熊本熊的日常

日常生活についての雑記

チャイナドレス

2014年05月29日 | Weblog

ブリヂストン美術館を訪れた。企画展は「描かれたチャイナドレス」を開催中だ。日本人画家が描いたチャイナドレスの絵といえば安井曾太郎の「金蓉」が思い浮かぶが、ほかにもたくさんあることに驚いた。「金蓉」も6月10日から本展に登場するそうだ。本展のタイトルには「藤島武二から梅原龍三郎まで」という副題が付いている。大正時代に日本に中国趣味が流行したのだそうだ。

明治は欧化に向かっていた時代なので、日本の絵画界も西洋絵画の奔流に呑まれていたかのような印象がある。著名な画家は誰もがフランスをはじめとする欧州諸国へ留学しているかのようなイメージがある。しかし、現実は必ずしもそうではなかったらしい。そもそも中国は日本人にとっては憧れの先進地域で、漢籍や中国語は支配階級においては当然の教養だった。わけのわからない話を「お経のようだ」などと揶揄することもあるのだが、そもそも漢籍の知識がある人にとっては読経やそれを耳にすることは身に染みる経験であり、「わけがわからない」などと感じてはいなかったはずなのである。明治になって廃仏毀釈であるとか欧化政策といった無謀な方向転換のなか、日清戦争に勝利したことも手伝って、中国文化に対する興味関心の度合いに変化があったのは容易に想像がつくだろう。しかし、そこに至るまでの千年を超える時間の蓄積はそう簡単に変えられるものでもなく、大正時代には明治の揺り戻しとも言える中国ブームが起こったのだそうだ。そういう流れの中でチャイナドレスが日本人作家の絵画のモチーフに広く登場する。当然に中国を訪れる作家も増えるのである。梅原龍三郎の中国の風景を描いた一連の作品はすぐに思い浮かぶし、今回の展覧会でも児島虎次郎の作品が内容においても数においても眼を惹いた。

しかし、「チャイナドレス」と呼ばれるチーパオは満族の服に由来するもので、「チャイナ」一般に通用するものではない。おそらく、実際に中国を訪れた明治や大正の日本の画家たちはチャイナドレスがそれほど中国において日常的な衣装ではないことを理解していたであろう。それでも敢えて「中国趣味」のモチーフとしてチャイナドレスを取り上げた。チャイナドレスが象徴するものは一体何なのだろうか。たまに報道などで中国の国会にあたる全国人民代表大会の映像を目にすることがあるが、そこに居並ぶ人たちの衣装の多彩さに驚かされる。「チャイナ」だとか「中国」というのは地政学上のまとまりであって「中国人」という民族があるわけではないのである。それなのに、例えば中国で外国人が利用するような中華料理店の給仕の制服がチャイナドレスであったり、中国の観光地の土産店にチャイナドレスが並んでいたりするのは何故なのか。中国の側の人たちも、中国の外側の人たちも、チャイナドレスというイメージを通じて何事かを共有しているかのように感じられる。何を共有しているのだろうか。

ロンドンで暮らしていたときに、たまたまテートの売店でTaschenから出版されている『China』という大きな写真集を見つけて買い求めた。1949年から2008年までに中国で撮影された写真で構成されている。表紙を飾るのは人民服のような軍服のような衣装を纏って舞台で舞う演劇らしき場面だ。中華人民共和国が成立して以来、中国人の衣装としては人民服のイメージが定着しつつあるかのような印象を持っている。メディアに登場する中国の著名な政治家は毛沢東も周恩来も小平も人民服だった。チャイナドレスの華やかさからは一転したかのような地味なものだが、中国というものを印象付けるという意味では人民服もまた「チャイナドレス」だろう。

ところが、いつの頃からか、メディアに登場する中国の人たちはチャイナドレスでもなければ人民服でもない衣装になった。「要人」と呼ばれる人たちは背広になった。毛沢東の頃の中国は国が丸ごとマスゲームをしているかのような、人のエネルギーを感じる映像が多かったような気がする。それは多分に国としてのプロパガンダもあったのだろうが、みんなが喜々として働き、みんなが自分のことよりも社会全体のことを考えているかのような輝きがあった。チャイナドレスや人民服のようなビジュアルの象徴が失われていくにつれ、中国から伝わって来るのはそれまでとは別の種類のエネルギーが強くなってきたような印象を受ける。人民服の指導者は「語録」を残し、それが格言のように後々まで伝わっているものもある。背広の指導者で歴史に残るような「語録」を残した人はいるのだろうか。その人の言葉に従ってマスゲームのようにみんなが社会のために建設的なことのために立ち振る舞うということがあるのだろうか。開放政策に転換して国内に所謂「格差」が生じたときに、共産党幹部が富裕層を形成するのは自然なことだろう。そこに権威や権力が集中しているのだから、当然に市場経済を導入したときにそこに資金や資本も集中する。「開放」で何事かが「解放」されるのかと期待した向きにとっては落胆と不平不満が溜まるのも人情としては自然だろう。「格差」が民族のようなわかりやすい記号と結びついたときに、そうした自然の流れで物騒な事態に発展するのは時間の問題だ。そのとき民族衣装は政治的な意味合いを帯びることになる。出で立ちというものが意味するところは思いの外深いような気がする。

翻って自分はどうだろう。身だしなみや立ち居振る舞いが自分の何を語っているだろう?


銭形平次

2014年05月27日 | Weblog

貯金箱というわけではないのだが、空き缶に小銭を貯めてある。缶が大きいので満杯になったことはないし、そもそもある程度の重さになると中味が気になって出してしまうのでどれくらい入るものがわからない。ずいぶん前に葉書で申し込んでおいた能の公演の切符が代金の振込用紙と共に昨日送られて来た。給料日から間もないというのに薄給なので金繰りに困ってしまい、缶のなかの小銭で払うことを思いついた。ついでなので、缶の中味を一旦郵便貯金の口座に入金して、振込にその口座を使うことにした。

缶の中味を出してレジ袋の小さいのに入れると、嵩はそれほどでもないが重さはそこそこにある。金属なのだから重いのは当たり前だ。それを持って出勤し、職場近くの郵便局のATMで入金する。ATMには硬貨は一回100枚までと書かれていた。通帳を突っ込んで操作画面の「硬貨」に触れると硬貨投入口の細長い口が開く。一応「硬貨も使えます」ということにはしてあるが、なるべくなら使って欲しくない、というような意志が感じられる機械の造りになっている。そんな細い口を通しても、結局は一旦大きな皿のようなところに落ちるのだから、その細い口の意味がわからない。利用者が硬貨を入金しようという意志を挫くために細い口を設けているとしか思えない。当然、硬貨の投入には時間がかかる。まだ手元の硬貨の投入が終らないうちに、機械が動き出して口が閉じられてしまった。私はただ立ち尽くすだけだ。間もなく「ご利用ありがとうございました」という気持のこもっていない機械音声と共に通帳が吐き出されてきた。100枚まで、とかいいながら57枚で受け取りを終えてしまったので、続けて入金しようとそのまま同じ機械の前に立っていた。なんだか通帳を返した後も不安らしく、操作画面に「もうしばらくおまちください」という表示を出したまま、ガチャガチャと硬貨を数え直しているらしい。数え間違えていたら後から誰かが追いかけてくるのだろうか。数分間後、ようやく受付画面に戻ったところで同じ操作を繰り返したら、今度は13枚で早々と口が閉まった。どうやら機械が「あっ、またこいつだ」と思って、「とっとと帰れ」と言っているらしい。こっちも意地になってきて、ずっとこの機械を相手に硬貨を入れ続けてやろうかと思ったのだが、出勤しないといけない。隣の機械に移動して残りの硬貨を入金した。

硬貨は正しくは「補助貨幣」というらしい。硬貨が補助貨幣なのではなく、主たる貨幣を補助するものを補助貨幣と呼び、多くの場合は硬貨がその役割を担うということのようだ。日本の場合、補助貨幣単位は「銭」と「厘」だが、実体としては硬貨がその役割を果たしているのだそうだ。「補助」なのだからそれを「主」に使うのは本来の目的から外れている。邪険な扱いを受けても文句は言えないのである。スーパーのレジなどで自分の前の人が財布から小銭を出すのにまごついていて、その間に隣のレジで何人もの人が勘定を済ませたりしていると、「今日は厄日かな」などと思ってしまったりする。硬貨というのは決して使い勝手のよいものではないと思うのだが、これがなくならないというのは、やはりないとまずいことがいろいろあるのだろう。あるいは単に習慣のことでしかないのかもしれない。それにしても、硬貨だけでなく貨幣の使い勝手というものはもう少しなんとかならないものかと思わないでもない。

子供の頃、「銭形平次」というテレビドラマがあって、主人公の十手持ちが容疑者確保の際に武器として「寛永通宝」と刻印のある銭を投げつけるのである。お役目大事とはいいながら天下の通用を投げるというのは大胆なことだと思っていたが、今となれば投げつけたい気持がわからないでもない。


潮時

2014年05月24日 | Weblog

テレビを持たず、新聞も購読せず、という生活を長らく続けてきたが「芸術新潮」という月刊誌だけは行きつけの書店で取り置きをしてもらったり、出版社に定期購読の申し込みをしたりしながら、毎号欠かさず購読してきた。ところが、4月発行の号から誌面の様子になんとなく違和感を覚えるようになり、今月発行のものになるとそれが強くなり、来月号の予告を見たらいよいよ購読を続ける意欲がなくなってしまった。その違和感が何に拠るものなのか判然とはしないのだが、以前のように素朴に楽しく読めなくなってしまったのである。何事にも始めがあれば終わりがあるものだ。これも潮時かと思い、今月発売の6月号を最後に毎号欠かさず購読するのを止めることにした。

今の住まいに引っ越してもうすぐ一年になる。引越を機に身の回りのものの整理整頓を徹底しようと思いながら、あまり手がつかないままに過ごしてしまったという反省がある。遅まきながら先週からようやく整理整頓を始めた。理想としては身ひとつになって最期を迎えたい。しかしそういう理想がある割には物持ちが良く、買い物の包装紙や袋類などもまとめて取っておく。先週はこの袋類の整理を終えた。これで押入や物入に多少余裕が生まれた。次は本棚の整理である。

このブログには2009年から大晦日に「エンディングロール」と称してその年に読んだ本などを記録している。それを見れば年間に読了する本の数は知れているのだが、買ったけれど読んでいないというものも少なくない。読み終わった本は手元に残しておきたいもの以外は子供に譲ったり古本として処分したりしているものの、やはり溜まってくるものだ。あと無視できないのが美術展の図録だ。自分が観た美術展も「エンディングロール」に記録しているが、だいだい観たものの3割から5割で図録を購入している。これをなんとかうまくまとめようと考えている。まず手始めに雑誌の吟味をし、単に習慣で読むようなことは止めることにした。そうしたなかで、たまたま購読中の雑誌が以前ほど面白いとは感じられなくなったという事情もある。


ういんどうず

2014年05月20日 | Weblog

XPのサポート終了でパソコンを買い替えないといけないことになっていた。普段使っているのはマックなのだが、ある特殊用途にどうしてもWindowsでないといけない事情があり、故障したわけでもないのに買い替えないといけなかったのである。どうせ買い替えるなら消費税増税前に買っておいたほうがよかったのかもしれないが、普段は使わない特殊用途ということもあって、ついつい先延ばしをしてこの時期になってしまった。世間では「高付加価値」というのが流行っているようだが、そういうものを必要としていないので、その特殊用途関連の業者から斡旋された国内メーカー直販、Amazon、ヤマダ電機の3つのチャネルを比較して一番安かったヤマダでDellのノートを購入した。

パソコンというのは汎用部品の塊なので価格差は専ら本体以外の部分のコストや利潤に拠るはずだ。コストの大部分は流通に依存する部分だろうが、なかには頼みもしないのに勝手に入っているソフトが押し上げている部分もあるだろう。メーカー直販とAmazonはどちらも通販なのでほぼ同じ価格だった。ヤマダは店舗での価格なので、本来なら通販よりも高くて当然だ。事実、メーカー直販品やAmazonで検討した機種と同等品の店頭価格は通販価格より1万円から2万円ほど上だった。ところが、大型量販店にはおそらくメーカーとの間にボリュームディスカウントの類の決めがあるのだろう。散発的に「台数限定」とか「タイムセール」とかで掘り出し物が出てくるのである。たまたま店を訪れたときにそういう機種がいくつかあって、比較的閑散とした売り場であるにもかかわらず、そういうものが瞬間蒸発のように売れていた。私が買ったものは4台限定で、私が買ったのは2台目、続けて3台目が成約していた。パソコンという実体としては規格品のようなものでも一物一価というわけではない。結局は需給で決まるのだが、需要側供給側それぞれに事情と思惑を抱えて、それがなにかの縁で出会うのである。たぶん需要曲線と供給曲線というような定型化できるような原理では動いていないような気がする。価格というのはもっと面白いものだと思う。

OSはWindows8.1でOffice Personalが搭載されている。まずは当該用途のソフトをインストールする。これは問題無く完了。次に或るサイトにアクセスするための電子証明書を取得する。これが取得プロセスの途中で止まってしまうのである。そのサイトのサポートセンターに電話して状況を説明すると、よくあることのようで早速電話によるナビゲーションが始まった。オペレーターの噛んで含めるような説明はさすがにわかりやすく、難なく問題が解決した。自分でやってうまくいかなかった原因はパソコンのセキュリティの設定にあった。どうということのないことだったので、問題が解決してほっとした気持もあったが、「こんなこともできないなんて」という情けない気持もあり、心中複雑だった。サポートセンターに電話をしなくてもFAQをよく読めば自力で解決できたかもしれない。しかし、たぶん電話で話をしたほうが解決に要する時間は短いと思う。会話というのはそういうものだ。何年に一回出会うか出会わないかというような問題に対する人と、同じような問題の解決を日に何十件何百件と繰り返している人では経験値が全く違うのである。それにしても、あまりにあっけなく解決すると、それまでできなかった自分が情けないと感じるのは人情だろう。これもまた面白いことだと思う。

 


木のいのち木のこころ

2014年05月14日 | Weblog

西岡常一の『木に学べ』を読んだのは何年前のことだっただろうか。新聞の書評欄で紹介されていたのを読んで買ったので、発行直後のことだとすると1988年ということになる。いろいろ心に響く言葉もあったはずだが、手元に置いておこうとは思わず、Amazonのマーケットプレイスで売ってしまった。あれから四半世紀を経て新潮文庫版の『木のいのち木のこころ <天・地・人>』を今日読了した。これを読んで『木に学べ』はクレジットとしては西岡常一著なのだが実体は塩野米松による聞き書きだということを知った。『木のいのち木のこころ』も塩野の手になるものである。本人の言葉で書いてあるが、単に取材するだけでこれだけのものは書けないだろう。本人の言葉を引き出すだけの本人との信頼関係があればこそ、これだけの作品をまとめることができるのだろう。本の内容もさることながら、その聞き書きの仕事ぶりに感心してしまった。

ところで、たまたま先日、雑誌『ジャパニスト』に連載されていた菅野さんの記事が最終回を迎えた。また、その連載をまとめた『SHOKUNIN』という本も刊行された。それらに書かれていることは菅野さんご本人から直接伺ったことばかりなのだが、最終回の記事のなかで改めて印象に残っているのは、菅野さんの工場では昼飯を工場で働く人たち全員で集まって食べることにしているということだった。私も何年か前にその昼食に混ぜていただいたことがあったが、それは特に変わったところのない風景のように感じられた。しかし、そういう一見したところ仕事とは関係のないところで同じ時間や空気を共にするということが物事を理解し合い、伝え合うには大事なことなのである。これもたまたま最近読んだ本のなかに『能はこんなに面白い!』という能と武術についてのものがあって、技とか芸を伝承するのには生活を共にするより他に方法がない、ということが書かれていた。『木のいのち木のこころ』にも似たような記述がある。

人の本当の技というものは言葉だけでは伝わらないのである。言葉に縛られることで伝わるはずのものが伝わらないということだってあるかもしれない。何百年何千年という時を超えて伝わる類の仕事の要となることは、マニュアルや文献やデータに拠るのではなく、作られたモノ残されたモノそのものが雄弁に語っているはずだ。モノが語っていることを受け取り再現してみせることができるのが職人というものだ。出来上がったモノを見て、それを作った技の背後にある考え方まで読み取ることができてこその職人なのである。そのためには、技の背後にある共通感覚を体得しなければならず、それには生活という経験を共有するよりほかにどうしようもないのだろう。人は経験を超えて発想をすることはできないのである。感覚という漠然とした下地があって、そこに経験を重ねるなかで世界観が形成され、世界観を背景に行動に対する意志が醸成され、意志の下に行為が繰り返されていく。そうやって技能とか勘といったものが培われていくのではないか。だから技能の伝承には、生活を共にするという経験の共有が不可欠なのだろう。

ところが今は徒弟制とか内弟子といったことがなくなってしまった。労働基準法のような制度による規制もあるだろうし、共同生活を忌避する風潮も強くなっているような気がする。社会全体が個別化孤独化へ向かっているように感じられる。働く仲間が食事を共にするとか、せいぜい数年間だけ師匠や親方のところに住み込みをするのが精一杯なのだろう。

技能や動作を解析してデータ化して精密な機械で再現すれば似たようなものを作ることができるかもしれない。しかし、それはあくまでも似たようなものであって、その技に込められた魂のようなもの、技の裏にある哲学のようなものまでをも果たして再現できるのだろうか。再現できないから伝統工芸や職人技は失われいくのである。


風評

2014年05月11日 | Weblog

或る人気漫画に原発事故に関連した記述があり、それがその地域に「風評被害」をもたらす可能性があるとして問題になっているらしい。「絶対安全」と言われていた原発がいちどに3基も爆発し、「日本では考えられない」と言われていたメルトダウンを起こした。事故発生に至ることはともかく、事故後の対応が今まさに問われている。ここでまず明らかにしないといけないのは現状がどうなっているかということだろう。現状認識なくして対応策はあり得ない。厄介なのは現状を認識できる状況にないということだ。放射性物質などによる汚染で3年以上経ても現場や周辺で何が起こっているのか誰にもわからないということだ。

最近、気になることがあって高木仁三郎の著書を何冊か読んだ。特定の個人の見解を鵜呑みにするわけではないが、書いてあることは素直に納得できる内容だった。特に衝撃的だったのは、自然界が原子の安定性の上に成り立っているものであるのに対し、原子核の安定性を崩すことでエネルギーを取り出すのが原子力の考え方であるということだ。それは単に核爆発という目に見える形でのエネルギーの発散ということだけでなく、生物体を構成するタンパク質、もっと根源的には細胞のなかにある細胞核や遺伝子、遺伝子を構成する物質にまで遡ったところの化学物質の結合が、放射線によって破壊されたり作りかえられたりするところに核の恐ろしさがあるということなのである。

よく農産物や魚介類の「放射能検査」というような言葉を見聞するが、「放射能」の意味するところが明確でないものにしかお目にかからない。核エネルギーによって生物を構成する化学物質に影響が出るが、具体的にどのような影響が出るのかが未知であるにもかかわらず「検査」によって「安全」とされてしまうことに恐怖を覚える。広島や長崎の被爆、第五福竜丸の被爆、JCO事故など日本は被爆による人体被害の件数は世界の他のどの国よりも多く、放射能への対応の経験はそれだけ余計に積んでいるはずだ。それでもこれまで経験したことのない規模の原子力発電所事故の影響を軽々に「検査」したり、その結果に「安全」という評価を下したりすることができるものなのだろうか?

個人的な経験では、2001年9月に六ヶ所村の核燃料再処理工場の建設現場や核廃棄物の貯蔵施設を見学したときのことが思い出される。当時の取材ノートは今は手元にないので詳細の記憶は無いのだが、今でも印象に残っているのは、「高濃度」の核廃棄物といえどもガラスで固めて厚さ40センチだかのステンレス容器に収めて地下に埋めるという「処理」方法しかないということだ。原子炉の燃料消費というものがどれほどのものか知らないが、原子炉を運転すれば時間の経過とともに発生するのは必至である。つまり増え続けることが明らかなのである。それを安全な状態にするという技術は現時点ではなく、地中に埋めるよりほかにどうしようもないというのである。その六ヶ所村の施設が満杯になればどうするのか、ということは将来のことは未来の人たちに託す、と言えば聞こえはよいが、「ま、なんとかしてくれるんじゃないの」ということで原子力の利用は進行しているのである。現状の原子力に関する技術水準というのはその程度でしかということだ。あれから10年後に地震とそれに伴う津波により原子力発電所の原子炉が電源を喪失して炉心溶融という「想定外」の事故を発生することになった。

「風評被害」というものがほんとうに「風評」による被害なのか、検証したものがあるのならそれを公開するべきなのではないか。災害の復興は成されなければならない。しかし、復興のためなら多少の危険は広く共有しろ、という論理がまかり通る社会は果たして健全と言えるだろうか。


あなたのためだけに

2014年05月04日 | Weblog

埼玉県川島町にある遠山記念館を訪れた。日興證券の創業者のひとりである遠山元一が母親のために建てた家だという。当初は約2,500坪の敷地に40坪か50坪くらいの主家にするつもりだったのが、いろいろな人の助言を聞いてそれらを取り入れているうちに建坪約400坪を超える大邸宅になり、完成までに3年近くを要することになったそうだ。大工、鳶、木挽、屋根葺き、左官、建具、襖、畳、銅工、石工、庭師などそれぞれに腕利きと評判の職人を頼み、材木や石材などの材料にも出費を惜しまなかったらしい。職人たちは現場で寝起きをして3年近くを過ごし、その間にさらに切磋琢磨を重ね、創意工夫と技の限りを尽くしたのだという。そうやって建てた邸宅は昭和11年に完成してから、殆ど変わらぬ姿を今にとどめている。母親が生活をしやすいようにということを念じて建てられた家は、ナントカ風というような一時の流行に左右されるようなものではなく、また単純に贅を尽くすというような成金趣味でもなく、一見するとよくありがちな大邸宅のようで、他のどこにもない独自のスタイルなのである。世の中には闇雲に大きかったり贅沢なだけで暮らしにくそうな家もあるが、ここは大きくても当たり前の生活が展開できそうな落ち着いた雰囲気がある。それは空間と暮らしとの調和に拠るような気がする。暮らし易さを追求すれば、結果として調和のとれた姿になるのだろう。

調和をとるのは至難だ。家屋もそうだが、心身の健康も、組織や共同体の平穏も、調和が整ってこそ安寧が実現する。一時的局地的な調和ならいくらでもあるのだろうが、社会とか世界というような大きな単位で調和が実現するということが、果たしてあるのだろうか。この家を見て調和を感じたのは、おそらく母親のためという目的の下に建築されている所為ではないかと思う。つまり忘己利他の精神が調和の実現には不可欠なのだろう。母親に喜んでもらいたいというのは己の願望なので、純粋に忘己利他というわけではないのだろうが、相手の身になって考える、相手の了見を想う、というような姿勢が少しでもあれば、家という空間だけでなく、もっと広い範囲で調和がもたらされるのではないか。