自分が何を観に行こうとしているのか理解せずに出かけるということが続いている。先日の「
SHIMOKITA VOICE」もそうだったが、今日の「三三・山陽・茂山の壱弐参之笑」もそうだ。会場に出かけ、幕が開いたところで落語と講談と狂言の会であることがわかった。これもチケットを予約するときに「三三」だけに反応した結果だろう。それでも、先日の下北も楽しかったが、今日のも愉快だった。
今日は午前中に掃除や洗濯などの家事を済ませ、12時45分頃に住処を出た。裏通りをぶらぶらと歩き、山手線を跨ぐ陸橋を越え、南へ向かう。所々に古い商家が残る街並みを歩いて不忍通りへ。信号を渡り、少しだけ護国寺方面へ進み、日産のディーラーを背に路地へと入る。この路地の突き当たりが文京区立第十中学校なのだが、この通りは民家なんだか店舗なんだかあやふやな家屋が点在する楽しい家並が続く。突き当たりを右に折れてしばらく行くと小石川植物園の森が見えてくる。植物園の塀に沿って網干坂を下ると塀の内側に赤い壁の洋館が見えてくる。今日は天気が良いので青空の下で赤い洋館が一段と映える。この建物は現在は東大総合研究博物館小石川分館だが、その昔は医学校であったものだそうだ。植物園を過ぎ窪町東公園交差点を左に折れる。向かうところは
橙灯。
先週来たときには建物の中の階段の踊り場にあった看板が今日は建物の外に出ている。この違いは何を意味するのだろう。階段を上ると、店の入り口の前で蚊取り線香が煙をくゆらしている。扉を開くと靴が一足。客はいないようだ。今日も前回と同じように「こんにちは」と声をかけて中に入る。巣鴨の住処を出てからここまで約30分。これから外を歩くのが気持ちのよい時期になるので、出勤前に立ち寄るのにちょうどよいかもしれない。
今日はハムとチーズのホットサンドと野菜スープとコーヒーをいただく。野菜スープはヴィシソワーズ風だが温かいもの。抑え気味の味付けがなんとなく身体と馴染むように感じられておいしい。使っている野菜は御茶ノ水にある有機野菜の専門店から配達されるものだそうだ。特に有機だとか無農薬といったものにこだわるわけではないのだそうだが、どうせならあまり使わないに越したことは無いし、おいしいに越したことは無いという。もっともなことだ。ホットサンドに使うパンは
CORBのもの。CORBもカフェで、私は訪れたことはないのだが、店のサイトを見ると使っているコーヒー豆は
GLAUBELLから仕入れている。GLAUBELLは私がコーヒーの抽出を習っていたところだ。ちなみに橙灯で使っているコーヒー豆は
オオヤコーヒーから仕入れているがGLAUBELLの狩野さんとも面識はあるのだという。紹介でそれまで面識のない人と知り合い、会話のなかで共通の知人を見出して、そこから新たな話題が生れる、というようなことはとても愉快だ。
橙灯の坂崎さんはこのところ出張イベントが多く、今日から始まる
BIWAKOビエンナーレにも会期終盤の11月初旬に
尾賀商店で予定されている文具に関するトークイベントのパネラーとして参加するという。今日はこのカフェでの会話のなかで、出身地のことなどが話題になり、私が6月に京都に出かけたことなどを話に振った。その際に自分のなかで欠くことのできない経験が
京阪電車のことで、その話のなかで滋賀県が登場し、そこからBIWAKOビエンナーレになるのである。欠くことが出来ない経験、とはいいながら久しぶりに話題にしてみると地名などの細かなことについての記憶は薄れている。話しながらそういう自分に苦笑する。
14時15分頃に橙灯を出て、茗荷谷から丸の内線に乗り、後楽園で南北線に乗り換えて王子に出る。北とぴあには15時10分前頃に着く。「三三・山陽・茂山の壱弐参之笑」の開演は15時。ちょうどよい時間だ。
開演して初めて知ったのだが、この公演は狂言と落語と講談を組み合わせたものだ。落語はともかく、狂言と講談は殆ど縁がないので、特に講談についての解説が興味深かった。尤も、落語のなかに講談が劇中劇のように取り入れられたものもあるし、過去に落語会で講談師が演者に名を連ねたものもあるので、全く聞いたことがないというのではないのだが、「講談とは」とか「講談と落語の違いとは」というようなことについてまとまった話を聞いたのは今回が初めてだと思う。素朴な疑問として、何故、講談の人気が衰退し落語はそれなりの地位を確保できているのかということだ。解説のなかで、講談のはじまりが武士に対して武士としての心構えを説くということから始まったこと、文字の読み書きができる人が少ない時代に講釈本を読んできかせるというスタイルで始まったために本を読むことができるということ自体が見世物的希少価値を備えていたこと、ということに鍵があるように思う。江戸時代においては戦が殆どなくなってしまったので武士としての在り様というものにリアリティがなくなってしまったこと、泰平の時代が続いたことで識字率が上昇して本を読むことができるということの希少性が失われたこと、が講釈師の存在意義を揺るがしたということはあるだろう。それにしても、明治の頃までは都市部において町内に講釈場が少なくとも一軒はあったと言われていたほど大衆演芸として浸透していたものが100年ほどの間に絶滅に瀕する状況にまで衰退したことの説得力ある理由が想像できない。
狂言は能の幕間の気分転換のようなもの、と理解している。つまり、能の世界があっての狂言だと思う。わかりやすさとか気軽さで狂言だけを本来の文脈から抜き出してしまって、果たして存在し続けることができるものなのだろうか。闇雲に伝統を守ればよいということではないが、そもそもの在り様を抜きにして形だけを残すというのも意味はないだろう。芸に普遍性があるなら、それに磨きをかけつつ、それぞれの時代を反映した演じ方のようなものを追求するという地道な作業の積み重ねによってしか、物事というのは継承されないのではないだろうか。部外者なので言いたい放題だが、とりあえず観客を集めるということではなしに、現代に通じる、そして未来にもつながる真髄を見出すことができなければ、滅びてしまっても仕方が無いように思う。それが歴史というものではないだろうか。
落語についても同じことが言えるだろう。現在は東西合わせて約700名の噺家がいるそうだが、数は力とはいいながら、それで安泰というわけでもないだろう。人間の精神の在り様に果たして普遍的な何かがあるのか、というような感情の根源に対する問い無くして話芸はあり得ないだろう。少なくない古典が仕込みを必要としながらもなおも語られ続けているのは、そこに人間の在り様の何事かを語る普遍性が横たわっているからに他ならない。新作はそれが作られた時点では賞味期限はわからないが、噺の寿命は作者がどれほど深く人間を観察して作っているかということに尽きると思う。何の道具立ても必要としない芸だからこそ、噺の作り手と語り手の洞察力が直接問われる厳しい芸だと思う。そうした落語家の眼を問うことが、落語を聴く愉しみだ。
演目
狂言 「附子」 茂山宗彦、茂、童司、神田山陽
講談 「十番斬り」 神田山陽、柳家三三
落語 「風邪うどん」 柳家三三、茂山宗彦
(休憩15分)
講談 「裏窓」 神田山陽
落語 「ダイヤルMをまわせ」 柳家三三
狂言 「梟」 出演者全員
開演 15:00
閉演 17:30
会場 北とぴあ さくらホール