熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「サイドウェイ」

2005年05月31日 | Weblog
生きるということは未来を信じるということであり、そこには意識するとしないとにかかわらず何らかの目標が設定されている。その目標が身近なものであろうが、遠大で荒唐無稽であろうが、人は前を向いて生きている。

主人公のマイルスは、作家志望だが、自分が書く作品が認められない中学校の国語教師である。2年前に離婚したが、別れた妻を忘れることができない。親友のジャックが1週間後に結婚式を控えており、その祝いも兼ねて彼とふたりでワイナリー巡りの旅に出る。旅に出る直前、3年間かけて書き上げた小説を出版社に送ったところであり、出版の可否についての連絡を待っている。その友人、ジャックは、彼の大学時代のルームメイトで、盛りを過ぎた俳優である。ジャックにとってのこの旅は、独身時代の最後にナンパを楽しむためのものである。

作品のなかでマイルスとジャックは好対照を成している。よく人の性格を表現するのに使われる、コップ半分の水に対する見方で表現するなら、マイルスは「半分しかない」と見るが、ジャックは「まだ半分もある」と見る。ふたりには、無意識に設定した目標に対して、実現可能性に注目するのか、実現を阻むリスクに注目するのか、という視点の違いがある。誰もが、その両方を見ているはずだが、どちらにより強い関心を払うかというところがひとりひとりの個性なのである。

ジャックの目線で、マイルスを励まし、マイルスの目線でジャックをたしなめながら、過ぎてしまった事にこだわる愚を恥じ、未来へ一歩踏み出す勇気を感じる自分を見出すのである。希望や願望を実現しようとする試みを愚直に続けることができれば、おそらく人生は楽しいものになるのだろう。

この作品のなかで、人生はワインになぞらえて語られる。また、仕事も私生活も冴えないマイケルがワインのことになると冴え渡るというのも何事かを暗示している。仕事や家族との生活がメインストリートなら、彼のワイン道はサイドウェイであり、ワインを人生になぞらえることは、”He is looking sideways at his life.”ということなのだろう。

生きることに閉塞感を抱え込んでしまったとき、敢えて脇道に逸れてみれば、新たな視点が得られるのかもしれない。

「シェフと素顔とおいしい時間」

2005年05月15日 | Weblog
パリ、シャル・ル・ドゴール空港のある1日の物語である。悪天候とストライキで空港に足留めを食ったことで、ある男女が出会い、恋に落ちるという、「ありえねぇ」話である。

人が他人と知り合って、その相手との間になんらかの関係を構築するのに要する時間というのはどれほどなのだろうか。「一目惚れ」というのは、外見とそれに対する過去の経験の組み合わせに、生物的な直感が加わって引き起こされる行為なのだと思う。要するに思い込みでしかない。相手と言葉を交わすようになるきっかけは、その相手の外見ということは少なくないだろうが、それがそのまま相互理解に至る確率は小さいと思う。相互に共有する経験が無いから相手を理解する尺度がお互いに自分のなかに設定できないのである。

程度の差こそあれ、空港というのは陸の孤島である。この作品のような出会いというものがあるとするなら、不測の事態でその孤島で身動きがとれなくなった不安と不満が、手近な関係に捌け口を見出したというだけのことだろう。ささやかなファンタジーである。

「イブラヒムおじさんとコーランの花たち」

2005年05月13日 | Weblog
少年の成長譚である。「親はなくとも子は育つ」というが、その意味するところは、人の成長に必要なのは家族という形ではなく、関係であるということだ。

主人公の少年モモは、物心つく以前に両親が離婚し、勤め人風の父親と暮らしていたが、その父親も自殺してしまう。13歳の少年は独りで生きていかなくてはならない。それでもモモに不幸の陰のようなものは無く、毎日を淡々と生きている。父の生死というのは彼の生活にあまり関係がなかったということなのだろう。ただ、彼には笑顔がない。

モモの住むパリのブルー通りは街娼が立つような裏町である。貯めていた小銭を紙幣に換え、街娼を買ってみたりするのだが、それで満足するのは彼の好奇心だけであって空虚な気持ちが埋められるわけもない。

父が亡くなった時、母親と名乗る女性が訪ねて来た。息子を引き取りに来たというのだが、彼は別人のふりをしてこの女性を追い返してしまう。恐らく、母は彼が自分の息子であることに気づいていたであろうが、そのまま帰ってしまう。ただ産んだというだけでは、親子とは言えないのである。互いに相手に対する幻想はあるのかもしれないが、相互に関係性が無いからだ。

モモが言葉を交わす数少ない相手のひとりが、いつも買い物に利用している食料品店のオヤジ、イブラヒムである。彼は無愛想なジジイなのだが、客に対する観察眼が鋭い。あるいは単に、想像力が豊かなだけなのかもしれない。少年の万引きには気付いているのだが、それを敢えて咎めない。或る時、買い物に来たモモにイブラヒムが言うのである。
「これからも盗みを続けるつもりなら、うちの店だけでやってくれ」
話をしてみると、イブラヒムはモモのことをよく知っている。恐らく、出任せで話したことがたまたま当たっていただけなのだろう。それでも、モモはすっかりイブラヒムの虜になってしまうのである。

人間関係の基本は相手に対する関心である。モモはイブラヒムが自分に関心を払っていてくれたことに素直に好感を持ったのだろう。ふたりは急速に親しくなるのである。モモは父親が死んだ時、真っ先にイブラヒムのところに来て、養子にしてくれと頼むのである。勿論、イブラヒムは躊躇する事無く快諾する。

ところが、当人同士が合意しているにもかかわらず、法的にはこの養子縁組が容易に認められない。イブラヒムがフランス人ではないからである。相互に関心を失った者同士であっても、形式的な基準を満足すれば制度として「家族」であるという承認を得ることができるのに、実体のある関係があっても形式を満足できないと「家族」として世間から認めてもらえないのである。それが社会というものだ。

イブラヒムは諦めない。何度も役所に足を運び、ついにモモを養子として迎えるのである。イブラヒムはモモを自分の故郷に連れて行くことにする。免許もないのに車を買い、モモとふたりで旅に発つ。旅を通じてふたりの絆は強くなるが、モモは自分の居場所がイブラヒムの故郷ではないということも悟るのである。

イブラヒムが事故で亡くなる。そしてモモは自分の居場所に戻ることになる。自分の親が死んだ時には淡々としていたモモが、力無くベッドに横たわるイブラヒムの手を取って「死なないで」と涙を流すのは何故なのか。自分のなかに築き上げたものが崩壊してゆくのを感じる時、人はやりきれない悲しさを感じるのである。父が死んでも、母が背を向けても、モモのなかには彼等との間に築き上げたものが存在しないから、心境に変化が生じるはずがないのである。イブラヒムとの関係はモモにとっては特別のものなのである。

エンディングも面白い。成人になったモモが、新たな人間関係を築いていくことを予感させる暖かさのあるシーンである。

「靴に恋して」

2005年05月12日 | Weblog
いかにも欧州大陸系の作品だと思った。映画はエンターテインメントというよりアートという認識が、特に作り手側に強くあるように感じられるのである。作品の最初の15分間ほどは画面で何が起きているのか理解できなかった。物語の進行につれて霧が晴れるように、ストーリーの全体像が見えてきたので、観終わった時はパズルが完成したときのような満足感を覚えた。

それにしても、人生とはかくも苦悩に満ちたものなのだろうか。たぶん、カトリックの価値観を心の底に敷き詰めた人がこの作品を観ると、
「そうだ、くよくよしないで一歩踏み出そう!」
って思うものなのだろう。心に「べからず」をたくさん抱えている人は、それだけ苦悩も多くなる
ということかもしれない。これはスペインの作品なので、その「べからず」の根幹がカトリックなのかと漠然と感じたのである。

作品のテーマは、自分の人生をもっと愛そう、というようなことだろうか。自分を大切にして、不条理な状況に置かれていると感じたら、そこに留まっていないで一歩前へ出よう、ということではないかと感じた。作中で使われたエディット・ピアフの「愛の賛歌」が、この作品のテーマ曲でもあるということだ。

個別のシーンでは、知恵遅れのアニータが、感情とか意志を表現するのに色鉛筆で描いた絵を使うところに興味を覚えた。はじめ、そこに描かれているのは、犬と散歩をしている自分の姿なのだが、自分の世話をするために雇われた学生ホアキンに好意を持つようになると絵の中の犬を消て、代わりにホアキンと思しき男性を描きこむのである。しかも、そのような絵が壁一面に貼られている。感情の変化がビジュアルに表現されるというところに、バウリンガルの液晶画面を見る思いがした。

「ロスト・イン・トランスレーション」

2005年05月07日 | Weblog
 身の回りでは評判が悪いのだが、なかなか面白い作品だった。孤独が人と人とを引き付けるということを印象深い映像のなかでわかりやすく描いていたと思う。
 主人公の孤独を表現するのに東京の風景や日本での仕事の様子が効果的に使われている。夜の新宿とか渋谷駅前のスクランブル交差点はどのようにも使うことのできる優れた映像素材である。東京の風景も人々も、それだけで世界が自分の理解を超えた混沌であるということを雄弁に語ることができる。実にたくさんのことが見え、聞こえ、匂うのだが、それが意味することは殆どわからない。世の中とはそういうものなのである。たまに誰かがそうしたものの一部を解釈してくれるのだが、その解釈が正しいのか否かを確かめる術はない。主人公が仕事で出会う通訳が象徴しているのは、その混沌を理解することができないフラストレーションである。その混沌のなかにとても大事な真理が隠されているかもしれないのに、それが無造作に切り捨てられてしまう。本当のことは言葉にならない、と言ってしまえばそれまでだが、言葉を超えたところに他人と理解しあう鍵があるように思う。ホテルの部屋の静寂は、ささやかな秩序であり、自分の居場所の象徴である。それを街の雑踏と対比することで、世界の大きさと自分の存在の小ささ、あるいは孤独を際立たせている。ストーリーよりも映像が印象的な作品だった。
 この作品に関して、日本人を馬鹿にしているという意見も聞いたことがある。確かに、ここに登場する日本人は、見事なまでに馬鹿っぽいのを揃えている。しかし、それは混沌の一部である。たまたま東京を舞台にしたから、そうなっただけのことだと私は思う。

「レオン」

2005年05月05日 | Weblog
 とても有名で、いろいろな場面でその名前を耳にするのに、まだ一度も観た事がない作品だった。観て、後悔しなかった。
 年齢や境遇を超えて、孤独であるということを接点に12歳の少女と、中年の殺し屋が心を通わせるという話である。この作品独特の視点としては、大人と子供が愛し合えるのか、という点であろう。別の言い方をするなら、大人と子供が対等に相手を視ることができるのかということだ。
 例えば、20歳の人が新生児に恋をすることはあり得ない。30歳の人が10歳の子供を恋愛対象とすることもないだろう。しかし、40歳の人が20歳の人と恋に落ちることはあり得ないことではないし、50歳と30歳の組み合わせなら全く違和感はないと思う。年齢が問題になるのは、自分の目線と相手の目線が同じような高さになりうるかどうかという点である。相手に対して敬意を抱くことができるというのが、健全な人間関係の基本であると思う。レオンとマチルダの場合、結局は親子のような関係、疑似家族的関係に見えてしまう。
 2人のアパートが警官隊に包囲され、レオンがマチルダを通気口を使って逃がそうとするシーンがある。マチルダはレオンが死を覚悟していることを悟って、彼に必死にすがりつくのだが、結局、ひとりで逃げることになる。最後の会話は
"I love you, Mathilda."
"I love you, too, Leon"
これは日本語の「愛」と英語の"love"の違いをよく表している例だと思う。この台詞は「愛している」とやってしまうと、ちょっと違うと思うのだが、かといって、他に上手い訳語が思いつかない。
 人間関係を言葉で表現するのは難しいのだが、それは人間関係を構築したり維持することが難しいからでもある。

「マーサの幸せのレシピ」

2005年05月04日 | Weblog
 連休でも特にやることがないのでDVDを借りて来て観ていたりする。「マーサの幸せレシピ」というのは意表をつく作品である。ドイツ映画なのだが、果敢にもレストランの厨房を舞台にしている。荒削りで不器用な作品だが、シンプルで後味が良かった。はじめのほうのマーサによるナレーションで、「シンプルな料理でシェフの腕がわかる」というのは、観客に対して脚本家か監督が言っているのではないかとの解釈も可能ではないだろうか。
 要するに人はひとりでは生きていけない、ということなのだろう。何故、マーサがあそこまで意固地なのか、その背景については作品のなかで全く触れられていないのが気になるところではある。というのは、その理由によって、彼女の心の変化をどのように描くのかが、全く違ったものになるからだ。そうしたことを抜きにしても、子供と異性との交流で心が変化するというのは、安直すぎる。尤も、安直なほうが観る者を惹きつけるには好都合である。
 ただ、相手を思う気持ち、相手が自分では気付いていない魅力に注意を向ける姿勢、といったものが人間関係を豊かにするという作品の主張には素直に頷くことができた。大事なのは形ではなく、そこに込められた想い、ということも重要なメッセージであろう。「幸せレシピ」になくてはならないのは食べる人の幸せを願う気持ちということだ。しかし、それは簡単には伝わらない。永久に伝わらなかったりすることもある。思うようにならないのが人生なのだ。

「ブリジット・ジョーンズの日記」

2005年05月03日 | Weblog
 楽しい作品だった。イギリスの新聞"Independent"に連載されていた小説を映画化したものだ。仕事を持った30歳代の独身女性を主人公にすることで、同じような立場の女性から圧倒的な支持を受けたという。「等身大」というのは、映画やドラマをヒットに導く鍵であるような気がする。自分は女性ではないので、勿論、ブリジットに自分を重ね合わせるという見方はできないのだが、「こういう奴、いるよなぁ。」と思える人を何人か思い浮かべることができた。それはエンターテインメントとして非常に重要な事だと思う。つまり、見る人を楽しませるには、微妙なリアリティーが必要なのである。
 作品のなかで、ブリジットが友人のパーティーに招かれたら、そこに来ていたのはカップルばかりで、単身で参加した彼女がきまりの悪い思いをするというシーンがある。一方で、作品全体の背景としては、30歳代でも相手に恵まれずに独りで暮らしている女性が珍しくないかのような設定になっている。このあたりがロンドンという大都市を舞台していることのリアリティなのだろう。私がイギリスに留学していた時、何故、夏休みにドイツでホームステイをしていたかといえば、要するに休暇を一緒に過ごす相手がいなかったからに他ならない。欧州というところは場所によって多少の違いはあれ、原則として「つがい」の社会である。映画もコンサートも旅行も2人一組というのがあたりまえの単位のようになっていて、独り者はどこでも居心地の悪い思いをするものなのである。そのあたりの間の悪さのようなものをブリジットが体現しているこの作品が、小説、映画ともにヒットするということは、
「それって、疲れるよね」
と思っている人が当の欧州でも少なくないという証拠だと思い、今頃になって少しホッとした。