熊本熊的日常

日常生活についての雑記

似てるのは恥ずかしい

2011年04月30日 | Weblog
DVDを買っても観ないことのほうが多い。そうしたなかで繰り返し観ているものの筆頭は枝雀のDVDボックス「枝雀十八番」で、次は取り立ててどうというほどのものはない。買ってみたものの通して観たことが一度もないのが「Das Boot」のボックスと「世界の料理ショー」のボックス。観たことがないというのは、興味が失せたということではなく、手元に置いておきたいけれど、観なくてもいい、ということだ。少なくとも、今、手元にある数えるほどのものはどれも手放す予定は無い。手放してもよいと思ったものは、既に無い。

いきものがかりの横浜アリーナのライブDVDが届いた日、ドキュメンタリー作品である「小三治」も佐川のメール便で届いた。「小三治」もそうなのだが、映画のDVDは、その作品を映画館で観たもののなかから買うことにしている。観たことがあるはずなのに、改めて観ると、初めて映画館で観たときとは違ったものを何かしら感じることがある。また、DVDなので気になったところで一時停止してみたり、少し戻して見直してみたりすることもできるので、余計に何事かを発見する機会が多い。

「小三治」は28日に手元に届いてから、今日までの3日間で5回観た。映画館で観たときにプログラムを買ったのだが、それを引っ張り出してきて、読みながら観た。映画館で観たのは、古い手帳を見返してみると2009年2月26日のことだ。神保町シアターで観ている。このブログの同日には何も書いていないが、手帳には「人は生きている限り何かに挑戦し続けなければ楽しくないのだなと思った」などと記してある。今でもそれはその通りだと思うが、映像のなかに散りばめられている言葉を拾うことで、もっと具合的にものを思うことができる。

「言葉より先に人のこころありき、ってことを何年か続けているうちにみつける。わかってきた、ってことかなぁ。そっから芸は始まっている。どんな芸でも。音符を並べるうちは音楽家になれない。文字を並べるうちは文筆家にはなれない。結局はそれを通した心を述べるための手段でしかない。音符も、文字もね。」

(歌のレッスンで講師である岡田知子氏との遣り取り)
岡田:「基本的に、一回歩き出したら、ずっと歩き続けるというのは忘れないでください。(中略)歩き出した歩幅が気に入らなくてもそのまま歩き続ける。歩き続けていくうちに、だんだん歩幅が整ってくる。」
小三治:「とってもよくわかります。落語じゃそうやってんです。だからその日その日で出来が違っちゃってんですけど。」
岡田:「それがいいことなんですよね。出てきた音を大切に、良くも悪くも大切にするといいです。」

「いつもねぇ、引っ張られたり押されたりしてっとね、それに甘えてね、自発力ってのが出なくなりますからねぇ。」

(三三の真打昇進公演の取材に応えて。三三の名前について、取材者が「カッコいいですよね」と言ったことに対して)
「それは『かっこいい』って思えるだけのことをこの人(三三)がいままでしてきたんでしょ。糞みてぇな奴がつけると、糞みてぇな名前になっちゃいますから。名前はその人についていくもんだから。名前がその人を偉くしたりしないけどね。その人がしょって。そうすると、いい名前だと皆さんが思うということは、きっといいことしてんじゃないの。」

「芸は人なり、だからね。芸がだめでも人が育ったほうがいいでしょ。芸なんか、それぞれ持っている程度のことしかできないんだから。あとは人です。」

(テーブルを拭く動作を「小さん師匠の癖」との指摘を受けて)
「そういうことが背中を見て育つってことかねぇ。気が付かないでやってることもずいぶんあるだろう。いっぱいあんだろうねぇ。気が付いていることもいっぱいある。あぁ、これ師匠だな、ってことはいっぱいある。だからね、教えることなんか何も無いんだよ。ただ見てればいいんだよ。」

「自分で楽しくやれないことはねぇ、ストレスのもとだよね。(自分が)楽しまなくちゃ、(聴いている)人は楽しめないよ、ってね。」

(鰍沢についての扇橋との会話のなかで)
扇橋:「僕は円生師匠も林家も両方ちゃんと聴いたんだけど、なんか違っていると、、、あまりにもさぁ」
小三治:「そっちは誰から教わったの。」
扇橋:「僕は林家」
小三治:「ふぅん、、、林家から教わって、林家は違う、って思ったわけ。」
扇橋:「うん。あぁ、これ違うな、ってね。」
小三治「うぅん、それがいいんだ。そうふに思わなきゃだめなんだよ。うん。それをね、教わった通りのことをやっときゃそれでいい、って、師匠にそっくりだから俺は間違いない、って思ってる奴もかなりいる。それは違う。師匠に似てるのは恥ずかしいと思わなくちゃいけない。」


「燃料補給のような食事」

2011年04月29日 | Weblog
平塚市美術館で開催中の「画家たちの二十歳の原点」を観てきた。1866年生まれの黒田清輝から1973年生まれの石田徹也に至る54人の画家の20歳前後の作品ばかり集めた展覧会だ。今回取り上げられている作家のなかには、長命で20歳以降の活動のなかで作風が大きく変化する人もいれば、夭折してしまい原点が終点という人もいる。生まれた環境も様々なので、その人の個性だけでなく、その人が生きた時代の様相やその時代のなかにおける画家の位置付けというようなものも作品に反映されているように感じられる。そういう意味では、自分と同時代の生きている人たちの作品に惹かれるものを感じた。とりわけ興味を覚えたのは石田徹也の「燃料補給のような食事」という作品だ。私が感じている世の中のイメージと重なる世界観をそこに見た思いがした。

私は美術の専門家ではないので、石田の作品が絵画としてどうなのかということはわからないし、そんなことはどうでもよい。「燃料補給」を見て、とりわけそこに描かれている客の姿を見て、「そうなんだよなぁ」とひとりで合点してしまった。そうなるといてもたってもいられなくなり、美術館からの帰りに池袋の大型書店に立ち寄って石田の作品集を立ち読みした。よほど買ってしまおうかとも思ったのだが、けっこうな値段であったのと、その書店の棚に数冊並んでいて、発行が昨年5月だったので慌てなくても絶版になることもないだろうと考え、とりあえず自分が冷静になるための時間を設けることにした。

石田は2005年に「踏切事故にあい逝去」したのだそうだ。亡くなったとき、彼が暮らしていたアパートの部屋には180点ほどの作品が残されていたという。どの作品も完成した状態であり、描きかけのものはひとつもなかったのだそうだ。それは要するに自殺ということだろう。手がけた作品を完成させてから踏み切りへ向かったという状況が明らかなのだから、そこに死を覚悟しているということが示唆されていると見るのが自然なのだろうが、「自殺」と断定するには遺書が遺されていないといけないらしい。そういう馬鹿馬鹿しい官僚制的決まりごとのなかにある我々の生活の現実も、彼の作品世界と被るように思われて、妙に感心してみたりする。

亡くなったという事実があるから、そう思うのかも知れないが、生前最後に発表された「無題」という作品は遺書そのものであるように見える。全体として白を基調にした画面で、作者自身と思われる若い男性が机に向かって、ぼんやりしている。手元には何も書かれていない画用紙と絵具や筆記具が収められていたはずの空っぽのケースがある。もう描くことがなにもない、描くためのものもなにもない、という静かな絶望を描いているかのようだ。これは展覧会ではなく、書店で手にした作品集で見たものだ。

値引考

2011年04月28日 | Weblog
アマゾンで予約しておいたいきものがかりのライブDVDが届いたという連絡があったので、昨夜、仕事帰りに近所のコンビニに寄って受け取った。2枚組みで合計4時間強の内容だったが、明け方までかけて観てしまった。アマゾンの場合、予約時点での販売価格よりもその後の価格が下がった場合は低いほうの価格が約定価格になる。これは、予測需要を基に算出した価格が、その需要の変化に応じて変動するということで、理にかなったものだと思う。

しかし、一般に「セール」とか「在庫処分」とか言う場合の値引きというものについては納得がいかない。クーポン券を利用した割引というのも解せない。わけのわからない理由をつけて「割引」をするくらいなら、何故、誰に対しても最初からその値段で売らないのだろうか。例えば「定価の3割引」というとき、そのものの価値は「定価」で表示されるものなのか、割引後の価格で表示されるものなのか。割り引いて売ることができるものなら、割引前の価格は水増しされたものであり、割引分は不当な利益だったということなのだろうか。「割引」するくらいなら、割引しなくても自信を持って売ることのできる商品やサービスを提供しろ、と言いたい。人を食ったような商売をするくらいなら、そんな卑しいものはやめてしまったほうがよいのではないか。

買うほうも買うほうだ。買い物は必要なものを買うのだから、そのものをよくみて、よく考えて買えばよい。値段を見る前にものを見て、自分のなかで値付けができるようになってから買えばよい。値を付けることができないというのは、必要性が薄いということだろう。値札に比べて高いか安いかということではなく、自分の考えたものに対する高安で喜怒哀楽を感じるようにならなければ、買い物など楽しくないのではないかと思う。

勿論、値引きの遣り取りが生活の中の余裕とか豊かさにも通じるという考え方があるのはわかる。しかし、それは売り手と買い手とが直接面と向かってのことである。不特定多数を対象に「セール」だの「割引」だのと大風呂敷を広げ、それを見て右往左往するのとははわけが違う。目先の数字だけに反応して行動するというのは、パブロフの犬のようなものだろう。

ひとりめし

2011年04月27日 | Weblog
先日、kifkifの原さんがブログでムックに紹介されたことを書いていたので、その本を入手してみた。レストランなどの紹介記事ばかりを集めた本を手にするのは十数年ぶりではないだろうか。かつて営業の仕事していた頃は、接待をするのにこうした本を見ながら頭を悩ませたものだった。まだ社会人になって2年目から3年目にかけての頃で、店のセッティングは私が受け持つのだが、上司にも同席してもらうのである。客との話はもっぱら上司の役割で、接待そのものについてどうこう言われることはなかったのだが、店については、問題がなければ、翌朝、「お、熊本君、昨夜はごくろうさん。」との一言をいただき、問題があると、「お、熊本君、昨夜の店な、あれ、ちょっとなぁ。」と、やはり一言いただいたものだった。業界ではちょっと有名な人だったが、当人は世評などには無頓着で飄々としていた。若造の私にとっては、働きやすい上司だったが、その後どうされておられるか、今となってはわからなくなってしまった。

さて、そのkifkifが紹介されている本だが、紹介されている店は歴史のあるところが多いように見えるが訪れたことのない店ばかりだ。Kifkifuを含めわずか数軒ほどしか知っている店がない。特に近頃はこういうものに載らなさそうな店を志向しているので、余計に縁遠いように感じられる。尤も、店のほうからすれば、商売なので宣伝広告は必要であり、こうしたメディアに取り上げられることは基本的に歓迎すべきことなのだろう。ただ、果たして商売繁盛ならそれだけでよいのだろうか。もちろん、生活が成り立たないようでは問題外だが、その基本はできているという上のことだ。

24日の毎日新聞のコラム「余禄」がおもしろかった。ドナルド・キーンさんが日本に帰化するという話題を扱ったものだ。そこに書かれているのは、要するに客なら誰でもよいのか、ということだ。私の知っているカフェでやたらと敷居の高いところがある。場所はわかりにくく、場所がわかっても、もともと住居だったところなので入口を開けるのに少し緊張するようなところだ。それでも、そこでいただくコーヒーは注文ごとに豆を挽き、店主がネルドリップで淹れる。食べ物は菓子とサンドイッチのようなものだが、全て手作りだ。そして、どれもとても旨い。その店主になぜそういう店にしたのか尋ねてみたところ、来てくれた客にゆっくりと寛いでいって欲しいからだという。来てくれた客にはできるだけのことをしたいし、しかし、人手は自分だけなので、客数はこうして絞るしかないというのである。考え方はいろいろで、正解というものはない。ただ、誰もがわかることと言うものは無いと思う。わかる人とだけわかりあいたいという気持ちは、私にはよくわかる。

余禄:ドナルド・キーンさん

性懲りも無く

2011年04月26日 | Weblog
また陶芸作品を販売することになりそうだ。今日は陶芸教室の後、久しぶりに十条のFINDを訪れた。通りから店へのアプローチの覆いにはモッコウバラが生い茂っていて、そういう季節になったのかと思う。8月に町内会長の企画でコーヒー関連のイベントがここで開かれることは知っていたが、そこに便乗して臨時店舗を出したいという希望がいくつかあるのだそうだ。それならということで、そのイベントの会期中、数軒の出店を設けることになったのだそうだ。今日、その出店に誘われたのである。

道楽でやっている陶芸なので、次から次へと作品が出来上がる、というようなわけにはいかない。ありがたいことに1月に開いた個展でめぼしいものは殆ど売れてしまって、今は満足な在庫が無い。8月までにどれほど出来上がるか見当もつかないので、すこし躊躇したのだが、声をかけて頂いたときに、それに応えるということを丹念に繰り返していかないと人間関係というものは深くならない。ここはやはり奮起するべきところだろうと考えて、参加させていただくことにした。

今回は個展ではなく、屋外のガレージを利用した場所での出店なので、個展のときとは違った作品の展示を考えなければならない。いずれにしても、細かいことを考えるのはこれからだ。

驟雨

2011年04月25日 | Weblog
昼過ぎに突然の雨に見舞われた。カイロプラクティックを終えて外に出ると、妙に空が暗かった。ほどなくしてぽつりぽつりと降り出し、あっという間に激しい雨になった。ちょうど降り始めたときに駒込駅の入口にさしかかったところだったので、そのまま山手線に乗って巣鴨に行き、駅ビルのなかの無印カフェで雨宿りを兼ねて昼食を頂いた。食べているうちに雲が切れ、日が差してきた。その時点で雨は止んでおらず、狐の嫁入りのようになった。食べ終わる頃には、さっきまでの大雨が嘘のように晴れ渡り、雨にあたることなく住処に戻ることができた。

激しい雨がさっと降るというのは、夏の空であることが多い。ついこの前まで寒いと感じていた大気が、桜の花に気を取られている間に、夕立のような雨を降らせるようになっている。4月も今週でお仕舞いだ。今日の雨もそうだが、このところ風が強かったり天候が変わりやすかったり、大気が不安定だ。その場ではそうした天の気まぐれを迷惑に感じ、目先の迷惑にとらわれてしまう。しかし、その迷惑は季節の変わり目の象徴のようなもので、迷惑の向こうにある大きな潮流へ意識を向ければ、同じ風景が別の意味を帯びる。すると、迷惑にとらわれている自分がとても小さなものに感じられる。雨宿りをして目先の不都合をやり過ごしたつもりになっていても、自分が大きな潮流のなかにあるということは変えようがない。小さな存在であるからこそ、自分なりの原理原則は堅持しないと潮流に翻弄されるだけの生活になってしまう。

我儘

2011年04月24日 | Weblog
昨日とは一転して晴天に恵まれた。相変わらず風は強めで、桜並木の道などでは散った花弁が舞っていた。通りすがりに眺める分には良い風情だが、沿道に暮らす人々にとっては掃除が厄介だろう。今日は深沢の而今禾に行ってきた。最寄り駅は桜新町。その名前通り、駅を出たところを走る通りも、サザエさん通りから深沢高校へ至る通りも街路樹は桜だ。殊に246号線から南、深沢高校、日体大に至る一方通行の細い道には街路樹とは言えないような立派な桜の古木が並んでいる。街路樹も立派なら沿道の家並も立派で、いかにも高級住宅地然としている。いつごろからこのような屋敷が並ぶようになったのか知らないが、都立深沢高校はわかもと製薬の創業者である長尾欽弥の屋敷跡だそうで、長尾邸時代の茶室が現在も校内で使われているのだそうだ。長尾がここに屋敷を構えたのが昭和5年。最初は500坪だったそうだが、それから10年ほどかけて7,800坪の庭園を完成させたという。その長尾邸が売却されたのが昭和30年。深沢高校創立は昭和38年だ。また、このあたりには都立園芸高校もあるが、こちらは明治41年設立だ。ワシントンD.C.には日本から送られた桜の木があるのは有名だが、その桜の一部はこの園芸高校で育てられたものだ。

而今禾を訪れたのはDMが届いたからというだけのことなのだが、昨年12月14日のこのブログにも書いた通り、ここの店長が知人の姉という縁もあり、やはり縁は大切にしないといけないと思いもある。姉妹なのだから当然なのだが、それにしても外見がよく似ている。何歳離れているのか知らないが、双子のようだ。しかし、話をした感じは全然違っていて、そう思って接する所為もあるだろうが、姉は姉らしく、妹は妹らしい。二人揃っているところで会ったことは無いのだが、妹が姉を語るときも、姉が妹について語るときも、互いを思いやっている様子が伝わってきて、家族というのは良いものだなと思う。兄弟姉妹というのは、生まれ育った文化を共有しているのだから、当人どうしが好むと好まざるとにかかわらず、物事の考え方とか感じ方に通じる部分というのが程度の差こそあれ必ずあるものなのだろう。その共通するものが、必ずしも相互理解につながるわけではなく、共通しているがゆえに対立につながるというようなこともあるだろうが、第三者から見れば、やはりそこに血縁らしい類似性を見るものだ。

夫婦となると、他人どうしなので兄弟姉妹のようなわけにはいかないが、それでも会ったときになんとなく良い夫婦だなと感じさせる夫婦とそうではない組み合わせというのはあるものだ。夫婦揃った状態で会うということはそうあるものではないのだが、限られた経験から言うと、子供のいない夫婦、子供ができるまでに時間のかかった夫婦には何故か良い雰囲気のところが多いように感じる。

それで而今禾だが、この店は本店が三重県の関宿にある。陶芸家の米田恭子、西川弘修夫妻がカフェを併設した生活道具の店として始めたのだそうだ。店の名前である而今禾は店の在り方を端的に表現している。「今この瞬間、なくてはならない命の糧」という意味だという。「暮らしが仕事、仕事が暮らし」という河井寛次郎の言葉が「而今禾の本」のなかに引用されているが、それを体現するような生活の仕方というものを実践されようとしているご夫妻であるらしい。関宿で始めた店を、昨年夏にはこうして東京にも展開するのだから、結果は出ているということなのだろう。私も学生時代はエコロジー研究会というところに籍を置き、今も陶芸や木工といった手仕事を道楽でやっているので感覚としてはこの店が目指すところはわかるような気がする。同時に、その容易ならざることもわかる。さらりと「顔が見える食べものを求めて、つくり手とつながる。無駄なく食べて、捨てずに使い、最後には土に還す。」などと語られているが、今の時代にこれほど贅沢なことはない。贅沢だからこそ、そういうものを求めたくなるのである。それが我儘と言われるなら、その通りかもしれない。

今の世の中は市場原理の下に動いている。その世の中の掟に背いて、敢えて手間隙のかかるものを求めるのだから、なるほど我儘だ。しかし、そうした理にかなった我儘が通る社会のほうが健康なのではないか。経済原理一辺倒で、後先考えずに原子力発電所に依存する経済を作り上げたら、このざまである。銭金だけの経済原理を絶対神の如くに崇拝するのではなく、理屈にかなった様々の考え方や可能性を容認した多様性のある社会のほうがどれほど暮らしやすいだろう。人はともすれば易きに流れるものである。そうなれば経済原理に従って多少の危険に目をつぶってまでも効率性を追求するものだ。それを敢えて多様な選択肢を設けることで社会の健康を考えるのが本来の政治というものではないのか。政治が不健康なら、我儘を通して自分の健康を守らねばなるまい。

近頃、歳を取った所為なのか、どうも世の中への不満が強くなったように思う。今日も政治への文句で終わったが、権力を批判するのは市民の義務だ。

間合い

2011年04月23日 | Weblog
いつものように実家に行くと、震災直後にシステム障害を発生させた銀行から詫び状が届いていた。事務連絡などでよく使われる窓空き封筒ではない普通の封筒で親展扱いだったので、引落しされるべきものがあるのに残高が足りないというような問題があって、その連絡のようなものかと思い、手にしたときに少し緊張してしまった。貧乏生活というのは何事もなければ気楽で良いのだが、金融機関から封書が届くと条件反射のようにあれこれ心配事が頭の中を駆け巡るというのが情けない。開けてみたら厚手の紙に頭取名で通り一遍の侘びが書かれたものが一枚、事務的な連絡事項の記載された薄い紙が一枚入っていた。もう1ヶ月ほども前のことなので、意識の外に行ってしまったことだ。大きな組織ということもあり、発生した障害の規模も大きく問題解決に時間を要したということもあるのだろうが、なんとなく間が抜けた感じの否めないものだと思う。

電力会社の社長や総理大臣が福島県の被災者を慰問したタイミングもどうかと思う。仮に事故処理の経過やそれに対する対応が現状と同じであったとしても、もう少し早い時期に行っていたら、被災された方々の心証は多少なりとも違ったものになっていたのではないだろうか。ネットのニュースサイトに掲載された写真を見ただけの印象なのだが、取り巻きをぞろぞろと従えた姿というのもどうかと思う。巨大企業の社長とか総理大臣という立場上、警備の都合などもあるというのは理解できるが、これでは土下座で頭を下げてはいても、形だけのような印象が拭えない。少なくとも、問題解決へ向けての陣頭指揮を執るという意志とかリーダーシップのようなものを感じさせる絵姿ではないように思う。

一言で表現すれば、どれも間が抜けているのである。上に立つ当事者の感性もさることながら、取り巻き連中も人情とか心理といったものに疎い奴ばかりなのだろう。情だけで物事が動くものでもないのだが、物事を動かしているのは生身の人間であることは間違いない。その人間には感情というものがあるということを、人の上に立つ者が理解せずに、組織や社会が機能するものなのだろうか。ルーチンで回るものならば事務的な対応を集積した仕組みで支障は無いだろうが、不測の事態にルーチンは無い。そのとき組織やその仕組みはどのように維持されるのかということを考えるのが経営や監理というものだろう。仕組みの管理は馬鹿でもよいのだが、経営や監理はそれ相応の能力のある人が陣頭指揮に立たなければどうにもならない。間のわからないような輩を頂くと、その組織や社会を支えている人々は舐めなくても済んだはずの苦汁まで舐めることになる。

私は人付き合いが苦手で、物事の間というものにはいつも悩まされている。銀行からの詫び状を見ながら、適切な間を取るというのはつくづく難しいものだとの思いを新たにした。

金曜深夜の微妙

2011年04月22日 | Weblog
新入社員を迎える時期の所為なのか、震災の影響があるものの、大きな波動としては依然として景気が回復基調にあるということなのか、このところ金曜深夜の駅や電車の車内は以前に比べて人が多くなり、嘔吐物も多くなった。嘔吐物に関して言えば、2009年から2010年前半にかけては、見かけることが稀で、たまに見かけても水分が多く固形物の姿があまりないものだった。酔って吐いたというよりは、病気で吐いたかのような弱々しいものだった。それが近頃のものは固形物の形跡のある、ごくありふれたものになってきた。吐くほど飲み食いする余裕のある人が増えてきたというのは確かなことのようだ。

私は酒を嗜まないが、その昔は営業職であったこともあり、付き合いで多少頂くことはあった。それでも、自分の限度というものは把握しており、また、すぐに顔に出るタイプでもあるので同席している人にもそれとわかるので無理強いされることもなく、社会人になってから吐くほど飲んだことは一度もない。尤も、接待の席で居眠りをしてしまい、後で先輩社員に叱られたことは一度ある。一度だけということもあって忘れようにも忘れられない。私が接待する側で、当方3名、相手方3名だった。相手は生命保険会社の方々だ。場所は六本木。料理は河豚だった。河豚と言えば鰭酒で、小さなコップで1杯だけだったが、これでノックアウトだ。掘り炬燵型の席の個室で、当時の私は入社一年目だったので当然に末席で、うとうとし始めると隣にいた先輩社員がテーブルの下で盛んに私の足を蹴飛ばすのだが、睡魔を追い払うことができなかった。そんな調子なので、そもそも吐くほどの酒量を摂取することができない性質なのである。

だから私には酒飲みの気持ちが全く理解できず、嘔吐を催すほど大量の酒をどのようにして腹におさめることができるのかもわからない。さらに不可思議なのは、飲んで食べての後に「シメ」で茶漬けだの蕎麦だのを食べるという儀式にも似た行為だ。茶漬けくらいならまだしも、ラーメンという猛者もいるというから驚きだ。若くて代謝が活発な時期ならそれでも消化されるのだろうが、人間の身体というのは20代の後半にもなれば誰でも代謝のピークは過ぎる。そういう身体で無謀な飲食をすれば、それが収まりきらずに溢れ出すのは自明のことだ。古代ローマの貴族たちは吐くほど食べるのがステイタスでもあったそうだが、現代日本には吐くことがステイタスというような考えは無いだろう。吐くほど飲み食いするのは単純に節操が無いというだけのことだ。あるいは酔ったときに介抱してくれるような友人や同僚に恵まれていないということもあるかもしれない。たまに介抱されている人を見かけるが、どちらかといえば駅のホームや電車のなかでひとり酔いつぶれ、その人を避けるように周囲の人々が距離を置いているというほうが多い。

深夜の駅や電車で酔客や嘔吐物が増えるのは、景気回復の象徴として喜ぶべきことなのか、孤独で節操の無い人間が増えたと捉えて憂うべきことなのか、判断の難しい現象だ。

「Dear Pyongyang ― ディア・ピョンヤン」

2011年04月21日 | Weblog
個人の生活は当人が自覚している以上に豊饒なものだ。「豊饒」という言葉を使うと、良いことばかりのように聞えるかもしれないが、内容が詰まっているという意味だ。この作品は在日家族のある時期を記録したドキュメンタリーである。自分には縁遠い世界ということもあり、在日の人々がどのように自分の「祖国」を選択したのか、この作品を観るまで知らなかった。本作の実質的な主人公とも言える父は済州島の出身で、15歳で日本に渡り終戦を日本で迎えた。北朝鮮には足を踏み入れたことがなかったのだが、自分の「祖国」として「北」を選択した。それは彼の思想や心情や選択当時の朝鮮半島情勢に基づく意思決定であって、生まれ故郷という意味での「祖国」ではないのである。母は日本生まれの在日2世だ。この夫婦には3人の息子と1人の娘があり、3人の息子は1971年に北朝鮮へ「帰国」した。この作品は日本に残った娘の手によって制作された。「映画」という形態だが、娘が親を撮影したホームビデオでもある。親子という距離感であるからこそ描くことのできる現実があり、社会的あるいは政治的な特殊事情を超えて、そこにある家族という関係が持つ普遍性のようなものが観るものを惹きつける。在日であるということ、北か南かの選択、日本での様々な差別など、日本人として生まれた人よりも政治や歴史に翻弄され苦悩した度合いは大きいかもしれないが、そこに在る最大の問題意識は結局のところは「自分とは何者か」という程度の差こそあれ誰もが抱えていることではないだろうか。

映像のなかで、父も母もよく笑っている。それは撮影しているのが娘だからという安心感や、そこから来る照れがそうさせているのだろう。しかし、その笑顔の向こうには青年期に日本占領下で苦渋に満ちた生活を余儀なくされていた現実があり、それらを乗り越えてきたことへの自信や誇りの現れなのかもしれない。

いつの日か朝鮮半島へ「帰国」するつもりで、息子たちを先に「帰国」させたのだろう。自分が帰る場所は、現実の暮らしがある今いる場所ではないと決めたのだろう。その帰るべき場所を選ぶとき、何故、自分の故郷がある南ではなく北にしたのか。映像のなかで、父は社会主義に未来を見た、というようなことを語っている。自分の主義主張と当時の北の体制との間に近いものを感じたのかもしれない。しかし、私は賭けに近い感覚だったのではないかと想像している。第二次大戦で日本が負け、朝鮮半島にはふたつの独裁国家が生まれた。そこで朝鮮半島から日本に来ていた人々が取る選択肢には、(1) 社会主義国家を標榜する北の独裁政権、(2) 米国の支援を受けた南の独裁政権、(3) さんざん苦汁をなめさせられた日本への帰化、(4) 朝鮮半島でも日本でもない第三国で新たな生活を興すこと、という四択が与えられることになったのではないだろうか。

まず、北は「社会主義」という大義名分があり、ロシア革命によって誕生して半世紀も経ていない新たな政治体制に希望を感じるのは不思議なことではない。南は軍事独裁政権で当時の超大国である米国の後ろ盾があるとはいいながらも不安定な印象がある。日本は敗戦で混乱状況にあり、新たに構築されるであろう社会秩序のなかで、それまでのような被占領地域出身という立場は覆るかもしれないが、いかんせんこの先どうなるかわからない。故郷でもない生活基盤のある日本でもない土地で心機一転、というのは不安が大きすぎて現実味を感じにくいものだ。四択とはいいながら、簡単に選ぶことのできるようなものではない。ちなみに、敗戦を日本で迎えた在日の人々の6割が北を選んだのだそうだ。社会主義がどうこうというよりも、当時の情勢としては、それが最も手堅いことのように感じられたというのが本音ではないかと思うのだがどうだろうか。

自分の帰る場所、拠って立つ場所が決まれば、あとはそれを確かなものにするべく思考し行動することで自分というものを確立しようとするのが人としての自然だろう。映像のなかで父の部屋の書棚に金日成著作集が全巻並んでいる。映像なので細かいところまでは見えないのだが、繰り返し手にとって読んだというような様子はなく、家具の一部のような風情だ。映像のナレーションで、父は総連の「幹部」とされていたが、具体的にどのような地位であったかは映像からはわからない。それでも、先に「帰国」していた息子たちとも長い期間を経て再会を果たし、以降、何度か北を訪れる機会に恵まれているような立場であるということだろう。また、どの程度の意味があるものなのか知らないが、たくさんの勲章を受章している。それほど熱心に祖国同胞のために尽力したということだろう。それは政治思想とか主義主張というようなものよりも、むしろ、自分の役割意識というような人としての本能に近い部分での行動のように感じられる。自分が置かれた社会が激変するなかで、自分のありようを必死で模索し、その結果としての今があるのだろう。70歳を過ぎ、そのお祝いの席を平壌で設け、マイクの前での挨拶では通り一遍の公式見解を語ったものの、心情としては一段落ついたとの思いがあったのではないか。その後の映像で娘の国籍について「南でもいい」と語るところがある。ナレーションでは、北に対して批判的な物言いは一切認めず、子供たちの国籍について北以外はありえないというのが、それまでの父だったのだという。北は彼にとっては自分そのものだったのだろう。「自分」を構成する一部でもある家族が、その「自分」に反する生き方を選ぶことは、彼自身の人生や存在を否定することでもあったのだろう。

人生の黄昏時を迎え、なお十分な思考能力があれば、人は嫌でも自分の歩いてきた道を振り返るものだ。目を背けてきた現実を見直す余裕も生まれるだろうし、自分の誤りだと思うことも素直にそう認めることができるようになる。過ぎてしまったことを悔やむのは、それを修正することができないという点では意味がないが、自分というものを確認するという点では大きな意味があると思う。生きている限り、人は不確実性から逃れることはできない。「絶対」だの「事実」だの「真理」だのと軽々しく口にする人が多いが、そんなものはどこにもないのである。物事を「絶対」だの「正しい」だのと限定する見方に凝り固まってしまうと、人生は閉塞感に満ちたものに感じられるのではないか。後悔ばかりで一歩も前に踏み出せないというのも寂しい人生だが、見たくない現実にも目をむけ、認めたくない過去も反省し、自分の置かれた場所を見直すという作業を繰り返していかなければ、自分にとっての世界はすぐに狭く不毛なものになってしまう。それができるには、自分にとって不都合なものも含めて現実を現実として受け容れる度量がないといけない。度量は持って生まれた性格に左右されるところもあるだろうが、それを大きくするのは結局のところ、その人の知性と感性なのだと思う。70余年もの思考を重ねた父の知性は、娘が自分の過去に反する生き方を選んでも、それはそれとして受け容れることのできる度量を作ったということではないだろうか。

暗黙のうちに未来が過去や現在の延長線上にあると信じている人が圧倒的に多いだろうが、個人にとっての時間は容赦なく突然断絶するのである。自分が信じた幻想世界のなかだけで人生を完結させることができるなら幸福なことだろうが、生憎、人は他人と関わることなしに生きることはできないし、震災の例を持ち出すまでもなく、自分だけではどうしようもない現実のなかを生きている。そう考えれば、生きるというのはなかなか過酷なことである。繰り返しになるが、映像のなかで父も母もよく笑っている。あの笑いは、過酷な人生を生きてきた自信と誇りから出てくるもののように思う。私の人生があとどれほど残っているのか知らないが、笑って最期を迎えたいものだ。

プーさんの夢

2011年04月19日 | Weblog
蜂に襲われる夢で目が覚めた。夢なのではっきりとは憶えていないのだが、なんとなく背景が中間色の黄色いものに包まれているような感じで、そのなかに野山のような風情の山道が延びていて、少し先に蜂の巣があるらしく、かすかな羽音と蜂蜜の香りがしていた。その香りが嬉しくて近づくと蜂に囲まれ、でも、蜂蜜というものの生成されているところが見たい気持ちも抑えかね、蜂には難儀をしながら嬉しいような困ったような複雑な気分だった。

近頃、蜂蜜をよく口にする。ヨーグルトに混ぜてみたり、パンに塗ってみたり、オーソドックスな使い方しかしていないが、何種類かを手元に用意して味や香りの違いを楽しんでいる。蜂蜜に凝るつもりはないのだが、普段利用している生協のカタログに載っていたり、街で気が向いたときなどに買い求めている。今、在庫しているのはオーストラリア産の菜の花の蜂蜜、ニュージーランドのクローバーを使ったというイギリス産、ラベンダーを使ったフランス産、コーヒーの花というたいへん開花期間の短いものを使ったブラジル産のものだ。ものによって、液状のもの、購入時は液状だったのが固まってしまったもの、白濁したが液状のもの、というような違いがあるのはどういう理由なのだろうか。

花の蜜からできているのだから花の香りがするのは当然だが、その強弱はやはりものによりけりだ。去年だったか一昨年だったか、小三治が独演会のマクラのなかで蜂蜜について語っていることがあった。みかんだかオレンジだか、柑橘系の蜂蜜が一番好きだと語っていたような気がする。確かに、花によって、産地によって、製造業者によって、様々に個性はあるだろうが、どれが好きとか嫌いとか言うほどの大きな違いが果たしてあるのかどうか、疑問が無いわけでもない。好きとかそうでもないとか気になるのは、その人の個性なのだろう。

コーヒーもそうなのだが、豆の種類、焙煎、抽出方法、焙煎や抽出の技量といったものによって多種多様な味が存在する。しかし、その差異の大小をどうみるかは、その人の意識の問題だ。大きなカップで街のチェーン店のコーヒーを飲んでいる人を見ると、よくもあんなものをこんなに大量に口にすることができるものだと感心してしまうのだが、その人にとってはあれが「旨い」と思うのだろう。その人は、おそらく、私が普段自分で淹れて飲んでいるコーヒーや、私のお気に入りのカフェのものを飲んでも、美味しいとは思わないかもしれないし、それ以前に味については特段の意識を払うこともないのかもしれない。

味覚というのは、口にしたものが自分にとって毒なのかそうでないのかを識別する自己防衛のための感覚なのだろう。その毒か否かというところ以上の違いは、その人の勝手というか、我儘というか、要するにどうでもよいことなのだ。それを旨いの不味いのと言い出すのは、結局その人の自己表現の一環、あるいは感性の問題ということだろう。蜂蜜の味や香りは確かにものによって違う。その違いは気にしてもしなくてもどうでもよいようなものだ。それでも自分は、その違いに気付く人間でありたいと思う。今度、柑橘系の蜂蜜を味わってみよう。

鎌倉にて

2011年04月17日 | Weblog
子供と鎌倉へ出かけてきた。子供のほうは学校の遠足で来たことがあるのだが、私は鎌倉を訪れるのが初めてだ。今日は鶴岡八幡宮で震災復興祈願のための流鏑馬が行われる所為なのか、朝10時過ぎに鎌倉駅に着くとかなりの人出だった。尤も、私たちが今回ここを訪れたのは流鏑馬を観るためではない。開館60周年を迎えた県立近代美術館の建物と展示を観るのが主たる目的だ。

鎌倉の県立近代美術館は日本で最初のコルビュジェ・スタイルの建物であり、日本で最初の公立近代美術館でもある。設計はコルビュジェのもとで修行をした板倉準三。写真では何度も目にしたことがあったが、初めて実物を前にすると、思いのほか小さい印象だ。「美術館」という言葉が持つ自分のなかでの語感と、目の前の実物との間に微妙なずれがある。しかし、60年前の日本では、これでも十分に野心的なスケールで、しかも「無限発展」というコンセプトを持って増築を前提にした造りであることを考えれば、シンプルな姿のなかにも成長を暗示する雰囲気を感じ取ることもできる。外壁は1階部分が大谷石で2階はアスベスト・ボードだ。自然物と人工物との違いがあるだろうが、アスベスト・ボードの質感の弱さとか経年変化の様子は、あまり好きではない。窓や扉のスチールの質感は、昔の学校のようで懐かしさを覚えた。パティオと晴天の所為もあるだろうが、内部に居ると気持ちがよい。特に外気に触れるテラスの居心地がよかった。

昼食のために一旦市街へ出る。初めての土地なので当ては全くなかったが、小町通りを鎌倉駅のほうへ向かって歩いていると、感じの良いイタリアンがあったので入ってみた。それほど大きくないレストランだが、店内は予約客でほぼ満席に近く、飛び込みの私たちは階段下の小さな席に案内された。ランチは2種類のコースだけで、その違いはメインを魚か肉かの一品にするか、魚と肉の二品にするかの違いだ。肉のほうは標準品が牛タンで割り増し料金の品は牛の三角バラだった。私たちは共に牛タン一品のコースのほうを選んだ。アミューズが蕪の冷製スープ、前菜は太刀魚のカルパッチョ、パスタはカラスミ、メインが牛タンで、デザートはココナツミルクのソルヴェ、それとエスプレッソ。野菜は地元の鎌倉野菜なのだそうだ。どの皿もたいへん美味しく、観光地だというのに店内が常連客の予約で埋まっていることに納得した。料理も旨いが器もよかった。個人宅で使うならまだしも、店で使うには扱いにくいのではないかと思われるような手作りの陶器で、それが料理とよく調和しているのも素晴らしい。店主の気持ちと腕を十二分に堪能できる店だ。店の名前はラ・ルーチェ。イタリア料理店としてはよくある名前で、ネットで検索すればいくらでも出てくるが、鎌倉ではここだけのようだ。

昼食の後、国宝館に行こうとしたが、流鏑馬の見物客で近づくことができなかったので、近代美術館の別館へ向かった。こちらは本館とは別の設計事務所だが、周囲の風景と溶け込んでいる佇まいは本館と同様である。ここでキュレーター・トークを聴く。本館は収蔵品のなかから選ばれた作品群の展示で、別館は新たに収蔵品に加わった作品の展示だ。この美術館の収蔵品は寄贈作品が多いのだそうだ。県立美術館なので神奈川県に縁のある作家のものが多いが、なかには麻生三郎のように奥さんとの最初のデートの場所がここだったという「大切な思い出の場所」ということで作品やコレクションの一部を遺族が寄贈した例もあるという。本館も別館も、地方の美術館にありがちな中途半端感は否めないのだが、それでも良質なコレクションに恵まれていると思う。にもかかわらず、街中の人出のわりに美術館の来館者が少ないのを目の当たりにすると、運営されている方々の御苦労は並々ならぬものがあるのだろうと想像してしまう。都内の一部の美術館のように有象無象が徘徊する場所になってしまうのも考えものだが、地域の人々、特に若い人たちの関心を喚起するような場所であって欲しいものだ。

別館を出て北鎌倉方面へ歩くと、ほどなく建長寺の前に出る。建長寺はいかにも鎌倉の寺という風情だ。「鎌倉の寺」というのは自分のなかの勝手なイメージでしかないのだが、起伏に富んで緑の深い場所にあって、三門も本堂も大きなものが並んでいる、というのが鎌倉の寺であるように何故か思うのである。鎌倉の他の寺は見たことがないのだが、ここはそういう自分のなかの「鎌倉」にぴったりの場所だ。

横須賀線の線路に面して鎌倉古陶美術館というのがある。古民家風の建物だが、今日は古陶ではなく、現代の作家による猫をモチーフにした作品展が開催されていた。

北鎌倉駅は小さな駅舎と、所々に屋根がかかる直線ホームだけの簡素なものだ。簡素というだけなら、そんな駅はいくらでもあるのだが、この駅の面白いところはホームが異様に長く見えることだ。そのバランスの悪さが面白いのである。

誤解の理解

2011年04月16日 | Weblog
立川に小三治の独演会を聴きにでかけた後、中央線、武蔵野線、埼京線を乗り継いで実家に立ち寄ってから、渋谷に出て映画「紙風船」を観てきた。

独演会のほうは、総領弟子の〆治が「お菊の皿」で開口一番、小三治がいつものように長いマクラの後に「金明竹」、中入りを挟んで「付き馬」を口演。どれひとつ取っても、それだけで満足のいくものだったが、やはり圧巻はトリの「付き馬」だろう。これは噺としては、吉原で遊んでその代金を踏み倒すという、決して愉快なものではない。それを楽しい噺として演じることができるのは、ひとえに噺家の力量にかかっている。舞台装置の無い落語においては、端から仕舞まで無駄な時間というのは一秒たりとも無いのだが、この噺に関してはサゲに至る最後の数分間がクライマックスと言える。

噺では、吉原で遊んで食い倒そうとする客が、金のあてがあるといって店を出る。店は取りっぱぐれてはいけないので若衆をつける。客のほうは端から食い倒すつもりなので、歩きながらあれこれ算段を考えている。そこで棺桶屋が目に入る。若衆には自分の叔父が棺桶屋だと偽って、その店の前の少し離れたところに若衆を待たせて店に入る。店では、外にいる若衆の兄が腫れ病で亡くなったと嘘をついて、その棺桶の注文をする。話がついたところで若衆を呼び寄せ、自分は外に出てしまう。若衆はその「叔父さん」が金をつくってくれるものと思い込んで話をし、棺桶屋は棺桶をつくるものと思い込んで話をする。もちろん、最後には自分たちが騙されたとわかるのだが、会話の最初のほうは妙にやりとりが続いてしまうのである。

落語だということをわかっていて聴いているから笑い話になるのだが、我々の現実の生活のなかには、それと気付くか気付かないかは別にして、似たようなことが案外多いのではないだろうか。選挙公約を「公」に表明した「約束」だと思い込んでいる人と、「公」に表明した方便を「要約」したものだと思っている人との間で、合意ができて候補者が当選したりするというのもそのひとつだろう。もっと些細なことに至っては枚挙に暇がないほどではないか。実は生活を構成しているのはそうした誤解のほうが多いくらいなのではないか。

この噺を聴いた後で観た所為か、映画「紙風船」もそういう誤解の話に見えてしまう。「紙風船」は東京芸大の院生が制作したもので、4つの短編から成るオムニバス形式の作品だ。「紙風船」はその4番目の作品のタイトルで、結婚1年目の夫婦のとある日曜日の風景を描いたもの。結婚という新しい生活に入って様々なぎくしゃく感が静かに増幅されてくる頃合だ。結婚という形に行き着くのは良縁であることが多いのだろうが、なかには結婚してから重大な誤解に気づく場合もある。しかし、おそらくそういうことは少なくて、多くの場合は些細な誤解が散りばめられているような気がする。この作品で描かれている夫婦の場合には、なんとなく互いにそれぞれの家庭像あるいは夫婦像というようなステレオタイプ的なイメージがあって、それと現実とのギャップに違和感を覚えているというような雰囲気が漂っている。その違和感の原因をコミュニケーションの欠如に帰しているかのような台詞や態度があるのだが、それは現実の夫婦によくあることで、ほんとうの原因ではないだろう。コミュニケーションというのは相手に伝えたいことがあり、それはすべて言語化できる、という前提で使われることであるように思う。しかし、人と人とのやりとりのなかで、そうはっきりした形を結んでいることは、むしろ少ないのではないだろうか。

社会生活は言語化されたもので進行する。例えば法律であったり契約であったり、我々が意識するとしないとにかかわらず、社会生活は言語によって構成されている。しかし、人としての感覚は非言語的要素を多分に含む。その非言語的要素を共有、共有できないまでも共存、それが無理でも黙認できる相手がいて、初めて夫婦とか家庭という親しい関係が成立するのである。勝手に作り上げた「夫婦」とか「家庭」というステレオタイプ、即ち言語化された世界を模範として、現実をそこに合わせようとすると、そこに葛藤や対立が生じるのは当然のことだ。言語そのものが人によって微妙に違うということを別にしても、そのステレオタイプはその人だけのものであって、他人には他人のステレオタイプがあるからだ。結婚を考える相手がいるとして、なぜその相手なのかということを饒舌に語ることができるなら、相手がどのような人間であるかということを見るまでもなく、その結婚は破綻に終わるだろう。相手に対する誤解以前に、その人は言語というもの、人間というものを誤解しているからだ。そういう性向の強い人は、誰が相手であっても、結婚は無理なのである。

映画は「紙風船」のほかに「あの星はいつ現はれるか」「命を弄ぶ男ふたり」「秘密の代償」の3篇で構成されている。それぞれテーストが違うが、同じものを登場人物それぞれの目線で違ったように見ているという点では、誤解を描いているとも言えるだろう。「誤解」というと、それを修正しなければならないかのような印象を受けるのだが、ひとつひとつの誤解を全て解消することなどできるはずもない。そもそも物事の理解の仕方というのは一様ではないことのほうが多いのだから、何が誤解で何が正解なのかなど決めることのできることのほうが少ない。人の生活というものは、誤解を誤解として理解すること、誤解をまるごと受容することで豊かになるものではないだろうか。

参考:柳家小三治独演会
   会場 アミューたちかわ
   演目 「お菊の皿」〆治
      「金明竹」小三治
      (中入り)
      「付け馬」小三治
   開演 14時00分
   閉演 17時00分

   「紙風船」
    「あの星はいつ現はれるか」 監督 廣原暁
    「命を弄ぶ男ふたり」 監督 眞田康平
    「秘密の代償」 監督 吉川諒
    「紙風船」 監督 秋野翔一
   原作 岸田國士
   会場 ユーロスペース
   開演 21時00分
   閉演 23時00分

退避勧告解除

2011年04月15日 | Weblog
今日、職場のメールに地震に関する更新情報が届いた。米国国務省が原発事故直後に発していた米政府職員の家族に対する自主的な国外退避勧告を解除したという。一方でネットで見聞きする報道では、日本の近隣諸国から農業や飲食業などの現場作業の担い手として来日している人たちがまとまった単位で帰国する動きが後を絶たず、特に東日本の農業地域でその影響が深刻化しているという。原発事故が収束しない以上、米国の退避勧告が解除されたからといって、そうした労働力不足という状況に変化が現れるとは思えないが、震災の発生から1ヶ月が過ぎ、事態は少しずつ改善の方向に動いているのは確かなようだ。

帰る国のある人が、さしあたって危険な状況にある場所から退避するのは当然のことだ。しかし、原発の問題が表面化してから日本人のなかにも海外や国内の遠方に避難する動きが見られたことは興味深いことだ。被災した地域で暮らしていたならばまだしも、停電以外にこれといった生活上の障害の無い東京にいて、そこに暮らしていることが困難を極めるような事態を想定するというのは余程心配性の人なのかもしれない。私はテレビを持っていないのでわからないのだが、報道番組で原発や津波の被害などの映像を繰り返し観ているうちに正常な思考能力を喪失したというようなことも耳にする。それにしても、現代の日本で、東京が生活できないような場所になるほどの惨事になったら、この国のどこにいようとも救いがたい状況に陥ることくらい誰でもわかることではないかと思っていた。そうしたなかで自分だけが助かったとして、その先にどのような人生があるというのだろうか。勿論、誰にでも欲望というものは当然にあり、たとえそれほど幸福な生活を送っているわけではなくとも、命だけは助かりたいと思うのも人情かもしれない。しかし、縁あって日本人として生まれ、その日本が大きな災厄に見舞われて、大勢の人々が復興作業に直接間接に関わり、原発事故の現場に至っては文字通り命の危険を顧みずに獅子奮迅の働きをしている人たちがいるなかで、自分だけ助かろうと国外へ逃げ出すそのエゴが、震災に負けず劣らず恐ろしい。人は土壇場になるとその本性がどうしても現れてしまうものだ。今回の震災で思いもよらず身近な人々や自分自身の本性を垣間見ることになったという経験をした人も少なくないはずだ。これを機に、付き合い方を考え直したほうが良いと思われる相手が身近に何人かいるというようなこともあるだろう。

既に政府では復興構想会議なるものが設けられているようだが、原発の扱いや復興財源を巡る紛糾が報じられている。また、震災に関連して多くの「本部」や「会議」が乱立の様相を呈し始めており、復興のための組織が復興の障害になる兆しが見えている。つくづく無能な政治家を選んでしまったものだと後悔を通り越して呆れ返ってしまう。これでは逃げ出したくなるのも無理はないとも思うのだが、そこを堪えて自分が拠って立つところの国というものを大切にして欲しいものである。

一本の線

2011年04月14日 | Weblog
山種美術館で浮世絵展を観てきた。今回の展示はボストン美術館の所蔵品から清長、歌麿、写楽を中心に構成されている。浮世絵には肉筆画もあるが、一般には錦絵の印象が強いのではないだろうか。本展も錦絵を中心とした展示である。

数百年の歳月を経てかなり退色しているとは言え、色鮮やかな美人画などは、現代においてさえ、色香が漂うものである。しかし、肌を表すのは墨の線で区切られた紙の地である。ただの紙面を一本の線が人の形に囲うだけで、そこに生き生きとした表情が生まれるというのは、目の錯覚が多分にあるとはいえ、驚くべきことだと思う。

よく、小説家の最高傑作は処女作、という話を耳にする。絵画や他の工芸にもそうしたところがあるのかもしれない。なにをもって「最高」というのか知らないが、創作活動を生業としていれば、日々相当な量の作品を制作することになる。作業を継続することによって蓄積されていく技量もあるだろうし、失うものもあるはずだ。何を蓄え何を失うかは人それぞれなのだろうが、その加減の按配が作品の魅力を左右するということはあるだろう。作品を制作しようと思って制作し始めた初期の頃の按配が最も良いという人もあれば、熟練を経た按配が良くなった人もあり、涸れてきていよいよ冴え渡って見えるようになる人もあるのだと思う。そうした技がある水準を超えると、更の紙面に墨で一筋の線を引くとき、その筆圧であるとか、位置であるとか、諸々の要素が相互に関連しあって、紙面に生気を与えるということではないか。

浮世絵版画の場合は肉筆原画を版木に貼り付けて彫るという作業が加わり、それに染料を乗せて刷るという作業がある。原画作家の仕事だけでなく彫師、刷師の仕事が加わるのだから、それぞれの技量が総合されて紙に生気が宿る。絵師、彫師、刷師それぞれの蓄えと喪失とが重なって一本の線になり、人物になり、風景になる。それは「誰の」ということではもはやなく、個性を超えて個性が生まれるということだ。

勿論、作品としては原画作家の名前でクレジットされることが示すように、原画の力が一番強いのだろうが、肉筆画と版画の大きな違いは、そこに宿る個性の数にあるような気がする。どちらがどうということではなしに、見た目以上の違いが背景にあるというところが面白いと思う。紙面を生き物に変える一本の線。その向こうに蓄積と喪失とそれに要した時間とが在る。その向こう側の世界というものを覗いてみたい。