親子という関係が特別な関係という認識は幻想にすぎないと思う。親であるとか子であるというのは、ある時点においてのみ成立する役割のようなもので、状況が変化すればそれに合わせて変化する数多の人間関係のひとつに過ぎないと思うのである。人は最終的に個人であり、相手が親であれ子であれ、その人権に対する対等で自然な敬意がなければ、互いにとって良好な関係は維持できないだろう。親子の関係というものに対しては自分にとっては身近な課題のひとつなので、常日頃から考えることが多く、このブログのなかでも時々書いている(例えば2008年4月15日「親子という関係」)が、現状での結論は上記のようなものである。
さて、映画のほうだが、物語の舞台がタイの田舎であることにかなり意味があるように思う。そこで暮らす人々の信仰心や礼儀正しさが、人と人との適切な距離感を維持する上で重要であるということを観る人に気づかせる装置の役割を担っている。
物語は、娘を日本に残して単身タイに渡ってきてしまった女性と、大学の卒業旅行で彼女を訪ねてきた娘とのぎくしゃくした関係を軸に展開する。彼女はやむにやまれぬ事情があってタイに来た、というわけではなさそうだ。「やりたいことがあれば、やったほうがいい」という単純で力強い信念のもとでの行動らしい。残された娘にしてみれば、それは身勝手な行動であり、親というものに期待していた自分への愛情に懐疑せざるを得ない事態である。それが、わずか6日間ほど母と一緒に暮らし、タイでの母の生活を知ることで、そうしたわだかまりがわずかに解けたかのように見える。
母がタイに渡った後、親子の間が音信不通になったわけではなく、だからこそ、こうして訪ねてきているのだから、それなりの意思疎通はあったはずだ。その上でのわだかまりである。たとえわずかな時間であっても、そこで互いの生活や考え方を知り、自分のなかに抱いていた相手に対する勝手な幻想を修正する機会に恵まれれば、そのわだかまりが解けてしまうことだって当然にあるだろう。逆に、抜き差しならない状況に陥ってしまうことだってある。
人の感情は微妙なものだ。ちょっとしたことで高揚もすれば傷つきもする。誰しも自分の感情には敏感だが、他人に対して自分に対するのと同じように敏感であるというのは容易なことではない。それどころか、自己愛が強いほど他人に対しては心底傲慢であったりするものだ。困るのは、ろくに考えもせずに自分の思い込みを相手に押し付け、それを善意とか愛情であると信じて疑わない人である。その思慮の欠如こそが「傲慢」なのである。つまり、傲慢というのは思考能力や想像力の欠如に起因することが多いので、それを直すことは期待できないということだ。
この作品に描かれているのは、個人としての自覚と相手に対する適切な距離感をわきまえた人たちである。そうした人たちの関係を日本から訪ねてきた幻想系の人物の眼を通して見せることで、人と人との良好な関係を構築するには何が必要なのかを示唆しているように思われた。主人公親子の関係と同じくらい、映画の造りもぎくしゃくしているように感じられたが、それでも十分に楽しむことができた。
さて、映画のほうだが、物語の舞台がタイの田舎であることにかなり意味があるように思う。そこで暮らす人々の信仰心や礼儀正しさが、人と人との適切な距離感を維持する上で重要であるということを観る人に気づかせる装置の役割を担っている。
物語は、娘を日本に残して単身タイに渡ってきてしまった女性と、大学の卒業旅行で彼女を訪ねてきた娘とのぎくしゃくした関係を軸に展開する。彼女はやむにやまれぬ事情があってタイに来た、というわけではなさそうだ。「やりたいことがあれば、やったほうがいい」という単純で力強い信念のもとでの行動らしい。残された娘にしてみれば、それは身勝手な行動であり、親というものに期待していた自分への愛情に懐疑せざるを得ない事態である。それが、わずか6日間ほど母と一緒に暮らし、タイでの母の生活を知ることで、そうしたわだかまりがわずかに解けたかのように見える。
母がタイに渡った後、親子の間が音信不通になったわけではなく、だからこそ、こうして訪ねてきているのだから、それなりの意思疎通はあったはずだ。その上でのわだかまりである。たとえわずかな時間であっても、そこで互いの生活や考え方を知り、自分のなかに抱いていた相手に対する勝手な幻想を修正する機会に恵まれれば、そのわだかまりが解けてしまうことだって当然にあるだろう。逆に、抜き差しならない状況に陥ってしまうことだってある。
人の感情は微妙なものだ。ちょっとしたことで高揚もすれば傷つきもする。誰しも自分の感情には敏感だが、他人に対して自分に対するのと同じように敏感であるというのは容易なことではない。それどころか、自己愛が強いほど他人に対しては心底傲慢であったりするものだ。困るのは、ろくに考えもせずに自分の思い込みを相手に押し付け、それを善意とか愛情であると信じて疑わない人である。その思慮の欠如こそが「傲慢」なのである。つまり、傲慢というのは思考能力や想像力の欠如に起因することが多いので、それを直すことは期待できないということだ。
この作品に描かれているのは、個人としての自覚と相手に対する適切な距離感をわきまえた人たちである。そうした人たちの関係を日本から訪ねてきた幻想系の人物の眼を通して見せることで、人と人との良好な関係を構築するには何が必要なのかを示唆しているように思われた。主人公親子の関係と同じくらい、映画の造りもぎくしゃくしているように感じられたが、それでも十分に楽しむことができた。