今年読んだ本
1 佐藤健一郎・田村善次郎 「藁の力」 淡交社
2 貴田庄 「レンブラントと和紙」 八坂書房
3 冲方 丁 「天地明察」 角川書店
4 須賀敦子 「須賀敦子全集」 第1、2巻 河出文庫
5 「梅棹忠夫 語る」 聞き手 小川修三 日経プレミアシリーズ
6 梅棹忠夫 「行為と妄想 私の履歴書」 中公文庫
7 米田恭子 「而今禾の本」 マーブルトロン(中央公論新社)
8 梅棹忠夫 「文明の生態史観 ほか」 中公クラッシクス
9 松山巌 「群衆 機械のなかの難民」 中公文庫
10 ラフカディオ・ハーン 「心」平井呈一訳 岩波文庫
11 杉田敦(編) 「丸山眞男セレクション」 平凡社ライブラリー
12 大岡昇平 「野火」 新潮文庫
13 内田樹 「知に働けば蔵が建つ」 文春文庫
14 内田樹 「映画の構造分析 ハリウッド映画で学べる現代思想」 文春文庫
15 小野二郎 「ウィリアム・モリス ラディカル・デザインの思想」 中公文庫
16 吉行淳之介 「砂の上の植物群」 新潮文庫
17 柳宗悦 「民藝とは何か」 講談社学術文庫
18 熊田千佳慕 「熊田千佳慕の言葉 私は虫である」 求龍堂
19 柳宗悦 「茶と美」 講談社学術文庫
20 梅原真・原研哉 「梅原デザインはまっすぐだ!」 はとり文庫
21 城山三郎 「わしの眼は十年先が見える 大原孫三郎の生涯」 新潮文庫
22 柳宗悦 「民藝四十年」 岩波文庫
23 林望 「謹訳 源氏物語 一 (桐壺、帚木、空蝉、夕顔、若紫)」 祥伝社
24 柳宗悦 日本民藝館監修 「柳宗悦コレクション1 ひと」 ちくま学芸文庫
今年観た映画
1 「白いリボン(原題:Das Weisse Band)」 新宿武蔵野館
2 「海炭市叙景」 ユーロスペース
3 「再生の朝に ある裁判官の選択 (原題:透析 Judge)」 イメージフォーラム
4 「紙風船」 ユーロスペース
5 「Dear Pyongyang ― ディア・ピョンヤン」 K’s cinema
6 「小三治」 DVD
7 「四つのいのち(原題:Le Quattro Volte)」 イメージフォーラム
8 「引き裂かれた女(原題:La Fille Coupee En Deux)」 イメージフォーラム
9 「叩く・ぶつける・折り曲げる エル・アナツイの芸術」 埼玉県立近代美術館
10 「一枚のハガキ」 テアトル新宿
11 「人生、ここにあり!(原題:Si Puo Fare)」 シネスイッチ銀座
12 「女と銃と荒野の麺屋(原題:A Woman, A Gun and A Noodle Shop)」 シネマライズ
13 「GO」 GyaO
14 「エンディングノート」 新宿ピカデリー
15 「幸せパズル(原題:Rompecabezas)」 TOHOシネマズシャンテ
16 「歩いても歩いても」 DVD
17 「U・ボート(原題:Das Boot – Die Schnittfassung des Regisseurs)」 DVD
18 「ワンダフルライフ」 DVD
19 「ディスタンス」 DVD
20 「空気人形」 DVD
21 「マーガレットと素敵な何か(原題:L’age de Raison)」 シネスイッチ銀座
22 「12人の優しい日本人」 GyaO
23 「夜逃げ屋本舗2」 GyaO
24 「大停電の夜に」 GyaO
25 「問題のない私たち」 GyaO
26 「ハラがコレなんで」 シネクイント
27 「エル・ブリの秘密 世界一予約のとれないレストラン(原題:El Bulli Cooking in Progress)」 シネスイッチ銀座
28 「少年メリケンサック」 GyaO
29 「Living in the material world」 DVD
30 「東京物語」 DVD
31 「ルルドの泉で(原題:Lourdes)」 イメージフォーラム
32 「麦秋」 DVD
33 「晩春」 DVD
34 「お茶漬けの味」 DVD
35 「風の中の牝鶏」 DVD
今年聴いた落語会・演劇・ライブなど
1 「柳家喬太郎・橘家文左衛門 二人会」 EBIS303
2 「昇太のらくごinにほんばし」 日本橋三井ホール
3 「柳家三三で北村薫 <円紫さんと私>シリーズより」 草月ホール
4 「柳家家緑・柳家三三 二人会」 北区赤羽会館
5 「柳家小三治 独演会」 アミューたちかわ
6 「狂言 井戸茶碗」 和泉流 井上靖浩ほか 豊田市能楽堂
7 「なまらく第十七弾 柳家喬太郎、桃月庵白酒、春風亭一之輔、ロケット団」 千葉市生涯学習センターホール
8 「落語教育委員会 夏スペシャル 柳家喜多八・三遊亭歌武蔵・柳家喬太郎 三人会」 よみうりホール
9 「立川志らく・柳家喬太郎・柳家三三 三人会」 調布市グリーンホール
10 「イイノホール新築再オープン記念公演 昇太さんとブルースカイさん ぼくの好きな昭和 落語だったりJAZZだったり」 イイノホール
11 「柳の家の三人会 秋 柳家家緑・喬太郎・三三」 グリーンホール相模大野
12 「柳家小三治 独演会」 草加市文化会館
13 「柳亭燕路 独演会」 池袋演芸場
14 上野鈴本 12月上席夜の部
15 「三遊亭白鳥・柳家三三・桃月庵白酒 三人会」 さいたま市民会館おおみや
今年観た美術展など
1 「琳派芸術 第一部 煌めく金の世界」 出光美術館
2 「東京家政大学 造形表現学科 卒業制作展」 北とぴあ
3 「モネとジヴェルニーの画家たち」 Bunkamura ザ・ミュージアム
4 「幕末の探検家 松浦武四郎と一畳敷 展」 INAXギャラリー1
5 「熟練技能者の技 飾り皿の世界」 ノリタケミュージアム
6 「シュルレアリスム展」 国立新美術館
7 「東京五美術大学連合卒業・修了制作展」 国立新美術館
8 「倉俣史朗とエットレ・ソットサス展」 21_21 DESIGN SIGHT
9 「松田剣 作陶展」 新宿高島屋
10 「三井家のおひなさま」 三井記念美術館
11 「総合文化展(常設展)」 東京国立博物館
12 「北欧500選 触れて感じるデザイン展」 ぎゃらりぃ81
13 「ウメサオタダオ展」 国立民族学博物館
14 「レンブラント 光の探求 闇の誘惑」 国立西洋美術館
15 「フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展」 Bunkamura ザ・ミュージアム
16 「香り かぐわしき名宝展」 東京藝術大学大学美術館
17 「日本陶芸展」 大丸東京店
18 「ボストン美術館 浮世絵 名品展」 山種美術館
19 「開館60周年 ザ・ベスト・コレクション 近代の洋画」 神奈川県立近代美術館 鎌倉
20 「猫と音楽の世界 猫展」 鎌倉古陶美術館
21 「画家たちの二十歳の原点」 平塚市美術館
22 「北大路魯山人展 世田谷美術館 塩田コレクション」 平塚市美術館
23 「収蔵コレクション 幻影の世界」 長谷川町子美術館
24 「日本陶磁名品展」 静嘉堂文庫美術館
25 「五百羅漢展」 江戸東京博物館
26 「日本民藝館名品展」 日本民藝館
27 「巨匠・芹沢介 作品でたどる88年の軌跡」 静岡市立芹沢介美術館
28 「小谷元彦展 幽体の知覚」 静岡県立美術館
29 「収蔵品展 日本人の油彩画」 静岡県立美術館
30 「花鳥の美 珠玉の日本・東洋美術」 出光美術館
31 東京都恩賜上野動物園
32 Mine個展「その峰の中。」 Gallery & Café FIND
33 「印象派・ポスト印象派 奇跡のコレクション ワシントンナショナルギャラリー」 国立新美術館
34 「増田三男 清爽の彫金 そして、富本憲吉」 東京国立近代美術館 工芸館
35 「WA:現代日本のデザインと調和の精神」 武蔵野美術大学 美術館・図書館
36 「ムサビのデザイン」 武蔵野美術大学 美術館・図書館
37 「ラファエル前派からウィリアム・モリスへ」 目黒区美術館
38 「藤田嗣治展 人と動物」 目黒区美術館
39 「アンフォルメルとは何か?」 ブリヂストン美術館
40 「芹沢介と柳悦孝 染と織のしごと」 日本民藝館
41 「彫刻家エル・アナツイのアフリカ」 埼玉県立近代美術館
42 「東京の交通100年博」 江戸東京博物館
43 「パウル・クレー おわらないアトリエ」 東京国立近代美術館
44 「日本美術にみる 橋ものがたり」 三井記念美術館
45 有松・鳴海絞会館
46 瀬戸蔵ミュージアム
47 小原和紙 展示館
48 「手仕事の日本」 豊田市民芸館
49 「やきものの色とかたち」 徳川美術館
50 「濱田庄司スタイル展」 汐留ミュージアム
51 「そそぐかたち」 Gallery RUEVENT
52 「明清 陶磁の名品」 出光美術館
53 「没後100年 青木繁展」 ブリヂストン美術館
54 「イケムラレイコ うつりゆくもの」 東京国立近代美術館
55 「レオ・ルビンファイン 傷ついた街」 東京国立近代美術館
56 「しまシマ工芸館」 東京国立近代美術館工芸館
57 「浅川伯教・巧 兄弟の心と眼 朝鮮時代の美」 千葉市美術館
58 「民芸が生きている国の工芸展 アメリカ大陸編」 倉敷民藝館
59 常設展 大原美術館
60 「melting borders 飯田哲夫個展」 The Artcomplex Center of Tokyo
61 院展 日本橋三越本店
62 「大河内泰弘 作品特集」 日本橋三越本店
63 「柳宗悦展 暮らしへの眼差し」 松屋銀座
64 「大英博物館 古代ギリシャ展」 国立西洋美術館
65 「源氏物語絵巻に挑む 東京藝術大学 現状模写」 東京藝術大学大学美術館
66 「台東区コレクション展」 東京藝術大学大学美術館
67 「国際陶芸教育交流展」 東京藝術大学大学美術館陳列館
68 「モダン・アート、アメリカン」 国立新美術館
69 「あこがれのヴェネチアン・グラス」 サントリー美術館
70 「朝鮮時代の絵画 19世紀の民画を中心に 前期」 日本民藝館
71 「市展(戸田市美術展覧会)」 戸田市文化会館
72 「モーリス・ドニ いのちの輝き、子どものいる風景」 損保ジャパン東郷青児美術館
73 「ウィーン工房 1903-1932」 汐留ミュージアム
74 「トゥールーズ・ロートレック展」 三菱一号館美術館
75 「時空をこえる本の旅」 東洋文庫ミュージアム
76 「第93回草月いけばな展 花のちからを信じて」 日本橋高島屋
77 「プラド美術館所蔵 ゴヤ 光と影」 国立西洋美術館
78 「世界遺産 ヴェネツィア」 江戸東京博物館
79 紙の博物館
80 「能登千加重 陶展」 Jikonka Tokyo
81 「長谷川等伯と狩野派」 出光美術館
82 「能面と能装束 神と幽玄のかたち」 三井記念美術館
83 鉄道博物館
84 「日本民藝館展 新作公募展」 日本民藝館
85 「日英・15人の茶碗展」 Gallery St. Ives
86 「メタボリズムの未来都市展」 森美術館
87 「見えない世界のみつめ方」 東京都写真美術館
88 「ストリート・ライフ」 東京都写真美術館
89 「写真の飛躍 日本の新進作家展」 東京都写真美術館
90 「アルプスの画家 セガンティーニ 光と山」 損保ジャパン東郷青児美術館
91 川崎市立 日本民家園
92 「アンリ・ル・シダネル展」 埼玉県立近代美術館
93 「ぬぐ絵画 日本のヌード 1880-1945」 東京国立近代美術館
94 「Valerio Olgiati」 東京国立近代美術館
今年聴講した講演、各種見学、参加したワークショップなど(敬称略)
1 「ジャスパー制作実演」Mr. John French, Master Craftman, Wedgwood 新宿高島屋
2 工場見学 旭染工株式会社 東京都足立区花畑
3 日本民藝夏期学校豊田会場:講演 水尾比呂志 日本民藝協会名誉会長 「民藝の役割」 豊田市能楽堂
4 日本民藝夏期学校豊田会場:講演 杉山亨司 日本民藝館学芸部長 「民藝館のあゆみとその意義」 豊田市能楽堂
5 日本民藝夏期学校豊田会場:工場見学 久野染工場 愛知県名古屋市緑区
6 日本民藝夏期学校豊田会場:工場見学 瀬戸本業窯 愛知県瀬戸市
7 日本民藝夏期学校豊田会場:パネルディスカッション 濱田琢司(南山大学)、竹田耕三(絞り工芸家)、白土慎太郎(日本民藝館学芸員)、水野雄介(瀬戸本業窯) 豊田市民芸館
8 講演 柳元悦(造形作家)「父・悦孝を語る」日本民藝館
9 日本民藝夏期学校倉敷会場:松井健(東京大学)「民藝の未来形 試論と提案」
10 日本民藝夏期学校倉敷会場:高山雅之(郷原漆器生産振興会)「郷原漆器・備中漆の復興」
11 日本民藝夏期学校倉敷会場:金光章(日本民藝協会)「民藝とくらし」
12 日本民藝夏期学校倉敷会場:岡山県民藝協会「岡山県の手仕事」
13 日本民藝夏期学校倉敷会場:鼎談「仕事とくらし」 杉山亨司(日本民藝館)、柴田雅章(陶芸家)、竹内真木(陶芸家)
14 日本民藝夏期学校倉敷会場:小谷眞三(ガラス工芸家)おはなし
15 講演 佐々木史郎(国立民族学博物館 民族文化研究部教授、副館長)「アイヌ文化への憧憬」江戸東京博物館
16 講演 板倉聖哲(東京大学東洋文化研究所)「朝鮮王朝中期の花鳥画 『民画』への射程」日本民藝館
17 尾久彰三(民藝研究家)「美の壷鑑賞講座 民藝新感覚」西武ギャラリー
18 姜尚中(東京大学大学院情報学環・学際情報学府教授)「東洋学の現在」東洋文庫
19 JR東日本大宮総合車両センター見学会
20 林望(作家、国文学者)、西村和子(俳人)「源氏物語、読む・聴く・語る」 池袋コミュニティカレッジ
どれも素晴らしいものでした。関係者の皆様に深く感謝申し上げます。
今日は年内最後のバイト。神奈川県内某所の百貨店で催事場の設営作業。閉店直前に現場入りし、それまでの催事に使われていた什器類を片付け、次の催事に使う什器類と入れ替える。そのまま継続して使うものも少しはあるが、殆ど全部取っ替えだ。什器類の多くが組み立て式になっており、折り畳まれた状態にして回収のトラックに積み、逆に畳まれた状態で運ばれてきたものをトラックから降ろして現場へ持ち込み、催事会場で展開して図面の指示に従って並べていく。別の業者がその什器を固定したり装飾を施したりして、少しずつ売り場らしくなっていく。作業はてきぱきと進捗し、予定時間を1時間半ほど残して完了。「年末の慌ただしい時期に仕事にきてくれたから」とのことで、その1時間半分のバイト料も頂戴する。今回の現場は交通費無しなのに住処から遠い場所を選んでしまい、多少反省もあったのだが、終わってみれば1時間半のボーナスもあって実働に対してはやや過分な報酬になった。素朴に嬉しかった。
バイトからの帰り道、何故かカツカレーが食べたくなった。それも駅構内にある立ち食いのやつ。ところが不思議なもので、そういうときに限って駅の中にそういう店が無い。カツカレーが食べたい、と思いながらとうとう巣鴨に着いてしまった。あいにく現金の持ち合わせがない。駅構内ならスイカやパスモで支払いができるが、駅から外に出てしまうとそういうわけにはいかない。かといってクレジットカードが使えるような店に入るのもいかがなものかと思う。なけなしの小銭を集めて駅前の松屋か富士そばに行くという選択肢もあったが、nanacoが使えるデニーズに入った。メニューを見て困ってしまった。カツカレーが無い。それどころかカレーが無い。ファミレスでカレーを注文する人は少ないらしい。
明日は、当初はバイトを入れるつもりでエントリーもしたのだが、それがハズレになったので何の予定も無い。急な要請に備えて2時間ほど派遣会社のオフィスで待機するという仕事のオファーはあったが、それは断ってしまった。家の中でいろいろ溜まっていることもあるので、日中は籠ってそれらに取り組むつもりだ。夜はどこか近所の蕎麦屋にでも行って年越し蕎麦でも食べてこようと思っている。
バイトからの帰り道、何故かカツカレーが食べたくなった。それも駅構内にある立ち食いのやつ。ところが不思議なもので、そういうときに限って駅の中にそういう店が無い。カツカレーが食べたい、と思いながらとうとう巣鴨に着いてしまった。あいにく現金の持ち合わせがない。駅構内ならスイカやパスモで支払いができるが、駅から外に出てしまうとそういうわけにはいかない。かといってクレジットカードが使えるような店に入るのもいかがなものかと思う。なけなしの小銭を集めて駅前の松屋か富士そばに行くという選択肢もあったが、nanacoが使えるデニーズに入った。メニューを見て困ってしまった。カツカレーが無い。それどころかカレーが無い。ファミレスでカレーを注文する人は少ないらしい。
明日は、当初はバイトを入れるつもりでエントリーもしたのだが、それがハズレになったので何の予定も無い。急な要請に備えて2時間ほど派遣会社のオフィスで待機するという仕事のオファーはあったが、それは断ってしまった。家の中でいろいろ溜まっていることもあるので、日中は籠ってそれらに取り組むつもりだ。夜はどこか近所の蕎麦屋にでも行って年越し蕎麦でも食べてこようと思っている。
昨夜の煮汁作りから丸一日以上かけて黒豆を煮た。黒豆を煮るつもりなどなかったのだが、煮豆を注文したつもりでいたら届いたのが生豆だったので、煮ないわけにはいかなくなってしまったのである。親切なことに煮方については袋に印刷されていたので、それに従った。錆び釘は生憎手元になかったが、ネットで検索してみたら、あれは無くても支障がないらしいということがわかったので釘なしである。砂糖は例の黒砂糖なので、ミネラルなどの甘さとは関係のない成分を含んでいる分、甘味が控え目になる。いまこの文章を書いている時点で、味をしみ込ませている過程の真っ只中なのだが、味見をしてみたところまずまずの味に仕上がっている。
黒豆を自分で煮るのはこれが初めてのことである。どのようなことでも、初めてのことというのは新鮮な体験だ。煮汁を作ることについては、特にこれといったことは無い。所定の量の水に所定の調味料を入れて沸騰させるだけのことだ。これに軽く水洗いをした黒豆を入れ5時間以上そのままにしておく。ここまでは昨夜寝る前に済ませた。今朝起きてから火を入れ、煮立ったところで灰汁をすくい取る。所謂「びっくり水」を入れ、とろ火で煮汁がひたひたになるまで煮る。この「とろ火でひたひたになるまで」というのが8時間と豆の袋に書いてある。そんなわけで今日は一歩も外に出ることなく、豆の番に徹した。とろ火で8時間煮ることの最大の障害はコンロの安全装置だ。私が使っている東京ガスのコンロには鍋底の温度を感知して勝手に火を止めてしまうという装置が付いている。「センサー解除」というボタンを3秒長押しすると、とりあえずこの安全装置は解除されるのだが、それでも1時間ほど火が出ていると勝手に消える。つまり、火の番というよりも火が消えたときに改めて点火するためにコンロの側で待機する必要がある。私が使っている鍋はロンドンで生活していた頃に買い求めたTEFALのシチュー鍋だが、火の入りが良いのか、単にサイズの関係なのか、6時間ほどで「ひたひた」になった。おかげで夕方は火の番からは解放されたのだが、種々雑多な家事をしているうちに夜になり、結局外に出る機会がなかった。
黒豆を煮るだけでもこれほどまでに拘束されるのに、かつてはどの家庭でもおせち料理を自分たちで作っていたのである。それは、年末年始に商店が休業するので1週間分ほどの保存食が必要であったという事情もあるかもしれないが、食とか家族といったものに対する意識が、今とはかなり違っていたということなのではないだろうか。手間を手間とは思わない心の姿勢があったということだろう。それが何故失われたのか。何故、我々は生活の効率や便利を追求するようになったのか。効率を追求した結果として浮いた時間で、我々はどれほど豊かさを感じるようになったのだろうか。単に怠惰になり、鈍感になり、人の気持ちを感じる能力を失いつつあるということではないのか。もしそうだとしたら、そこに寒々としたものを感じないわけにはいかない。出来合いのおせち料理を並べて正月の気分になるとするなら、正月を祝うというのはどういうことなのだろうか。何が目出たいのか。形ばかりを問うて意味を問わない空虚な思考が目出たいということか。
黒豆を自分で煮るのはこれが初めてのことである。どのようなことでも、初めてのことというのは新鮮な体験だ。煮汁を作ることについては、特にこれといったことは無い。所定の量の水に所定の調味料を入れて沸騰させるだけのことだ。これに軽く水洗いをした黒豆を入れ5時間以上そのままにしておく。ここまでは昨夜寝る前に済ませた。今朝起きてから火を入れ、煮立ったところで灰汁をすくい取る。所謂「びっくり水」を入れ、とろ火で煮汁がひたひたになるまで煮る。この「とろ火でひたひたになるまで」というのが8時間と豆の袋に書いてある。そんなわけで今日は一歩も外に出ることなく、豆の番に徹した。とろ火で8時間煮ることの最大の障害はコンロの安全装置だ。私が使っている東京ガスのコンロには鍋底の温度を感知して勝手に火を止めてしまうという装置が付いている。「センサー解除」というボタンを3秒長押しすると、とりあえずこの安全装置は解除されるのだが、それでも1時間ほど火が出ていると勝手に消える。つまり、火の番というよりも火が消えたときに改めて点火するためにコンロの側で待機する必要がある。私が使っている鍋はロンドンで生活していた頃に買い求めたTEFALのシチュー鍋だが、火の入りが良いのか、単にサイズの関係なのか、6時間ほどで「ひたひた」になった。おかげで夕方は火の番からは解放されたのだが、種々雑多な家事をしているうちに夜になり、結局外に出る機会がなかった。
黒豆を煮るだけでもこれほどまでに拘束されるのに、かつてはどの家庭でもおせち料理を自分たちで作っていたのである。それは、年末年始に商店が休業するので1週間分ほどの保存食が必要であったという事情もあるかもしれないが、食とか家族といったものに対する意識が、今とはかなり違っていたということなのではないだろうか。手間を手間とは思わない心の姿勢があったということだろう。それが何故失われたのか。何故、我々は生活の効率や便利を追求するようになったのか。効率を追求した結果として浮いた時間で、我々はどれほど豊かさを感じるようになったのだろうか。単に怠惰になり、鈍感になり、人の気持ちを感じる能力を失いつつあるということではないのか。もしそうだとしたら、そこに寒々としたものを感じないわけにはいかない。出来合いのおせち料理を並べて正月の気分になるとするなら、正月を祝うというのはどういうことなのだろうか。何が目出たいのか。形ばかりを問うて意味を問わない空虚な思考が目出たいということか。
今日は失業後のバイト第二弾。都内某所で菓子製造。大手百貨店に出店しているブランドを複数持つ焼菓子、チョコ、パンなどのメーカで、ごく当たり前の勤務時間に働く。私の勤務場所は焼菓子を作る現場の窯の前。生地に栗の甘露煮やナッツ類のトッピングをしたり、焼き板にクッキングシートを敷いたり、焼き上がった菓子を焼き板から外したり、といった作業をする。ブランド菓子とは言え、工場で作るようなものはいい加減に作っているのだろうと思っていたが、こうして現場のなかに入ってみると、思いの外真っ当に作っていることに感心する。作業の性質上、現場入りする前に制服に着替え、現場入口ではエアシャワーを浴び、手を洗い、マスクをして目だけしか露出しないような恰好になる。制服の下は下着だけなのだが、窯の前で立ち働いている所為もあり、始業後すぐに汗ばんでくる。冬場はこれでちょうどよいくらいだ。先日のピッキングも、現場は倉庫の中なので暖房などないにもかかわらず、身体を動かしているうちにTシャツだけでちょうどよいくらいになった。夏場は過酷な現場になるのだろうが、ピッキングならば、自分が扱っている商品を手にするであろう客の笑顔を想い、今日の仕事なら、今作っている菓子を頬張る人の満足げな表情を想像する。自分の行為が誰かの笑顔につながると思うと妙に嬉しくなる。
明日から年末年始の休館に入る美術館が多い。今日は今年最後の美術館訪問だ。ほんとうは少し遠出をしてベン・シャーンでも観てきたかったのだが、アウトプレースメント会社で私の担当カウンセラーが今日が年内最終出勤日なので、今月分の交通費の清算手続きとご挨拶を兼ねて、例の黒砂糖を手に出かけることにした。必然的に都内の近場の美術館ということになり、竹橋の国立近代美術館を選んだ。今開催中の企画展は「ぬぐ絵画 日本のヌード1880-1945」とミニ企画で「VALERIO OLGIATI」だ。工芸館のほうに回る時間は生憎と無かった。
裸体画のほうはタイトルにある年代から想像できるように洋画作品だ。日本には春画の伝統がある。浮世絵は物理的な写実というよりも意識の写実なので、その春画となるとエロティックというよりも滑稽に近いものになる。興奮よりは「楽しそうでいいな」という感情の緩和を覚えることが多い。また、春画の多くは裸体ではなく部分的に露出している姿が描かれている。そして春画は観る者に気付きを与えるという側面もある。何に気付くかと言えば、その行為の際の己の意識のありようだ。
これが洋画となると、少なくとも緩和は無い。興奮というのとも違う緊張がある。それは裸体を描くことが目的ではなく、裸体を通して何事かを語ろうとする画家の姿勢が伝わってくるからだろう。例えば黒田清輝の「智」「感」「情」という3枚組の大作などを観ると、タイトルと絵との関連について考え込んでしまう。しかも、これは重要文化財だというので、もっと考え込んでしまう。
この夏に国立西洋美術館で開催されていた「古代ギリシャ展」でわかるように、裸体画であるとか裸体像というのは美の標準としての意味を持っている。当然、明治に西洋文明と共に西洋画を学んできた日本人画学生たちも、そういうものとして裸体画を日本に持ち込んだのであろう。それで「智」「感」「情」となるのだろうが、どうも画家のなかで十分に咀嚼された上で描かれているとは思えないのである。それは黒田の作品だけではない。
会場に掲示されていた説明で興味深かったのは、裸体を立った状態で描くものは、そこに生を表現し、横臥したものは死を暗示する、というような意味のことが書かれていたことだ。あくまで傾向的なことの説明であって、全部が全部そういうわけではないだろうが、なるほどそういうこともあるのかもしれないと妙に納得できるところがあった。例えば、性行為は、それを目的とするか否かは別にして、生殖行為、つまり生をもたらすものだが、そこにエクスタシー、つまりある種の臨死体験を伴う。裸で横になるという姿が暗示する性行為の真髄は生と死が交錯する瞬間にある、とも言えるだろう。「イク」を「行く」と読めば、行き先はあの世と言える。今の自分の生が、その瞬間に宿したかもしれない次の生に受け継がれる。それが性行為というものなのではないだろうか。となると、横臥する裸体、しかも行為の最中ではなく、抜け殻のように横たわる片割れは、やはり死の暗示と言えると、すっと納得できた。
それで結論としては、熊谷守一がいいなと思った。なにがどうということは言葉で語ることができないのだが、迫ってくるものを感じるのである。そこに自分が何を見ているのか、自分でもよくわからない。ただ、何かが迫ってくることは感じるのである。それは彼が目撃したという若い女性の礫死体と関係があるのかもしれない。
裸体画のほうはタイトルにある年代から想像できるように洋画作品だ。日本には春画の伝統がある。浮世絵は物理的な写実というよりも意識の写実なので、その春画となるとエロティックというよりも滑稽に近いものになる。興奮よりは「楽しそうでいいな」という感情の緩和を覚えることが多い。また、春画の多くは裸体ではなく部分的に露出している姿が描かれている。そして春画は観る者に気付きを与えるという側面もある。何に気付くかと言えば、その行為の際の己の意識のありようだ。
これが洋画となると、少なくとも緩和は無い。興奮というのとも違う緊張がある。それは裸体を描くことが目的ではなく、裸体を通して何事かを語ろうとする画家の姿勢が伝わってくるからだろう。例えば黒田清輝の「智」「感」「情」という3枚組の大作などを観ると、タイトルと絵との関連について考え込んでしまう。しかも、これは重要文化財だというので、もっと考え込んでしまう。
この夏に国立西洋美術館で開催されていた「古代ギリシャ展」でわかるように、裸体画であるとか裸体像というのは美の標準としての意味を持っている。当然、明治に西洋文明と共に西洋画を学んできた日本人画学生たちも、そういうものとして裸体画を日本に持ち込んだのであろう。それで「智」「感」「情」となるのだろうが、どうも画家のなかで十分に咀嚼された上で描かれているとは思えないのである。それは黒田の作品だけではない。
会場に掲示されていた説明で興味深かったのは、裸体を立った状態で描くものは、そこに生を表現し、横臥したものは死を暗示する、というような意味のことが書かれていたことだ。あくまで傾向的なことの説明であって、全部が全部そういうわけではないだろうが、なるほどそういうこともあるのかもしれないと妙に納得できるところがあった。例えば、性行為は、それを目的とするか否かは別にして、生殖行為、つまり生をもたらすものだが、そこにエクスタシー、つまりある種の臨死体験を伴う。裸で横になるという姿が暗示する性行為の真髄は生と死が交錯する瞬間にある、とも言えるだろう。「イク」を「行く」と読めば、行き先はあの世と言える。今の自分の生が、その瞬間に宿したかもしれない次の生に受け継がれる。それが性行為というものなのではないだろうか。となると、横臥する裸体、しかも行為の最中ではなく、抜け殻のように横たわる片割れは、やはり死の暗示と言えると、すっと納得できた。
それで結論としては、熊谷守一がいいなと思った。なにがどうということは言葉で語ることができないのだが、迫ってくるものを感じるのである。そこに自分が何を見ているのか、自分でもよくわからない。ただ、何かが迫ってくることは感じるのである。それは彼が目撃したという若い女性の礫死体と関係があるのかもしれない。
奇蹟とは何だろうか。不治の病とされていたものが快癒する、宝くじで高額賞金に当選する、絶体絶命の危機をふとしたことで乗り越える、人それぞれにイメージするものがあるだろう。あるはずのないことが起こることを奇蹟と呼ぶなら、我々の身の回りは奇蹟だらけではないかと私は思う。毎度のことで恐縮だが、そもそも自分が生まれてこの世にあるということが「奇蹟」だろう。人は生まれることを選べない。突然に生を与えられ、まるでそれを全うすることが義務であるかのような状況下に置かれるのである。あるはずがない、というのならこれほどあるはずのないことがあるだろうか。
この作品を観ていて考えたのだが、世に言うところの「奇蹟」というのは、かなえられそうにない己の願望がかなうこと、であるような気がする。煩悩の成就というか、欲望の発散というか、要するに神様にお出ましいただくような内容ではないように思うのである。そもそも神とは何か、と言い出すと際限の無い話になるが、私は神というのは人知を超えた世界をすべて引き受ける存在だと考えている。だからそれまで漠然と謎であったり奇蹟であったりしたものが、「科学」と称される合理性に則って説明のつくものになると、それは神の世界の手を離れて現世の常識となる。宗教と科学が対立するものであるかのような見方があるように感じられるのだが、対立するような間柄ではなく、むしろ連携している、と私は思う。にごり水を濾過して浄水となったものを世に供給する、その濾過過程を担うのが科学であり、にごり水の管理をするのが宗教、というようなイメージだろうか。ただ、それまで「神のみぞ知る」と言っていたものを急に「そんなの常識じゃん」と言ってしまっては、それこそ神とは何か、という宗教の存在の根底を問われることになってしまい、宗教にかかわる多くの人々の既得権が脅威に曝されるので、みんな焦るのだ。焦るから混乱が起こり、時として歴史に残る大騒ぎになってしまうのである。
世に宗教というものは数多あるのだが、洗練の度合いに差はあれ、執行組織があり、それが権威付けをした教義があり、教義に乗っ取った習俗がある、というのが共通した有り様ではないだろうか。結局、組織の運営は人の仕事であり、権威も人が考えたことである。絶対というのは幻想で、しかし、それを幻想と認めてしまうと権威の根底が揺らいでしまうので、それはタブーということにしてある。となると、ある宗教によって律せられている社会において最大の罪は、そのタブーに触れることとなる。この罪を犯したものはその社会から抹殺されなければならない、ということになり、そこに聖戦というような概念も必要になるだろうし、宗教裁判という浮き世の秩序とは別口の裁判制度も必要になったのだろう。
要するに、宗教というものには確たる根拠というものがあるわけではない。いわば本来的に多義性を内包している。つまり、その運用には解釈の問題がついてまわることになる。だから同じナントカ教であっても、様々な宗派というものが生まれることになり、時には宗派間で深刻な対立が生じたりすることにもなる。多義性があって対立がある、というところには政治が発生する。宗教にかかわるところには政治が寄り添うのである。現に世界を見渡せば政党名に宗教名が冠されている団体はいくらもあるし、なかにはそうした政党が与党になっている国もある。
それで映画の話だが、面白かった。ルルドという「聖地」に人々が「奇蹟」を求めて集まっているのだが、その「奇蹟」はあくまで個人的な事情に関する「奇蹟」である。当事者にとっては深刻な問題なのだが、果たしてそれは「神」が関与するような内容のものなのであろうか。おそらく集まっている人も多くを期待しているわけではなく、半分は観光を兼ねているのだろう。「聖地」という権威付けはなされているものの、そこにいる聖職者を含めて「奇蹟」が本当に起こるとは思っていないのである。だから、いざ「奇蹟」が起こると聖職者を含めて皆が動揺する。「動揺」の中身は多分に嫉妬であったり素朴な興奮であったり、それぞれの立場によって違うのだろうが、少なくとも平穏ではないのである。そうした「奇蹟」のありようを見事に描いた作品だ。
この作品を観ていて考えたのだが、世に言うところの「奇蹟」というのは、かなえられそうにない己の願望がかなうこと、であるような気がする。煩悩の成就というか、欲望の発散というか、要するに神様にお出ましいただくような内容ではないように思うのである。そもそも神とは何か、と言い出すと際限の無い話になるが、私は神というのは人知を超えた世界をすべて引き受ける存在だと考えている。だからそれまで漠然と謎であったり奇蹟であったりしたものが、「科学」と称される合理性に則って説明のつくものになると、それは神の世界の手を離れて現世の常識となる。宗教と科学が対立するものであるかのような見方があるように感じられるのだが、対立するような間柄ではなく、むしろ連携している、と私は思う。にごり水を濾過して浄水となったものを世に供給する、その濾過過程を担うのが科学であり、にごり水の管理をするのが宗教、というようなイメージだろうか。ただ、それまで「神のみぞ知る」と言っていたものを急に「そんなの常識じゃん」と言ってしまっては、それこそ神とは何か、という宗教の存在の根底を問われることになってしまい、宗教にかかわる多くの人々の既得権が脅威に曝されるので、みんな焦るのだ。焦るから混乱が起こり、時として歴史に残る大騒ぎになってしまうのである。
世に宗教というものは数多あるのだが、洗練の度合いに差はあれ、執行組織があり、それが権威付けをした教義があり、教義に乗っ取った習俗がある、というのが共通した有り様ではないだろうか。結局、組織の運営は人の仕事であり、権威も人が考えたことである。絶対というのは幻想で、しかし、それを幻想と認めてしまうと権威の根底が揺らいでしまうので、それはタブーということにしてある。となると、ある宗教によって律せられている社会において最大の罪は、そのタブーに触れることとなる。この罪を犯したものはその社会から抹殺されなければならない、ということになり、そこに聖戦というような概念も必要になるだろうし、宗教裁判という浮き世の秩序とは別口の裁判制度も必要になったのだろう。
要するに、宗教というものには確たる根拠というものがあるわけではない。いわば本来的に多義性を内包している。つまり、その運用には解釈の問題がついてまわることになる。だから同じナントカ教であっても、様々な宗派というものが生まれることになり、時には宗派間で深刻な対立が生じたりすることにもなる。多義性があって対立がある、というところには政治が発生する。宗教にかかわるところには政治が寄り添うのである。現に世界を見渡せば政党名に宗教名が冠されている団体はいくらもあるし、なかにはそうした政党が与党になっている国もある。
それで映画の話だが、面白かった。ルルドという「聖地」に人々が「奇蹟」を求めて集まっているのだが、その「奇蹟」はあくまで個人的な事情に関する「奇蹟」である。当事者にとっては深刻な問題なのだが、果たしてそれは「神」が関与するような内容のものなのであろうか。おそらく集まっている人も多くを期待しているわけではなく、半分は観光を兼ねているのだろう。「聖地」という権威付けはなされているものの、そこにいる聖職者を含めて「奇蹟」が本当に起こるとは思っていないのである。だから、いざ「奇蹟」が起こると聖職者を含めて皆が動揺する。「動揺」の中身は多分に嫉妬であったり素朴な興奮であったり、それぞれの立場によって違うのだろうが、少なくとも平穏ではないのである。そうした「奇蹟」のありようを見事に描いた作品だ。
「東京物語」を観た。日本映画の傑作のひとつに数えられる作品だ。その存在はずいぶん前から知っていたのだが、なかなか観る機会に恵まれなかった。先日、神保町で飲み会があった折、時間に余裕があったので靖国通り沿いの商店を見て回っていたのだが、そのときに大型新刊書店の前にあったワゴンのなかに並んでいた「小津安二郎大全集」に目がとまり、買い求めたのである。
有名な作品なので物語についても、映像についても、私があれこれ書くことは無いのだが、終戦から8年後という時代のことなのに古びたところが微塵も無いことに驚いた。登場人物の服装や映像のなかで描かれている習俗などは、確かに今の時代とは違う。そうした表層のことではなく、親子であるとか家族の有り様、さらに敷衍すれば人の有り様というものが冷徹に描かれており、そこに普遍性があるように思われる。
いろいろ不平不満があるのだろうが、穏やかな様子でにこやかに子供達のことを語り合う老夫婦。「私たちは幸せなほうですよね」とかなり本気で考えることができるのは、日本が焦土と化した時代を生き抜いたという時代背景もあるのだろう。主人公の老夫婦の子供達は長男が医者、三男は国鉄職員、長女は美容院経営、次女は小学校教諭ということで、確かに今の時代から見ても社会経済的には恵まれた階層を生きている。唯一、次男が戦死しており、その未亡人が伴侶を失ったという喪失感と不安を抱えつつも健気に生きている、というのはこの作品が制作された時代のリアリズムを与える設定なのだろう。
老夫婦が暮らすのは尾道。どのような事情なのかわからないのだが、約20年ぶりに上京して、東京で暮らす子供達や知人に会う。当時の通信手段は郵便、電報、電話。但し、電話はまだ普及途上で、東京で暮らす長男と長女の家には設置されているが、ほかの家にはまだない。次男の妻はアパートで一人暮らしだが、そこは電話がないばかりか、台所とトイレが共同で、浴室は無い。そういうアパートや下宿は今でも皆無ではないだろうが、すっかり稀少になってしまっている。そういうところに義母とはいえ、客を泊めるということが当たり前にあった時代というのが懐かしく感じられる。私が子供の頃に暮らしていた長屋は、六畳と四畳半に小さな台所と浴室やトイレがあるだけの狭い家だったのだが、正月などに遠方の親戚が遊びに来て、今から思えばパズルのように布団を敷いて10人前後が寝泊まりしたのである。先日、娘と訪れた日本民家園には何軒かの農家があったが、ごくありふれたような家であっても客間というのが必ず設けられていた。今の、少なくとも自分の身の回りで見聞する家に客を泊めることを想定したものは無いように思う。
郵便といえば、今はちょうど年賀状を書く時期だが、私信として郵便を使う機会が日常的にある人はどれほどいるのだろうか。電報に至っては、今や通信手段というよりは祝電や弔電のような特殊な場面での演出手段といえるだろう。現代の通信手段は携帯端末とメール。郵便や固定電話に比べればユビキタス性が格段に高まり、いつでもどこでも誰とでも通信を交わすことが可能になった。通信の発達で明らかになったことは、人間関係は通信で深まるわけではないということだ。3月の震災後、殊更に「絆」という言葉が脚光を浴びているようだが、そのことは「支え合えない私たち」という現実の裏返しなのではなかろうか。それどころか、常日頃からゴミのような通信を山のように飛ばし合うことで、人は相手の状況を想像する能力を退化させているのではないだろうか。手紙ならば、書く前に文面を考えなければならない。文面を考えるとき、相手のことをあれこれ想像しなければ文面はできあがらない。書いた後、それを封筒に収めてしまってよいかどうか読み直してみることになる。そして封かんし、投函する。内容によっては、さらに投函前に逡巡することもあるだろう。つまり書こうと思ってから送るまでの間に時間をかけて考えることがいくらでもある。電話となると口に出したが最後なので、思考の余裕は小さくなる。それでも固定電話の時代なら、相手に何かを伝えようと思ってから受話器を手にするまでに多少の時間はあり、そこに考え直したり逡巡する余裕は残されている。これが携帯端末となると、電話であろうが、メールであろうがSNSであろうが、思いついてから行動に移るまでの時間は直接的で、十分に思考する余裕があるとは思えない。結果として、自分の思い込みを押し付け合うだけの関係が肥大化しているというようなことにはなっていないだろうか。
物理的に向かい合って、言葉だけではなくて自分の持てる感覚を総動員して人と人とが語り合うという機会が、生活が小綺麗になるのに反比例するように少なくなっているような気がしてならない。「東京物語」の時代においてすら、家族は脆弱な関係として描かれている。それが今の時代ならどうなっているのか。家族関係ですら脆弱なら、他人との関係はどうなのか。そういう時代に我々が手にする「幸福」とはどのようなものなのか。この作品を観終わって、そんなことをふと思った。
ところで、この作品の最後は、東京の子供達を訪ねた後、尾道の家に戻ってほどなくして妻が倒れて帰らぬ人となり、独り残された主人公が、それでも穏やかな笑顔で通りかかった隣人と会話をする場面だ。隣人との会話は他愛の無いものだが、その後、主人公は深い溜め息を漏らす。何百何千という言葉よりも、その溜め息のほうがどれほど饒舌なことか。このシーンだけで小津という人が凄い人であるように思われた。
有名な作品なので物語についても、映像についても、私があれこれ書くことは無いのだが、終戦から8年後という時代のことなのに古びたところが微塵も無いことに驚いた。登場人物の服装や映像のなかで描かれている習俗などは、確かに今の時代とは違う。そうした表層のことではなく、親子であるとか家族の有り様、さらに敷衍すれば人の有り様というものが冷徹に描かれており、そこに普遍性があるように思われる。
いろいろ不平不満があるのだろうが、穏やかな様子でにこやかに子供達のことを語り合う老夫婦。「私たちは幸せなほうですよね」とかなり本気で考えることができるのは、日本が焦土と化した時代を生き抜いたという時代背景もあるのだろう。主人公の老夫婦の子供達は長男が医者、三男は国鉄職員、長女は美容院経営、次女は小学校教諭ということで、確かに今の時代から見ても社会経済的には恵まれた階層を生きている。唯一、次男が戦死しており、その未亡人が伴侶を失ったという喪失感と不安を抱えつつも健気に生きている、というのはこの作品が制作された時代のリアリズムを与える設定なのだろう。
老夫婦が暮らすのは尾道。どのような事情なのかわからないのだが、約20年ぶりに上京して、東京で暮らす子供達や知人に会う。当時の通信手段は郵便、電報、電話。但し、電話はまだ普及途上で、東京で暮らす長男と長女の家には設置されているが、ほかの家にはまだない。次男の妻はアパートで一人暮らしだが、そこは電話がないばかりか、台所とトイレが共同で、浴室は無い。そういうアパートや下宿は今でも皆無ではないだろうが、すっかり稀少になってしまっている。そういうところに義母とはいえ、客を泊めるということが当たり前にあった時代というのが懐かしく感じられる。私が子供の頃に暮らしていた長屋は、六畳と四畳半に小さな台所と浴室やトイレがあるだけの狭い家だったのだが、正月などに遠方の親戚が遊びに来て、今から思えばパズルのように布団を敷いて10人前後が寝泊まりしたのである。先日、娘と訪れた日本民家園には何軒かの農家があったが、ごくありふれたような家であっても客間というのが必ず設けられていた。今の、少なくとも自分の身の回りで見聞する家に客を泊めることを想定したものは無いように思う。
郵便といえば、今はちょうど年賀状を書く時期だが、私信として郵便を使う機会が日常的にある人はどれほどいるのだろうか。電報に至っては、今や通信手段というよりは祝電や弔電のような特殊な場面での演出手段といえるだろう。現代の通信手段は携帯端末とメール。郵便や固定電話に比べればユビキタス性が格段に高まり、いつでもどこでも誰とでも通信を交わすことが可能になった。通信の発達で明らかになったことは、人間関係は通信で深まるわけではないということだ。3月の震災後、殊更に「絆」という言葉が脚光を浴びているようだが、そのことは「支え合えない私たち」という現実の裏返しなのではなかろうか。それどころか、常日頃からゴミのような通信を山のように飛ばし合うことで、人は相手の状況を想像する能力を退化させているのではないだろうか。手紙ならば、書く前に文面を考えなければならない。文面を考えるとき、相手のことをあれこれ想像しなければ文面はできあがらない。書いた後、それを封筒に収めてしまってよいかどうか読み直してみることになる。そして封かんし、投函する。内容によっては、さらに投函前に逡巡することもあるだろう。つまり書こうと思ってから送るまでの間に時間をかけて考えることがいくらでもある。電話となると口に出したが最後なので、思考の余裕は小さくなる。それでも固定電話の時代なら、相手に何かを伝えようと思ってから受話器を手にするまでに多少の時間はあり、そこに考え直したり逡巡する余裕は残されている。これが携帯端末となると、電話であろうが、メールであろうがSNSであろうが、思いついてから行動に移るまでの時間は直接的で、十分に思考する余裕があるとは思えない。結果として、自分の思い込みを押し付け合うだけの関係が肥大化しているというようなことにはなっていないだろうか。
物理的に向かい合って、言葉だけではなくて自分の持てる感覚を総動員して人と人とが語り合うという機会が、生活が小綺麗になるのに反比例するように少なくなっているような気がしてならない。「東京物語」の時代においてすら、家族は脆弱な関係として描かれている。それが今の時代ならどうなっているのか。家族関係ですら脆弱なら、他人との関係はどうなのか。そういう時代に我々が手にする「幸福」とはどのようなものなのか。この作品を観終わって、そんなことをふと思った。
ところで、この作品の最後は、東京の子供達を訪ねた後、尾道の家に戻ってほどなくして妻が倒れて帰らぬ人となり、独り残された主人公が、それでも穏やかな笑顔で通りかかった隣人と会話をする場面だ。隣人との会話は他愛の無いものだが、その後、主人公は深い溜め息を漏らす。何百何千という言葉よりも、その溜め息のほうがどれほど饒舌なことか。このシーンだけで小津という人が凄い人であるように思われた。
朝4時半に起床して5時過ぎに家を出た。途中、コンビニで軍手を買ったので5時15分発の外回りに間に合わず、次の33分発になってしまった。それでも新橋発6時ちょうどのゆりかもめの初電には間に合った。今日の集合は国際展示場正門駅改札に6時半だ。上の写真は集合してから現場へ移動するまでの待ち時間に撮ったものだ。携帯電話のカメラなので実際よりも画面が間抜けに明るく夜明けの感じは伝わらないだろう。
失業してからというもの、いくつかの人材斡旋業者に登録をしたり、アウトプレースメント会社で研修を受けたりというような再就職活動を進める傍らで、時間が空いているので人材派遣業者にも登録して単発のバイトをもらうようにした。今日はその第一弾で、東京ビックサイトでのピッキングという仕事だ。仕事の詳細は守秘義務があるので書くことはできないのだが、新鮮な経験であったことは確かだ。アルバイトというのは家庭教師、塾講師、通訳、翻訳といった少し浮世離れ感のあるものしか経験したことがなかったので、今日のような肉体労働がそもそも初めてのことだ。それに加えて、派遣会社に登録して、そこから仕事の案内が来て、応募して、依頼が来て、仕事をして、報酬をもらう、という一連の流れも眼の覚めるようなものだった。
そんなことも知らなかったのかと呆れられてしまうだろうが、なにしろ初めてのことばかりなので感心することばかりなのである。まずは派遣会社に登録するところから始まる。一般にはネット上で完了するのだろうが、おそらく本人確認の意味もあって、説明会と称するものに出席する。そこで所謂「重要事項」の説明を受け、実際の仕事の流れについても説明を受ける。いくつか書類の提出もあり、それが派遣会社のシステムに登録されると仕事の案内が携帯メールで送られてくるのである。もちろん、仕事にはその内容に応じて様々な条件があるので、送られて来る仕事すべてに応募できるわけではない。これも当然といえば当然だが、応募したからといって仕事にありつけるとは限らない。何か応募者のプロフィールのようなものでスクリーニングがかけられたり、応募順であったり、派遣会社から応諾確認の電話がかかってきたときに応じることができるかどうかというようなことがあったり、いろいろ事情があるらしい。晴れて仕事を頂くことができると、当日は携帯サイトか電話で仕事に出かけることを連絡することを義務づけられる。現場に来ることになっている仕事人が途中で何らかの障害に巻き込まれているのか、そもそも家を出ていないのか、ということを派遣業者は把握しておく必要があるのはもっともなことだ。原則は現場への直行直帰。仕事が無事に終了すると現場の責任者から「承認番号」というものを教えていただくことになる。派遣会社の携帯サイトにアクセスして、仕事を完了した証拠として承認番号を入力すると所定の報酬計算がなされるという段取りだ。報酬は毎月月末締めで翌月の所定の日にこちらが指定した銀行口座にまとめて振り込まれることになっている。
これまでは運動不足解消のために近所のプールに出かけていたりしていたが、このような肉体労働に従事したほうがどれほど運動になるか知れない。おまけに報酬まで頂けるのである。もっと早くにこうした時間の使い方を知っておけばよかったと思った。単発の仕事というのは思いの外たくさんあって、例えば今日の仕事も昨夜8時頃に応募したものだ。今日も仕事を終えて携帯の電源を入れると、メールが何件か入っていて、そのうちの半分は仕事の紹介だった。それに応募すれば確実に仕事が得られるというのなら、単発の仕事に積極的に応募するのだが、応募したからといってそれを受けることにはならないというのが悩ましくはある。今日、携帯メールで紹介を受けたものにしても、応募したのはそのなかの1件だけで、それもどうなるかわからない。そこがもう少しなんとかならないものかと思う。
ちなみに、今日の現場は私が登録している先から派遣されてきたのが私を含めて13名。全員男性で、過半数は私のようなオッサンだ。午前6時半に集合してから現場に移動し、7時から17時半まで途中何回かの休憩を挟みながら汗を流した。いつ死んでも不思議のない年齢なのだが、まだまだ知らないことがいくらでもあるものだと妙に感心した。
失業してからというもの、いくつかの人材斡旋業者に登録をしたり、アウトプレースメント会社で研修を受けたりというような再就職活動を進める傍らで、時間が空いているので人材派遣業者にも登録して単発のバイトをもらうようにした。今日はその第一弾で、東京ビックサイトでのピッキングという仕事だ。仕事の詳細は守秘義務があるので書くことはできないのだが、新鮮な経験であったことは確かだ。アルバイトというのは家庭教師、塾講師、通訳、翻訳といった少し浮世離れ感のあるものしか経験したことがなかったので、今日のような肉体労働がそもそも初めてのことだ。それに加えて、派遣会社に登録して、そこから仕事の案内が来て、応募して、依頼が来て、仕事をして、報酬をもらう、という一連の流れも眼の覚めるようなものだった。
そんなことも知らなかったのかと呆れられてしまうだろうが、なにしろ初めてのことばかりなので感心することばかりなのである。まずは派遣会社に登録するところから始まる。一般にはネット上で完了するのだろうが、おそらく本人確認の意味もあって、説明会と称するものに出席する。そこで所謂「重要事項」の説明を受け、実際の仕事の流れについても説明を受ける。いくつか書類の提出もあり、それが派遣会社のシステムに登録されると仕事の案内が携帯メールで送られてくるのである。もちろん、仕事にはその内容に応じて様々な条件があるので、送られて来る仕事すべてに応募できるわけではない。これも当然といえば当然だが、応募したからといって仕事にありつけるとは限らない。何か応募者のプロフィールのようなものでスクリーニングがかけられたり、応募順であったり、派遣会社から応諾確認の電話がかかってきたときに応じることができるかどうかというようなことがあったり、いろいろ事情があるらしい。晴れて仕事を頂くことができると、当日は携帯サイトか電話で仕事に出かけることを連絡することを義務づけられる。現場に来ることになっている仕事人が途中で何らかの障害に巻き込まれているのか、そもそも家を出ていないのか、ということを派遣業者は把握しておく必要があるのはもっともなことだ。原則は現場への直行直帰。仕事が無事に終了すると現場の責任者から「承認番号」というものを教えていただくことになる。派遣会社の携帯サイトにアクセスして、仕事を完了した証拠として承認番号を入力すると所定の報酬計算がなされるという段取りだ。報酬は毎月月末締めで翌月の所定の日にこちらが指定した銀行口座にまとめて振り込まれることになっている。
これまでは運動不足解消のために近所のプールに出かけていたりしていたが、このような肉体労働に従事したほうがどれほど運動になるか知れない。おまけに報酬まで頂けるのである。もっと早くにこうした時間の使い方を知っておけばよかったと思った。単発の仕事というのは思いの外たくさんあって、例えば今日の仕事も昨夜8時頃に応募したものだ。今日も仕事を終えて携帯の電源を入れると、メールが何件か入っていて、そのうちの半分は仕事の紹介だった。それに応募すれば確実に仕事が得られるというのなら、単発の仕事に積極的に応募するのだが、応募したからといってそれを受けることにはならないというのが悩ましくはある。今日、携帯メールで紹介を受けたものにしても、応募したのはそのなかの1件だけで、それもどうなるかわからない。そこがもう少しなんとかならないものかと思う。
ちなみに、今日の現場は私が登録している先から派遣されてきたのが私を含めて13名。全員男性で、過半数は私のようなオッサンだ。午前6時半に集合してから現場に移動し、7時から17時半まで途中何回かの休憩を挟みながら汗を流した。いつ死んでも不思議のない年齢なのだが、まだまだ知らないことがいくらでもあるものだと妙に感心した。
あまり深い考えのないままに、案内状に従ってマンションの管理組合定期総会に出席したら、来期の副理事長に選任されてしまった。普段は出席しないのだが、今年は震災があったので、その被害の有無やその後の状況について素朴に興味があったので、他に予定もなかったので出席したのである。聞く所によると、毎回出席するのは数えるほどの決まった人たちで、しかも毎回熱い議論が戦わされるのだそうだ。そんななかにふらりと私が現れたものだから、なにかと意見を求められ、あれこれ会議の話に参加しているうちに、最後の議案で来期の理事会役員を決める段になってそういうことになってしまった。今日参加している人たちは全員が理事会メンバーで、それでも所定の役職をカバーできる人数に足りないという状況なので断るわけにはいかなかったのである。とんでもないことになってしまったが、せっかくの機会でもあるので、できるだけのことはやってみようと思う。
失職してからのほうがなんとなく気ぜわしくなったように感じられる。今日は昼前に警察に行って古物商の許可申請をする。警察の近所のヨーカドーのなかにあるファミレスで食事を済ませて、登録してあるアウトプレースメントのオフィスへ出向き、かねてから出席することになっていたセミナーを受講する。それから橙灯へ行って、先週お願いしておいた「おじさん図鑑」のサイン本を受領しながら少し一服。その後、以前参加していたタッチラグビーのチームの忘年会に顔を出す。おそらく、昔の自分ならそういう飲み会、しかも参加者の殆どが初対面というようなところに自ら積極的に出かけるというようなことはなかっただろう。いつから、というはっきりとした契機があるわけではないのだが、数年前から昔の自分なら選ばないようなことやものを敢えて選んでみるということを意識するようになった。この写真に写っているなかで、自分が知っているのは幹事役の人だけである。ほかに言葉を交わしたことのある人が3人あって、それ以外は今夜初めてお目にかかった人たちだ。それでも十分楽しい時間を過ごすことができた。こういう場を「楽しい」と感じることなど、昔の自分には考えられないことだった。面白いものだと思う。
住処に戻る途中、近所のコンビニに寄ってアマゾンで注文したプリンターのインクとジョージ・ハリスンの「Living in the material world」を受領する。「Living in the material world」はコレクターズ・エディションのほうだ。今日は第一部しか観なかったが、ほぼ期待通りの内容だった。
昼に友人と食事を共にした後、戸籍のある自治体の役所へ出かけて用を済ませ、さらに法務局へ行く。夜に池袋で用があり、それまで時間が空いたので、埼玉県立近代美術館へ行って「アンリ・ル・シダネル展」を観る。池袋で用を済ませて夜8時半過ぎに帰宅。
昼を共にした友人は宝くじをほぼ毎回買うらしい。宝くじのほうは高額当選の経験は無いがTOTOのほうは10万円とか数万円を当てたことがあるそうだ。私は宝くじは買わない。当たることは無いだろうが、万が一、一等だとか二等だとかが当たったら困惑すると思うのである。もちろん当選したら嬉しいはずだ。例えば今3億円手にしたら、あくせく職探しなどしなくてもよい。尤も、それで安泰というわけでもないだろうから「あくせく」ではなく気長に職探しを続ける必要はあるだろう。そんなことより、300円のものが何の努力もせずに3億円になるということは許されてはならないことだと思うのである。確かに人は生まれることを選べない。命を授かることが何の前提もなく有り難いことであるかのように語られることが多いが、そういうことには違和感を禁じ得ない。違和感のことはともかく、生きていれば幸運と感じられることもあるだろうが、不慮の災難などいくらでもある。自分でどうこうできることなど、人生という限られた場においてすらひとつまみほどのことでしかないのかもしれない。災いは甘受して幸運は疑う、というのは偏った態度であるというのは承知している。しかし、自分のなかの自然な感覚として、降って湧いたような大金を手にするというのは、何かとんでもなく良からぬことが背後に控えているのではないかと疑ってしまうのである。生まれついての貧乏性と言われれば、その通りだろう。もちろん、自分が何か働きかけをした結果として3億円の報酬を手にするということなら、それは素直に受け入れることができると思う(経験が無いのであくまで想像だが)。私が言いたいのは、得体の知れないものを自分の世界に無闇に受け入れたくないということなのである。それは金銭だけのことではなく、人についても物についても言えることだ。
昼を共にした友人は宝くじをほぼ毎回買うらしい。宝くじのほうは高額当選の経験は無いがTOTOのほうは10万円とか数万円を当てたことがあるそうだ。私は宝くじは買わない。当たることは無いだろうが、万が一、一等だとか二等だとかが当たったら困惑すると思うのである。もちろん当選したら嬉しいはずだ。例えば今3億円手にしたら、あくせく職探しなどしなくてもよい。尤も、それで安泰というわけでもないだろうから「あくせく」ではなく気長に職探しを続ける必要はあるだろう。そんなことより、300円のものが何の努力もせずに3億円になるということは許されてはならないことだと思うのである。確かに人は生まれることを選べない。命を授かることが何の前提もなく有り難いことであるかのように語られることが多いが、そういうことには違和感を禁じ得ない。違和感のことはともかく、生きていれば幸運と感じられることもあるだろうが、不慮の災難などいくらでもある。自分でどうこうできることなど、人生という限られた場においてすらひとつまみほどのことでしかないのかもしれない。災いは甘受して幸運は疑う、というのは偏った態度であるというのは承知している。しかし、自分のなかの自然な感覚として、降って湧いたような大金を手にするというのは、何かとんでもなく良からぬことが背後に控えているのではないかと疑ってしまうのである。生まれついての貧乏性と言われれば、その通りだろう。もちろん、自分が何か働きかけをした結果として3億円の報酬を手にするということなら、それは素直に受け入れることができると思う(経験が無いのであくまで想像だが)。私が言いたいのは、得体の知れないものを自分の世界に無闇に受け入れたくないということなのである。それは金銭だけのことではなく、人についても物についても言えることだ。
陶芸は今日が年内最終日だった。先週挽いた壷がふたつあり、それらを削るのが今日の作業だ。ひとつは問題なく削り終えたのだが、もうひとつは穴を開けてしまった。壷は皿や碗とちがって、ひっくり返して削るとき、どの程度まで削れているか見ただけては肉厚がわからない。ただ、なんとなく質感とか鉋の当たり具合で厚さを感じる。その漠然とした感じを信じて削るのである。少しイレギュラーな形の面取りでは、先生ですら5つに1つくらいはお釈迦にしてしまうのだそうだ。今年の夏から壷を作り始め、いままでは削りで失敗したことはなかったのだが、ついにやってしまった。尤も、おっかなびっくり削って、削りが不十分なままにしてしまうよりは、失敗を恐れずに攻めるくらいのほうが上達するらしい。なにしろ今は修行中の身なので、失敗を恐れる理由がそもそも無いはずだ。それでも、作っているうちに欲が出て、なんとか上手くやってやろうなどという助平心が出てしまう。そうなると、たとえ技巧面で上手くできたとしても、全体の佇まいが卑小になるような気がする。心を虚しくして、目の前の土塊が自然に造形するのを助けるくらいのつもりで取り組むことができたら、きっと自分のなかの何かが大きく変わるのではないかと期待している。いつになったらそういう心持ちで土と向かい合うようになることができるのか知らないが、いつかはそうなりたいものだと思っている。
落語に「代書」あるいは「代書屋」という噺がある。1938年頃に四代目の桂米團治が作ったものだ。米團治は落語家になる以前、代書屋を営んでいたこともあるので、あるいは自身の経験が下敷きになっている噺なのかもしれない。噺自体は演者によってバリュエーションがあるのだが、基本となっているのは就職のための履歴書を頼みに来た客と代書屋とのとんちんかんなやり取りの挙げ句に訂正だらけの妙な履歴書が完成するというものだ。今の時代は文字を書けないという人が殆どいなくなり、履歴書だの職務経歴書は自筆が基本になったが、それでも期せずして落語のような履歴書になってしまうこともあるかもしれない。落語は代書屋とのやり取りだが、応募先企業の担当者とのやり取りも落語に負けず劣らず滑稽な側面があるように思う。
就職活動を始めるに当たって必要なのが履歴書、職務経歴書、英文レジメの3点セットだ。求職者が求人企業と接触する際の最初の接点がこれらの書類なので、その書き方には読む側を意識したあの手この手が盛り込まれることになる。要するにこれらの書類は自分の宣伝だ。これほどの仕事をして、いずれにおいても素晴らしい実績を残したというようなことをあげつらうのである。冷静に見れば、馬鹿馬鹿しいことこの上ない。自分で自分を凄い奴というのはボケかカスと相場は決まっている。それが就職の段となると、誰もが大真面目にボケカスを演じるのである。それを演じるほうも演じるほうなのだが、そういう薄っぺらなもので採用を決める側も負けず劣らず間抜けということになるだろう。
LinkedInというSNSサイトがある。今まで私はその存在を知らなかったのだが、クビになったときに上司から「LinkedInに登録しているか?」と尋ねられ、「そんなもん聞いたこともない」と答えたら、彼から招待のメールが届いた。これはまだ英文版しかないのだが、自分の職務経歴を登録して就職活動に使うサイトである。求職者はもちろん、人材斡旋業者やフリーランスで仕事をしている人たちも登録していて、全世界で1億何千万人だかの登録があるのだそうだ。面白いのは、このサイト上でリファレンスレターのようなものを依頼したり応じたりでき、しかもそれらが公開されているのである。自分が知っている人たちが互いに褒め合っているのを読むと、本人たちには気の毒だが爆笑ものだ。
それでもそういうものを利用しないと職にありつけないというのなら、利用しないわけにはいかないだろう。生活をするというのは「同じアホなら踊らにゃ損損」というところも多分にあるものだ。人というものを目に見える形で表現するには、その人の属性や人となりの象徴となるようなことを細かい要素に分解し、その構成要素を言語化し、評価を与えなければならない。身体という物理的なものは、ある程度は言語化して表現できるだろうが、そうではないものをどのように表現できるだろうか。学歴、資格、家柄、閨閥、職務上の計数化可能な実績など、言語化できる要素をできるだけ多く列挙して表現することになる。「言語化」という言葉を使っているが、要するにデータ化して比較可能な形態にするのである。そうすることで、人は労働力商品のカタログに掲載され、労働力市場で流通可能となるのである。就職というのは労働力市場での事象である。この市場に流通しないことには、就職という事象には巡り会わないのである。
当然のことながら、労働力市場に流通している松本留五郎と、仕事抜きで付き合うときの松本留五郎とは、同じ人物であっても同じではない。片やデータであり、片や実在である。データ上の松本氏は誰にとっても同じものだが、実在の松本氏は人によって様々に認識される。松本留五郎が何者なのか、というのは実はどうでもよいことなのである。労働力としての松本氏に興味のある人は、そのデータに注目して想定される状況に応じた差配を考えればよく、松本氏その人に興味のある人は時間をかけてじっくりと付き合えばよいのである。間違いが起こるのは、データと本人を混同するからだ。本人というものはそもそも存在しない。関係性のなかで、松本留五郎という関係の結節点が形成されるのである。つまり、そこに絶対的な存在は無いのである。パラドクス的な言い方になるが、実在の松本留五郎は実在しない。それをデータが全てであるかのように錯覚するところから不幸が始まる。最大の不幸は本人が自分のデータを自分の全てと信じてしまうことだ。自らを薄っぺらなものに貶めることで、言語化されたものだけを絶対的なものとして信じてしまうという、逃げ水を追うような姿勢に陥ってしまう。落語の「粗忽長屋」を滑稽噺と思って聴く人が多いと思うが、あれと同じことを多くの人がそれとは知らずにやらかしているのである。
労働力商品の評価基準に用いられるデータを例に挙げれば、学歴とか資格といったものが評価対象になるのは、ある場面のなかだけであって恒久的なものではない。どれほど立派な学歴や資格があっても、それらには賞味期限があり、時期が来れば無視されるようになる。どれほど特定の企業のなかで実績を評価された人であっても、その評価が永久に持続するわけではない。時期が来れば、その人丸ごとデータとしては消去される。それでも生理的にその人の生命活動が続いていれば、社会の中でその人は自分の居場所を確保しなければならない。データとしての存在価値が無くなっても、人としての存在価値がなくなるわけではないはずだ。尤も、このあたりのことについては人それぞれに考えがあるだろう。
ただ、就職活動というものを始めるときに、最初に準備することが自分自身のデータ化であるということが意味することは、ひとりひとりがよく考える必要があるのではないだろうか。そのデータは自分の何なのか。自分とは一体何者なのか。
就職活動を始めるに当たって必要なのが履歴書、職務経歴書、英文レジメの3点セットだ。求職者が求人企業と接触する際の最初の接点がこれらの書類なので、その書き方には読む側を意識したあの手この手が盛り込まれることになる。要するにこれらの書類は自分の宣伝だ。これほどの仕事をして、いずれにおいても素晴らしい実績を残したというようなことをあげつらうのである。冷静に見れば、馬鹿馬鹿しいことこの上ない。自分で自分を凄い奴というのはボケかカスと相場は決まっている。それが就職の段となると、誰もが大真面目にボケカスを演じるのである。それを演じるほうも演じるほうなのだが、そういう薄っぺらなもので採用を決める側も負けず劣らず間抜けということになるだろう。
LinkedInというSNSサイトがある。今まで私はその存在を知らなかったのだが、クビになったときに上司から「LinkedInに登録しているか?」と尋ねられ、「そんなもん聞いたこともない」と答えたら、彼から招待のメールが届いた。これはまだ英文版しかないのだが、自分の職務経歴を登録して就職活動に使うサイトである。求職者はもちろん、人材斡旋業者やフリーランスで仕事をしている人たちも登録していて、全世界で1億何千万人だかの登録があるのだそうだ。面白いのは、このサイト上でリファレンスレターのようなものを依頼したり応じたりでき、しかもそれらが公開されているのである。自分が知っている人たちが互いに褒め合っているのを読むと、本人たちには気の毒だが爆笑ものだ。
それでもそういうものを利用しないと職にありつけないというのなら、利用しないわけにはいかないだろう。生活をするというのは「同じアホなら踊らにゃ損損」というところも多分にあるものだ。人というものを目に見える形で表現するには、その人の属性や人となりの象徴となるようなことを細かい要素に分解し、その構成要素を言語化し、評価を与えなければならない。身体という物理的なものは、ある程度は言語化して表現できるだろうが、そうではないものをどのように表現できるだろうか。学歴、資格、家柄、閨閥、職務上の計数化可能な実績など、言語化できる要素をできるだけ多く列挙して表現することになる。「言語化」という言葉を使っているが、要するにデータ化して比較可能な形態にするのである。そうすることで、人は労働力商品のカタログに掲載され、労働力市場で流通可能となるのである。就職というのは労働力市場での事象である。この市場に流通しないことには、就職という事象には巡り会わないのである。
当然のことながら、労働力市場に流通している松本留五郎と、仕事抜きで付き合うときの松本留五郎とは、同じ人物であっても同じではない。片やデータであり、片や実在である。データ上の松本氏は誰にとっても同じものだが、実在の松本氏は人によって様々に認識される。松本留五郎が何者なのか、というのは実はどうでもよいことなのである。労働力としての松本氏に興味のある人は、そのデータに注目して想定される状況に応じた差配を考えればよく、松本氏その人に興味のある人は時間をかけてじっくりと付き合えばよいのである。間違いが起こるのは、データと本人を混同するからだ。本人というものはそもそも存在しない。関係性のなかで、松本留五郎という関係の結節点が形成されるのである。つまり、そこに絶対的な存在は無いのである。パラドクス的な言い方になるが、実在の松本留五郎は実在しない。それをデータが全てであるかのように錯覚するところから不幸が始まる。最大の不幸は本人が自分のデータを自分の全てと信じてしまうことだ。自らを薄っぺらなものに貶めることで、言語化されたものだけを絶対的なものとして信じてしまうという、逃げ水を追うような姿勢に陥ってしまう。落語の「粗忽長屋」を滑稽噺と思って聴く人が多いと思うが、あれと同じことを多くの人がそれとは知らずにやらかしているのである。
労働力商品の評価基準に用いられるデータを例に挙げれば、学歴とか資格といったものが評価対象になるのは、ある場面のなかだけであって恒久的なものではない。どれほど立派な学歴や資格があっても、それらには賞味期限があり、時期が来れば無視されるようになる。どれほど特定の企業のなかで実績を評価された人であっても、その評価が永久に持続するわけではない。時期が来れば、その人丸ごとデータとしては消去される。それでも生理的にその人の生命活動が続いていれば、社会の中でその人は自分の居場所を確保しなければならない。データとしての存在価値が無くなっても、人としての存在価値がなくなるわけではないはずだ。尤も、このあたりのことについては人それぞれに考えがあるだろう。
ただ、就職活動というものを始めるときに、最初に準備することが自分自身のデータ化であるということが意味することは、ひとりひとりがよく考える必要があるのではないだろうか。そのデータは自分の何なのか。自分とは一体何者なのか。
月に一回子供と会うとき、子供の方から要望が無い限り私が自分で行きたいところに連れて行く。今日は自分のなかで何カ所か候補があって少し迷ったが、天気に恵まれたので、新宿でセガンティーニ展を観て、食事を済ませてから、生田緑地にある日本民家園を訪れた。
私はセガンティーニの真髄は、大画面に広がる山々の風景の背後にある神を感じることだと思う。「神」というのはナントカ教の神様のことではなく、この世界を超越した存在というような意味だ。残念ながら、現在開催されているセガンティーニ展に並ぶ作品では、私のような凡人は神を感じることはできない。おそらく、山登りをする人が山に惹かれる理由と、セガンティーニの作品が人々を魅了する理由との間には通じるものがあるのではなかろうか。
日本民家園を訪れるのは初めてだ。実物の家屋を展示したものとしては愛知県の明治村とか江戸東京たてもの園が有名だが、これらで観ることができるのは著名人の住まいであったり、歴史的に記憶されるべきモニュメントのようなものであったりするのに対し、民家園は文字通り一般の人々の暮らしの場を展示している。結果的に農家が多いのだが、ここに展示されている大小様々の農家に共通していることがある。それはどの家にも客間があるということだ。ここにある古民家が建てられた時代まで遡らなくとも、「ハラがコレなんで」に登場するような、プライバシーというものがあるのかないのかよくわからない長屋などが当たり前に存在していた。現に私が3歳から12歳の直前まで暮らしていたのは、まさにそういう長屋だった。それでも親戚が訪ねてきて泊まっていくというようなことは当たり前にあったし、泊まらないまでも互いを訪ねあうということは自然なこととしてあった。それが、近頃の住宅は家族だけで占有することを前提にしており、あまり他人が訪ねてくるということを前提にした間取りは無いように感じられる。それどころか、妙に細かく部屋割りをして家屋のなかで家族を分断しようとしているかのような間取りに見えることが多い。昨今、引き蘢りだの、身内の死体を放置してその年金だけネコババするだのといった俄に信じ難いことを見聞するが、そうした家族という関係に発生する異常は生活の場である家屋の構造と関係があるのではないだろうか。そうした「事件」の域に達するようなところまでいかなくとも、円満な人間関係を構築できず仮想空間にしか生きる場を見出せない、というようなのも健康な状態とは言えないのではなかろうか。確かに他人との関係というのは煩わしいことが少なくない。しかし、他人との関係の上に成り立っているのが我々の生活というものだ。生身の人間との接触なくして自身の生活は存在し得ないのである。
人は生まれたときも死ぬときもひとりだが、その間も一貫してひとりというわけにはいかない。そこで教育というものがあり、他者との関わりを様々な形で学習するのである。一般には「教育」というと知識教育を指すようだが、死を前にして外界の刺激に反応できなくなる瞬間まで教育というものはついてまわると私は思っている。外界の刺激の最たるものは他者の存在だ。自身に自我があり自分の世界や文化を備えている以上、誰とでも上手く折り合いを付けることができるというわけにはいかない。文化や価値観というものは、体系を備えているので、本来的にその体系のなかに組み込むことのできないものを排除するようになっている。世に争いが絶えないのは、その端的な現象だ。しかし、争いは結果がどうあれ当事者は有形無形の傷を負うことになる。自己保存の法則に従えば、最も望ましいのは争いを回避することだ。そのための知識やノウハウを獲得する行為が教育であり学習なのだと思う。争いを回避するための最重要事項は自分自身を知ることだ。おそらく自分というものは最期までわからない。それでも、自分は何者なのか、どこから来てどこへ向かうのか、というようなことを探求する過程で見えてくるものがたくさんあるはずだ。それが人にとってなによりも貴重なことだと思う。
自分を知るというのは他人を知ることでもある。煩わしいからといって、他者との関わりを避けていては、無知蒙昧のままに世に浮遊するだけになってしまう。他者との接触を回避する城塞のような住宅に暮らしていては、惚けて終わるしかないだろう。古民家が我々に訴えるのは、素材の良さや造りの頑丈さではなく、今の自分自身の他者に対する姿勢がどうなのかということだろう。その意味で、多いに反省させられる日となった。
私はセガンティーニの真髄は、大画面に広がる山々の風景の背後にある神を感じることだと思う。「神」というのはナントカ教の神様のことではなく、この世界を超越した存在というような意味だ。残念ながら、現在開催されているセガンティーニ展に並ぶ作品では、私のような凡人は神を感じることはできない。おそらく、山登りをする人が山に惹かれる理由と、セガンティーニの作品が人々を魅了する理由との間には通じるものがあるのではなかろうか。
日本民家園を訪れるのは初めてだ。実物の家屋を展示したものとしては愛知県の明治村とか江戸東京たてもの園が有名だが、これらで観ることができるのは著名人の住まいであったり、歴史的に記憶されるべきモニュメントのようなものであったりするのに対し、民家園は文字通り一般の人々の暮らしの場を展示している。結果的に農家が多いのだが、ここに展示されている大小様々の農家に共通していることがある。それはどの家にも客間があるということだ。ここにある古民家が建てられた時代まで遡らなくとも、「ハラがコレなんで」に登場するような、プライバシーというものがあるのかないのかよくわからない長屋などが当たり前に存在していた。現に私が3歳から12歳の直前まで暮らしていたのは、まさにそういう長屋だった。それでも親戚が訪ねてきて泊まっていくというようなことは当たり前にあったし、泊まらないまでも互いを訪ねあうということは自然なこととしてあった。それが、近頃の住宅は家族だけで占有することを前提にしており、あまり他人が訪ねてくるということを前提にした間取りは無いように感じられる。それどころか、妙に細かく部屋割りをして家屋のなかで家族を分断しようとしているかのような間取りに見えることが多い。昨今、引き蘢りだの、身内の死体を放置してその年金だけネコババするだのといった俄に信じ難いことを見聞するが、そうした家族という関係に発生する異常は生活の場である家屋の構造と関係があるのではないだろうか。そうした「事件」の域に達するようなところまでいかなくとも、円満な人間関係を構築できず仮想空間にしか生きる場を見出せない、というようなのも健康な状態とは言えないのではなかろうか。確かに他人との関係というのは煩わしいことが少なくない。しかし、他人との関係の上に成り立っているのが我々の生活というものだ。生身の人間との接触なくして自身の生活は存在し得ないのである。
人は生まれたときも死ぬときもひとりだが、その間も一貫してひとりというわけにはいかない。そこで教育というものがあり、他者との関わりを様々な形で学習するのである。一般には「教育」というと知識教育を指すようだが、死を前にして外界の刺激に反応できなくなる瞬間まで教育というものはついてまわると私は思っている。外界の刺激の最たるものは他者の存在だ。自身に自我があり自分の世界や文化を備えている以上、誰とでも上手く折り合いを付けることができるというわけにはいかない。文化や価値観というものは、体系を備えているので、本来的にその体系のなかに組み込むことのできないものを排除するようになっている。世に争いが絶えないのは、その端的な現象だ。しかし、争いは結果がどうあれ当事者は有形無形の傷を負うことになる。自己保存の法則に従えば、最も望ましいのは争いを回避することだ。そのための知識やノウハウを獲得する行為が教育であり学習なのだと思う。争いを回避するための最重要事項は自分自身を知ることだ。おそらく自分というものは最期までわからない。それでも、自分は何者なのか、どこから来てどこへ向かうのか、というようなことを探求する過程で見えてくるものがたくさんあるはずだ。それが人にとってなによりも貴重なことだと思う。
自分を知るというのは他人を知ることでもある。煩わしいからといって、他者との関わりを避けていては、無知蒙昧のままに世に浮遊するだけになってしまう。他者との接触を回避する城塞のような住宅に暮らしていては、惚けて終わるしかないだろう。古民家が我々に訴えるのは、素材の良さや造りの頑丈さではなく、今の自分自身の他者に対する姿勢がどうなのかということだろう。その意味で、多いに反省させられる日となった。
Aero Conceptの菅野さんの工場にお邪魔させていただいた。菅野さんと知り合ったのはネット上のこと。私がロンドンで暮らしていた頃、たまたまあるサイトで菅野さんのことが「物に恋する板金工」というタイトルで紹介されていた。そのなかで引用されていた菅野さんの言葉が気に入ったので、このブログに御本人やそのサイトの著作権者の許可も取らずに引用させていただいた。すると驚いたことにご本人からコメントを頂戴したのである。以来、メールでのやりとりがあって、2009年1月に私が帰国してから、こうしてたまに工場のほうへお邪魔させていただくようになった。
土日は工場のほうは休みなのだが、菅野さんは出社されていることが多いらしい。そのほうが落ち着くのだそうだ。休日の静かな職場で考え事をするというのは誰しも経験があるのではないだろうか。私もそういうことがあったし、身の回りにも休日出勤は「病み付きなる」という意見は少なくない。尤も、勤め人の休日出勤と経営者のそれとはわけが違う。そこへお邪魔するのも、文字通りお邪魔だろうとは思うのだが、「いいよ」と言われると、厚かましいのは承知の上でいそいそと出かけてしまうのである。
特にこれといった話があるわけでもないのだが、とりとめもなく楽しく会話をさせていただく。今日は13時半頃から17時近くまで工場の事務所棟で過ごした。菅野さんがテレビや雑誌などのメディアに登場するときはご連絡を頂くのだが、私はテレビを持っていないので、今日はそうした番組を記録したDVDを2枚お土産に頂いた。ひとつは全日空の機内エンターテインメントシステムで放映されている「発想の来た道」という番組で、もうひとつは11月23日に放映された「嵐の明日に架ける旅」だ。それと、工業高校の校長先生の集まりの機関誌のようなものに原稿の依頼を受けて書いたものの、ボツにされてしまったという原稿も拝見した。これは多少手を加えたものが来月発売の「Japanist」という雑誌に掲載されることになっている。菅野さんは筋の通った人なので、発言や書いたものにブレが無い。だから、お話をさせていただくとなんとなく安心して元気を頂くようなことになる。特に今は失業中なので、なおさらお時間を頂けたことが有り難かった。
「嵐の明日に架ける旅」でのお話と「Japanist」の原稿のメッセージは基本的に同じだと思う。番組のほうは松本潤が聞き手となっていたので、若い人に噛んで含めるように語っている温かな印象がある。Aero Conceptを立ち上げる契機となったのが倒産だったという話に続いて、何故あきらめずに自分が作りたいものを作ろうと思ったのかと問われて、このように答えていた。
「自分を信じてあげるんだよ。世の中がああだとかこうだとか言ったってさ、自分が信じていることがあるじゃないか。それを信じるんだよ。自分の好きなことをやりなさいって。世の中にはいろんな意見があったり、いろんな考え方があって、いろんな常識って言われることがあるんだけど、意外と常識なんてことはおかしいことがいっぱいあると思うよ。自分が信じていることをやればいいんだ。一度やればいいよ。一回だけの人生だから、いくら凶が出たって大丈夫。必ずひいいていけば大吉が出るから。」
最後のところの「凶」だの「大吉」だのというのは、この場面の前に菅野夫妻と松本がもんじゃ焼きを食べながら語り合うところがあり、そこで松本が菅野さんの奥様に「菅野さんはどういう人ですか?」と質問したところ、奥様が「おみくじを引くときに凶が出ると大吉が出るまで買い続ける」というエピソードで人となりを紹介しているのを受けている。文字に起こすと語りの雰囲気が伝わらないのだが、このDVDを持ち帰って家で観たとき、取材が10月で放映が11月という事実にもかかわらず、なんだか今の自分に対して言われているかのように感じられた。
「発想の来た道」のほうは、菅野さんのブレない理由がなんとなくわかる言葉が印象的だった。
「このカバンがもっと厚いほうが売れますよって、嫌いな人を好きにさせるでしょ、世の中の物の売り方っていうのは、ね。10人いて4人が好きで6人が嫌いだったら、なるべく五分五分にしろよと、五分五分になったんだから逆転で六四にしろよと、七三にしろよと、こういうふうに言うわけじゃないですか。で、僕はそれをやりたくないわけですよ。その人が感じてくれた通りで、それが一番いいんだろうなというふうに思ってますね。」
「便利じゃないこと、面倒なことがあったりしてもね、その面倒なことが自分の心を豊かにするってことも世の中ってあると思うの、生きてると。そこ大事だなぁと思うの。だからあんまり、こう便利ですよ早いですよ効率的ですよって、それが大きな価値ですよって言っていると、人が今度は人をそういうふうな目で見るんじゃないかなって、社会も見るんじゃなかなって。会社も人に対してそういうふうに見るんじゃないかな、人も会社に対してそういうふうに見るんじゃないかなっていうね。」
「楽しいなかからじゃないと豊かなものってのは生まれないしね。こういうなかから何かが出来てくるかもしんないね。」
ちゃんと生きている人の言葉は経験に裏打ちされた強さがあるので、心に染み入る。菅野さんにお会いするまでは考えたことが無かったのだが、本当に自分にとって良いものというのは、それを持つことで自分の生き方を思わず問い直すようになるようなもの、考えるという行為を要求するものなのではないかと思うようになった。ふと城山三郎の小説「わしの眼は十年先が見える 大原孫三郎の生涯」のなかで紹介されている孫三郎の息子の總一郎の美術や美術館に対する考え方を示すエピソードを思い出した。
***以下引用***
家元制度への批判もあって、孫三郎が所蔵していた茶道具の名品の数々も、
「わしゃ、きらいじゃ」
の一言で、ほとんどを売り払い、その金を大原美術館のための絵の購入や、増資の払いこみに当てた。
また絵の収集に当たっては、孫三郎とちがい、一家言あり、独創的なものかどうかをその尺度にした。
たとえば、戦後間もなく黒田清輝の「舞妓」を五十万円でという話が来たとき、
「要らん。うちの美術館には要らんのだ」
總一郎は担当の藤田愼一郎(現・館長)に言い、
「わかっとるだろう。わしゃ、黒田は認めんのだ。あれは印象派のエピゴーネンで、テクニックだけなんだ」
後年、この「舞妓」は重要文化財に指定された。藤田がそれを残念がると、總一郎は、
「ばか。そんなものは役人が決めただけだ。わしの考えとはちがう。そんなもの集めていたら、頭の中に蜘蛛の巣がはる」
さらに念を押すように、
「うちの欲しいのは、革新的なものだけだ。見る人に問題を提供して考えてもらう。それが美術館というものだ」
***以上引用 (城山三郎『わしの眼は十年先が見える 大原孫三郎の生涯』新潮文庫 304-305頁***
たぶん物とか美術品だけのことではあるまい。物事を考えさせるような人とどれほど関係を持つことができるかということが、人生の豊かさのひとつの尺度だと思う。
土日は工場のほうは休みなのだが、菅野さんは出社されていることが多いらしい。そのほうが落ち着くのだそうだ。休日の静かな職場で考え事をするというのは誰しも経験があるのではないだろうか。私もそういうことがあったし、身の回りにも休日出勤は「病み付きなる」という意見は少なくない。尤も、勤め人の休日出勤と経営者のそれとはわけが違う。そこへお邪魔するのも、文字通りお邪魔だろうとは思うのだが、「いいよ」と言われると、厚かましいのは承知の上でいそいそと出かけてしまうのである。
特にこれといった話があるわけでもないのだが、とりとめもなく楽しく会話をさせていただく。今日は13時半頃から17時近くまで工場の事務所棟で過ごした。菅野さんがテレビや雑誌などのメディアに登場するときはご連絡を頂くのだが、私はテレビを持っていないので、今日はそうした番組を記録したDVDを2枚お土産に頂いた。ひとつは全日空の機内エンターテインメントシステムで放映されている「発想の来た道」という番組で、もうひとつは11月23日に放映された「嵐の明日に架ける旅」だ。それと、工業高校の校長先生の集まりの機関誌のようなものに原稿の依頼を受けて書いたものの、ボツにされてしまったという原稿も拝見した。これは多少手を加えたものが来月発売の「Japanist」という雑誌に掲載されることになっている。菅野さんは筋の通った人なので、発言や書いたものにブレが無い。だから、お話をさせていただくとなんとなく安心して元気を頂くようなことになる。特に今は失業中なので、なおさらお時間を頂けたことが有り難かった。
「嵐の明日に架ける旅」でのお話と「Japanist」の原稿のメッセージは基本的に同じだと思う。番組のほうは松本潤が聞き手となっていたので、若い人に噛んで含めるように語っている温かな印象がある。Aero Conceptを立ち上げる契機となったのが倒産だったという話に続いて、何故あきらめずに自分が作りたいものを作ろうと思ったのかと問われて、このように答えていた。
「自分を信じてあげるんだよ。世の中がああだとかこうだとか言ったってさ、自分が信じていることがあるじゃないか。それを信じるんだよ。自分の好きなことをやりなさいって。世の中にはいろんな意見があったり、いろんな考え方があって、いろんな常識って言われることがあるんだけど、意外と常識なんてことはおかしいことがいっぱいあると思うよ。自分が信じていることをやればいいんだ。一度やればいいよ。一回だけの人生だから、いくら凶が出たって大丈夫。必ずひいいていけば大吉が出るから。」
最後のところの「凶」だの「大吉」だのというのは、この場面の前に菅野夫妻と松本がもんじゃ焼きを食べながら語り合うところがあり、そこで松本が菅野さんの奥様に「菅野さんはどういう人ですか?」と質問したところ、奥様が「おみくじを引くときに凶が出ると大吉が出るまで買い続ける」というエピソードで人となりを紹介しているのを受けている。文字に起こすと語りの雰囲気が伝わらないのだが、このDVDを持ち帰って家で観たとき、取材が10月で放映が11月という事実にもかかわらず、なんだか今の自分に対して言われているかのように感じられた。
「発想の来た道」のほうは、菅野さんのブレない理由がなんとなくわかる言葉が印象的だった。
「このカバンがもっと厚いほうが売れますよって、嫌いな人を好きにさせるでしょ、世の中の物の売り方っていうのは、ね。10人いて4人が好きで6人が嫌いだったら、なるべく五分五分にしろよと、五分五分になったんだから逆転で六四にしろよと、七三にしろよと、こういうふうに言うわけじゃないですか。で、僕はそれをやりたくないわけですよ。その人が感じてくれた通りで、それが一番いいんだろうなというふうに思ってますね。」
「便利じゃないこと、面倒なことがあったりしてもね、その面倒なことが自分の心を豊かにするってことも世の中ってあると思うの、生きてると。そこ大事だなぁと思うの。だからあんまり、こう便利ですよ早いですよ効率的ですよって、それが大きな価値ですよって言っていると、人が今度は人をそういうふうな目で見るんじゃないかなって、社会も見るんじゃなかなって。会社も人に対してそういうふうに見るんじゃないかな、人も会社に対してそういうふうに見るんじゃないかなっていうね。」
「楽しいなかからじゃないと豊かなものってのは生まれないしね。こういうなかから何かが出来てくるかもしんないね。」
ちゃんと生きている人の言葉は経験に裏打ちされた強さがあるので、心に染み入る。菅野さんにお会いするまでは考えたことが無かったのだが、本当に自分にとって良いものというのは、それを持つことで自分の生き方を思わず問い直すようになるようなもの、考えるという行為を要求するものなのではないかと思うようになった。ふと城山三郎の小説「わしの眼は十年先が見える 大原孫三郎の生涯」のなかで紹介されている孫三郎の息子の總一郎の美術や美術館に対する考え方を示すエピソードを思い出した。
***以下引用***
家元制度への批判もあって、孫三郎が所蔵していた茶道具の名品の数々も、
「わしゃ、きらいじゃ」
の一言で、ほとんどを売り払い、その金を大原美術館のための絵の購入や、増資の払いこみに当てた。
また絵の収集に当たっては、孫三郎とちがい、一家言あり、独創的なものかどうかをその尺度にした。
たとえば、戦後間もなく黒田清輝の「舞妓」を五十万円でという話が来たとき、
「要らん。うちの美術館には要らんのだ」
總一郎は担当の藤田愼一郎(現・館長)に言い、
「わかっとるだろう。わしゃ、黒田は認めんのだ。あれは印象派のエピゴーネンで、テクニックだけなんだ」
後年、この「舞妓」は重要文化財に指定された。藤田がそれを残念がると、總一郎は、
「ばか。そんなものは役人が決めただけだ。わしの考えとはちがう。そんなもの集めていたら、頭の中に蜘蛛の巣がはる」
さらに念を押すように、
「うちの欲しいのは、革新的なものだけだ。見る人に問題を提供して考えてもらう。それが美術館というものだ」
***以上引用 (城山三郎『わしの眼は十年先が見える 大原孫三郎の生涯』新潮文庫 304-305頁***
たぶん物とか美術品だけのことではあるまい。物事を考えさせるような人とどれほど関係を持つことができるかということが、人生の豊かさのひとつの尺度だと思う。