熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記2020年4月

2020年04月30日 | Weblog

野呂邦暢『愛についてのデッサン 佐古啓介の旅』みすず書房

今まで全く知らなかった作家。夏葉社の本を次から次へと読んだとき、『昔日の客』に登場していた作家のひとりが野呂邦暢で、『昔日の客』という書名の基になるエピソードが記されている。『昔日の客』の著者である関口良夫と彼が営んでいた古本屋「関口書房」のことが野呂が西日本新聞の夕刊に書いていた随筆のほうにも登場する。示し合わせたわけではないだろうが、互いに忘れえぬ人であったというのが面白い。『昔日の客』のほうでは野呂が『草のつるぎ』で芥川賞を受賞した1974年2月に授賞式に出席するために上京する前後のことが書かれている。授賞式の2、3日後、野呂は夫人とともに関口書房を訪れた。関口が描写する野呂夫妻は仲睦まじい印象だが、野呂は1979年に離婚し、1980年5月7日に自宅で自殺した、という。

ところで本書だが、家業の古本屋を営む20代の男性が主人公の連作短篇。本書のオリジナルの刊行は1979年7月。古本を取り巻く環境は今とはだいぶ違っていると思うが、自分はその時代を生きているので、描写は素直に受け容れることができる。それで感じたのだが、人と人との交渉がネットで気軽にできる今のほうが、相手のことがわかりにくくなっている。用件が済めば相手の人としての総体など知る必要がないし、物事の「効率」という表層を撫でることだけに価値が置かれるようになったので、用件以外のことに関心を払う動機もなければ余裕もない。用件は表層のことで終始することが多く、そういうものを多少積み上げたところで何が生まれるわけでもない。用件の背景、それこそ相手の人となりなどは、下手に踏み込むと厄介なだけだ。

しかし、本書の舞台装置である古本、それにまつわる五感総動員の調べもの、そこから自ずと生まれる人と人との関係性、そうしたところから対象だけでなく自分自身の思わぬ「真実」に気付くことにまでなるという、そうした奥行にこそ生きることの愉しさがあると思う。そういう気付きを与えてくれる作品だ。

 

世阿弥『風姿花伝』岩波文庫

高校生の頃、放課後に通っていた駿台の古文の先生が自らの仕事に対する姿勢の指針として『花伝書』がある、とおっしゃっていた。そのことがずっと気になっていて、いつか『花伝書』というものを読んでみようと思ってはいたのだが、古文ということもあって取っ付きにくく、今まで手に取ることがなかった。人生の終わりに臨んで、ようやく読むことになった。『花伝書』自体は至る所で様々に引用されているので、つい見知っているように感じがちなのだが、読んでみて「花」の意味するところがようやく腑に落ちたような気がする。

本書自体は能の稽古に対する心構えを説いたものだ。能という芸能についての考え方を言葉を選び抜いて語っている。言葉だけで通じることというのは大したことではない。言葉は理解の切っ掛けを与えるものにすぎない。おそらく本書を読む、あるいは本書の内容を聞く、能や芸能について常々深い思考を巡らせている人だけが、本書のエッセンスを理解できるのだろう。例えばこんな箇所がある。7歳から稽古を始めると12・3歳のあたりではそれなりに上達する、その段階について語っているところだ。

さりながら、この花は、誠の花には非ず。ただ、時分の花なり。(14頁)

だから、猶更しっかりと基礎を訓練しないといけないというのである。それが50歳頃になると

この比よりは、大方、せぬならでは、手立あるまじ。「麒麟も老いて駑馬に劣る」と申すことあり。さりながら誠に得たらん能者ならば、物数はみなみな失せて、善悪見所は少なしとも、花は残るべし。(21頁)

というのである。こんなところを読むと人生の終わりに読むような本ではないと思うのだが、不思議と「良いことが書いてあるなぁ」と自然に感心してしまう。こういう感覚は、やはり老いてこその面白さだ。直面はまさに面構えの話。

顔気色をば、いかにもいかにも、己れなりに繕わで直に持つべし。(28頁)

あるがままにせよ、という。つまり、あるがままで様になる顔になるような生き方をしろということだろう。そういうと漠然としているが、例えば、

人のわろき所を見るだにも、我が手本なり。いわんや、よき所をや。「稽古は強かれ、諍識はなかれ」とは、これなるべし。(50頁)

ということだ。そして、日々研鑽を重ねると

ただ識の花は、咲く道理も、散る道理も、心のままになるべし。されば、久しかるべし。(58頁)

という段階に至る。

そもそも、芸能とは、諸人の心を和らげて、上下の感をなさん事、寿福増長の基、超齢・延年の法なるべし。(75頁)

芸能は人を人ならしめる基と言ってもよいだろう。そこに、

秘する花を知る事。秘すれば花なり、秘せざるは花なるべからず、となり。この分け目を知る事、肝要の花なり。(103頁)

という有名な言葉が活きるのである。なるほど、と思う。

 

豊田健次編『白桃 野呂邦暢短篇選』みすず書房

不安な時勢のなかで読む所為もあるかもしれないが、小説というものは良いものだとつくづく思った。小説を読んでこれほど感心したのは初めてかもしれない。米朝や志ん朝の噺も良いが、野呂の短編も心にしみる。

短篇選でどの作品も同じように面白いというわけではないのだが、表題作「白桃」、原爆が落ちた日のことを描いた「藁と火」、労働組合と公害が話題になっていた頃のことと思しき「鳥たちの河口」、時代に取り残されたかのような人が最期を前に一花咲かせる「花火」は印象深い。

「白桃」の弟の目線が痛い。弟から見た兄は、おそらく世間の体制派の象徴だ。兄にも苦悩はあるはずなのだが、主流から外れているとの認識に囚われている弟からすれば、眩しいばかりに上手く立ち振る舞っているように見えてしまう。第三者から見れば、それでも仲の良い兄弟に見えるだろう。自分にとっての世界と世界から見えるらしい自分とのギャップに違和感を覚えるというのは程度の差こそあれ誰しもが抱えていることではないか。たぶん、そのギャップが所謂「生命力」に通じている。それを埋めるべく人は思考し行動する。

原爆のことはもちろん体験していない。しかし、原爆のことも含め戦争でコテンパンに負けた国で生まれ育って今日に至っている。意識するとしないとにかかわらず原爆のことも戦争のこともいろいろなことを聞いたり読んだりしてきた。「藁と火」を読んでも初めての話のようには感じられない。自分が知っていると思っている一連の流れから或る家族のエピソードを抜き出したもので、自分がこの家族のその後のことまで知っているかのような錯覚を抱えながらドキドキして読むのである。自分がどこかの国の国民として生きるというのはそういうことなのだと思う。

同じことは「鳥たちの河口」でも言える。戦後の復興のなかで、新しい国を創るべく民主主義という借り物の錦の旗の下で、復興一辺倒で復興の主体であるはずの人間のことをそっちのけにして表層だけをシャカリキに取り繕ってきて今がある。そういう認識があるので、労働運動に翻弄されているらしい主人公を、醒めた目でしか見ることができない。物語の主人公は失業保険の給付金と退職金を手にして、それを使い尽すまで鳥の観察をして過ごす。それでも、縁あって新しい土地に引っ越して新しい生活をはじめる算段はついている。鳥の観察は、おそらく主人公と世界をつなぐ術だ。膨大な観察記録をものにし、たぶんある瞬間においては主人公の命の証なのかもしれない。それまでの生活の終わりに臨み、主人公はその観察記録を焼却する。そのことが自然なことのように思われる。私は日記をつけている。もうだいぶたまったが、いつか全部一遍に燃やしてしまおうと思っている。

「花火」は良い話だと思う。人は生まれようと思って生まれるのではない。意図せず生をあてがわれるのである。生きていることの根源にある不安の正体は、それが意図してないことにある。意図していないのに今在ることへの違和感を誰にとっても穏やかに収めるには互いを尊重すること以外にない。世の中を平穏に収めるためには、明日があると当たり前に思う共同幻想を確立させることだ。それはたぶん、銭金や競争のことではないし、宗教でも政治でもない。

 

野呂邦暢『草のつるぎ 一滴の夏』講談社文芸文庫

野呂の文章の美しさ、読んだ時の心地よさは、言葉が選び抜かれているところにある気がする。歌や俳句と同じなのだ。歌や俳句は短すぎて詠み手と読み手との間で共有されるべきものが大きいのだが、小説となるとそうしたハードルがかなり低くなる。しかし、それに甘えることなくストイックに言葉を選び紡いでいくところに生まれる美なのだと思う。

 

岡崎武志編『夕暮の緑の光 野呂邦暢随筆選』みすず書房

「小説は題名が決まれば三分の二は出来上がったのもどうぜんだ」(147頁、「小説の題」)と言われて、なんとなく腑に落ちた。物語の核を一言で表現したのが題なのだろう。核が決まれば、雪だるまをつくるようにそれを転がして形にしていく。たぶん、それは小説に限ったことではなく人の暮らしとか人生の多くのことに当てはまる。一言にならないことは内容が無いとか、理解が欠けているとか、ろくなものではないのである。自分が生活のなかで体験すること、考えること、それを一言で表してみる。うまくできれば自分の身の中に収まっているということであり、そうでなければいくらこねくりましたところで芽は出ないということなのだ。具体的になにがどうということではなしに、なんだかとても良いことを聞いた気がする。

ところで野呂の随筆だが、これがまたいい。読んでいて自分が良い時間を過ごしていると思える。彼は生活の実感をとても大切に生きていたことが伝わってくる。やっぱりそうだよな、と思うところがたくさんあった。

 


幻ふだんのちゃわん 最終日

2020年04月12日 | Weblog

ふだんのちゃわんは中止となったが、会場で配布を予定していた日替わりのチラシがある。以下は本日分。

ちゃわんの値打ち
 
昨日触れた「はてなの茶碗」のほかに、落語には「井戸の茶碗」、「猫の茶碗(猫の皿)」といった茶碗の噺があります。これらに共通するのは価値を語っていることです。

「はてなの茶碗」は、茶店で使う清水焼の安手の数茶碗が茶道具として時の富豪の手に収まるという話です。鍵を握る人物は京都の高名な道具屋。この人が指さしただけでそのものに何十両もの値が付くという有名人です。彼が或る茶店で一服したときに出されたのが、一見すると何の障りもないのに漏る茶碗でした。不思議だと思い、覗き込んだり透かして見たりした末に、「はてな」とつぶやいて茶代を置いて店を出ます。その様子を近くで見ていた別の客が、茶店のオヤジから奪うようにしてその茶碗を手に入れ、その道具屋に持ち込みます。茶碗自体は安手の数茶碗ですから店では門前払い同様の扱いですが、道具屋が数日前に手にした漏れ茶碗であることがわかって話は急展開。道具屋は自分が市井の人々の間で知られていることに感激して、その茶碗を客が茶店のオヤジに払ったという2両に足代として1両加えた3両で買い取ります。後日、道具屋が出入り先の鷹司公との雑談のなかでこの話をすると、その茶碗が見たいといわれます。茶碗を見せると鷹司公は面白がって、その茶碗に歌を付けました。公家の間で茶碗の噂が広がり、時の帝も見たいと宣います。茶碗は綺麗に誂えられて帝の前へ。帝も面白がって、茶碗に帝の箱書きが乗ります。それを時の富豪が欲しがって千両の値を付けました。70-80文の数茶碗が道具屋の手を経て様々に価値が付き、千両(注) の名物へ大出世するわけです。

作り話であるには違いないでしょうが、価値とは何かということを雄弁に語っているから人々に受け容れられて、こうして今日に残るのでしょう。現実に茶道具の世界では本来は雑器であった井戸茶碗が名物として珍重されることがあります。最初から茶道具として作られる茶碗にしても、作り手のブランドがモノを言います。茶碗そのものの技巧や製造費用といったものとは没交渉に、茶碗を巡る物語、茶碗を媒介とした関係性の総体が茶碗の価値となるのです。

一般に、価格は需給で決まり、価格が需給に影響を与えます。しかし、人が何を欲するのか、ということはそう単純な話ではないでしょう。今ここで手にした1,000円の茶碗の価値は、これから如何様にもなるのです。

注:江戸時代初期から中期にかけての公定相場は1両=4,000文程度であったが、後期は6,500文、幕末の実勢相場は8,000文ほどになったらしい。(日本銀行金融研究所貨幣博物館『お金の豆知識 江戸時代の1両は今いくら?』)


幻ふだんのちゃわん 4日目

2020年04月11日 | Weblog

ふだんのちゃわんは中止となったが、会場で配布を予定していた日替わりのチラシがある。以下は本日分。

ちゃわんが変わる
 
陶器の器は使っているうちに嵌入に汚れが蓄積されてきます。それを「景色」と呼んで尊ぶ人もいれば、「汚れ」と感じて漂白剤などで洗浄したり、器を処分してしまう人もいます。どちらが良いとか悪いとかいうことではなく、同じ物理現象が人によって正反対に認識されるということです。

嵌入というのは陶磁器の表面のひび割れです。陶磁器は土の地に釉薬を掛けて焼成します。釉薬は様々な種類がありますが、ざっくり言ってしまえばガラス質です。地の土と、それを覆うガラスとは収縮率の違いがあるので焼成をしたときに表面に負荷がかかり大小無数のひびが入ります。しかし、よほど酷くない限り、嵌入が使用の障りになることはありません。

使用しなければそのままですが、食器や花器などとして使用すれば、たとえ湯水しか入れないとしても湯垢水垢が付着します。仮に全く同じ茶碗がいくつかあったとして、それらが別々の人の手に渡り、同時に使い始められ、同頻度の使用がなされたものとします。何年か後、それらの茶碗を比べると別物のようになるでしょう。それぞれの使われ方に応じて、使用跡の蓄積も違ったものになります。茶碗は無機質ですが、使う人の色に染まるのです。

無機質が有機的に変化するのは陶磁器に限ったことではないでしょう。私が今暮らしているのは昭和40年代前半に竣工した旧公団住宅(現UR住宅)です。私が暮らし始めたのは7年ほど前のことですが、入居に先立って部屋をいくつか内覧しました。同じ間取り、同じ築年数なのに部屋によって表情が違うことに驚きました。今暮らしている住戸を選んだのは、駅までの距離とか階数といった係数も判断材料ではありますが、部屋の雰囲気というような何とも説明のしようのないことも関係しています。

茶道具となると、茶碗の物理的な変化もさることながら、誰の手から誰の手へ移ったかという来歴、その時々の持主が誂えた仕服、箱書き、といったその茶碗を巡る物語がモノを言います。同じ窯から出た同じような茶碗が持主の違いで雑器にも名物にもなるのです。落語に「はてなの茶碗」というのがありますが、モノの価値というものを語るよくできた噺だと思います。

無機物ですら長年の使用を経てそれぞれの変化を示すのですから、生き物であれば長年の関係性の積み重ねで如何様に変化しても不思議はないでしょう。最期の瞬間まで人はどのようにでもなることができるような気がします。


幻ふだんのちゃわん 3日目

2020年04月10日 | Weblog

ふだんのちゃわんは中止となったが、会場で配布を予定していた日替わりのチラシがある。以下は本日分。

ちゃわんが割れても
 
陶磁器は所謂「こわれもの」です。たぶん、多くの人は茶碗を割ってしまうと、そのまま廃棄するのではないでしょうか。しかし、陶磁器は補修を施すことができます。

例えば、東京国立博物館に「馬蝗絆」という銘の青磁茶碗があります。美しい形ですが、割れていて、それを鉄の鎹で継いであります。その鎹を蝗に見立ててこの銘が付けられたそうです。一度割れて継いでありますが、重要文化財です。継いだから重文なのか、継ぎがなければ国宝になったのか、私は知りませんが、割れた茶碗に鎹を打って補修する、それを後生大事に扱うということがこの国の美意識について何事かを語っているように思われます。

大阪の東洋陶磁美術館には志賀直哉から東大寺元管長・上司海雲師に贈られ、長らく東大寺塔頭の観音院に飾られていた白磁の壺があります。この壺は盗難に遭い、犯人が落として割ってしまいました。相談を受けた同館が破片一切を回収、修復したものです。修復は同館から専門の職人に依頼しました。修復の際に補修痕をわからないようにするか、敢えて補修痕を残すか選択できたそうです。同館は後者を選びました(注) 。それでも、この盗難の一件を知っていて、補修痕を探らないとそれとはわからないくらい見事に修復されています。補修痕をわからないようにすることもできるのに敢えて痕を残したのは何故でしょうか。

名古屋の名物に味噌煮込みうどんがあります。一人用の小さな土鍋で調理されてそのまま配膳されますが、この土鍋が針金でぐるぐる巻きにされているものに遭遇することがあります。食器として使われる陶磁器と違って、調理器具として使われる陶磁器は直火に晒されるので熱変化が大きく、しかも商売道具となると使用頻度も高くなります。家庭用の陶磁器とは比べ物にならない大きな負荷がかかりますから、針金の応援を仰ぐわけです。それを客に出し、客もそれを当然のことと受け容れます。

故意に割って継いだ茶碗というのもあります。三井記念美術館にある「須弥」という銘の井戸茶碗には「十文字」という別名があります。十字に断ち切って漆で継いだので継ぎ目が十文字になっている茶碗です。

割れても使う、割って使う、割れないようにして使う。使い方、使う姿勢も意識するしないにかかわらず使い手の自己表現です。

注:伊藤郁太郎(東洋陶磁美術館 初代館長)講演「李朝白磁の偏屈さを読む」2018年11月2日 日本民藝館


幻ふだんのちゃわん 2日目

2020年04月09日 | Weblog

ふだんのちゃわんは中止となったが、会場で配布を予定していた日替わりのチラシがある。以下は本日分。

ちゃわんをつくる
 
陶芸作品を素材で大別すると陶器と磁器があります。陶器は陶土、つまり粘土で作るものです。磁器は磁土、すなわち陶石と呼ばれる長石を主成分とする石を破砕精製したもので作ります。他に、陶器と磁器の中間的な性質を持つ炻器と呼ばれるものがあります。

素材の違いは制作方法にも反映されます。土を練って成形して焼成する、という流れは同じですが、成形に際し、陶器は土を挽くところが要となりますが、磁器は挽いた後の削りが相対的に肝要となります。私が通う教室では陶器も磁器も制作できるようになっていますが、私はまだ磁器を作ったことがありません。

作品の制作は土を練るところから始まります。陶磁器の産地では、土を作るところから始まると言うでしょう。私は土を作ったことはないので、土作りのことはわかりません。土を練る工程は、荒練りと菊練りのふたつの工程で構成されます。おおまかには、荒練りは土を均質にするための作業で、菊練りは土のなかの気泡を抜くための作業です。

陶芸教室などで使われる陶芸用の土は既にかなり均質の状態で流通しているので、荒練りは均質にするというよりも自分の欲しい柔らかさにするための練りと言えます。菊練りは土を菊の花のような模様にしながら練るのでその名があるのですが、土の動きとともに内部の気泡とか異物のようなものが外側に押し出されてきます。菊練りによって轆轤で土が暴れたり異物が引っ掛かたりせずに成形できるようにします。

成形には手捻り、手捏ね、板作り、型押し、轆轤、鋳込みなどがあります。作りたいものの形状に応じて手法を使い分けます。こうした手法で成形したものを、手に持って歪まない程度に乾燥させて箆や鉋で最終的に求める形に削ります。厚さを適切に整えることが重要です。

成形したものはゆっくりと乾燥させた上で焼成します。土質にもよりますが、一般的には、800度程度で素焼きをした後、下絵付けをしたり釉薬をかけたりして、1,200度から1,300度くらいで本焼きをします。素焼きをせずに本焼きだけというものもありますし、本焼きも800度程度の低温ということもあります。

工程の所要時間としては成型後の乾燥が最も大きな割合を占めますが、どの工程もそれぞれに大事です。イメージに沿う作品に仕上げるには、各工程での面倒や不都合を次の工程に持ち越すことなく各工程でやるべきことを可能な限りやりきることが肝要だと思います。


幻ふだんのちゃわん 1日目

2020年04月08日 | Weblog

ふだんのちゃわんは中止となったが、会場で配布を予定していた日替わりのチラシがある。以下は本日分。

縁起
 
陶芸を始めたのは2006年10月です。都内のカルチャース年半クールの陶芸講座を受講しました。途中1ほど転居のために中断がありますが、以来今日に至るまで同じ陶芸教室に通っています。一度だけ美大の通信教育を受講して、スクーリング授業として陶芸を選択したことはあります。陶芸の経験はそれが全てです。自分の工房と窯を持ち生業のようにして制作をしてみたいと思うこともありますが、給与生活のぬるま湯から踏み出せないままに過ごしています。

陶芸を始めようと思ったきっかけは、今となっては記憶にありません。ただ、絵を習おうか陶芸にしようかという漠然としたものがあったのは確かで、友人との何気ない会話のなかで陶芸を勧められたことは覚えています。たまたまその友人の母親が勤めを定年でやめて陶芸と絵画を習い始めたという話を聞きました。絵は描いた後の始末に困るが陶芸は作ったものを使うことができる、というのです。妙に納得して、陶芸教室を探しました。ネットで検索して、なんとなく今の教室を受講することにしました。

始めてみると楽しかった、というだけでここまで続いています。最初に師事した先生から、陶芸作品だけでなく絵でもなんでもいろいろなものを見るといいと助言を受けました。同じ頃、たまたまロンドン勤務から帰国したかつての勤め先の同僚と話す機会があり、彼は絵が好きになったというのです。毎日定時退社で暇を持て余していたので、毎日のように帰宅途中に美術館や博物館に立ち寄っていたら好きになったというのです。そんなこんなで、いろいろ見ることを心掛けるようにしました。尤も、それでなにかが顕著にどうこうなったということはないと思います。

その後、一応、轆轤も使えるようになり、作品が溜まってきたので、2011年1月に第一回目の「ふだんのちゃわん」を開催しました。その時は、もちろん、作品展を開こうと思うような自分の作品に対する認識がありました。しかし、今から振り返ると、あのとき作品を買っていただいた方々に申し訳ない気持ちが湧いてきます。尤も、返金に応じるつもりはありません。

その年の3月に大きな震災があり、11月に当時の勤務先を解雇され、など諸々あり2回目の「ふだんのちゃわん」は2017年3月になりました。やはり、その時も作品展を再開しようと思うような自分の作品に対する認識でした。しかし、今は、その認識は少し甘かったかなと思っています。たぶん、作品を作り続けている限り、同じことの繰り返しになるのでしょう。主体的に何かをするというのはそういうことだと思います。