どのような芸事にも技巧というものがあるのだろうが、それと鑑賞者の満足との間には必ずしも相関がないような気がする。相関があるとすれば、技巧は必ずしも正しく評価されないと言うべきかもしれない。人は経験を超えて発想することはできない。芸のほうを齧ったことも掠ったことも無い人に、その芸を評価することは果たして可能なのか?市井の人々の日常会話に所謂「芸」の類を評する話題はいくらでもでてくるだろう。それこそ芸能から政治、自分の奉公先の番頭や旦那の経営手腕、ありとあらゆる「芸」について、その芸に覚えのある人もそうでない人も一人前の批評をしてみせる。たいていの場合は非難批判であり、なかには小言以外の発想がないのではないかとさえ思える人もいる。最近読んだ小三治のエッセイにこんなのがあった。たいへん旨い酒があって、それをもう一度飲みたいと思い蔵元まで出かけたときの蔵元との会話が紹介されている。
「あれは、あの年だけ、ちょっと道楽に実験的に造ってみたもので、あの翌る年からは造っていません」
「どうしてでしょう。あんなうまい酒だったら誰だって大喜びでしょう」
「それが、なかなかそうでもないのです。あれは醸造用糖類、というのはぶどう糖、水あめなどですが、それらを一切使いませんでしたし、お米も半分以上摺り減らして、造る管理も特別に手をかけたものです。これを売るには、値段をいくらに付けたらいいか、見当もつかなくなります。洋酒は高くても皆さんお買いになるのですが、日本酒で万ということになったら買う方はいませんよ」
「いや、でも本当においしければ買うんじゃないでしょうか」
「とても、そうは考えられません。一般に市場に出ているものは、水あめやぶどう糖がダボダボ入っていて、それをまろやかだとかこくがあるとかおっしゃって召し上がっていらっしゃる。今の日本酒の需要をまかなっているのはその方がたです。その方がたが、わかってくださって高いお酒を呑んでくださるとはとても思えないのです」
(柳家小三治『落語家論』p.p.236-237 ちくま文庫)
醸造用糖類がいけない、とは言わないが、「酒とは何か」ということについて経験に拠る基準が無いままに世評に踊らされて美味いの不味いのとほざく阿呆が多数派であるという現実があるということだろう。似たようなことは、生活の様々なところにあり、水増しや見栄が正当化されて正直な仕事をしている人たちが駆逐されてしまうというようなこともあると思う。一方で、真っ当な仕事、技巧というものがわかっていて、そういうものを尊重するという人たちも、少数派ではあるけれど確かな規模の需要を生み出しているのも事実だろう。自分は後者のほうでありたいと願うのだが、そうであるためには供給側の仕事と通じ合うような経験を持たなければならない。これは容易なことではないのである。
柳家小三治 独演会
柳亭こみち 「真田小僧」
柳家小三治 「一眼国」
柳家小三治 「青菜」
会場:たましんRISURU