熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記 2022年6月

2022年06月30日 | Weblog

折口信夫 『口訳万葉集(上中下)』 岩波現代文庫

岩波文庫の『万葉集』は何年か前にボックスで買った。しかし、そのままだ。詩とか歌を読みながら通勤するってぇのはオツなもんだ、と思って買った。同じ理由で岩波文庫の『文選』も六巻全部買った。漢詩のほうは買ってみて気がついたのだが、読めない。読み下し文と注釈を行ったり来たりするだけで肝心の漢詩は漢字の羅列にしか見えない。オツもクソもない。しかし、一応気には留めている。だからたまに本屋の店頭で漢詩の参考書のようなものを手にしたりしてみるのである。そうやって一応目を通したのが先日書いた『精講 漢文』だ。

『万葉集』の原本は見た目が漢文だ。原本は現存せず、世間で言われている『万葉集』は写本に基づいたものだ。漢詩も交えている(「晩春三日遊覧歌」)。その時代にはまだ平仮名がない。「万葉仮名」と呼ばれているが、いわゆる「かな」ではなく、漢字を当てている。日本語の音を漢字で拾っているだけで漢字の字義は関係ないそうだ。それどころか、なまじ漢字の意味を思い浮かべてしまうと歌の意味を取り違えるらしい。当時は日本語と漢字との間に割り切った関係があったということだ。その割り切った関係があればこそ、大陸の叡智を活用しながら、大陸とは一線を画した独自の文化と世界に類を見ない長い歴史のある国を作り上げることができた、のではないか。ベタベタしてはいけない。求む、割り切った関係、だ。何の話だ?

近頃はグローバルだとか何だとか言って、長い年月を費やして培ったものを無視したり見捨てたりして、見境もなく他所とズブズブの関係を志向するようになったので、他所と同様にこの先は短命な国や文化になるのだろう。今まさにゴタゴタしている隣の大国は、ソ連としては1922年12月30日から1991年12月26日までしかなく、人一人の一生と同じくらいの寿命しかなかった。それぞれの土地に根ざす人々と連邦帝国の幻影に縋る人々との間で互いに譲れない何かがあるから、ああいうことになるのだろう。中国も中華人民共和国としては成立が1949年10月1日だ。まだまだこれからだ、と思うかどうかはそれぞれの立場と思惑によりまちまちだろう。太平洋を隔てての隣国アメリカは独立宣言の日を起点とするなら1776年7月4日成立で、国家として長い歴史があるとは言えないが、あそこは日本語で言うところの「国」と言えるものなのか。そもそも「国」とは何かというところから話を詰めないと、話にならないのかもしれない。

本書は折口が解釈した『万葉集』であって、万人が合意できるものなのかどうかは知らない。折口が本書を執筆するに至った事情は岡野の『折口信夫伝』にも記載があるが、本書の底本は『日本歌学全集 万葉集』(佐佐木弘綱・佐佐木信綱校註)だそうだ。折口は自身の価値観で「傑作」とか「佳作」という評価を下している。その「傑作」「佳作」とされた歌だけを集めて読み直してみると、折口の歌論になるはずだ。紙に「正」を記しながら勘定したら「傑作」が48首だった。その48首を帳面に書き写してみたが、それで点頭するようなことが無いのは凡人の悲しさだ。

その「傑作」の中で、下巻の解説でも取り上げられている歌がある。

家にてもたゆたふ命。波の上に浮きてしをれば、奥所おくか知らずも
下巻 217頁 番号3896

「天平二年十一月、太宰ノ帥大伴ノ旅人、大納言に任ぜられて、都に上る際、伴の人たちが、主人と別れて、海上から都に上った時の歌。十首」のなかの一首だ。折口はこの歌を「思想において優れている」とした。解説は俳人である夏石番矢。夏石のほうは旅人本人が詠んだ歌としているが、誰が詠んだかは私にはどうでもよいことだ。歌では、家にいようが旅の船上にいようが、「奥所」=「将来のこと」はわからない、と言っている。いわゆる無常観というやつだ。似たような世界観を詠んだ歌は他にもある。本書を読んでいて目についたものに付箋を貼ったのだが、それを読み返したら以下の二首があった。

生けるもの竟にも死ぬるものにあれば、此世なる間は楽しくをあらな
世の中を何に譬へむ。朝発き、漕ぎにし船の痕もなきがごとし
上巻 136頁 番号349、351

どの歌も先が見えないことを恐れるのではなく、開き直っているかのように見える。夏石は「たゆたいの不安をもてあます脆弱さよりは、その不安を楽しむ古代人のたくましい健全さがあるし、古来からたゆたう波路の苦楽を数えきれないほど経験してきた島国日本人の世界観が詩として結晶している」と述べている。「日本人」だけのことなのかどうか知らないが、「不安を楽しむたくましい健全さ」は広く人間の健康には必要な精神だと思う。

将来のことはわからない、だからわからなくていい、というふうに人間はならない。わかろうとする好奇心が本能のように備わっているものだと思う。神話は単なる作り話ではなく、そこには話が成立した頃の人類の科学の知識が目一杯に詰め込まれているのではないだろうか。その一つが天文への関心だと思う。歌にも七夕の織女(織姫)と牽牛(彦星)の話を下敷きにしたものがある。七夕伝説は大陸伝来だが、単なるファンタジーではなく、国の成り立ちを宇宙規模で正当化する方便としての神話の一部であろう。七夕伝説に関しては話の性質上、相聞歌とされるものが多いが、それにしても国産み神話と無縁とは言えまい。

やはり下巻の解説で夏石がこんなことを書いている。

現在の北極星はポラリスだが、地球の自転軸は少し回転のぶれた独楽のように、約二万六千年を一周期として徐々に交代し、およそ一万三千五百年前、織姫星ベガが北極星で天界の中心、宇宙軸だった。織姫は中国の伝説では、雲を毎日織っていたとされ、これはおそらくベガが北極星だった往古、天の中心ですべての雲を生み出していたと信じられていた記憶の余波ではないだろうか。
下巻 462頁

ちょっと気になったので、手元の『理科年表』を紐解いてみた。「天文学上のおもな発明発見と重要事項」の中に「殷墟甲骨文中の天文記事」というのがある。これは紀元前1300年代頃とされているので、今から約3000年前。果たしてベガが北極星だった頃の記憶の余波があったかどうか。

そのまま『理科年表』をパラパラと眺めていたら「地球の形と大きさに関する最新の値」というものが目に飛び込んできた。地球の形と大きさは時々刻々変化していて、その公式の値を国際測地学協会というところが何年か毎に発表しているのだそうだ。「あっ」と思った。地面はちっとも確かではないのだ。地殻の内側はマントルという液体状のものが対流している、なんてことは義務教育で教わった、はずだ。その地殻は複数のプレートに分かれていて少しずつ動いている、なんてことは常識だ。だから地震が起こるわけで、そもそも我々の生活は足元が揺らいでいる。先ほどの自転軸の話にしても、地球の自転だけでなく、地球が太陽の周りを巡る公転があり、おそらく太陽系丸ごと何かの周りを回っている。そして、その「何か」は別の何かの周りを回っていると考えるのが自然というものだろう。よくもまあ、こんなぐるぐるとしているところで毎日呑気に暮らしているもんだと、今更ながら気がついて、感心してしまった。

『万葉集』からとんだ方向へ脱線した。歌のことは、やはり、わからない。

本の解説が面白かったりする。『口訳万葉集』も下巻の夏石番矢の解説が興味深い。夏石は巻第十五の遣新羅使の歌を取り上げている。遣隋使や遣唐使は学校の教科書にも載っているが、外交は中国だけが対象ではなかった。その手前の朝鮮半島にも派遣されていた。但し、『万葉集』に掲載されている歌が詠まれた時期の新羅と日本との関係も現在同様かなり険悪だったらしい。それはともかく、夏石は日本の国生み神話と遣新羅使の航路の重なりに注目している。

国生み神話は、なぜか淡路島から始まり、イザナギ・イザナミ二神は西へ移動して、四国、九州、壱岐、対馬を産んでゆく。実はこれは遣新羅使の往路とほぼ重なる。(中略)ここには、陸路ではなく、海路をたどり、西日本を支配していった古代人の記憶が隠されているのではないだろうか。
下巻 459頁

『万葉集』は国家事業として編纂されたものだ。特定の個人や集団が私的に構想した可能性が皆無ではないだろうが、4,500を超える歌を集めて編纂し現在に伝えられるほどの内容を有する出版物を発行することは余程の財力と権力がなければ実現しなかったであろう。その後、勅撰和歌集や勅撰漢詩集がいくつも編纂される。『万葉集』が勅撰集であることはどこにも明言されていないが、実質的に国家事業として編纂されたことは間違いないであろう。国家事業であったとすれば、そこに当然、国家の意思が表明されているはずだ。掲載する歌の選択にそれが見え隠れしているはずだ。夏石はこう書いている。

イザナギ・イザナミ二神の出自にはこの一文では触れないが、実母の出身が蘇我氏である二女帝の持統天皇、元明天皇を別として、蘇我氏が詠んだ歌が一首も万葉集に収録されていない。この欠落にも日本古代史の謎が秘められているし、また万葉集が蘇我氏の存在を無視したいわゆる大化の改新以後の歴史観によって編纂されていることが察知される。
下巻 459-460頁

国家事業として歌集を編むのは何故なのか。二十巻、約4,500首から成る歌集が一気に編纂されたわけではなく、数年数十年程度の期間をかけてまとめられたようだ。巻頭は雄略天皇の御製とされているが、おそらく別人の手によるものだろう。時代が違いすぎる。但し、考古学的に実在がほぼ確定している最初の天皇が雄略天皇であることは何か関係があるのかもしれない。

『万葉集』の編纂に深く関与しているのは巻末を飾る歌を詠んでいる大伴家持とされている。家持の歌は473首が収録され、誰よりも多くの歌が載せられている。家持は聖武天皇から桓武天皇までの天皇に仕えたことになっている。また、大伴氏は武人の家だ。たまたま家持が歌人として高い評価を受けていたというだけかもしれないが、武人の家が歌の世界に深く関わる何か特別が事情が無かったとも言えまい。当時の宮廷人の素養として歌を詠むことは必須のものであったことは周知のことであり、武人であろうが他の役割を担った家系であろうが、歌と無縁ではない。当時の国の在りようとして、歌に秀でていいることと、権力体制の中での位置付けとに関連があったのではないかとも思うのである。武人は国家権力を具象化する装置でもあり、体制内での序列として高い方であっただろう。であるならば、「武」と「文」は無縁ではなかったのではないか。今も「歌会始」という皇室の行事があるが、今と違って歌を詠むことにはもっと権力にまつわる深い意味があったのではないかと思うのである。あなたのことを想ってパンツを脱いでお待ちしています、なんていう歌が驚くほどたくさんある。しかし、歌と権力の関係というものを考えると、そういう歌を字面通りに解釈してはいけないのではないか、パンツを脱ぐ、つまり、……なんてさまざまに妄想するのは私だけだろうか。

 

大江健三郎 『沖縄ノート』 岩波新書

先日、丸善で岩波新書の『沖縄』を買う時に、たまたま目についたので一緒に買った。もともと小説はあまり読まないので大江の作品も『死者の奢り』くらいしか読んだことがなかった。こういう文章を書く人だったのかと、少し新鮮な思いがした。こういう文章を読むのは苦手だ。

私は本書で言うところの典型的な「本土」の人間だ。先日、『沖縄』の方でも書いたが、私は沖縄というものを何も知らない。自分が何も知らないということも知らなかった。その先日の記事に、福島の原発事故を機に、福島の風下にあたる地域で暮らす環境問題に敏感な系の人々の中に、沖縄方面へ移住した人がいた、と書いた。本書を読んで米軍基地がいわゆる放射能と無縁では無いことに気付いて「ん?」と思った。原発関連の環境問題を気にして沖縄に移住するのは無意味ではないか。基地には核兵器が配備されているし、何よりも米軍が使用する港には原子力潜水艦が出入りしている。原潜は冷却水を垂れ流して航行しており、現に沖縄の海の線量は高めらしい。原潜に限らず原子炉を動力源とする艦船は冷却水の出し入れが必要だ。米軍の基地があるというのは、要するにそういうことだ。

ちなみに横須賀を母港とする米海軍第七艦隊の空母「ロナルド・レーガン」は原子力船だ。東日本大震災の時はトモダチ作戦で大変世話になった。尤も、あちらの軍隊の方も放射性環境下での作戦という戦略上貴重な体験ができたとの評価があったらしい。

1995年1月に発生した阪神淡路の震災以前、関西には大きな地震がなかった。私の身の回りの同世代の関西出身者が異口同音に言うことに、東京は地震があるから嫌だ、というものがあった。彼等は進学や就職で東京で暮らすようになるまで地震を経験したことがなかったというのである。しかし、そう言っていられたのはあの地震が発生するまでのことだった。もちろん過去に関西に大きな地震がなかったわけではない。私の同世代がたまたま経験していなかっただけのことだ。日本列島はプレートの辺縁に位置するので、日本のどこにいようと地震、火山の噴火、津波などの地べたが動く災難から逃れることはできないのである。

地震と同列に扱ってよいのか、とは思うものの、原子力関連のリスクも今や逃れようがない。発電所だけに限定しても、日本には今現在57基の原子炉があり、3基の原子炉が建設中だ。この57基の中には廃止が決定して廃炉作業中のもの24基が含まれている。原子炉はたとえ廃炉になったとしても、跡地を更地にしてマンションやショッピングセンターを建てるというわけにはいかない。何十年だか何百年だか知らないが、熱りが冷めるまでオカミが管理するのだろう。青森の六ヶ所村にある核再処理施設を見学した時、高濃度廃棄物は300年間地下10mで中間貯蔵すると聞いた。最終的な処理は300年後に考えるということだろう。

確かに日本の電力会社の中で、唯一、沖縄電力だけが原発を運用していない。しかし、そのことは先に述べた事情から、沖縄が原子力系のリスクと無縁であることを意味しない。

なんだかんだ言っても、原発は自分たちの政府、自分たち自身がどうこうする問題だ。厄介なのは、自分たちだけではどうすることもできない他所の軍事施設だ。戦争に負けたのだから、勝った側がぶん取って好きに使うのは致し方ない。世情として、過去の戦争を語るものがどこか被害者面をしたものばかりのようになるのは、記憶の浄化作用の自然なのかもしれないが、個人的には釈然としない。苦難を味わった人が大勢いたのは事実だろうが、他所の国の大勢の人たちに苦難を味合わせたのも事実だ。片方だけを恨めしく語り続けるというのは、人としてどうなのだろう。我々はそういう国民なのかもしれないし、人というものがそういう生き物なのかもしれない。

ところで、本書には次のような記述がある。

 アイヒマンの処刑とドイツの青年たちの罪障感の相関についてハンナ・アーレントがいっているように、実際は何も悪いことをしていないときにあえて罪責を感じるということは、その人間に満足をあたえる、きれいごとだ。しかし、本当に罪責を認めて、そのうえで悔いることは、苦しく気のめいる行為である。沖縄とそこに住む人々への罪障感にも、その二種がある。いったん自分の日本人としての本質にかかわった実際の罪責を見出すまで、沖縄とそこに住む人々にむかってつき進んだあと、われわれが自分のなかに認める、暗い底なしの渦巻きは、気のめいる苦しいものだ。
91頁

アイヒマンというのは、ナチス親衛隊員でユダヤ人移送局長を務め、ホロコーストに深く関与したアドルフ・アイヒマンのことである。彼は逃亡先のアルゼンチンでイスラエル諜報特務庁(モサド)に拘束され、イスラエルで裁判を受け1962年に死刑となった。その公判において彼が語ったされる「1人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」との言葉は有名だ。

ハンナ・アーレントはドイツ出身の哲学者でユダヤ人だ。ドイツでナチズムが台頭した時にアメリカへ亡命した。本書でのアーレントに関する記述で大江は具体的な出典を明記していない。アーレントの著作は日本語版も多数出版されている。

私は20代の頃、ドイツのダッハウ強制収容所跡を訪れたことがある。そのことは以前に書いた。しかし未だかつて沖縄以外の戦跡を訪れたことがない。仕事で南京に行ったことはあるのだが、空港とホテルと訪問先以外の場所を訪れる余裕は無かった。私は直接に戦火を経験したことはないが、その傷跡を感じながら育った昭和の人間だ。本書のようなもの、情緒的な綺麗事を善人面して書き綴ったようなものを読むと気が滅入って苦しくなる。私はこういう文章を読むのは苦手だ。

 

和田誠 『お楽しみはこれからだ 映画の名セリフ PART5』 国書刊行会

こうして熱心に愛蔵版を予約購読しているが、元の「キネマ旬報」という雑誌は読んだことがないので、当然、この連載のことも知らなかった。随分長いこと続いたようで、続いたことに感心している。全7巻なのでもうすぐ読了だ。

映画は特別好きなわけではないが、関心がないわけでもない。ただ、近頃はすっかりご無沙汰だ。映画館で観るのは圧倒的に単館上映の作品が多く、渋谷のユーロスペースとかイメージシアターはよく出かけた記憶がある。イメージシアターは会員証を作って通っていた。会員証といえば飯田橋のギンレイホールも一時期頻繁に出かけていた。もうすぐ閉館になる岩波ホールで観た作品も印象深いものが多かった気がする。映画から足が遠のいたのは何故だろう。

好きな映画は、と尋ねられれば『アパートの鍵貸します』、『がんぱれ!ベアーズ』、『ペーパームーン』、伊丹十三の一連の作品(『お葬式』、『タンポポ』など)といった単館系とは対極にある作品が思い浮かぶ。好き、というのとは違うのだけど、妙に印象に残っているのは戦争映画で、中でも『プライベート・ライアン』とか『Uボート』といった日本が出てこないやつだ。「楽しむ」という意味では、自分から遠い世界のものがいいのかもしれない。

本書には『がんばれ!ベアーズ』が登場するが、和田の筆致の熱量と私の「好き」との間に超え難い断絶を感じる。この作品は中学生の時に映画館で観て、今もDVDが手元にある。中学生の頃は何かというと背伸びをしたい年頃だったということもあって、外国の映画や音楽を訳もわからず齧っていた気がする。テレビ番組も毎週必ず観ていたのがテレビ東京で放映していた『モンティパイソン』と『世界の料理ショー』で、どちらも後年になって発売されたDVDボックスを各1セット持っている。

それで『ベアーズ』だが、ラストで運動神経皆無でいじめられっ子だけど野球は好きというティミーという少年が初めて外野フライをキャッチしてベアーズの勝利が決まるというシーンがある。捕球したというよりは差し出したグラブにたまたま打球が収まったのだが、アウトには違いない。中学生の時は、多分、これを見て大笑いしたのだと思う。大人になってDVDで見たら、「よく取ったぁ」となんだか妙に嬉しくなって涙腺が崩壊してしまった。今、こうして書いていても涙が滲んでくる。何にもない人生だと思っていたが、やっぱり60年も生きているといろいろあったのかなと思ったりするのである。

本書で引かれているセリフは、ベアーズの監督であるウォルター・マッソーが試合でボロ負けして落ち込んでいる子供たちを励ます言葉。

「あきらめるな。一度あきらめるとそれが習慣になる」
232頁

正直なところ、そんなセリフは覚えていない。しかし、なんとなくそのシーンは思い浮かぶ。ところで、そんな野球のできない少年たちを集めたチームが何故できたのか。地元選出の市議会議員だか州議会議員が人気取りのために思いつきでこしらえたチームなのだ。ウォルター・マッソーは元マイナーリーグのピッチャーだったプール掃除人。アメリカというところはプール付きの家がたくさんあるようで、そういうものの掃除で生計を立てる人もいるらしい。選手の少年たちも野球ができるとか好きとか関係なしに寄せ集めたので、最初は野球の体裁にならない。それが練習を重ね、凄腕のピッチャーをスカウトし、運動神経抜群の不良少年をスカウトし、試合に勝つようになる。そのピッチャーは監督の離婚した妻と暮らす娘で、テイタム・オニールが演じている。彼女は私とほぼ同世代。中学生だった私は彼女にファンレターを書こうと思って、一生懸命英語を勉強したのだが、とうとう書かずに終わってしまった。

 

村松貞次郎 『大工道具の歴史』 岩波新書

先日、復刊された岩波新書の『沖縄』を買いに丸善に寄ったとき、たまたま目に入って一緒に買った。結局、あの時は『沖縄』、『沖縄ノート』と本書の3冊を買った。『沖縄ノート』以外は大変面白く、書店体験というのはいいものだと思った。

ところが、世間では書店が次々になくなっている。世界にはそもそも書店が存在しない国がいくつもあるそうだ。刊行物はあるのだが、それはオカミの関係のものとその土地の宗教の関係のものだけなので、書店という商売が発想されないというのである。昔、その話を聞いた時は、そういう国があるということが想像もできなかったが、今はなんとなくそういうことかと思えるようになった。

本書は1973年8月に発行されたものなので、ここで取り上げられている道具類の現状は本書の記述とはだいぶ違ったものになっているはずだ。それでも2022年3月に「限定復刊」として印刷され、今こうして書店に並んでいる。個々の道具がどうこうということを超えて普遍性のある内容があるということだろう。

その普遍性は、道具と時代との関連についての記述や考察にあるのではないか。道具は生活に必要なものを拵えるためのものであり、その必要をどのように満足させるかという発想の表現である。その道具を考案した人々が、世界を、観察の対象を、モノを、人を、どのようなものとして認識しているかの表現である、と思う。

まずは著者の現状認識から始まる。我々の生活は「さっぱりわからないモノ」で成り立っているという。繰り返しになるが、本書が書かれたのは1973年だ。自分自身の暮らしを思い返してみれば、住まいは棟割長屋で便所は汲み取り式、風呂はプロパンガスで沸かしていたが、少し前に数年遡れば薪や練炭を使っていた。テレビはすでにカラーだったが、電話は黒電話だ。バスや電車など近距離の公共交通機関には冷房はなく、石油危機(一次:1973年、二次:1979年)やドルショック(1971年)で経済成長の途上にありながらも乱気流の中を進んでいる感じだった。忘れてはいけない、沖縄の本土復帰や日中国交回復が1972年、時の内閣総理大臣は田中角栄。「日本列島改造論」で大いに沸いていた。いろいろな物価が当たり前に上がり、店先には「諸物価高騰の折、…」という値上げの知らせが常に掲げられていた印象がある。

たしかに物資はありあまっている。しかし今日のわれわれほど、モノから疎外されている人間はかつてなかったのではあるまいか。モノを知らないのである。モノとの心のかよった対話を失っているのである。何でできているのか、どうしてつくられたのか、さっぱりわからないモノ(材料というべきかもしれない)に囲まれて、われわれは生きている。
4頁

1965年から1974年まで埼玉県戸田市下笹目というところで暮らしていた。先にも書いたように棟割長屋で、大家は農家だった。田圃を潰して長屋やアパートや建売が建ち、学年が進む毎に農家の子弟の割合が低下していった。それでも、学友の約半数は、峰岸、池上、萩原という地元の農家あるいは元農家の人々だった。喧嘩をする時に相手に対して「ヒャクショー!」とか「ドンビャクショー!」とか啖呵を切るのが当たり前で、時に、どこからか聞こえてくる家庭内の諍いでも、子供が親に向かって「ドンビャクショー!」と叫んでいた。ガラの悪い土地だった。

注目すべきは、農業という生活や産業の基礎にあるものに従事することが軽蔑の対象であったということだ。子供の喧嘩の戯言、と片付けるわけにはいかないと思う。そういう時の啖呵や悪口は、社会集団の意識を反映するものであるからだ。おそらく、急速に産業構造が変化していて、変化の先端に縋りつこうとする集団の意志のようなものがあり、そうした流れから取り残されたと見られていた農業や手工業など旧来の仕事を軽蔑する意識が蔓延したのだろう。

戦後の目ざましい機械化・電動化の進展によって、手作業の道具は急速に姿を消している。経済の高度成長の中で、道具を使って生産をするということ自体遅れたものであり、軽蔑すべき仕事であり、一刻も早く抹殺して”近代的な”生産に移行すべきものだ、とされてきたからその消失の速度の早さも当然であろう。
 また産業構造全体の歪みを反映して、各種の産業において労務者、特に熟練労働者不足の声があがってすでに久しい。そのため省力化技術の開発が最重点的に進行してきた。機械化もプレハブ化も資本のこの省力化の願望に源を発しているところが多い。必然的に「道具など棄ててしまえ」ということになる。
13-14頁

ついでに2004年発行の『ザマミロ!農は永遠なりだ』の一節を引用する。著者は山下惣一さん。佐賀県の農家だ。

 みぞれまじりの小雪の降る寒い朝、オレは権兵衛さん頬かぶりをして蓮根を掘っていた。漁師のばあさんがランドセルを背負った孫の手を引いて頭上の道路を小学校へ向かっていた。ちょうどオレが仕事をしている頭上にさしかかったとき、子供が駄々をこねて暴れ、泣きわめき、ガードレールにしがみついた。何ごとが起きたのか、といぶかしく思いオレは時々そっちを見ながら作業を続けていたわけさ。
 ばあさんが血相を変えて孫の手を引っ張りながら大声でわめいた。「こん畜生が、勉強せんでどうするか。勉強せん人間はどうなると思うか。そのおじちゃんば見てみろ!」
 子供はガードレールの手を離し、ばあさんに従って学校へ行ったよ。オレ、体が震えるほどに感動したなあ。まさに、農業のもつ多面的、公益的機能ではないか。まさか、オレたちが戦後の教育振興に貢献しているとは夢にも思わなかったなあ。
山下惣一『ザマミロ!農は永遠なりだ』家の光協会 71頁

ナントカEatsの類いでポチッとやると、指定した場所にすぐに食べることができる状態で食い物が届く。注文した方は美味いの不味いの言いながら、時間通りだの何分遅れたのと言いながら、コスパがどうこう言いながら、そういうものを当たり前に食うのだろう。自分が食っているものを作った人たちのことはおろか、食材の出所にまで思いを馳せている人はどれほどいるのだろう?アプリの出来についてはあれこれ思うかもしれない。しかし今、この瞬間、美味いの不味いのコスパがどうこう以外に、目の前に現れたものの来歴や背景に対する想像力が湧かないとしたら、かなり重い疎外感を抱えて生きているのではないだろうか。つまり、疎外感を覚えるということは、そういうことも関係あると思う。もちろん、人それぞれであるには違いないが。

本書が書かれた当時に比べると「さっぱりわからないモノ」はさらに増えているだろう。しかも、自分がわかっていないことすらわかっていないから、何か不都合が起こると、理不尽な文句を喚き散らす。この調子でいくと、そう遠くない将来に、誰かが無思慮にポチッとやらかして、人類は滅亡するのではないか。人は己の自己顕示欲で身を滅ぼすものだ。後に残ったゴキブリだのボウフラだのが囁き合う。「偉そうにしてたけど、案外、呆気ないもんだったねぇ」

偉そうといえば、ゲージュツの誕生を道具の世界から考察することもできるようだ。世間が何を以って「芸術」とするのか知らないが、差し当たり生活の用に直接寄与しない労働成果とでもしてみるか。美術の教科書ではラスコーの壁画が取り上げられていたりするが、あれは絵画のつもりで描かれたものなのか、何事か実用の必要に迫られて描かれたものなのか。今となっては描いた本人に確かめる術がない。

本書では、室町の東山時代に注目している。足利義政といえば、幕府の権威が大きく揺らぎ、群雄割拠、戦国時代前夜の頃だろう。「ショーグンなんて言われたってさ、ビンボーニンやヤバンジンに興味無いし」ってなわけで、何かと面倒な政治の現実から逃避するかのように遊びを極めるなかから、現在に繋がる日本の美意識が芽生えたのではなかろうか。

そういえば、パパ活に精を出して、何かと面倒な政治の現実を世に明らかにした自民党の議員が話題を呼んでいる。こういうところからも美意識に満ちた文化が生まれるかもしれない。こちらは静岡5区、京都の東山よりはるかにデカい富士山を背にしている。

足利義政を中心とする東山時代のころ、日本の大工の生産組織にも大きな変化があった。古代律令制のもとで組織された造営官庁の管制組織は、中世に至って徐々に民間主導型に移行していたが、室町幕府成立のころから将軍家御大工とよばれる大工の最高位にあって、しかも広い視野と教養人としての知識・感性を要求される人間があらわれてくる。そうしてやがて彼らは、大工としての実際の技術から離れて将軍家の芸術顧問のような立場に立つようになった。それに代わって実際の技術上の指導者として棟梁という職種が登場したのである。
60頁

美意識が盛り上がると、建築は細部の細工にまでこだわるようになる。そうなると細工のための道具や「美しく」仕上げるための道具が必要になり、登場する。本書によれば、そうしたものの典型が、縦挽の製材用ノコギリや台ガンナであり、製図をひいて精緻に組み上げる建築方法だという。

日本の木材加工の歴史に一大革新をもたらしたとされる最初の縦挽の製材用ノコギリのオガ(大鋸)も、あるいはそれと踵を接して出現した台ガンナ(台鉋、今日のカンナと同形)も、その出現の時期(室町時代の十四世紀末から十五世紀にかけてのころと考えられるが)のせんさくには、現存する建物に残るその加工の痕跡を可能なかぎり昔にさかのぼらせることが最大のきめ手となっている。文献や絵巻物などでは、きまぐれ過ぎるからである。
21頁

 建築においても、このような芸術の意識の発生とともに、あるいはその成立の背景として、いろいろな新しい情勢の展開がこのころから見られる。
 たとえば建築の土台や柱や梁などの組立ての時に使われる番付の方法の発生である。これは建物の桁方向に柱の列を"いろは…"に区分し、妻方向に"一、二、三…"などと分けて、"いの一番"とか"ろの二番"というように柱の座標を固定し、それをもとにして主要部材の配列をきめる方法である。記録によると応永二十二年(一四一五)の興福寺東金堂の新築で用いられているのが最古のもので、十六世紀に入るとさらに例が増し、近世では、ほとんどすべての建築工事に及んだといわれている。その文字はスミサシ(墨芯)の尻で書くのである。
 番付が行われるようになれば、当然その控えのメモが必要となる。それは設計図として成立する。
61-62頁

建築に美意識が入り込むということは、それを作る側にも審美眼とそれを具現化する技能が要求されることになる。しかし、ゲージュツカと違って大工には厳しい納期がある。大工の「腕」あるいは仕事の「確かさ」というのは、単に技能が優れているというだけではなく、限られた時間の中で仕上げる能力までも含めてのことだろう。それには本人の才能と努力はもちろん必要だが、道具の良し悪しも大事なことである。

昔の大工は「女房を質に入れても」良い道具をもとめたという。それはただ自慢の道具ということだけでなく、能率がまったく違う、したがって手間で働く場合には収入に格段の差がつく、という実質的な意味もあることを忘れてはなるまい。
68頁

暮らしを立てるというのは綺麗事ではない。それはわかっているつもりなのだが、仕事に対するのと同様に、生き方にも美意識がある、ある人がいる、と思うのである。いや、思いたい。だから、以下に引く千代鶴是秀と大阪の大工の話なんか、とてもいいなぁと思うのである。こういう話に触れると落語の「文七元結」は実話なんじゃないかと思えて、嬉しくなるのである。

東京の千代鶴是秀が、大阪の有名な大工さんからノミの注文を受けた。永い時間をかけてやっと会心の作ができたので、大阪まで届けに行った。仲間うちでは有名でもその大工の家は気の毒なほどのあばら屋。めでたく作品を渡し代価を受けとって、「失礼だが、よくお代を調達できましたね」と尋ねたら、彼が無言のうちに出したのは質札。「じつは、私の汽車賃もこれです」と、千代鶴も質札。期せずして破顔大笑、という話をある人から聞いたことがある。
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木工教室に通ったことがある。陶芸を習い始めて何年か経った頃、陶芸作品を収める箱も作ろうと思ったのである。木工も陶芸も週一回だ。しかし、木工を習い始めてまもなく、その考えは間違っていることに気がついた。作品の生産性がまるで違うので、陶芸作品の制作に箱の制作が全く追いつかない。そもそも箱に収めるほどのものはできない。今なら、箱なんかいらないだろうと思うのだが、なぜそのような馬鹿なことを考えたのか。結局、教室に通い始めて3年ほどして、当時の勤務先を解雇されたのをきっかけにやめてしまった。失業したというのに、なぜか陶芸をやめようとは思わなかった。よほど好きなのか、よほど馬鹿なのか。

道具類は教室にあるものを使ったので、自分では何も用意していない。だから、大工道具についてあまり考えたこともなかった。本書を読んで「へぇ」と感心することばかりで、やっぱり続けておけばよかったかなとも思う。

木工の先生は学校の先生だった人だ。もとは中学校の技術家庭科の教師で、教師を辞めて東京都の職業訓練校に通って技能を高め、自宅隣家が空き家になったのを買い取って作業場にしたのだそうだ。その空き家になった家はもともと染物屋を営んでいたのだそうで、庭には細長い水槽跡があった。私がやめた翌年だか翌々年、その木工教室がテレビ番組の「若大将のゆうゆう散歩」で紹介されたらしい。

ちなみに、私が今暮らしている団地には「じゅん散歩」で高田純次が何度か来ている。彼は以前にこの団地で暮らしていたそうだ。我が家にはテレビがないので、家人の勤め先の同僚がDVDに録画したものを貸してくれた。それを観ると、番組の中で団地を訪れた高田が唐突に「小川菜摘が…」と語る場面がある。彼女もこの団地の元住人だ。もちろん、私はどちらとも面識がない。

それで木工だが、陶芸作品を収める箱はいくつか作った。過去に4回、自分の作品展を開いた時に、箱のあるものは全て売れたので、今手元には陶芸作品用の箱は残っていない。木工教室で作ったもので、今あるのは椅子、ワゴン、ゴミ箱、蓋付の箱(蓋をひっくり返すと箱膳になる;見出し写真)の四つだけだ。椅子はその教室で最初に作る規定演技・基礎作業のようなもので、椅子とは名ばかりで板に脚がついているだけだ。今、炊飯器の台になっている。ワゴンは重宝している。ゴミ箱も大活躍だ。蓋付の杉の箱は普段使わない台所用品を納めて流しの下の物入れの中に鎮座している。

ところで以前にも書いたかもしれないが、義弟が木工作家だ。家人の実家は元は宮大工だった。それが神社仏閣だけでは商売が先細りになったので「宮」を取って大工になり、つまり普通の工務店になり、それも時代の流れの中で厳しくなって建具屋になった。家人が子供の頃は住み込みの職人も何人か抱えていたらしいが、ダウンサイジングの流れは止まらずに、義父、義父の弟、義弟の3人だけで切り盛りするようになった。義父の弟が引退し、親子だけになり、義父も実質的に引退して、昨年、建具屋を廃業し、義弟が木工作家として一人立ちした。制作するのは指物で、日本工芸会の正会員である。指物とは、鉄釘などを使わずに、材に切り込みなどを入れて組み合わせることで造形する木工品のことだ。もともとは公家や武家の調度品に使われたものだが、茶の湯に使われる木工品の茶道具として一般に広がり、箪笥などの家具としても普及するようになった。先週から今週月曜にかけて、日本橋三越でグループ展を開催していて上京していた。幸いにも、出品作品のいくつかに赤札が付いた。ありがたいことだが、東京に出てこないと商売にならないのも現実なのだそうだ。ちなみに、日本工芸会の総裁は秋篠宮の佳子様だ。昨年までは眞子様が総裁だったが、ああいうことになってこうなった。どこもそれぞれに大変だ。