝居が行われる。今日は、ここでニール・ダイアモンドのコンサートがあるのと、地下鉄Jubilee Lineの信号機故障の影響が重なり、仕事帰りの地下鉄はかなり混雑していた。

どのようなアーティストのコンサートなのか、客を見ると少なくとも古い人か今の人かくらいはわかる。きょうの客は年寄ばかりだ。これがときにはティーンエージャーの女の子ばかりのときもあるし、子供とその親とか爺婆のときもあり、お兄ちゃんが多いときもある。ただ総じて女性が多いような気がする。日本でも、例えば劇団四季の会員は8割が女性だというし、映画の観客も女性が多いのだそうだ。文化活動は洋の東西を問わず女性が熱心であるようだ。

昔、武道館にエリック・クラプトンのコンサートを聴きに行ったことがある。武道館でのコンサートに行くのはその時が初めてだったのだが、予想していたほど大きいとは感じなかった。この時の客は老若男女で、さすがに息の長いアーチストは客層の幅が違うと感心したものである。ポール・マッカートニーの東京ドームでのコンサートにも1993年と2002年に行ったが、格が違いすぎてコメントのしようがない。

しかし、どんなに「大物」と言われるアーチストでも、最後まで売れつづけるということは無い。ポール・マッカートニーはゴールド・ディスクの最多保持者であり、最多レコード売上ミュージシャンでもあるが、1985年リリースの「スパイズ・ライク・アス」が現時点での最後の全米トップ10ナンバーである。その後もベストアルバムやライブアルバムがミリオンセラーを記録しているが、もはや「現役」というイメージは無いだろう。今日のコンサートの主役であるニール・ダイアモンドはポールと同世代だが、やはり1986年を最後にヒットチャート入りしたナンバーは無いそうだ。

どのような物事にも旬というものがあると思う。ただ、その旬の長さは一様ではないし、複数の旬があっても、同じことは二度とは起こらないと思う。時間は一回性の出来事の連続であり、歴史は繰り返さないのである。文明の盛衰から個人の生活史、人と人との関係のようなものに至るまで、旬と呼べる時期があり、必ず終わりが来るのである。

ドナドナ

2008年06月23日 | Weblog
年齢を重ねると疲労の回復が遅くなる。今日は朝起きるのが辛かった。

少し食べるもので体調を整えようと思い、仕事帰りにいつも立ち寄るスーパーで果物を買う。このところ苺が大量に陳列されていたのだが、在庫がだいぶ吐けたようだ。空きが目立つ棚で、店員がバーコードの貼り替えをしていた。新しいバーコードが貼られた苺のパックは450gで1ポンドである。もとは1.99ポンドの商品で、最初は3.98ポンドだった。さすがに品質はそれなりで、かなり傷みがある粒が混ざっているので、パックのなかをよく見て買わないといけない。さくらんぼもそろそろマークダウンではないかと思えるような状況だ。それにしても、連日これほど大量の単一商品を供給し続けるというのは驚異的だ。是非、その苺畑を見てみたい。

農産物というのは種を蒔いたり、苗を植えたりしてから収穫するまでに時間がかかる。年に何度も収穫できるものは限られているだろう。それが、チェーン展開する大型小売店の店頭に大量に並ぶのである。例えばこの苺が、いったいどのような流通経路でここに到達するのか、素朴に疑問に思う。しかも、我々が消費するのは苺だけではないのである。小麦もあれば米もあり、様々な野菜もあれば果物もあるし、肉も魚もある。

肉や魚に至っては命がある。我々は命を消費している。自分の命を支えるために、おそらく驚異的な数の命を消費している。それが良いとか悪いとか言うのではない。人は人を殺すと罪に問われるのに、牛や豚や鶏や魚はなんのためらいもなく食べてしまうのである。食べてしまって、満足そうに「おいしかった」などと言ってしまうのである。人にしても、例えば戦争なら、敵国人をたくさん殺すと罪に問われるどころか英雄になれるのである。大切な命とそうでない命はどのように選別されるものなのだろうか。

備忘録 St Ives 2日目

2008年06月22日 | Weblog
前日は21時頃に就寝したと思うが、今朝目がさめたら7時を過ぎていた。外は快晴。初めての場所の雨天と晴天を両方体験できるとは幸運なことである。朝食の時間は8時半から9時半の間と聞いていたので、その前に宿の周りを散策する。

風景において光の影響がいかに大きいかということは、同じ景色を雨のなかと晴れの時とで比較するとよくわかる。朝8時頃なのに、砂浜には既に人の姿がある。水のなかに入っている人もいる。こちらの人にとって、夏の日というのはそれほど待ち焦がれていたものなのだろう。最初、St Ivesの市街まで9時12分発の列車に乗ることを考えたが、海岸沿いに遊歩道があるのを見つけたので、こちらで行くことにして、ひとまず宿へ朝食に戻る。

朝食はいろいろ選択があったが、せっかく典型的な英国風の宿に宿泊しているのでフル・イングリッシュ・ブレックファストをいただく。決して美味しいわけではないのだが、歴史のなかで培われた味に暖かさとか安心を感じる。

宿を9時10分過ぎに出て、海沿いの遊歩道をSt Ivesへ向かって歩く。道は鉄道とほぼ平行しており、時に線路を跨ぎながら絡まるように延びている。Carbis Bayでは遊歩道が海岸を舐めるように走り、鉄道は高架上だったが、海岸を過ぎると遊歩道は木立に囲まれた急な登り坂になり、やがて線路を跨ぐ陸橋に続く。そこで一旦視界が開けるが、すぐに木立のなかに埋もれ、木漏れ日のなかを歩くようになる。それまでは人と人とがすれ違うのも難儀な道幅でしかなかったのが、突然、車が通ることができるような幅と平坦さになる。道の左右には別荘地のような景色が広がる。さらに進むと木立が途絶え、目の前にSt Ivesの港と町が広がるのである。下手な映画を観ているよりも心が躍る。再び視界は木々にさえぎられるが、それは一瞬のことで、道は下り坂になり、再び線路を跨ぎ、目の前の海岸に向かって降りていく。

Carbis Bayに立っていた道標にはSt Ivesまで1.5マイルとあったが、St Ivesの駅がある海岸までの所要時間は約30分ほどだ。今日中にロンドンに戻らなければならないという制約はあるが、今回の旅はSt Ivesという場所を見ることが目的なので、もう急ぐ必要は全くない。そもそも、私はもはや何事においても急ぐ必要がない年齢に達している。数秒後にはこの世にいないかもしれないし、数十年後もこうしてブログを書いていて、「まだやってんのかよ」と呆れられているかもしれない。いずれにしても、心安く終わることだけを願っている。だから、今、目の前にあることをあるがままに受け容れ、甘受することが残された時間の正しい使い方だと思っている。

St Ivesはそうした、先を急がない人にはうってつけの町で、街並みの広がりといい、海岸線といい、なんともいえない風情と美しさがあり、いつまで眺めていても飽きることがない。町の大きさもこじんまりとしていてよい。人を風雨から守るかのような家並みや通りの様子が安心感を与えるし、最果てな感じと町の賑わいとの対比も面白い。人と人との距離が遠すぎず近すぎず、程良い間合いがとれそうな予感を与える。海がきれいなのもよい。

最果て、と言えば、St Ives Headという海に突き出た場所がある。そこはThe Islandとも呼ばれているようなので、もともとは島だったのかもしれない。その場所は一面芝生の丘のようになっていて、その緑の丘の頂上に小さな石造りの教会がある。この何も無い丘、その向こうに広がる海、頭上の青い空、丘の上の小さな小屋、その風景がいかにも最果てという感じがしてよいのである。

よく、老年期を迎えたら都会で暮らすのがよいのか、田舎で暮らすのがよいのか、という話題がある。あくまで個人の考え方とかライフスタイルの問題であって、どちらが良いとか悪いというような議論ではない。私はこれまでの生活の基盤が東京とその周辺にあるので、いよいよ老年期になったら住み慣れたところがよいのではないかと最近までは思っていた。しかし、今は東京にこだわることもないと思うようになっている。生活というのはその気になりさえすれば、快適であるか否かは別にして、どこでも営むことができる。特に今は生活に必要なものというのはそれほどないということが確認できたので、その時の状況に応じて決めればよいと考えるようになった。

それはさておき、この古い街並と、そこに集まる芸術家たちとのかかわりが興味深い。19世紀に鉄道がこの地にまで開通して以来、その自然の美しさもあって、芸術家が集まってくるようになったのだそうだ。ターナーの絵にもこの地の風景を描いたものがあるし、ここを活動の拠点とした画家は数知れない。日本との関わりもある。香港生まれで日本育ちの英国人バーナード・リーチは日本で陶芸を学び、1920年に濱田庄司とともに、ここで窯を開いた。英国に限らず、当時の欧州では、陶芸に対する芸術としての評価は低く、工業製品としての均整の取れた製品のほうが優れているという考え方が支配的であったという。たぶん、世間一般のレベルでは今でも手びねりで作ったような作品はこの国では評価されないのではないかと思う。このため、リーチの作品は容易に評価が得られず、1950年代になって、ようやく米国で注目されるようになったという。ほかにこの地を活動拠点とした芸術家ではバーバラ・ヘップワースを挙げることができる。彼女の住居兼工房跡はTATE St Ives別館として公開されている。彼女の名前は今日初めて知ったが、彼女の作品には見覚えがあった。ようやく作品と作者が結びついて、なんとなく自分のなかのふわふわとしたものがひとつ落ちついた感じがした。

バーバラ・ヘップワースの作品のなかには、ジャコメッティの初期の作品や、ヘンリー・ムーアの作品を髣髴させるものがある。かねがね自分の目と他人の目がどの程度同じでどの程度違うものなのか興味があった。自分と他人とが同じ風景を前にしたとき、果たして自分と同じものを彼・彼女は見ているのだろうか、という素朴な疑問が常に自分のなかにある。「群盲象を撫でる」とか「衆盲象を模す」という言葉がある。機能として視覚を備えていても、果たして自分には見えるべきものが見えているのだろうかという疑問も同時にある。例えば、本を読んだり映画を観たりしたときに、その感想を人と語り合うと、物事の受け取り方とか理解の仕方が人によってこうも違うものかと驚くことがある。それは驚きでもあるし、自分が他人と違うことへの安心でもあるし、不安でもある。一方で、こうして、美しさの造形において似たようなものが現れるというのは、人の感覚の共通性を示唆するものとして興味深いし、なんとなく安堵を覚えることでもある。

港は、昔は漁港だったのだろうが、今はヨット・ハーバーのようになっている。その港に面したところには食べ物の店や画廊が軒を連ねている。日が差し込むショー・ウインドーに絵を並べておいてよいのか、とも思うのだが、ともかくそういう店がある。港のあたりは町の繁華街の一角になっているが、そこから内陸へ向けて商店街が続く。ここで目を引くのは名物コーニッシュパイの店だ。ロンドンでみかけるものより一回り大きい。それで値段はロンドンと変わらない。そんなコーニッシュパイの店のなかで、オープンキッチンにして、通行客からパイの調理過程が見えるようにした店があった。既に昼近い時間になっていたので、このPengenna Pastiesという名の店でコーニッシュパイの”Traditional”と、スコーンをひとつ買った。パイが3ポンドでスコーンは35ペンスだった。

あつあつのコーニッシュパイを抱えて駅へ向かう。12時40分発の列車に乗って、昨日とは逆のコースでNewquayへ向かう。St Erthまでは距離が短いので遅延することはない。St Erthでも隣のPenzance駅が始発の列車に乗るので、定刻通りである。ここからParまでは1時間ほどだが、やはり定刻通りParに着く。問題はここからである。Parで乗車する予定のNewquay行きの列車は遠くロンドンからやってくる。定刻通りに着くはずがないのである。その列車は定刻を30分ほど遅れ15時10分にParを後にした。ParとNewquayの間には停車駅が無いのだが、単線であり、線路もそれなりなので速度はゆっくりとしたものである。遅れが短縮されることなく、16時15分Newquayに到着。

NewquayとSt Ivesとの違いは、結局、町の品格のようなものの差ではないかと思う。どちらも元は漁村であったのだろうが、片や芸術家が集まり、片やそれほどでもない人々が集まるという時間の積み重ねが、街並みの様相を変化させ、そこに有形無形の差異を蓄積したのではないかと思うのである。人も同じであろう。どれほど表面を取り繕ったところで、そこに至る時間の蓄積というのは隠しようがない。だから見栄はそれとわかってしまうし、付け焼き刃の知識はいかにも付け焼き刃に聞こえるのである。自分を飾るつもりのものが、結果として自分を貶めてしまうというのは皮肉なことだ。

空港へのバスは、1時間に1本である。飛行機の出発時刻は18時15分だが、小さな空港なので、30分前くらいまでにチェックインできればよいのではないかと考えた。それでタクシーは使わず、17時05分発のバスを待つことにした。バスは定刻通り17時27分に空港に到着。自分の乗る飛行機はまだ空港に姿がなかったがBAのB737が駐機している。ヒースローやガトイックで見れば小さな飛行機なのだが、ここで見ると巨大に見える。このBAは18時ちょうどに出るLondon Gatwick行きである。この空港では空港税が徴収される。出発客に対し1人5ポンドである。今日の飛行機はWOW110便。定刻通りPlymouthから到着。この便はロンドン着が19時25分と使い勝手が良い時間である所為か、満席だった。London Gatwickには定刻通り到着。19時35分発のGatwick ExpressでLondon Victoriaに出る。

ロンドンに着いてからも問題がある。今日は日曜なのであちこちの鉄道路線で工事による運休がある。普段通勤に利用している地下鉄Jubilee LineはGreen ParkとNorth Greenwichの間が運休。昨日の朝、自宅の最寄駅からLondon Charing Crossまで利用したSoutheasternも今日は運休。そこで、地下鉄District LineでMonument駅に行き、そこでDLRに乗り換えて、Cutty Sarkで降り、バスで帰ろうと考えた。

Monumentまでは順調だった。ところがDLRのホームが混雑している。電車の本数が少ないのである。外は明るいので、昼間と同じ感覚に陥ってしまうのだが、日曜の夜なので、公共交通機関はそれなりの運行しかしていない。おまけに大騒ぎをしている若者の一団もいる。厄介なことに巻き込まれたくはないので、最初にやってきた電車に乗る。King George V行きだったので、Cutty Sarkへ行くには途中のWestferryで乗り換えなければならない。ところがWestferryのホームにも別の若者の団体がいて、Cutty Sark方面へ行く電車を待っている様子だ。急遽予定を変更して、このままCanning Townまで行き、そこで地下鉄Jubilee Lineに乗ることにした。Canning Townでの乗り換えは順調だったが、保線工事のため電車が次のNorth Greenwichで折り返すというアナウンスに激怒しているオヤジがいる。手近な客をつかまえては、「なぜ、ロンドン市内までいかないんだ。おかしいと思うだろう?」と絡んでいる。日曜の夜は出歩くものではない。幸い、オヤジが私のいる場所に到達する前に電車はNorth Greenwichに到着し、難を逃れることができた。通勤ではこの駅から歩くのだが、もうへろへろだったので、停車していたバスに乗った。住処には21時10分に着いた。

備忘録 St Ives 1日目

2008年06月21日 | Weblog

午前6時少し前に住処を出て、最寄の駅から6時2分発の列車に乗る。終点London Charing Cross駅には定刻よりも少し早い6時25分に到着。ここから徒歩で地下鉄Embankment駅へ行き、6時28分発の列車に乗る。London Victoria駅には6時35分頃に到着。ここでGatwick Expressという空港までの直通列車に乗り換える。Gatwick Expressは15分毎に発車する。6時45分発の列車に乗り、空港には7時15分着。空港では、鉄道の駅はSouth Terminalにあるが、今日これから乗る飛行機はNorth Terminalから出るので、さらにNorth Terminal行きの自動運転の車両に乗る。SouthとNorthの間は5分で結ばれている。まずはチェックイン。それから、空港内のマックで朝食。ベーグルサンドとコーヒー。セットメニューではないので、3ポンド2ペンス。

Air Southwestという航空会社のWOW103便に乗る。出発の案内放送があったので、55-Cという搭乗口で搭乗券の改札をして、そこから通路を進む。通路は地上へ向かう階段になっており、建物の出口に通じている。出口を出ると、そこに双発のプロペラ機があった。この便はLondon=Plymouth=Newquay=Londonという循環航路を飛ぶ。今日は天候が悪く、Plymouthに着陸したものの、霧で視界が規定に達しないとのことで20分ほど立ち往生する。Plymouth空港の規定によれば離陸に必要な視界は220mであるのに対し、現在は150mしかないというのである。視界の状況に改善があったとは思えなかったが、それでも離陸を決行し、定刻より20分ほど遅れ11時10分頃にNewquay空港に到着。自分を含めて10人ほどの乗客が降りる。殆どの人たちは迎えの人があり、その車に乗ってどこかへ行ってしまう。空港の建物の出口にはタクシーの予約係の人たちが手持ち無沙汰に座っている。タクシーに乗ってしまおうかとも思ったが、バス停へ行ってみる。Newquay市街へ向かうバスが11時25分に出ることになっていたので、そのままそこでバスを待つことにした。バスを待つのは私だけ。本当にバスが来るのか不安もあったが、ほぼ定刻通りに緑色の小さなバスが姿を現した。

バスの運転手はショートカットの女性だ。いかにも善良そうな雰囲気だった。バスは空港を後にすると、麦畑が果てしなく広がるなかを走る。すぐに集落のような場所に着き、そこにある待つ人のいない停留所の前を減速して通過すると、今来た道を空港方面へ向かう。空港の敷地の角で方向を変え、空港を背に進む。細く曲がりくねった道を進むと、やがて海が見え隠れしてくる。道は相変わらず曲がりくねりながら、入り江へと降りていく。そこに大きなホテルがあり、入り江はそのホテルのプライベートビーチのような雰囲気になっている。そこで何人かの乗客が降りたり乗ったりして、今度は曲がりくねりながら入り江を後に登りだす。右手に海が見え隠れしながら、草原のような場所を進む。そのうちリゾートマンションのような建物が増えはじめ、いつのまにか賑やかな通りに出て、途端に渋滞にはまる。それでも、既に市街に入っており、ほぼ定刻通り駅前に着く。終点はその先にあるバスターミナルだが、駅前で下車。まずはSt Ivesまでの列車の切符を買う。

乗車している時間は合計で2時間ほどなのだが、13時22分発の列車に乗って、途中2回乗り換えて、St Ivesに着くのは17時26分である。単に時間だけを考えれば、ロンドンからずっと鉄道を利用したほうが早いくらいだ。しかし、今更どうしようもない。列車を待つ間、町を徘徊して時間をつぶすしかない。

Newquayの目抜き通りは貸しサーフボード屋とかビーチ用品の店舗が目立つ。勿論、よくある商店街のようにカフェやパブも多いが、土産物屋風の店もホテルも並び、横丁にはB&Bが軒を連ねているあたりが、いかにも観光地である。地形は複雑で、海岸は切り立った崖になっている。崖の下には砂浜がある。砂浜ではまさにサーフィン教室が行われているらしく、講師らしき人2人を要に黄色いサーフボートが20ほど放射状に広がる。既に海のなかに入って指導を受けている一団もある。この崖の間際まで建物が建っている。建物は総じて古く、屋根には苔のようなものが生えている。そこでカモメが羽根を休めていたりする。その歴史を感じさせる具合が良い。その建物の通りに面した側が、例えばゲームセンターのけばけばしい感じだったりすると、その表と裏の対照もまた楽しい。

列車の出発時間が近づいてきたので駅へ行く。駅のなかにあるカフェでメルトサンドと紅茶をいただく。食べ終わる頃、列車が入線してきた。いつのまにか駅の横の広場にタクシーが列を成している。列車から降りてくる客が目当てなのだろう。London Paddington発の特急で、機関車2両客車8両の10両編成だが、そこから降りてくる客はそれほど多くはない。この列車は折り返しLondon Paddington行きとなる。降車が完全に終わるか終わらないかのうちに、乗車する客の改札が始まり、列車は定刻通り13時22分に発車する。Newquayを出ると次の停車駅はParである。妙な名前の場所だが、そこでLondon Paddington発Penzance行きの列車に乗り換える。待ち合わせは1時間37分。

列車が来る頃から雨が降り出し、列車が動き出した時には雨脚が強くなっていた。単線の線路を時々沿線の木々の枝に車体をこすりながら、列車はゆっくりと進む。動き始めた時には線路に沿って比較的新しい家が並び、庭のサンルームでお茶を飲む人の姿も見える。やがて家並みは途切れ、牧草地となる。羊がいたり、牛がいたり。それがずっと続く。途中、反対方向へ向かう列車とすれちがうため、徐行するなどして、定刻より遅れて14時25分にParに到着。おかげで待ち合わせ時間は1時間31分に短縮された。

Par駅周辺を歩いてみる。何も無い。往来の活発な通りがあるが、バス路線である雰囲気がない。通りに沿って商店もあるが、人の通りは殆どない。仕方ないので、駅に戻り、待合のベンチに座って持参した文庫本を読む。須賀敦子全集の第1巻である。本人の思い出話なのだが、文章になんともいえない雰囲気があり、つい本のなかの世界に引き込まれてしまう。あっというまに乗り換えの列車の到着予定時刻になった。列車は定刻より5分ほど遅れて到着したので、結局待ち合わせ時間は殆ど予定通りとなった。

この列車はほぼ満席だ。列車の中を移動して、先頭車両近くに空きを見つけた。線路は高架とか土手の上を走っているようで、景色が眼下に広がる感じである。私が座っている側の窓からは相変わらず牧草地や麦畑が広がっている。うとうとしながら座っていると、駅に着くたびに車内がごそごそとする。目的地のSt Erthに着く頃には車内はがらがらになっていた。列車は遅れをさらに3分ほど拡大して、17時ちょうどにSt Erthに着いた。ここでSt Ives行きの列車に乗り換える人は20人ほどいて、ホームは一時活気付く。今度は待ち合わせ12分。細かい雨がかなり強い風に煽られながら降っている。列車がSt Erthを出ると程なく、進行方向右側の窓に海が広がる。最初は川かと思ったが、すぐに海と確信できる風景になる。雨に煙る海というのは、実際以上に寒々として見える。切符はSt Ivesまで買ったが、予約してある宿はそのひとつ手前のCarbis Bayというところにある。風雨がひどく、肌寒いので、今日のところはひとまず宿に落ち着くことにする。

Carbis Bayには定刻通り17時21分に着く。下車したのは私を含めて4人だった。駅はホームがあるだけのもので、駅舎も屋根もない。傘をさし、坂を登っていく。駅の周りには小さなホテルや瀟洒な家が並ぶ。宿泊先の宿の場所を確認してこなかったので、目に付いたホテルを訪ね、そこの人に自分の宿泊先の場所を尋ねると親切に教えてくれた。結局17時30分頃、目指す宿にたどり着いた。海に面して高台に立つ小さくて年季が入っているけれど小奇麗な建物だ。宿の名前はAtlantic Hotel。宿のオヤジは春風亭柳昇のような感じの人で、でもチェックインの手続きはその柳昇氏ではなくて、そこにいた年配の元気のよい婦人がやってくれた。部屋は小さいシングルルームだが、清潔で、トイレとシャワーがついている。これで朝食が付いて一泊70ポンドである。相場に対して高いのか安いのかわからないが、既に十分満足である。部屋に落ち着き、窓の外を見ると、雨脚はさらに強くなっているように見えた。

夕食はあてがないので、宿泊先の宿のレストランで食べることにする。18時から営業だと言われていたので、18時過ぎに階下へ降りていくと、予約が必要だという。その場で予約をして、18時45分ということにしてもらう。前菜とメインから一品ずつ選び、余裕があればデザートということのようだ。寒かったので、前菜にはマッシュルームのスープを、メインには牛肉とマッシュルームのパイを頂くことにする。スープはベジタリアン用ということで肉類は一切入っていないのだが、おそらくチーズが入っているのだろう。乳製品系の風味とマッシュルームの風味とが絡まりあい、舌先でとろけるような美味しさだ。パイは味自体はごくありふれたものだが、様々な種類のマッシュルームが入っていて、食感のバリュエーションが楽しい。付け合せの温野菜とジャガイモがパイによく合っていた。きちんと手が加えられた料理というのは、味覚や嗅覚が感じる以上のものを身体に与えてくれる。話し相手がいるわけでもないのに、食べ終わるまでに1時間以上もかけてしまった。デザートをいただく腹の余裕はなかった。

身体が温まり、満腹になったところで部屋に戻って読みかけの本を開く。雨がやみそうにないので、今日は夏至だというのに、外出はしないことに決めた。

本日の移動

05:55 住処を出発
06:02 Westcombe Park発
06:25 Charing Cross着
06:28 Enbankment発
06:35 Victoria着
06:45 Victoria発
07:15 Gatwick Airport着

11:10 Newquay Airport着
11:30 Newquay Airport発
11:50 Newquay Station着

13:22 Newquay発
14:25 Par着
16:00 Par発
17:00 St Erth着
17:12 St Erth発
17:21 Carbis Bay着
17:30 宿に着く

 


「崩れ」

2008年06月20日 | Weblog
幸田文「崩れ」を読了した。たぶん読む人によって評価が真っ二つに別れるのではないだろうか。私には面白くて、途中、何度も笑みがこぼれてしまった。圧倒的大多数の人にとっては笑えるところなどどこにもなさそうな本なのに。

72歳の筆者が日本のあちらこちらにある地面の崩壊現場を見て歩いた見聞記である。いったい噴火の跡や地すべりの跡を見て何がそんなに面白いのだろうと思うかもしれない。私も読み始めた時には、なぜこのような話が本にまとめられたのだろうと訝った。ところが、読み出したら愉快でたまらない。おそらく、自分が著者の目に近いところにいると感じられるからだろう。

著者の目に近いというのは、例えば、本書執筆時の著者の年齢が現在の私の親とほぼ同じであり、その年代の人々の感覚というものに私が興味を感じているということがある。また、最近は機会に恵まれないのだが、自分も山歩きが好きであることとか、地理に関心があること、本書に登場する場所のいくつかに実際に足を運んだことがあるといったことも関係しているだろう。土地の崩壊という現象に素朴に驚き、その心の動きが的確に文章に表現されて、その作者の驚きが自分の驚きのように感じられているということも、勿論あるだろう。

しかし結局のところ、本を読んで面白いと感じるのは、表現とか構成とか、自分の経験との重ね合わせというものもあるだろうが、そうした個々の要素を包括した総体としての印象によるところが大きいのだろう。それを感性と呼ぶのかもしれないが、読書は食事にも似ている。食事も、個々の食材の味とか、それを包括した料理としての味、さらに料理の組み合わせによる味、もっと言うなら、食事を共にする相手の印象、器やその場の雰囲気の影響もあるだろう。どちらも、人が自覚している以上に多くの感覚を刺激しているのだと思う。

以前、このブログに、自分の書いたものを読み返すと面白いと書いた。それは当然のことなのである。まず第一に自分が面白いと思ったことを書いているからであり、第二に自分の体験や思考を追体験できるからであり、第三に自分のツボに触れるからである。自分の書いたものが他人に面白いと思われるためには、リテラシーをある程度共有できている必要がある。その上で、表現技巧や話の展開力が問われるのである。小説家や文筆家と常人との最大の違いは、対象とする読者層のリテラシーに応じた題材、視点、構成、表現を自在に操る能力の多寡にあると思う。表現力とか構成力という、どちらかというと皮相な技巧の有無以前に、プロのもの書きには他人の感性のツボを見抜く能力が備わっているのだろう。プロ野球選手が、常人には見ることのできないボールを見ることができるのと同じことである。その誰にでも真似のできるわけではない部分が、書いたものの総体としての印象を決定付けているのだと思う。

夏風邪考

2008年06月19日 | Weblog
職場の私の席の近くで風邪に似た症状の人が二人いる。おそらく最初に罹患したのが、私の向かいの席のインド人で、その左隣の若い女性はインド人から感染したものと思われる。どちらも咳と鼻水がひどいが、発熱はないようだ。この人たちは、咳やくしゃみをするときに口を手で押さえるということをしない。そのような習慣が無いのだろう。向かい側で終日げぼげぼやられていたのでは不愉快で仕方が無い。咳がひどいのだからおとなしくしていれば良さそうなものだが、無駄口は止まらない。沈黙に耐えることのできない心の病も抱えているのではないかと思われるほどである。

2002年にSARSという病気が中国を中心に流行した。WHOが2003年7月11日に発表したという統計によれば、中国本土での発症数が5,327人、うち死亡348人と最多で、以下、香港、台湾、カナダ、シンガポール、アメリカ、ベトナムと続く。日本では2003年4月3日に政府が新感染症として取り扱うことを発表、原因が判明した4月17日からは指定感染症になった。同じ統計によれば、日本での感染者はいなかったことになっている。

中国で発生し、その周囲の地域に広がり、なぜか日本を飛び越えて北米にまで蔓延したのは不思議である。中国人あるいは中国系の人々の分布状況を反映しているのかもしれない。だが、それだけではないと思う。韓国でも3人の発症が確認されているが死者は出ていない。発症者が少なくても死者が出ているのはフィリピン、タイ、マレーシアというアジアの国以外に、フランスと南アフリカがある。アメリカは発症者数71人で6番目に多いのだが、米国内での死者はいない。

一般論として、病気の予防の基本は衛生と栄養の管理だろう。現在、異国でひとり暮らしの身としては、健康管理に以前よりも神経を使っているつもりである。私の向かいのインド人はしょっちゅう風邪に似た症状を呈しているのだが、その感染を免れ、なんとかこれまで無事に暮らしていられるのは日頃の健康管理が功を奏しているものと思う。

健康管理といっても特別なことをしているわけではない。家に帰ったら手を洗うとか、食事は野菜類を多めにし、生ものは避ける、という程度のことだ。こちらでの住処には、日本と違って玄関に靴を脱着する場所がないのだが、自分は外から帰った時、玄関のところで靴を脱ぐことにしている。週に一度は家中に掃除機をかけ、同じく毎週末に洗濯をし、風呂には毎日入り、下着も毎日取り替える。どれも当たり前のことだろう。それでも病気になったら医者に診てもらうしかない。毎日、目の前でごぼごぼ咳をされ、無駄口と馬鹿笑いを聞かされているのだから、菌満載の泡沫が飛散しているはずであり、そうしたなかで無事でいられるほうが奇跡に近いというものだ。地獄のような職場である。

ちなみに、そのインド人の最も近しい話し相手である右隣の人には感染の様子が無い。間違いなくインド泡沫を最も大量に浴びているはずであるにもかかわらず、である。それは、彼の習慣に関係があるのではないかと思う。この人は暇さえあれば梨を食べているのである。やはり、風邪の予防にはビタミンが効果的なのだろう。

こちらで一年を通じて最も大量に流通している果物は、バナナ、リンゴ、オレンジ、それと洋梨である。私もこちらに来てから頻繁に洋梨を口にするようになったのだが、洋梨というのは完熟していなくても、さっぱりとしていておいしい。カリッとした食感も良い。ちょうど日本の梨のような感じである。完熟すれば、とろけるように甘く、それもまたおいしい。熟成の進行状況に応じて、それぞれの味が楽しめるのである。

私も毎朝果物を食べている。4月頃まではリンゴが多かったが、さすがに5月になるとリンゴはおいしくなくなる。柑橘類は嫌いではないが、それほど好きでもないので、5月以降はバナナを食べることが多い。最近は行きつけのスーパーに苺とさくらんぼが大量に陳列されているので、苺とさくらんぼを食べる機会も増えている。あと、このところ目立つようになったのが桃である。尤も、こちらの桃は日本で流通している白桃ではなく、黄色い果肉のものである。大きさも日本で見かけるものよりは一回り小さい。柿もおいしい。いや、おいしかった。秋から冬にかけて流通しているイスラエル産の柿は小粒ながら甘くておいしいのだが、今の時期に流通している南アフリカ産のものは、味の深みが今ひとつ足りない気がする。産地に関しては、苺が英国産で、さくらんぼは米国かイタリア、桃はスペイン産であることが多い。洋梨は現在流通しているものは南アフリカ産だが秋に流通していたのは英国産が多かった。

東京で暮らしている頃から厨房に立つことは少なくなかったが、こちらに来て本格的に自炊生活をするようになってから肉が嫌いという人の気持ちがわかるようになった。肉は動物によってにおいが違うが、やはり豚は臭いと思う。料理をして食べるぶんにはおいしいのだが、生肉のにおいには少し抵抗を感じる。牛も羊も、鶏すらも、生肉のにおいは好きにはなれない。そのにおいを意識するようになってから、自然と食材に肉類を使う頻度も、外食で口にする機会も、いくらか少なくなったような気がする。

野菜は、私的に最も消費量が多いのが玉葱である。これはほんとうに使い勝手のよい野菜だ。次に多いのがきのこ類とトマト、あとはズッキーニやピーマン、たまに使うのがキャベツ、といったところだろうか。買い物は必要なものを必要な分量だけ買うようにしているので、一回あたりに購入する品数は自ずと限定される。そうすると、セルフレジで会計を済ませることになる。セルフレジは便利だが、野菜や果物のばら売り商品の会計は操作がやや煩雑になる。そこで、パッケージにまとめられたものだけを選んで買うことにしている。ニンジンは何故かばら売りが主体で、パッケージはやたらと量が多い。このため、自炊でニンジンを使うことは滅多にないのである。野菜ではないが、同じ理由で芋類もあまり買わない。

今日の夕食は親子丼。先日、鶏南蛮そばを作った時に使った鶏肉の残りと、別の日にラタトゥイユを作ったときの残りのズッキーニがあったので、親子丼なのにズッキーニ入りである。デザートに、今日、仕事帰りにスーパーで買った苺と柿をいただく。美味しいものをいただいて、健康を祈る毎日である。

Cy Twombly

2008年06月18日 | Weblog
芸術家というのは大変である。常に過去にはない新しい表現を創造しなければならない。それにしても、こういうのはありなのか、と思うものも少なくない。TATE Modernで明日から開催されるCy Twombly展の内覧会を覗いてきたのだが、この作家を知らなければ、子供の落書きと思うかもしれない。大型の作品が多いので、できれば実物を鑑賞することを勧めるが、Googleのイメージ検索でも相当な件数をヒットするので、取り敢えずそれで、なるべく大画面で観ると雰囲気が掴めるかもしれない。

絵画というのは同じモチーフであっても描かれた時代によって意味が全く異なることもある。どのように楽しむかは、勿論、観る人の自由なのだが、背景知識があるのと無いのとでは見えて来るものが全く違ってしまう。その点、現代美術は描き手と鑑賞者が同じ時代の空気を呼吸しているので、そうしたリテラシーのハードルが低い。素直に感性で鑑賞できる。尤も、感性だけが頼り、という側面がないわけでもない。

私の同業者の一部の間で、コンテンポラリーアートの収集が流行っている。なかには本当に美術品とか絵画が好きで集めている人もいるのだろうが、大部分は投資目的である。第二第三の村上隆を当てようというのである。ブレイク前の画家の絵といっても、決して安いものではない。10枚購入して1枚当たればボロ儲けという世界ではあるのだが。

絵画を眺める楽しさというのは、純粋に自分の感性に訴えるものを感じ取るということもあるだろうし、そこに秘められた謎解きを楽しむというのもあるだろう。値踏みをして、実際の評価額と比較してみる、なんていう楽しみ方だってあるだろうし、それを描いた人の心境を想像するというのも覗き見のような興奮を感じて良いかもしれない。

ただ、抽象画となると、想像の枠が外れてしまって途方に暮れてしまうことも少なくないだろう。日本画でも禅画は抽象画のようだし、晩年に抽象画のような作品に行き着く作家も少なくない。それはそれとして、心安らぐものを感じたりもする。それにしても、Cy Twomblyにはついていけない。観ていて楽しい気分になるのだが、それは作家との距離が遠すぎて、果てしなく広がる花畑を前にしたような楽しさなのである。

梵音、雑音、騒音

2008年06月17日 | Weblog
「出離者は寂なるか、梵音を聴く」
仏教の言葉だそうだ。

ひとりで暮らしていると、音に敏感になるような気がする。朝は鳥の鳴声で目覚めることが多い。煩くて目覚めるというのではなく、目がさめて最初に聞こえてくる音が鳴声ということだ。人が活動を始める前の、静寂な空気のなかに響く音は心地よい。

夜、寝る前に本を読んでいるとき、ふと世界に自分だけしか存在していないのではないかと思わせる静寂を感じることがある。それもまた心地よい。

静寂が心地よいのは、それがたまにしか訪れないからだろう。都市で生活をしていれば、聞きたくもない雑音のなかにいなければならない。煩悩から解放され、浄寂の境地に達してしまえば、どのような音も梵音のように響くのかもしれない。しかし、生きている以上、煩悩から解放されることなどあり得ないのではないか。

ある種の病気の治療に、断食療法というものがある。狂ってしまった身体本来のリズムを取り戻すため、食という生命の根源にかかわる行為をリセットするということらしい。光に関しても似たような治療があり、決まった時刻に一定の時間、強い光を浴びることで、身体のリズムを調整するのだという。音に関しても、本来的なものがあるのではないだろうか。

副都心線は大丈夫なのか?

2008年06月16日 | Weblog
副都心線は開業して最初の平日を迎えた途端、遅延の連発である。原因は混雑と職員が機器類に不慣れなためだそうだ。

池袋、新宿、渋谷を結ぶのだから、混雑することくらい開業前からわかっていることだろう。開業前には試運転を何度もしているはずだろう。混雑や機器の操作に不慣れで、まともに動かない公共交通機関というものが果たして存在し得るものなのか。がっかりである。

3月28日付のこのブログで、ヒースロー空港第五ターミナルの開業時の混乱を書いたが、日本ならそんな無様な事態は起らないという意識が暗黙の前提として自分の中にあった。だから偉そうに「利用者不在」などと書いてしまった。副都心線も同じではないか。私の立場はどうなる? 恥ずかしくて穴があったら入りたい心境だ。そういうわけで、今、テーブルの下で縮こまってこのブログを書いている。

唐突だが、混雑と言えば、1978年6月の宮城県沖地震を思い出す。この時、東京も震度4を記録した。当時、私は高校生で、文化祭の準備をしていた。地震は午後5時過ぎだったこともあり、学内にいた生徒には、すぐに下校するようにとの指示が出た。普段と同じような調子で、友人と最寄の駅まで歩いて行き、そこから山手線に乗るつもりだった。ところが、震度4以上の地震では、在来線も列車の運行を止めて安全確認をすることになっている。山手線も止まっていた。外回りに乗るのだが、その駅に来る電車は渋谷、新宿方面からやって来る。間もなく列車の運行は再開されたのだが、やって来る電車はどれも超満員だった。しかも、当時はまだ、全ての車両に冷房が装備されていなかった。山手線の場合、10両編成で前後の各3両には冷房車が連結され、真ん中の4両は冷房なしの車両、というのがよくあるパターンだった。当然、夏は前後の冷房車のほうが混む。そこで、私たちは真ん中の車両に乗り込んだ。なんとか乗ってはみたものの、身動きのとれない状態で、友人は持っていた鞄を手放してしまった。電車が池袋に到着すると、乗客がどっと降りる。私は池袋で赤羽線に乗り換えるのだが、友人はそのまま西日暮里までいくはずだった。しかし、人の流れに乗って、ふたりとも池袋駅のホームに降りた。友人の鞄はない。電車の中は、池袋から乗車した人も多かったので、再び超満員である。冷房はないので、窓は全開。その超満員の車両に向かって、彼は「すいませーん。鞄ありませんかー」と大声で呼びかけた。すると、「これかー?」という男性の声とともに、窓から学生鞄が飛び出して来た。「ありがとうございまーす。」動き出した電車にふたりで頭を下げた。

6月中頃で、雨は降っていなかったが、けっこう蒸し暑い日だったと思う。地震で家路を急ぐ人たちで超満員の電車。しかも冷房なし。それでも、どこかほのぼのとしていたように思うのである。人の心には今よりも余裕があったように思うのである。確かに、時間を重ねているので、過去の日々が「古き良き時代」として自分に都合の良いように記憶されているのかもしれない。

ちなみに、1978年の刑法犯認知件数は1,540,717件、検挙件数は929,312件で検挙率は60.3%であるのに対し、2007年は認知件数が1,908,836件、検挙件数605,358件、検挙率31.7%である。(出所:警察庁「平成19年の犯罪情勢」)また、自殺者は1978年が20,788人で人口10万人あたり18.0人、2006年が32,155人で同25.2人である。(出所:警察庁「平成18年中における自殺の概要資料」)

以上、余談である。