DVDを買っても観ないことのほうが多い。そうしたなかで繰り返し観ているものの筆頭は枝雀のDVDボックス「枝雀十八番」で、次は取り立ててどうというほどのものはない。買ってみたものの通して観たことが一度もないのが「Das Boot」のボックスと「世界の料理ショー」のボックス。観たことがないというのは、興味が失せたということではなく、手元に置いておきたいけれど、観なくてもいい、ということだ。少なくとも、今、手元にある数えるほどのものはどれも手放す予定は無い。手放してもよいと思ったものは、既に無い。
いきものがかりの横浜アリーナのライブDVDが届いた日、ドキュメンタリー作品である「小三治」も佐川のメール便で届いた。「小三治」もそうなのだが、映画のDVDは、その作品を映画館で観たもののなかから買うことにしている。観たことがあるはずなのに、改めて観ると、初めて映画館で観たときとは違ったものを何かしら感じることがある。また、DVDなので気になったところで一時停止してみたり、少し戻して見直してみたりすることもできるので、余計に何事かを発見する機会が多い。
「小三治」は28日に手元に届いてから、今日までの3日間で5回観た。映画館で観たときにプログラムを買ったのだが、それを引っ張り出してきて、読みながら観た。映画館で観たのは、古い手帳を見返してみると2009年2月26日のことだ。神保町シアターで観ている。このブログの同日には何も書いていないが、手帳には「人は生きている限り何かに挑戦し続けなければ楽しくないのだなと思った」などと記してある。今でもそれはその通りだと思うが、映像のなかに散りばめられている言葉を拾うことで、もっと具合的にものを思うことができる。
「言葉より先に人のこころありき、ってことを何年か続けているうちにみつける。わかってきた、ってことかなぁ。そっから芸は始まっている。どんな芸でも。音符を並べるうちは音楽家になれない。文字を並べるうちは文筆家にはなれない。結局はそれを通した心を述べるための手段でしかない。音符も、文字もね。」
(歌のレッスンで講師である岡田知子氏との遣り取り)
岡田:「基本的に、一回歩き出したら、ずっと歩き続けるというのは忘れないでください。(中略)歩き出した歩幅が気に入らなくてもそのまま歩き続ける。歩き続けていくうちに、だんだん歩幅が整ってくる。」
小三治:「とってもよくわかります。落語じゃそうやってんです。だからその日その日で出来が違っちゃってんですけど。」
岡田:「それがいいことなんですよね。出てきた音を大切に、良くも悪くも大切にするといいです。」
「いつもねぇ、引っ張られたり押されたりしてっとね、それに甘えてね、自発力ってのが出なくなりますからねぇ。」
(三三の真打昇進公演の取材に応えて。三三の名前について、取材者が「カッコいいですよね」と言ったことに対して)
「それは『かっこいい』って思えるだけのことをこの人(三三)がいままでしてきたんでしょ。糞みてぇな奴がつけると、糞みてぇな名前になっちゃいますから。名前はその人についていくもんだから。名前がその人を偉くしたりしないけどね。その人がしょって。そうすると、いい名前だと皆さんが思うということは、きっといいことしてんじゃないの。」
「芸は人なり、だからね。芸がだめでも人が育ったほうがいいでしょ。芸なんか、それぞれ持っている程度のことしかできないんだから。あとは人です。」
(テーブルを拭く動作を「小さん師匠の癖」との指摘を受けて)
「そういうことが背中を見て育つってことかねぇ。気が付かないでやってることもずいぶんあるだろう。いっぱいあんだろうねぇ。気が付いていることもいっぱいある。あぁ、これ師匠だな、ってことはいっぱいある。だからね、教えることなんか何も無いんだよ。ただ見てればいいんだよ。」
「自分で楽しくやれないことはねぇ、ストレスのもとだよね。(自分が)楽しまなくちゃ、(聴いている)人は楽しめないよ、ってね。」
(鰍沢についての扇橋との会話のなかで)
扇橋:「僕は円生師匠も林家も両方ちゃんと聴いたんだけど、なんか違っていると、、、あまりにもさぁ」
小三治:「そっちは誰から教わったの。」
扇橋:「僕は林家」
小三治:「ふぅん、、、林家から教わって、林家は違う、って思ったわけ。」
扇橋:「うん。あぁ、これ違うな、ってね。」
小三治「うぅん、それがいいんだ。そうふに思わなきゃだめなんだよ。うん。それをね、教わった通りのことをやっときゃそれでいい、って、師匠にそっくりだから俺は間違いない、って思ってる奴もかなりいる。それは違う。師匠に似てるのは恥ずかしいと思わなくちゃいけない。」
いきものがかりの横浜アリーナのライブDVDが届いた日、ドキュメンタリー作品である「小三治」も佐川のメール便で届いた。「小三治」もそうなのだが、映画のDVDは、その作品を映画館で観たもののなかから買うことにしている。観たことがあるはずなのに、改めて観ると、初めて映画館で観たときとは違ったものを何かしら感じることがある。また、DVDなので気になったところで一時停止してみたり、少し戻して見直してみたりすることもできるので、余計に何事かを発見する機会が多い。
「小三治」は28日に手元に届いてから、今日までの3日間で5回観た。映画館で観たときにプログラムを買ったのだが、それを引っ張り出してきて、読みながら観た。映画館で観たのは、古い手帳を見返してみると2009年2月26日のことだ。神保町シアターで観ている。このブログの同日には何も書いていないが、手帳には「人は生きている限り何かに挑戦し続けなければ楽しくないのだなと思った」などと記してある。今でもそれはその通りだと思うが、映像のなかに散りばめられている言葉を拾うことで、もっと具合的にものを思うことができる。
「言葉より先に人のこころありき、ってことを何年か続けているうちにみつける。わかってきた、ってことかなぁ。そっから芸は始まっている。どんな芸でも。音符を並べるうちは音楽家になれない。文字を並べるうちは文筆家にはなれない。結局はそれを通した心を述べるための手段でしかない。音符も、文字もね。」
(歌のレッスンで講師である岡田知子氏との遣り取り)
岡田:「基本的に、一回歩き出したら、ずっと歩き続けるというのは忘れないでください。(中略)歩き出した歩幅が気に入らなくてもそのまま歩き続ける。歩き続けていくうちに、だんだん歩幅が整ってくる。」
小三治:「とってもよくわかります。落語じゃそうやってんです。だからその日その日で出来が違っちゃってんですけど。」
岡田:「それがいいことなんですよね。出てきた音を大切に、良くも悪くも大切にするといいです。」
「いつもねぇ、引っ張られたり押されたりしてっとね、それに甘えてね、自発力ってのが出なくなりますからねぇ。」
(三三の真打昇進公演の取材に応えて。三三の名前について、取材者が「カッコいいですよね」と言ったことに対して)
「それは『かっこいい』って思えるだけのことをこの人(三三)がいままでしてきたんでしょ。糞みてぇな奴がつけると、糞みてぇな名前になっちゃいますから。名前はその人についていくもんだから。名前がその人を偉くしたりしないけどね。その人がしょって。そうすると、いい名前だと皆さんが思うということは、きっといいことしてんじゃないの。」
「芸は人なり、だからね。芸がだめでも人が育ったほうがいいでしょ。芸なんか、それぞれ持っている程度のことしかできないんだから。あとは人です。」
(テーブルを拭く動作を「小さん師匠の癖」との指摘を受けて)
「そういうことが背中を見て育つってことかねぇ。気が付かないでやってることもずいぶんあるだろう。いっぱいあんだろうねぇ。気が付いていることもいっぱいある。あぁ、これ師匠だな、ってことはいっぱいある。だからね、教えることなんか何も無いんだよ。ただ見てればいいんだよ。」
「自分で楽しくやれないことはねぇ、ストレスのもとだよね。(自分が)楽しまなくちゃ、(聴いている)人は楽しめないよ、ってね。」
(鰍沢についての扇橋との会話のなかで)
扇橋:「僕は円生師匠も林家も両方ちゃんと聴いたんだけど、なんか違っていると、、、あまりにもさぁ」
小三治:「そっちは誰から教わったの。」
扇橋:「僕は林家」
小三治:「ふぅん、、、林家から教わって、林家は違う、って思ったわけ。」
扇橋:「うん。あぁ、これ違うな、ってね。」
小三治「うぅん、それがいいんだ。そうふに思わなきゃだめなんだよ。うん。それをね、教わった通りのことをやっときゃそれでいい、って、師匠にそっくりだから俺は間違いない、って思ってる奴もかなりいる。それは違う。師匠に似てるのは恥ずかしいと思わなくちゃいけない。」