熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記 2017年1月

2017年01月31日 | Weblog

赤瀬川原平 『芸術原論』 岩波現代文庫

ブックオフで送料無料化のために他の赤瀬川作品と共に購入。そういうわけで全く期待の枠外にあった本だったが、読み応えの強さに驚く。トマソンについても自分が全く理解できていなかったことに落胆し、反省する。

以下、備忘録。

自意識というのは、一つには恐怖心から発生するものだと思うからである。たとえば死ぬと、それを意識する場所(装置=肉体)がなくなってしまうという恐怖心。それが核となって、そこから自意識がふくらんでいく。(18頁)

この世の中はそもそもが生産性の理論で貫かれている。動物も植物も生きていくために生産に励む。むしろ生産行為を基本とした上で生きているのだ。全体としては食ったり食われたりの戦争の世の中だけど、個体としては食うことの生産性のみに励んでいる。芸術なんてぜんぜん湧いてこない。世の中は白亜紀、ジュラ紀、カンブリア紀の昔からサラリーマン社会だったといえる。(46頁)

つまり芸術というのは美しいことなんですが、美しいことというのは、いかに自然に近くなるかということ、いかに自然の真似をするかということ、それはつまりいかに乱数的にことをとりおこなえるかということだろうと、そんなことを考えたりするんです。(52頁)

優れた画家は、この海面をそのまま乱数表として描けるんですね。優れない画家は、この海面を規則的な屋根瓦みたいに描いてしまう。それは人間の特徴です。人間というのは波なら波の観念像というものをすぐ作ってしまって、それの連なりになりやすいんですね。(54頁)

そもそも数の基である一というのはどういうものかが問題である。一と一との間に接触があるという、その一とは何か。その一の基本とは生命体だろう。反対にいって、生命体というのは一と数えるほかはない存在である。たとえば人間一つ、つまり一人の人間がいるとして、それを二つに割ってもその片割れに0.5人という数は発生しない。これは気分や道徳の問題ではないのであって、半分に割った人間は、もはや無数の数を露呈している肉の固まりである。(57頁)

そうやって目や耳によって伝わる接触は、受取る側の体にいつも皮膚による接触の記憶があるからだろう。私たちは布に触り、ボタンに触り、ファスナーに触り、いつも何ものかに触って生活している。触ることで、固体内に自意識があることを確認し、一という数を維持する人生を経営している。世の中に芸術表現があるのは、一という数が崩せぬものとしてあるからだろうと思うのである。(63-64頁)

考えてみれば、こういう現代のような、一通りのことを全部やり尽くした「空虚」といわれるような時代にあっては、むしろ「日展みたい」な絵というのがひどく現代的ではないかと思われてくる。額縁だけが立派な絵というのが、現代を鋭く抉っているような気がする。退屈で何の驚きもないような風景画とか静物画というものが、何かしら現代人の心理に肉薄してくるような気がする。(88頁)

まず日本画の会場をゆっくり歩くと、壁には襖二枚分くらいの大きな絵がたくさん並び、額縁はたしかに立派であった。たぶんこれは現代を鋭く抉っているのだろうけれど、それがどう抉っているのかまだよくわからない。「特選」という金紙を張られた絵がいくつかあったが、それがほかの絵と変わりないのが不思議だった。どの絵にも高価な岩絵具がたっぷりと使われていて、それが台所にこびりついた油のカスのように、上から何度もだらだらと塗り込められていた。いままで日本画といえば、一筆でぐいと引いて失敗すればそれで終わりというような、どこかにピンと緊張感があると思っていたのだけれど、そういう勇気のある絵というのが一枚もないのが異常なほどだった。みんな高い岩絵具を積立貯金のようにちびちびと塗り重ねる方法で、いやァこの一票一票の積み重ねが国会議員への道なんですよ、というような、この票田はぜったいに人に渡せませんよというような、とにかくこの密室生活に入ったニンゲンの頑張りのようなものが、みなぎっているといえばいえる。会場にはそんな物体が万里の長城のように蜒蜒とつづき、私はもう自分の現代人の足の方が鋭く抉られてしまい、日本画だけでヘトヘトになってしまった。空中一回転とか、それが現代に突き刺さるとか、足を使う前にはいろいろなことを考えていたけれど、私はゴキブリを思い出していた。地球上に何億年と滅びずに生きてきたゴキブリというのは、放射能でも死なないし、真空状態でもピンピンしているという。それを聞いたときにはぞっとしたけれど、この日展を見て、人間だってゴキブリに負けるものかと思い直した。(89-90頁)

ファッションにはもちろん美学的要素があってのことだが、その水準が一列に並んでしまうと、あとはブランド、記号の売買である。記号は感覚というよりは勉学のタマモノである。したがって、記号を買う人は教養主義の人々である。教養主義者とはつぎのような人々だ。デパートの展覧会で、絵の前を通り過ぎて解説の前で立ち止まる人。(172-173頁)

いまと昔とでは経済のあり方が違うのである。もしかりに同じ予算で同じものを造ったとしても、いまは経済がすべてに張り付いているので、計上された予算の数字を上回るものはビタ一文も付加されぬ。ところがむかしは経済以外のものが世の中にあふれていたので、額面の数字以上のさまざまなものがその造作に付加されてくる。造られたものの価値で、いまとは比べものにならないわけだ。たとえばむかしの職人の意思とかケジメとか、あるいは腕の見せどころといったものを金に換算したら大変なものになる。それが経済の陰に隠れて造作物にそそぎ込まれているのだから、いま造るものとははるかに出来が違うのである。いまの経済社会にはそれと同じものを作る力がない。仕事の仕方が貧乏なのだ。そのような昔のものを取り壊していまのものと取り換えるというのだから、どうもいまの経済社会は経済の本質がわかっていない。(244頁)

 

田中克彦 『チョムスキー』 岩波現代文庫

言語学に限らず、ナントカ学というものにそもそも興味はないのだが、この人の本は何冊か読んだ。きっかけは米原万里の『打ちのめされるようなすごい本』に紹介されていた『「スターリン言語学」精読』を読んでみようと思って一緒に購入した、のだと思う。今となっては、そのあたりの記憶が定かでない。ブックオフで購入した中古本。

とりあえず備忘録として以下の引用を挙げておく。

革命は未来をめざしていながら、求められるべき教条は必ず過去に属するのである。教条が教条としての効力を発揮するためには、それは権威づけられていなければならず、もし権威づけられていなかったり、その権威が失せてしまっていたら、それをあらためて回復しなければならない。(92頁)

伝統や歴史と手を切って、現にあるものをたたえるためには、かならず記述主義的な態度が関与しなければならない。(104頁)

すべての人間にとって、与えられた客観世界、できごとの世界は一つであるのは自明なこととして認めた、その上での議論である。一つの客体、客観世界に異なる観点をもって関与するのが人間であり、その人間は社会的で歴史的存在であるからこそ、異なることばによって異なる分類を行うのだと言える。(122頁)

ことばは常に状況の中で用いられる。(158頁)

フンボルトがいみじくも言ったように、「人間は、自分の発したことばが他人にもわかるかどうかをたしかめることによって、はじめて自分自身を理解する」のである。(172頁)


初詣 2017

2017年01月03日 | Weblog

今年の初詣は妻の両親と弟と一緒に彌彦神社。越後一宮で、それ相応の威厳というか格調の高さのようなものを感じさせる。境内に競輪場があることに対してはいろいろな考え方があるとは思うが、ここでは問わない。ここの礼拝は少し変わっていて、二礼四拍一礼だ。なぜそうなのか、知らない。

帰省の際、信越線の長岡と柏崎の間に大きな神社が車窓から見える。宝徳山稲荷大社といって、こちらも由緒ある神社だ。いつか参拝したいと思っている。

ところで、妻の実家から彌彦神社へ向かう途中、進行方向左手に高圧電線をいくつも放つ小山が見える。東京電力柏崎刈羽原子力発電所だ。そもそも発電所というものをしみじみ眺めたのは昨年6月に訪れた福島県いわき市の東京電力広野火力発電所が初めてだと思うのだが、あのときはJヴィレッジから眺めただけだったので、いまひとつ規模を実感できなかった。柏崎刈羽のほうも車で傍を通過しただけなので、「実感」というほどの実感はないのだが、それでも巨大な施設だということはわかる。これが時事刻々電気を産み出し続けていると思うと頼もしい限りなのだが、福島のようなことになったらと思うと「恐ろしい」という言葉では表現できないほど恐ろしい。発電所というのは電気を作る施設であるには違いないが、「施設」という言葉で片付けるには諸々広がりがありすぎる。人間が自分たちの生活のために、政治経済社会科学技術を総動員して作るもの動かすものは、政治経済社会科学技術が全て人間のコントロール下で人間の想定通りに機能している限りにおいては誠にありがたいものだが、どこかに制御不能の問題を抱えると人間の存在を根底からひっくり返す破壊力を発揮する。人間が作ったものとはいえ、巨大すぎるシステムはどこか神仏に通じるものがあるような気がする。


初夢 2017

2017年01月01日 | Weblog

夢というのは記憶のシャッフルのようなものだと思っていたが、今朝見た夢には知っている人がひとりも登場しなかった。日々の暮らしのなかで、風景としては無数の人が視界に入っているはずなので、そういう人々のなかから今朝の夢に登場しているのだろう。それにしても知らない人と遊園地のようなところで何事か仕事らしきことを語り合い、その人たちとはそこで別れて次の仕事場に向かうべくバス停だか駅だかに向かって歩いていく。振り返ると市街地の真ん中に島のように森があり、その森の端々から遊具が覗いている。それをちらりと眺めて鉄の柵がある橋を渡っていく。なんとなくパリのチュイルリー庭園に遊具が備わったような風景だ。渡っている橋はセーヌ川にかかる歩行者専用の橋のどれか。しかし、登場人物は日本人ばかり。夢なのでなんでもありだろうが、目覚めてからあれはなんだったのだろうと呆然とする。