根津美術館で茶道具を眺めてきた。よくある美術展だと茶碗だの茶入れだの、そのものだけしか展示されないが、その茶道具展では仕服、挽家、外箱などその道具を仕舞うときの包みまで全て並べられている。そうした付属品のなかに消息というものがある。消息は説明書のようなものだ。そのものの来歴、銘の由来などが書き記されているが、説明書としての価値よりも書としての価値のほうが大きい場合がある。それもこれも茶道具あるいは茶道という日本独特の美意識のなせる技だろう。
今は、茶道というと道具自慢だと誤解している人が少なくないのだが、本来は何でも無い物に美を見出すものだ。虫喰いの竹を茶杓にして、虫喰いの穴を夜空の星に見立てるとか、歪んだ茶碗に人の手を感じるとか、欠点や欠陥を景色に変えてしまう。つまり、そこに新たな価値を創り上げるところに茶道の存在意義があるように思う。
茶道に限らず、価値というものは、それまでに存在しなかったものに存在を与えることだ。それは当たり前のことなのだが、世間では価値を生むということには頓着しないのに、対価を要求することだけは熱心な輩がやたらに多いような気がする。それは物乞いと同じことで、卑しいことなのだが、なぜかそういう輩に限って自分を大きく見せようと見栄をはったりするものだ。卑しい奴は救いがたくどこまでも卑しいということなのだろう。
名物と呼ばれるような茶道具を眺めていると、浮世の卑しさを超越した清々しさを感じる。昨年夏以来、陶芸で徳利に挑戦し続けている所為か、近頃は茶碗よりも茶入れに目が向く。徳利とか茶入れのような容器を陶芸では「袋物」と呼ぶのだが、外からは内側の形状がよくわからないので、削るのが難しい。今年に入って、ようやく徳利らしくなってきたので、そのうち茶入れのような蓋付きのものにも挑戦しようと思っている。 陶芸は単なる趣味で終らせるつもりはないので、週一回の教室を大事にしていることは勿論のこと、様々な手工芸品を見ることも修行のうちだと考えている。暇をみつけては美術展や工芸展へ足を運ぶのは、そういうものを見るのが好きということもあるが、自分のなかにそうしたものと接した経験を蓄積するためでもある。どのような形で実を結ぶのか、今はまだわからないが、どのような形になるのか、ならないのか、生きている限り諦めずに続けていこうと思う。