熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記2019年10月

2019年10月31日 | Weblog

宮本常一『日本文化の形成』講談社学術文庫

宮本常一『生きていく民俗』河出文庫

本書が発行されたのは1965年2月。「日本の民俗」シリーズのひとつとしてだ。書かれたのはそれ以前のことだが、現象として古びていても背景にある動機のようなものは今とそれほど違わない気がする。もちろん書いたものは書いた人の眼を通して観察され考察され記述されているのでその内容にバイアスがあるのは当然だ。それでも、本書のような見聞の集積はモノを考えるときの貴重な材料になる。文庫版の初版は2012年。こういう本がこうして手軽に手にできるのは、まだ世の中が捨てたものではないということでもある。

それまで自分がいかに何も考えていなかったがよくわかった。根本的な問いは人はいかにして生きるかということだ。それはハウツーではない。物事の根本は案外単純なことが多いものだが、教科書的に単純化するべきではない。農業は「一粒万倍」と言われ何事もなければ効率のよい生産活動だ。しかし、このところの天災にみられるように、「何事もない」年というものはそれほど多くはないし、そもそも「何事」とは自分のほうの都合にとってのことでしかない。温暖化でどうこうだの、環境破壊がどうこうだのと、わかったようなことを言う人が多いのだが、地球が誕生して46億年、人間の歴史など高々数千年でしかないのに、「異常」と「正常」をきっちり分けるほどの定常的な状態の継続というものがあるのだろうか。昨日と似たような今日があるからといって、明日も同じようになると思うのは思う側の都合でしかない。結局、人の営みの歴史はそうした不確実性との付き合いの試行錯誤の歴史だと思う。その経緯のなかで、たまたま今があるというだけのことだ。おそらく類として人間はそういう不確実性を嫌というほど承知している。だからこそ安定的な状況を仮想現実として想定し、「あるべき姿」を追い求めて安心するのである。

 

宮本常一『海に生きる人びと』河出文庫

人ひとりの生活が一所で完結するものだという思い込みが、生活というものをどれほど窮屈にするかを思い知る。確かに、農業となれば田畑を耕して収穫するまで時間がかかるし、その間に日々の手入れも必要だ。木に成るものであれば「桃栗三年柿八年」というような時間軸になる。しかし、誰もがそうした営みに携わるわけではない。

社会が生活に規定される面はあるだろう。例えば、米を主食にする生活を基本に据えるなら、米作のサイクル、米作のための道具類の制作、米作に適合した人の動きや在り方というものが社会の在り様をある程度規定することになる。しかし、人は米だけに頼らずとも生きていけるし、米だけで生きることもできない。

交通や通信といった技術的なことが生活を変えるというのは、その通りだろうが、技術を産むのは生活の必要だ。移動しようという欲求や必要があればこそ、交通や通信が生まれるのである。では、何故移動するのか。何を求めているのか。個人のレベルではいろいろあろうが、類としては生理や脳の構造に何か関係がありそうだ。

海や川を移動路とみれば、人の生活空間は無限に広がる。そこに国だとか民族というようなものを想定することに意味があるのかと思わざるを得ない。ナントカ人とかナントカ民族というのは仮置きの前提で、そもそも存在しないということにすれば解決できる問題というのはけっこうあるのではないかと思った。


不思議解消

2019年10月24日 | Weblog

運転免許証の更新をする。車を手放して12年ほどになるが、どういうわけか免許証がゴールドではなかった。今回、晴れてゴールドになり、車を滅多に運転しないのにゴールドではないという不可思議な現象が解消した。

よく「いくら自分が気を付けていても事故というのは相手のあることなので、ある確率で起こるものだ」というようなことを耳にする。しかし、ある地方都市在住の私の伯父は毎日通勤で運転し、車なしでは生活に支障をきたすというようななかにあって50年以上に亘って無事故無違反を続けている。私の従兄がその伯父の居住区域を管轄する警察に勤めていることもあって迷惑をかけてはいけないという緊張感もあるだろうし、持って生まれた身体能力の高さもあるだろうが、ほんとうに気を付けていれば事故を回避できるということの生事例といえよう。

翻って私自身だが、身を引き締めて運転してきたとは言えない。特に高速のような信号も歩行者や自転車もいないような道路では不注意なこともままあったのは事実だし、違反を取られた大半の事例は高速道路走行中のものだった。それで、今回の更新へ向けては万全を期した。よく旅行に行くとレンタカーを利用するのだが、今月の奈良では車の運転を控えた。運転しなければ違反のしようがない。

それにしても、我ながら己の小ささに呆れ果ててしまう。


思い立ったが吉日

2019年10月19日 | Weblog

ボランティアとして英国留学フェアの体験者コーナーで、留学を考えている人たちからの質問に答える形で体験談を語ってきた。

12時半のオープンから18時の店じまいまで、殆ど誰かしらの相手をしていた。下は高校2年生から上は40歳過ぎの人まで、若い人たちを相手に言いたい放題語ったら気持ちが良かった。相談に来た人から「こういう話が聞きたかった」などと言われると世辞だとわかっていても嬉しい。ハウツー的なことは今どきネットで検索すればいくらでも事例を集めることができるし、手続きについても然り。こういう場でこういうコーナーにやってきて漠然とした希望とか不安を話すのはやはり個別具体的な人間を相手にしないと考える手がかりのようなものが得られないということだろう。今日話をした人たちのなかで、どれほどの人が実際に留学することになるのかわからないが、普段接することのないような生身の人間と話をすることで何かしら刺激を得るだけでも十分な意味を持ってもらえるのではないかと期待している。なにより私自身も愉快な時間を過ごすことができてありがたいと思った。


訂正 敬称削除

2019年10月07日 | Weblog

奈良というところは穏やかな土地との印象が強いのだが、南都焼討に対して奈良の人々はやはり怒っているようだ。

今日は宿を出て興福寺の境内を通り抜けた後は通行人の殆どいない住宅地の細い通りを歩いた。ビック・ナラという地元スーパーの脇に出たので中を覗いてみる。たまに出かけた先のスーパーを覗くのだが、いかにもその土地らしい商品を見つけて面白がることもあれば、そういうものがなくてがっかりすることもある。奈良ではこれまでにJR奈良駅直下にあるイオン系列のスーパーと近鉄奈良駅近くの小規模な食品スーパーを訪れたことがあるだけだが、醤油など調味料の品揃えに関西らしさが感じられるほかは特にどうというほどのことはなかった。

ビック・ナラを後にして北へ進む。佐保川の橋の向こうに小高い森のようなものがある。地図には若草中学校とあるが、この高いところが多聞城址だ。1560年、松永久秀が築城したが1576年には織田信長によって廃城されてしまう。当時としてはたいへん豪華な造りだったらしいが、建物や内装は京都旧二条城に移築され、石材の多くは筒井城と郡山城に移されたという。多門城築城前は墓地だったそうだ。この高台の西には聖武天皇陵が連なる。南都を見渡すことのできる高台は都の外れの聖なる場所でもあったということだろう。

ここを越えて、旧平城京から外れたところに般若寺がある。創建は629年と伝えられ、それが事実なら平城京よりも古い。創建時期、創立者には諸説あり、正確なところは不明なのだそうだ。旅先で予定に縛られるのは嫌なので、日に1つか2つの目的地しか設けない。今日はごごに東京へ戻ることになっているので、本日の目的はこの般若寺だけである。

般若寺の近くに奈良監獄がある。今は使われていないそうだが、有機臭が漂っている。刑務所での作業のひとつとして家畜を飼っていたのではないかと思ったが、後でそうではないことがわかった。とりあえず、監獄の門の写真を撮って般若寺へ。

奈良監獄のある側には旧道があり、そこに面して国宝の楼門がある。が、ここからは境内に入れない。一旦、新道の側に回り、寺の駐車場を突っ切って受付から入るようになっている。境内は一面のコスモス。その間を通って改めて楼門を眺める。立派な楼門に目を奪われがちになるが、コスモスに埋れるように比較的新しい石塔がある。「平重衡 供養塔」とある。よく見ると、「衡」と「供」の間に「公」という文字が彫ってあり、それがセメントのようなもので埋められている。「平重衡公供養塔」の「公」が消されたというのは何故か?

この平重衡が南都焼討の中心人物なのである。河内から奈良へ侵攻する重衡を迎え撃つべく反平家派の興福寺衆徒は防衛線を敷くが、その拠点のひとつが般若寺だった。重衡軍はこの防衛線を突破し、奈良の街に火を放つ。この時、興福寺も東大寺も焼けて大仏も焼失。平家の勢力を象徴するかのような火焔であったろうし、当然、奈良の人々からは恨みをかったことだろう。

その平家の頭領である清盛が、南都焼討からひと月程後に病没。その勢いが強かった所為もあってか、跡目争いで平家は分裂、源氏が反平家の取り纏めのような役まわりで力を増しつつあったこともあって、平家は都落ち。一の谷の戦いで源氏の捕虜となり、斬首。般若寺門前で梟首された。それでこの供養塔になるわけだが、それにしても供養塔は随分と新しい。この辺りの事情には興味をそそられる。

 


元を辿る

2019年10月06日 | Weblog

葛城というところには、その昔、鴨とよばれる部族が住んでいたそうだ。

のちに山背(城)に移って賀茂と書くようになるが、もとはその字のごとく鴨をはじめとして鳥類を捕らえることを生業としたもので、やはり狩猟民であったと思われる。(宮本常一『日本文化の形成』26頁)

御所に鴨都波神社がある。全国の賀茂(鴨)社の根源だそうだ。このあたり一帯は鴨都波遺跡という弥生中期の遺跡で鴨族の農耕生活の跡とされる。もとは狩猟民であったのが、農耕も営むようになったということらしい。


植木屋さん御精が出ますな

2019年10月05日 | Weblog

平城宮跡の広場の一画に裃姿の男性の銅像がある。植木職人だった棚田嘉十郎だ。実は、この銅像の脇を素通りしてしまった。近鉄の新大宮駅を降りて大きな通りをしばらく歩き、途中、長屋王邸宅跡という由緒書に足を止めるなどしながら朱雀門広場までやってきた。その敷地にあるカフェで昼食をとり、遣唐使船を見学したりして、そのまま朱雀門を通り抜けた。進行方向右手に裃姿の銅像があるのは認識していたが、そこに歩み寄ることはしなかった。朱雀門を抜け、近鉄の踏切を渡り、更地になっている平城京址を歩き、南門の復元工事現場を眺め、第一次大極殿へとやってきた。

大極殿に入り展示を眺め始めるとボランティアガイドの人が近付いてきた。あれこれ話をするなかで、棚田のことを聞いたのである。その後、ウィキペディアなどで棚田のことを読んだりもしたのだが、情報が断片的すぎて神がかっているような話にしか思えなかった。奈良で暮らしているのに、他所から来る人に平城京のことを尋ねられて答えることができなかったので、調べてみたらその場所が牧草地になっていて唖然とした、というところまではわかる気がする。それで私財を投げ売って復元に取り組む、というところに至るのがわからない。なぜ、植木屋さんのままでいられなかったのか。確かに、今こうして平城京の復元作業が少しずつではあるけれども続いているそのきっかけのひとつにはなっているのだろう。だから銅像が立っているのである。それにしても、生活丸ごと平城京というのはどういうことなのだろう。人は経験を超えて発想できないというのはこういうことなのである。ぼんやり生きてきた人間には一生懸命何かをした人間のことがわからない。たぶん、これから先もわかるようにはならないと思う。

そのボランティアガイドの人とは結局1時間以上もお話をさせていただいた。その話のなかで、平城京址を訪れた理由を尋ねられたので、或る人から「奈良に行ったら平城京から若草山や三笠山を眺めないといけない」と言われたからだと答えたら、「それ、上野先生でしょ」と一発正解。上野先生は余程有名な人だ。上野先生のことが出た後、大極殿のテラスから若草山や三笠山を眺めながらあれこれお話を伺った。三笠山は歌にもよく詠まれる山なのだが、こうして眺めるとよくわからない。今日は土地の人に教えていただいたから稜線がわかったが、そうでなければ背後の山と重なって認識できなかった。ということは、三笠山(表記としては他に御蓋山)が詠まれた歌はこの地で詠まれたものではないようだ。いや、歌というのは本当のことを詠まなければならないというものではないので、このあたりで詠まれたものはやはりたくさんあるのだろう。

天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

古今集に収められている阿倍仲麻呂の歌だ。遣唐使として唐に渡り、彼の地で取り立てられて帰国することなく彼の地で生涯を全うした人だ。その阿倍仲麻呂が唐で故国を想い詠んだ歌だというのである。しかし、そうであるとすれば、一体どうやってこの歌が古今集に収まったのだろう?ま、そういうものである。

 


ちはやぶる

2019年10月04日 | Weblog

ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くぐるとは

言わずと知れた百人一首にもある在原業平の歌である。今日は竜田川を見に来た。

業平は竜田川を見たことはあるだろうが、この歌は屏風の絵を見ながら詠んだものだそうだ。まだ紅葉には早いが、近鉄の竜田川駅で下車して、平群へむかってぶらぶらと歩き、途中、平群神社にお参りしたり、長屋王の墓と吉備内親王の墓にお参りした。その前に、生駒の寶山寺に参詣した。今年も奈良にやってきたのである。