六代目 三遊亭圓生『新版 寄席育ち』青蛙房
もちろん六代目圓生という噺家のことは聞いたことがあった。しかし、自分が落語を聴くようになった時には既に他界されて久しかったこともあり、どちらかというと柳系の噺が好きなこともあり、ネットの動画がたくさんあるにもかかわらず聴いたことがなかった。たまたま昨年秋に「円生と志ん生」という芝居を観る機会があり、そこからようやくと動画などで噺を聴くようになった。それで芝居で取り上げられていた満州時代のことが気になっていて、この本に行き着いた。本人はその時のことをどう捉えているのだろうかと思ったのである。
私自身はあの戦争を経験していないが、自分の親やその世代以上の身内や知り合いは経験していて、話だけはいろいろ聞いている。生活というものはそこで暮らす人々が作り上げるものなのだが、物理的な風景が人々の心象に与える影響は大きいだろう。今の暮らしの風景の基は焼け野原になったあの戦争だ。その後の高度経済成長やバブルでも大きな変化があったのは確かだが、焼け野原から復興したという現実ほど確かなものはない。その前が関東大震災だそうだ。あれでそれまでかろうじて残っていた江戸的な風景が完全になくなったとよく耳にする。
それで圓生の満州だが、日本を発ったのが昭和20年5月6日、帰国が昭和22年3月17日とある。当初2か月の予定の慰問だったのがこんなになったのである。慰問は予定通り2か月で昭和20年7月5日に慰問の出発点である新京へ戻ったそうだ。ところが戦況悪化で日本への船がなかなか出ない。新京で待機となっていたところへ追加の仕事を引き受けて満州を方々歩くことになった。8月に入って奉天にいたときにソ連が宣戦布告。その後の予定をすっぽかしてとりあえず新京に戻ろうとしていたところへ満芸から大連へ行ってくれとの依頼。はじめは断ったものの新京に戻ったとこでその先のあてがあるわけでもなし、同行の志ん生が「ここにいるより大連へ行ったほうがよくァねえか」というので特急「はと」に乗って大連へ。そこで終戦を迎えた。8月12日ソ連軍進駐。
だまされだまされずゥッと一年以上いたから、なんでも信用しなくなっちゃった。汽車へ乗っかっても「この汽車、どッか変な所に行っちまうんじゃァないかしらん」と思ったりしましてね…やっとのことで品川の八ツ山ンとこに来た時は本当に嬉しかったですね。実に、あすこへ来て、もうこれならば確かに帰ってきたと思いました。(276頁)
というのが師の満州体験の総括だろうと思う。圓生と志ん生は満州へ行って噺が上手くなったという評判だったというのはよく言われていることだが、しかし、それについて本人は
あたくしァこれァ本当に馬鹿にされたと思いました。毎日々々演ってうまくならなかったものが、ほとんどまる二年の間、まァたまには演りましたが、大よそは休んでしまって噺をしない日が多かった。それが帰ってきてうまくなるわけがない。こいつァつまり、からかわれているんだなと思って、初めは、そういうことを言われると腹が立った、ひとを馬鹿にしてやがると思って。(277頁)
だそうだ。本当のところはわからないが、人というものは自分で意識してどうこうなるものではないような気がする。数値で測ることのできるものはたくさんあるが、そういうものに表れるものはそれだけのことで、生きている現実にとっては計り知れないことが大事だと漠然と思うのである。
関山和夫『落語名人伝』白水Uブックス
時系列で「名人」と言われた落語家を語っているが、内実は仕事論とか人生論であるような気がする。結局のところ、「名人」であろうがなかろうが、人は生きていく上であたりまえの負荷を抱えながら、真摯に目の前の仕事に取組み、誠実に他人と接し、己の分をわきまえて暮らしていくよりほかにどうしようもないのである。結果として「名人」として脚光を浴びることになるかもしれないし、何もないままに生涯を全うするかもしれない。生活とはそういうものなのである。