寒さが緩んだと思ったのもつかの間、また寒くなった。去年は桜の前後から冷え込み、そしてあの夏を迎えたのではなかったか。今年は夏が去年のようなことにならないことを祈りたいが、それ以前に果たして夏を迎えることができるのだろうか。
テレビや新聞に縁がないので、ネット上のニュースしか見ていないが、原発の状況が落ち着いた様子はなく、被災地の復興が具体的な動きを見せ始めたわけではないのに、マス・メディアの関心はそうしたところから離れつつあるように感じられる。要するに当事者以外の人々が震災の状況に対する関心を失いつつあるということなのだろう。そうなると、被災地は単なる空き地と化してしまう。その場所に所有権や借地権などの権利を持つ人々が不在となっている一方で、その不在を埋めるものがなければ、その権利不在のものを強奪しようとする輩は必ず現れるはずだ。元プロ野球選手が電線の窃盗の現行犯で逮捕されたという報道があったが、計画停電となっている地域も、盗人の類から見れば恰好の獲物だろう。電気が通じていなければホームセキュリティシステムも機能しないだろうし、夜の暗がりなどは変質者にとっては天国なのではないだろうか。
災害という非日常のなかでは、人々の間に緊張感が高まるので、無防備であっても治安が悪化することはないだろうが、無防備という状況が変わらないなかで被災という事実が日常化すれば、緊張もそう強く持続することもないだろう。地震から3週間という今時分あたりからが、この国の文明や文化が問われる時期に入ってくるのだろう。
尤も、原発事故の状況に然したる改善は無い。それどころか、海外の専門家集団に支援を仰いでいるようだが、それはつまり、東電も日本政府もお手上げだということを意味しているのではないか。状況は落ち着くどころか悪化の一途を辿っているのである。この3週間の間、報道を見聞きする限り、原子炉を冷却することだけしか当事者の眼中にないかのようだが、仮に冷却できたとして、破壊され、放射性物質に汚染された原発をどうしようというのだろうか。廃炉にするというのは具体的にはどのようにするのだろうか。チェルノブイリのように施設をコンクリートで固めてしまうというようなことなのか、スリーマイルのように外見はそのままで、単に操業しないというだけのことなのか。放射能汚染はどのように除去するのだろうか。そもそも除去できるものなのだろうか。被爆して健康被害を受けた人の医療費や生活保障はどうなるのだろうか。
原発の陰に隠れてしまっている他の被災地の復興状況はどうなのだろう。そもそも今回の「復興」の定義はどのようなものなのだろうか。まさか、被災前の状況に戻すということではあるまい。持ち主を失った土地や施設を元通りにすることに意味は無いだろう。そうしたものをどのように扱い、最終的にどのような姿にしようというのだろう。平時ですら満足に機能しない政治や行政が、この非常時に何をしようというのだろう。肝心なときに何も出来ない政治や行政に存在意義はあるのだろうか。肝心なときに社長が入院してしまう企業に危機管理はできるのだろうか。非常時で中央銀行が流動性を供給しても市中銀行がシステム障害で機能しないというのなら、その市中銀行は存在意義が無いどころこか、社会にとっての害悪ではないか。
震災とそれに続く電力不足のなかで、被災地だけでなく東京の生活でも、それまであったものがなくなる、ということを体験している。端的には電気を使うものを減らしている。照明、空調、エスカレーターやエレベーターの類の装置類などがすぐに思い浮かぶが、ほかにもいろいろあるだろう。そうした体験を通じて認識したのは、無くても不自由のないものが思いのほか多いということだ。政治家も現在の半分くらいで間に合いそうだし、マス・メディアも不要だ。役人もどれほど必要なのか見直したほうがよいだろう。復興費用の捻出のために近い将来に何らかの形で実質的に増税があるのは誰でも予見しているだろうが、まずは政治家とデスクワークしかしない役人は減らしたほうがよい。そうでないと、国民は納得しないのではないか。復興が軌道に乗った暁には、「やれやれ」という思いと「こんなはずではなかった」という不満とが交錯することになるだろう。「やれやれ」が多くなるようにするのが政治だが、さてどうなることだろう。
テレビや新聞に縁がないので、ネット上のニュースしか見ていないが、原発の状況が落ち着いた様子はなく、被災地の復興が具体的な動きを見せ始めたわけではないのに、マス・メディアの関心はそうしたところから離れつつあるように感じられる。要するに当事者以外の人々が震災の状況に対する関心を失いつつあるということなのだろう。そうなると、被災地は単なる空き地と化してしまう。その場所に所有権や借地権などの権利を持つ人々が不在となっている一方で、その不在を埋めるものがなければ、その権利不在のものを強奪しようとする輩は必ず現れるはずだ。元プロ野球選手が電線の窃盗の現行犯で逮捕されたという報道があったが、計画停電となっている地域も、盗人の類から見れば恰好の獲物だろう。電気が通じていなければホームセキュリティシステムも機能しないだろうし、夜の暗がりなどは変質者にとっては天国なのではないだろうか。
災害という非日常のなかでは、人々の間に緊張感が高まるので、無防備であっても治安が悪化することはないだろうが、無防備という状況が変わらないなかで被災という事実が日常化すれば、緊張もそう強く持続することもないだろう。地震から3週間という今時分あたりからが、この国の文明や文化が問われる時期に入ってくるのだろう。
尤も、原発事故の状況に然したる改善は無い。それどころか、海外の専門家集団に支援を仰いでいるようだが、それはつまり、東電も日本政府もお手上げだということを意味しているのではないか。状況は落ち着くどころか悪化の一途を辿っているのである。この3週間の間、報道を見聞きする限り、原子炉を冷却することだけしか当事者の眼中にないかのようだが、仮に冷却できたとして、破壊され、放射性物質に汚染された原発をどうしようというのだろうか。廃炉にするというのは具体的にはどのようにするのだろうか。チェルノブイリのように施設をコンクリートで固めてしまうというようなことなのか、スリーマイルのように外見はそのままで、単に操業しないというだけのことなのか。放射能汚染はどのように除去するのだろうか。そもそも除去できるものなのだろうか。被爆して健康被害を受けた人の医療費や生活保障はどうなるのだろうか。
原発の陰に隠れてしまっている他の被災地の復興状況はどうなのだろう。そもそも今回の「復興」の定義はどのようなものなのだろうか。まさか、被災前の状況に戻すということではあるまい。持ち主を失った土地や施設を元通りにすることに意味は無いだろう。そうしたものをどのように扱い、最終的にどのような姿にしようというのだろう。平時ですら満足に機能しない政治や行政が、この非常時に何をしようというのだろう。肝心なときに何も出来ない政治や行政に存在意義はあるのだろうか。肝心なときに社長が入院してしまう企業に危機管理はできるのだろうか。非常時で中央銀行が流動性を供給しても市中銀行がシステム障害で機能しないというのなら、その市中銀行は存在意義が無いどころこか、社会にとっての害悪ではないか。
震災とそれに続く電力不足のなかで、被災地だけでなく東京の生活でも、それまであったものがなくなる、ということを体験している。端的には電気を使うものを減らしている。照明、空調、エスカレーターやエレベーターの類の装置類などがすぐに思い浮かぶが、ほかにもいろいろあるだろう。そうした体験を通じて認識したのは、無くても不自由のないものが思いのほか多いということだ。政治家も現在の半分くらいで間に合いそうだし、マス・メディアも不要だ。役人もどれほど必要なのか見直したほうがよいだろう。復興費用の捻出のために近い将来に何らかの形で実質的に増税があるのは誰でも予見しているだろうが、まずは政治家とデスクワークしかしない役人は減らしたほうがよい。そうでないと、国民は納得しないのではないか。復興が軌道に乗った暁には、「やれやれ」という思いと「こんなはずではなかった」という不満とが交錯することになるだろう。「やれやれ」が多くなるようにするのが政治だが、さてどうなることだろう。