鈴木健一『天皇と和歌 国見と儀礼の一五〇〇年』講談社選書メチエ
毎年正月には歌会始というものがある。私も一度応募したことがある。選ばれたら、やっぱり燕尾服じゃないといけないのか、毎年出かけるなら誂えたほうがいいか、などとかなり具体的な心配をしていたが、宮内庁から何の連絡もこないままに正月を迎え、そのまま春になってしまった。そんな話を昨年だったか一昨年だったか正月の帰省の折に妻の家族に話したら、中越地震で破損したのを修復した文机があるからそれを使って勉強しなさいというような感じになり、文机が送られてきた。歌を詠むというところまではしなくても、せめて書道でもやらないといけないとは思いつつ。机の上が物置のようになっている。今年こそ机本来の用途に使わないといけない。
それで和歌だが、なんとなく雅で結構なものだと思っていた。しかし、歌会というものが参加者にとっては真剣勝負のような場で、かなり長時間を要したものであったこと、その結果が役人としての評価にもつながっていたことなどを知るにつけ、「お公家さんは呑気でよかったねぇ」というようなものではないらしいとの認識に至った。日本に残る古い書物に「万葉集」という歌集があったり、天皇の権威の下に和歌集が編纂されたり、歌を詠むという行為が極めて政治的なものである。では、歌を詠むということは如何なる行為であったのか、という問題意識が生まれる。
そうした疑問に本書が完全に応えてくれるわけではないのだが、いろいろ考えるヒントはたくさん得ることができた。今も残る歌会には、たぶんそもそもの歌会の趣旨は残っていない。自然科学も社会科学も今とは比べようもない時代に政治は単なる形式ではない内実のある儀礼や儀式を多分に含んでいたはずだ。統治者としての意思決定に卜筮を行うこともあっただろう。そうした古い統治の儀式のなかで権力を持つものが発する言葉には今の時代では想像もつかない重さがあったであろうことは想像がつく。その権力発現のひとつの手段として和歌というものが位置付けられれていたことがあったということなのである。だから歌の中身もさることながら文字の選択や書いた文字の姿そのものにも何ごとかの意味があったのだと思う。
言葉には言霊が宿るということは今の時代でも耳にすることがある。いわゆる科学が未成熟であった頃、為政者や権力者の言葉それ自体が社会を治める手段であったのだろう。だからこそ、彼らが詠む歌は内容も形式も共に充実し調和がとれていて、文字は美しくないといけなかったのである。権力者としての認知を得て権力を行使し続けるには権力を発し続けなければならない。それはすなわち言葉を発し続けることでもあったのだろう。そこに和歌があったということだ。恋歌は恋愛を歌っているわけではなく、もちろん表層としてはそういうことだが、男女の交わりは多産豊穣への願い祈念でもあったというのである。多産豊穣は社会の安定安寧が前提でもあるので、そういうことへの想いというかそういうものを目指すという施政方針の表明でもあったのかもしれない。言葉というのは、それがどのようなものであれ、重いのである。ましてや、記録に残る言葉は慎重な吟味を経たものでなければならない。それは権力者だけに限ったことではないと思う。
吉田憲司『仮面の世界をさぐる アフリカとミュージアムの往還』臨川書店
みんぱくフィールドワーク選書19巻。1巻から15巻までは読んだので巻数の順番からすれば16巻目を読むはずなのだが、7月に吉田先生の講演会があり、その予習のつもりで手に取った。それがどういうわけか今頃になって読み終えたのである。フィールドワーク選書はどれもそれぞれに興味深いのだが、本書は読んでいて一番ガツンと来た、気がする。
iPhone Xの個人認証がそれまでの指紋によるTouch IDから顔面映像によるFace IDになるという。個体特有の物理的特徴というものはいろいろあるのだろうが、顔というのは確かにその人だけのものだ。誰かを想うとき無意識のうちにその人の顔を思い浮かべるものではないか。ところで、それは誰でもそうなのだろうか。
本書で顔や仮面について書かれていることのなかで自分が付箋を貼った箇所を抜き書きすると以下の通りだ。
仮面はどこにでもあるというものではない。(中略)仮面が農耕や狩猟・漁撈・採集を主たる生業とする社会にはみられても、牧畜社会にはみられないという点も忘れてはならない。(10頁)
意味を知らずに言語を用いることは、通常の発話ではけっしてありえないという点である。このことから、「象徴」にとって、意味は不可欠の要素でないことが了解される。「象徴」の本質は意味作用にはないのである。(95頁)
世界を改変するものとしての「異界」の力に対する人びとの憧憬、「異界」からの来訪者への期待が変わることはなかったのである。
ただ、仮面は「異界」からの来訪者を可視化するものだとはいっても、それはけっして視られるためだけのものではない。それは、あくまでもいったん可視化した対象に人間が積極的にはたらきかけるための装置であった。仮面は、大きな変化や危機に際して、人間がそうした「異界」の力を一時的に目に見えるかたちにし、それにはたらきかけることで、その力そのものをコントロールしようとして創り出してきたもののように思われる。
このように考えれば、あるいは、牧畜を主たる生業とする社会で仮面の製作や使用が確認されない理由も、一定程度推測がつくかもしれない。極論のそしりを恐れずに言うなら、牧畜社会、とくに遊牧をおこなうような社会では、人は家畜とともに広範囲に移動することを強いられ、人間が住む場所とその外の空間を固定的にイメージすることは難しくなる。そのとき、「異界」は森や山とそこに住む魑魅魍魎というのではなく、この地上に対する天空に設定され、一神教的な至高神への信仰を生むことにつながったとは言えないか。(240頁)
私たちは、たとえ未知の他人であっても、その他人の顔を思い浮かべることなしに、その他人とかかわることはできない。また、肖像画や肖像彫刻にみるように、顔だけで人を表象することはできても、顔を除いて特定の人物を表象することはできない。このような経験をもとに、和辻は「人の存在にとっての顔の核心的意義」を指摘し、顔はたんに肉体の一部としてあるのでなく、「肉体を己れに従える主体的なるものの座、すなわち人格の座」を占めていると述べたのであった(「面とペルソナ」1935)。(241頁)
他者が「私」を「私」として認知する要となるその顔を、「私」自身は見ることができない。(中略)考えてみれば、もともと「私の身体」というものは、「私」にとってきわめてあいまいにしか把握できないものである。しかも、その身体のなかでも、顔は自身では確認できないうちに、時々刻々ともっとも大きな変化を遂げている部分であろう。
もっとも他者から注目され、もっとも豊かな変化を示すにもかかわらず、けっして自分では見ることのできない顔。仮面は、まさにそのような顔につけられる。そして、他者と「私」とのあいだの新たな境界となる。(中略)仮面は、変転きわまりない「私」の顔に、固定し対象化したかたどりを与えるのである。(中略)仮面は、私たちにとって自分の目ではけっしてとらえられないふたつの存在、すなわち「異界」と自分自身とを、つかのまにせよ、可視的なかたちでつかみとるための装置なのである。(242-243頁)
だいぶ引用が長くなったが、天動説と地動説のようなものだと思う。自分の周囲の変化を他人事のように感じるものだが、周囲の変化を認知認識している主体である自分自身も同時に変化しているということをどれほど多くの人がわかっているだろうか。自分というものは決して固定的な存在ではない。周囲の環境の変化に呼応しながらふわふわと浮遊している関係性の結節領域のようなものだと思う。結節「点」というようなはっきりしたものではなく、もやもやっと濃くなっているというイメージだ。なにかの拍子に関係性が急変すればフッと消えてしまうのである。それなのに、たぶん人びとはしっかりとした「自分」を想定して関係性に対峙しているのだ。その実態と認識との乖離がおめでたいことや悲惨なことのきっかけになるような気がする。尤も、めでたさや悲惨さというものは時間軸の取り方によって同じ事象がおめでたくも悲惨にもなるものだが。
政治あるいは政治家に関して示唆に富んだ記述もある。ある村の村長が追放される場面である。村でたまたま死人や病人が続出したことが村長の所為にされたのである。村長は妖術をつかってそうした事態を招いたとみられたのである。
集会の後、チーフは、私も同席の場にグンドゥザを呼び、こう語りかけた。
「おまえが、一日長く村にとどまれば、それだけ問題が増えてくる。というのも、村に死人が出たり、病人が出たりするたびに、たとえおまえが何をしなくとも、おまえが手を下したと人びとが言うからだ。このまま放っておけば、おまえは殺される。おまえの安全のために、私はおまえが村を出るようにという決定を下したんだ」
傍にいたチーフの補佐役(インドゥナ)は、こうも言った。
「これは、村長というものの定めだよ。村の中で不幸がおこると、人びとは村長のせいにする。そのとき、村長というものは、自分のせいではないとは言えない。村長とはそういうものだ」(157頁)
ところで妖術とはどのようなものかということだが、このような記述がある。
図式的にいうならば、邪術師は悪意や妬みを動機とし、薬と呪文を用いて意図的に他人に危害を加える。その術は必要な知識を得た者なら誰にでも行使しうるのものである。これに対して、妖術師は自身に生得的な体質のゆえに、物的な助けを借りることもなく、無意識のうちに邪悪な行為を働いてしまう。しかも、その性向は遺伝的なものとされている。(154頁)
「自分」と「他者」との境界はそれほどはっきりしたものではないし、座標軸の取り方によってどうにでも認識されるものだと思う。ざっくりとした理解をすれば、今この瞬間において受容できる関係性の集大成が「自分」であり、そうではないものをひとまとめにして「他者」としているのではないだろうか。今はなんとなくそんな気がする。
朝倉敏夫『コリアン社会の変貌と越境』臨川書店
みんぱくフィールドワーク選書17巻。この選書シリース全20巻のうち、未読は16巻ー18巻と20巻になった。なんとなく吉田先生の巻を読んだ後で、まずは講演などお話しを直に伺ったことのある先生の本を先に読んでしまおうと思い、朝倉先生の巻を手にした。
みんぱく友の会の参加記録をみると、朝倉先生のお話を伺ったのは2015年12月の体験ツアーで佐賀に行った時だけだった。なんとなく数回、講演会を聴講した記憶があったのだが、思いの外少なかった。この佐賀のときのお題が「九州のなかの朝鮮文化を歩く 菓子・工芸・史跡にさぐる関係史」というものだったが、実際のお話は韓国の菓子事情だった。実物をたくさんご用意いただきいろいろ試食させていただいた。韓国の菓子史については記録文書がないのだそうだ。米も麦も貴重品で、そもそも庶民は菓子を口にしていないというのである。歴史を遡ることができるのは日本の植民地時代だが、そうなると日本の菓子になってしまう。例えば、唐津に松露饅頭というものがあって、同じ見た目で味のものが韓国にもあるのだが、ルーツが同じかというと、わからないのである。韓国にも羊羹があるが、これは日本人の工場経営者が設備を放棄して引き揚げてしまった後を現地の人々が引き継いだものだという。しかし、味の好みというのは、その土地固有のものかというと、それは怪しい。我々の普段の食生活がどれほど日本固有のものか、日本の「伝統」を踏まえているのか、と問われれば、そもそも食の伝統とは何だろうという疑問しか出てこない。「日本食文化」が世界遺産になったが、申請するほうも申請するほうなら、登録するほうもするほうだと思う。決め事というのは結局は政治なのである。
ところで本書だが、書き方も内容も筆者の実直な人柄が滲み出ている印象を受けた。私は著者のことは何も知らない。しかし、書いたもののなかに、物事の進め方であるとか物事の認識の仕方のようなことは自ずと表れる。文章とはそういうものだと思う。マスコミでは韓国や中国と日本との関係がぎくしゃくしたものとして描かれている。本当にそうなのかどうか、私は知らない。もし本当に国民感情として、例えば韓国の人が総じて日本人に対してネガティブな印象を持っているのだとしたら、そこをフィールドにして研究活動を続けるには個人として相当な人徳が要求されてしかるべきだと思うのである。
韓敏『大地の民に学ぶ 激動する故郷、中国』臨川書店
みんぱくフィールドワーク選書18巻。朝倉先生の韓国の巻を読んだので、その記憶が新鮮なうちに地理的につながっているところの巻を読んでおこうと思ったのである。
以前にも書いたかもしれないが、中学生の頃、BCLという遊びが流行った。短波放送を受信して受信報告を放送局に送るとベリカードという受信証明の絵葉書のようなものが返送されてくる。そのベリカードを収集するのである。短波放送というのは遠くまで届くのだが、電波が弱い。それを受信するにはそれなりにパワーのある受信機と大がかりなアンテナが必要になる。このためBCLというのはそういう設備投資ができる資力とそういう設備や電波についての知識のある人の間の趣味だった。ところが、技術革新というものは止まるところがない。短波を受信できるラジオが小遣いを貯めれば買える時代になったのである。またそういうラジオを売る側も積極的に宣伝をするようになった。ソニーのスカイセンサーがその筆頭で、それを追うように松下がクーガを売り出した。本当はスカイセンサーが欲しかったのだが、予算の都合でクーガを手に入れ、深夜に放送を探ったものである。もちろん外国語は聴いてもわからないので、海外発の日本語放送を聴くことになる。当然だが近くの国の放送のほうがはっきりと聴こえる。北京放送や自由中国の声からは何枚かのベリカードをいただいた。北京放送のほうはカードだけでなくポスターやカレンダーもいただいた。保管しておけばよかったと今になって思うのだが、そのポスターの隅に「文化大革命を最後まで成功させよう」と書かれていたのは記憶している。ポスターに描かれているのは毛沢東だった。私が中学生だったのはそういう時代だ。つまり、本書の著者は私と同世代だ。
今でもはっきりと記憶しているが、北京放送へ出した受信報告書のなかにベリカード欲しさのあまり挨拶文のように「文化大革命の成功をお祈りします」と書いていた。当時は「文化大革命」が何なのかということについて全く興味がなかった。後になって歴史上の事象としての知識ということで断片的に識るようになる。
中国というのは昔も今も大国だ。大きな国を治めるには中央集権でなければならない。中央集権を維持するには権力の正統性を誰もが認識できるほどの強引さで示さないといけない。だから、中国では王朝が変わる毎に、それまでの権力や権威を全否定する。そういうものに関係した文物人物を根こそぎ片付けてしまう。そうした破壊行為も新たに成立した王朝の権威を裏付けるものになるし、そうした破壊を躊躇う者は新しい王朝にとっての危険分子として認識できる。統治としての破壊といえる。たぶんそうした事情で、中国の古い文物は長い歴史と広大な国土の割には少ない。例えばロンドンの大英博物館で中国の展示を観るとする。あそこは地域毎の展示になっているのでアジアのコーナーに中国も日本もある。博物館全体の運営上、ある程度地域毎のスペースを揃えないといけないという事情があるにせよ、日本のコーナーを観た後で中国のコーナーを観ると「えっ、これだけ?」と思ってしまうのである。たぶん、本当に古いものが残っていないのだろう。
モノのほうは破壊するとして、人のほうはどうだったのか。前政権の中枢は根絶やしにされたかもしれないが、そういうこととは関係なく日々の暮らしを送っていた圧倒的大多数の人はどうしていたのか。そういう疑問に対する示唆のひとつとして、今の中国の人々がどのような個人史を抱えているかということがある。目から鱗、というわけにはいかないが、本書を読んでそうした疑問を考える取っ掛かりを感じることができた。