熊本熊的日常

日常生活についての雑記

解説つきコンサート

2005年01月23日 | Weblog
チェリスト唐津健の「おしゃべりコンサート」を聴いた。チェロとピアノ(演奏:鷲宮美幸)だけのコンサートである。コンサートというよりセミナーかもしれない。チェロという楽器について、その歴史、構造、奏法など興味深い話をたくさん聴くことができ、勿論、演奏も至近距離で楽しむことができた。いままで、チェロという楽器にあまり関心を払ってこなかったが、今日のコンサートを聴いて、是非、レクチャーのなかで登場した楽曲を改めて聴いてみたいと思った。つい、勢いで、来月の唐津氏のコンサートを予約してしまった。

テレビ番組とか子供向けの企画には、演奏家が自ら解説しながら楽曲を演奏するというものがあるのに、一般向けの同様の企画は少ないように思う。それとも私が知らないだけなのだろうか。クラッシク以外のコンサートはMCがあるのが普通なのに、クラッシクは演奏だけというのも不思議である。音楽コンテンツの市場が縮小を続けているということで、関連業界では危機感を募らせているようだが、ファンを増やそうとする努力を本気でしているのか疑問である。CDにコピープロテクトをかけるより、音楽家と聴衆とのコミュニケーションの場を増やすことを考えるほうが、より長期的な市場獲得につながるのではないだろうか。

極めた人

2005年01月20日 | Weblog
セントラルスポーツの社長で東京オリンピックで競泳の選手も務めた後藤忠治氏のセミナーを聴講してきた。成功した起業家には人をひきつけるオーラのようなものがある。後藤氏の場合は元スポーツ選手でもあり、人に健康を売る商売をしているせいもあり、いかにも快活で、傍にいるだけで自分も元気が出てきそうな雰囲気がある。道を極め、何事かを成し遂げた人の言葉には生きる知恵のような示唆があり、得るところが大きい。

12月の長谷川投手のセミナーと同様、スポーツジャーナリストの生島淳氏がモデレーターを務めており、今回も限られた時間のなかでまとまりのよいセミナーとなった。今日の話は大きく分けると後藤氏の個人史、フィットネス産業の現況と見通し、起業あるいは経営の心がけ、の三つから成り立っていた。興味深い話は数多くあったが、最も印象に残ったのは、学校教育における体育の意義についてのコメントであった。能力がバラバラな子供たちの集団を、チームとして律するディシプリンを教えるのが小学校の体育の意義だというのである。現実はどうであろうか。技術を教えることに偏っていて、チームワークのようなディシプリンを等閑にしている教師や学校が多いのではないだろうか。社会に出て必要なのは逆上がりができることでもなければ跳び箱を跳ぶことでもない。能力も人格も様々である他人とうまく折り合いをつけることなのである。学校教育が子供たちに知識や技術のスキーマを植えつけることを偏重するあまり、人間が社会で生きていく上で本当に大事なことが抜け落ちているような気がするのは私だけだろうか。

Ross Lovegrove

2005年01月12日 | Weblog
仕事帰りにロス・ラヴグローヴ氏の講演を聴いてきた。1958年生まれで私とほぼ同世代であることと、マンチェスター工科大学の出身であることが興味を引いたのである。昨年からマンチェスター工科大学はマンチェスター大学と合併して新生マンチェスター大学となっている。つまり、彼と私は同窓ということになるのである。ラヴグローヴ氏はイギリスのデザイン界の旗手なのだそうで、氏がデザインした椅子や電気スタンドは確かに見覚えがある。

ラヴグローヴ氏の話のなかで印象に残ったのは、ミニマリズムのことである。自然界のデザインには過剰も不足もないのだそうだ。人間の身体もそうなのだが、必要なものだけで構成されており、本来、過剰なデザインは無く、当然ながら不足しているものも無い。必要最小限の要素を複雑に構成することによって自然界は出来上がっているというのである。また、有機体には角がないのだそうだ。確かに、自分の身体を見ると、どこも適度に丸い。これは、有機体が組み立てられたものではなく、成長したものだからだという。つまり、姿勢や機能を維持しながら連続的に変化をするということは、流動的でないと実現しないのである。

こんなことを知っていたからといって何かの役に立つこともないだろう。しかし、純粋に面白い。

自分のオフィスの窓から羽田空港を利発着する航空機がよく見える。鉄の塊が空を飛ぶのは不思議なことである。しかし、エアロダイナミクスによって空中を舞うのである。飛行機が空を飛ぶ姿は美しい。水泳の選手が泳ぐ姿も美しいし、陸上競技の選手が走る姿や、スピードスケートの選手が氷上を滑走する姿も美しい。デザインとは、不可能を可能にするものである、と言うのは変だろうか。

パフォーマンスのすぐれたものというのは、それが有機体であれ工業製品であれ美しいデザインを有していると思う。おそらく、組織も文章も優れたものは美しく構成されているのだろう。

こういうことをやってみたかった

2005年01月07日 | Weblog
 翻訳教室の課題である「バッドサンタ」の紹介文に対するコメントが送られてきた。好意的なもので気分を良くした。ふと、この作品の鑑賞会で一緒だった同じクラスのNさんのことが気になった。「Nさんはどんなことを書いたのだろう?」早速、送られてきたコメントをNさんに転送し、「どうでした?」と尋ねてみた。すると1時間ほどして返事が来た。私が書いたのは紹介文だが、彼は評論であった。それにしても、同じ作品について書かれているとは思えないくらい、私の紹介文と彼の評論は全く異質なものだった。
 私は彼からのメールを読んでいて、とても嬉しくなってしまった。人と映画の話をしていて、いつも不満に感じていたのは、話が深くならないことであった。人それぞれに違った個人的背景を抱えているのだから、作品の斬り方や注目する台詞とかシーンが異なるのは当然だと思う。しかし、会話の流れのようなものを無意識に優先してしまい、互いの、あるいは世間の最大公約数的な話題で終始してしまうことが多い。今回のように文章にすると、そのような遠慮がないので、思ったことが表現できるのだろう。また、今回は「個性的なものは学校のサイトにアップします」ということだったので敢えて独自の視点にこだわったという面もあったかもしれない。それにしても、映画や本の感想で、自分が知りたかったのは自分とは全く別の切り口の話だったのである。
 映像翻訳の勉強を始めて、映画や小説を以前よりも一生懸命に観たり読んだりするようになると、以前よりも多くのことを考えるようになった。しかし、そうした思いを話す相手に恵まれてこなかった。ようやく良い話し相手を見つけることができて、本当に嬉しいのである。

年賀状 2005年元旦

2005年01月01日 | Weblog
あけましておめでとうございます

 人の縁を大切にしようと思うあまり、11月後半以降は連日のように遊び歩く破目に陥ってしまいました。あげくに、年末最終局面で風邪に倒れ、熱にうなされながら大晦日を迎えました。こう書くと、楽しげな年の暮れのように思われるかもしれませんが、2004年も自分としては厳しい年でした。
 明けて2005年。元旦の食卓に供された雑煮には黒こげの餅が鎮座し、改めて今年も厳しい年になることを予感してしまうのでした。
 私もいつのまにか齢を重ね、いつまでも他人様に頼ることばかり考えてもいられません。かといって具体的なアイディアがあるわけではなく、飯の種を模索する日々が続きそうです。
 新しい年が皆様にとって実り多き年となるよう心からお祈り申し上げます。