熊本熊的日常

日常生活についての雑記

『鶴川日記』備忘録

2014年10月31日 | Weblog

百年以上も住みなれた農家には、土に根が生えたような落ち着きがあり、四季折々の食物にも事を欠かない。そういうものは一朝一夕で育つはずがないことを、住んでみて私ははじめて実感した。(20頁 「鶴川日記」)

空襲がはげしくなると、東京では強制疎開がはじまり、鶴川村も目に見えて人口がふえた。せっかちな私どもが、一足先に東京から逃げ出した時、国賊呼ばわりをした人々が、今度は「先見の明」があるといって褒めた。その同じ人々が、戦争が終わって、世の中が落ち着くと、「こんな草深いところに、よく我慢していられる」とせせら笑った。近頃では、地所の値段が上がったので、また何かとうるさいことである。世の中とはそんなものだろう。(28頁 「鶴川日記」)

書が上手な方なので、後水尾天皇にしようか、三藐院にしようかなどと、しばらく考えた末、後水尾天皇流で「渡水復渡、水谷花還……」という詩を書いて下さった。あまり上手なため、だれの字でも自分のものにされたが、近衛文麿の書体というものを、私はついに知らずに終わった。近い将来に自殺されるとは、夢にも思わなかった時代で、春が来るたびに、その書を床の間にかけ、冥福を祈ることにしている。(37頁 「鶴川日記」)

長さんのおばさんは、やくざの娘であった。長さんは屋根屋で、家の屋根替えも彼にしてもらったが、おとなしい養子なので、おかみさんの前では頭があがらない。その屋根替えの時、おばさんは不思議なことをささやいた。
「つき合いというものは、はじめはだれでもうまく行くが、長くなると、きっとむつかしくなって来るものです。どうぞ末長くかわいがってやっておくんなさい」
まだ若かった私は、ただの挨拶だと思っていたが、その言葉が真実であることを、やがて知る時が来た。別に農村にかぎるわけではない。人間同士のつき合いというものは、お互いにむつかしくなった時、はじめてほんとうのつき合いがはじまるのではあるまいか。(39頁 「鶴川日記」)

先日テレビを見ていたら、落語家の円生が、こんなことをいっていた。芸人は年をとって、生ま生ましい色気を失った時、はじめて芸の上に、ほんとうの色気が出せるようになる。志ん生がそう、文楽もそうだったと。
 だが、これは誰にでも通用するとは限るまい。若い時、名人上手ともてはやされた人が、年をとって、老いぼれてしまうこともあるのだし、ある人々は、若さにかじりついて、いたずらに精力を浪費する。生活と芸術の間に、密接なつながりがあるのは事実だが、その目に見えぬ糸をあやつることは誰にもできない。ただ神のみぞ知るである。(116−117頁 「ある日の梅原さん」)

まだそのころは若くて、絵のことなど何も知らない私に、先生は真面目に意見を問われ、自分で描いたものは、自分にはわからないものだといわれた。あれほど自信の強い梅原さんにして、なおこの言葉があるのは、私にとっては不思議でもあり、ありがたいことに思われた。(122頁 「ある日の梅原さん」)

模倣することはやさしい。外国語を喋ることもできよう。国際的というのが現代の合言葉らしいが、日本人であることを忘れて、どこの世界で通用するというのか。(123頁 「ある日の梅原さん」)

熊谷先生は若いころの一時期、故郷へ帰って「日傭」という労働に従事されていた。「日傭」というのは文字どおり「日やとい」のことで、山奥から材木を伐り出して、木曾川へ落とす作業をいう。川幅がせまい上、急流なので、筏は組めず、材木を一本ずつ谷へ落とすのだが、人間はその上に乗って操作する。したがって、非常に危険な仕事であるが、檜は素直で扱いやすいが、欅は根が重いので、下手をすると、水の中で真っ直ぐに立ってしまう。立ってしまえば、もう元へは戻らず、そのまま水中に没する。「木曾川の上流には、どれほど欅が沈んでいるかわからない」そう先生はいわれるが、お盆の上下を気になさるのも、そういう辛い体験があったからだろう。私は前に黒田さんから聞いた話を思い出した。「檜は素直なので、仕事がしやすいが、欅は頑固でやりにくい。だから、面白いものが出来るのだ」と。生まれつきの性質というものはどこまでもついて廻るようである。みかけは穏やかでも、極めて個性的な風格と、頑強な体躯にめぐまれた熊谷先生も、木にたとえればさしずめ欅であろう。欅の中でも「神代欅」と称して、何百年も水中に埋没している間に、見事な木理と白さびの味を得た名木といえよう。(133−134頁 「熊谷守一先生を訪ねて」)

その対談の中で、先生は昔から音楽が好きで、最近ヴァイオリンを買った話をされた。買ってはみたものの、どうしてもいい音が出ない。「できないことは、面白いですね」と、ほんとに面白そうに笑いながらいわれた。できないことの面白さ——それは私が生まれてはじめて耳にする言葉であった。(135頁 「熊谷守一先生を訪ねて」)

知識はむろんあればあるほどいい。が、物を見る時は、すべてを忘れることが肝要なのだ、そして、自分を捨て去った時、はじめて物のほうから歩みよって、その美しさの秘密を明かしてくれるのだ、と。(147頁 「芹沢さんの蒐集」)

日本においては、美と謙虚は常に同居していた。最高の職人は、自分をひけらかしたりはしないし、特に変わった形や色彩を発明して、「芸術家」になろうとも思ってはいない。くり返しの仕事というものは、たとえばおいしいパンを焼くのと同じことであり、同じ作品をたくさん造るというのは、けっして退屈なくり返しではない。世の中に、まったく同じものは二つとない。あるはずはないのである。そこに無上の楽しみが秘められていることを、リーチはくり返し説いているのだが、はたして日本の陶工は、今日でも彼がいうように「謙虚」であろうか。仕事のなかに生き生きとした喜びを見出しているだろうか。(156−157頁 「パーナード・リーチの芸術」)

作品はいわば日常生活の結果に他ならず、極端なことをいえば、荒川さんの一部でしかない。別の言葉でいえば、芸術至上主義者ではなく、人生を楽しむことを知っている生活人なのだ。「造ろうとせずに、無意識にできたものが美しい」といわれるのは、自然の前にいかに人間が小さな存在であるか、身にしみていられるからであろう。いい古された言葉だが、つき合っていると私は、「一期一会」という詞を思い出す。何も大げさなことではない、それはたとえば一生に一度見るか見られない花の便りであったり、いろり端で手ずから焼いて下さる田楽の味だったりするが、淡々とした仕草の中に心がこもっており、一つ一つの場面がたのしい憶い出としてよみがえるのである。(163−164頁 「牟田洞人の生活と人間」)

 


Need to know

2014年10月29日 | Weblog

勤めからの帰り、京王線の終電に乗るには遅くとも東京発0:06の中央線各停高尾行きに乗らなければならない。昨日の帰り、0時ちようどくらいに東京駅の中央線ホームに登ると、1番線に大月行きの快速が停車していた。もう快速の運転は終了している時間帯だ。ホームの出発案内には先発後発の別と行き先は表示されていたが、出発時刻の表示がなかった。また遅延かと思っていると、ちょうどアナウンスがあり、東小金井での人身事故により運転を見合わせているとのこと、当初は0時に運転再開を予定していたが窓ガラスが破損して再開に手間取り、運転再開予定を0時20分に延期するという内容だった。運転再開予定時刻の延期の連絡は必要だろうが、その理由を詳細に語る必要があるだろうか、とも思う。そのアナウンスを聞いたとき、待つよりも別の手を考えようととりあえず山手線ホームに向かったが、こちらも遅延していたので丸ノ内線で新宿へ出た。新宿到着は0時30分を少し回ったところで、本来なら京王線の最終若葉台行きには間に合わない。が、今日は中央線の乱れなので、発車を遅らせているだろうと踏んで足早に京王線新宿駅へ。着いたのは0時33分だったが、若葉台行きは10分延発となっていたので余裕を持って間に合った。後で聞いたところによれば中央線の運転再開は0時28分だったので、やはり見切って丸ノ内線に乗ったのは正解だった。

終電近くの列車を利用することが多いのだが、この時間帯は酔客が多い所為もあり、遅延は日常化している。そこに今回のように人身事故が重なるとダイヤもクソもあったものではない。そういう状況において構内アナウンスは何を伝えるべきなのか、考える必要があるのではないか。遅延の理由よりも、代替手段についてもう少し現実的な情報を提供することはできないものなのだろうか。

ちなみに今月のこれまでの遅延遭遇状況は以下の通りだった。

10/7 12:28 新宿発中央線快速 5分遅延 急病人対応
10/8 12:36 新宿発中央線快速 ほぼ同時刻に13番線で人身事故が発生し運転見合わせ
10/10 0:00 東京発中央線快速 遅延している京浜東北線との接続のため3分延発  0:30 新宿発京王線各停最終 遅延しているJRとの接続のため12分延発
10/10 12:40 新宿発中央線快速 先行する特急の遅延のため3分遅延
10/21 23:50 東京発中央線快速 理由不明 6分遅延 御茶ノ水での各停との接続でさらに遅延
10/22 12:16 つつじヶ丘発京王線区間急行 理由不明 4分遅延
10/23 12:16 つつじヶ丘発京王線区間急行 南平=高幡不動で安全確認を行ったため7分遅延 12:40 新宿発中央線快速 理由不明 4分遅延  21:58 京王線下り 明大前直前で急停止 明大前で非常ボタンが操作されたため約2分停車 さらに明大前で同理由により4分停車
10/25 23:57 東京発中央線快速 車両運用の都合 7分遅延
10/28 11:10 新宿発中央線快速 荻窪駅での非常ボタン操作のため5分遅延  上記の帰宅の足の乱れの元は22:50頃に東小金井駅で発生した人身事故 


らくだ

2014年10月25日 | Weblog

毎度おなじみの政治家の不祥事が続いているようだが、このブログで何度も書いているように民主制というものは幻想の上に成り立っているから不祥事が無くならないのである。

「らくだ」という噺がある。素行不良の男が河豚の毒にあたって死ぬ。たまたま訪ねてきた兄貴分がその屍体を発見し、弔いをあげることにする。やはりたまたま通りかかった屑屋を使いにして長屋の月番、大家に話を通して弔いの真似事をする。屑屋は嫌々らくだの兄貴分の使いをしていたのだが、弔いの酒を勧められるままに飲むうちに酔いが回って兄貴分との立場が逆転してしまうという話だ。この噺の肝は強面の兄貴分と、彼に脅されていいように使われる屑屋の立場が、酒に酔うということをきっかけに逆転するところにある。それとは別に興味深いところは、この噺に登場しないらくだを複数の登場人物の言葉によって想像させることだ。らくだは死んでいる。死んだということを聞いたときのそれぞれの登場人物たちの反応で聴衆である我々はらくだというのがとんでもない素行不良の人物であると思ってしまうのである。だが、らくだが本当はどういう人物だったのか、聴衆は知らない。

世の中には共同幻想的な思い込みで成り立っていることが多い。選挙などその最たるものだろう。我々の多くは自分の選挙区の立候補者のことなど何も知らないのである。確かに、選挙公約は公表されるし、所属あるいは推薦する政党のことも報道や過去の実績から漠然とは知っているかもしれないが、圧倒的大多数は政治の世界の当事者ではないし、候補者との個人的な関係はない。にもかかわらず、限られた情報、それも選挙のために特別に用意された情報をもとに候補者の適正を判断することを要求されるのである。候補者が選挙用の情報通り、あるいはそれ以上に高潔で滅私奉公の精神の持ち主なら、それで何の不都合もない。現実はそうではないから始末が悪いのである。

「らくだ」という噺の本質は、実は主要登場人物の関係が話の前後で逆転する面白さにあるのではなく、知りもしないことをわかったつもりになる人間社会の怖さにあるのではないかと思うのである。怖さというのは、自分ではそれと気づかぬうちに何か罠のようなものにはまってしまいながら、とうとう罠にはまっている自分を認識できないままでいることの怖さである。

ところで、今日の落語会は聴いていて気持ちが良かった。開口一番からトリに至る四人とも丁寧な口演だった。「甲府い」は今まで自分が聴いたなかでは一番良かったと思うし、「ワライヤ・キャリー」の弾け具合も好きだ。「らくだ」は兄貴分が少しこわすぎる気がしないでもなかったが、紛れもなく独自の世界観が感じられた。こういう落語会を聴くと日本人に生まれて本当によかったと思ってしまう。

本日の演目

古今亭始「金の大黒」
三遊亭歌武蔵「甲府い」
(中入り)
柳家喬太郎「笑屋キャリー」
柳家喜多八「らくだ」

開演:13時30分 終演:16時20分
会場:よみうりホール 


私は誰?

2014年10月24日 | Weblog

ネットバンキングからの不正送金が増えているとかで、銀行のサイトを開くと注意書きがやたらに増えた。ログインするにも一手間増えたり、毎回のようにパスワードの変更を求めてくるところもある。職場のシステムも頻繁にパスワードを変更するようになっていて、今や生活は何をするにもパスワード抜きには前に進まないと言ってもいいくらいである。本人の認証は基本的にはIDとパスワードの組み合わせだ。これら2つ情報を同時に知りうるのはそれらを設定した本人のみである、との前提だ。IDもパスワードも文字列なので、その気になればさほどの困難もなく盗み出すことができるという人は世間にたくさんいるだろう。なりすましによる犯罪の実務面における根本的な原因は、ひとりの人間を数えることができる程度の文字列に置き換えていることにある。つまり、ネットバンキングという発想には、なりすましによる不正利用が当然に含まれている。では、その防止策はあり得ないということなのだろうか。

人間は社会的な生き物だ。個人として独立して存在するのではなく、他者との関係のなかで存在を与えられ、そのことによって生命の維持に必要な財貨やサービスを獲得している。結果として名前と住所というような文字列情報で管理されてはいても、どこかしかに生身の人間どうしの関係がある。文字列情報はそれだけのものでしかないが、生身どうしの関係となると五感総動員で認識することが要求される。現実には他人になりすまして生活をするということが皆無ではないし、屍体が年金の受給を続けているケースはしばしば報道されている。しかし一般論としては、ある特定の人物になりすますというのは容易ではないだろう。例えば本人認証においても生体認証というものがある。指紋、声紋、虹彩といったものは個人毎に特有のものであり、他にも匂いであるとか雰囲気であるとか人工的に再現することが容易ではない要素が組み合わさり、そこに知性や感性というさらに再現が困難な要素も組み合わさって個人が存在している。少なくとも家族とか親しい友人という間柄においてはなりすましというのは不可能、であるはずだ。

ところが、例えばオレオレ詐欺の被害者は家族を語る容疑者に騙されている。多くは息子や娘を名乗る犯人がその親を騙して金品を奪っている。なぜ被害者は自分の子供を見抜けないかといえば、そこに生身の関係が無いからだ。被害者のなかには同居している家族を名乗る犯人に騙される人もいる。生身の関係というのは物理的な距離に拠るのではない。もちろんそうした人間関係の脆弱性に付け込んで不当に他人の財貨を奪うのは紛れもない犯罪行為である。しかし、被害者の側に全く落ち度がないとも言えないだろう。老齢で判断力が低下しているということはあるにしても、それ以前に家族という関係が崩壊しているのである。オレオレ詐欺のような犯罪が発生するような社会では、ネットバンキングでのなりすましなど当たり前に発生するのである。ネットバンキングというサービスを提供する側の責任として、対応可能な一通りの対策を打つのは当然としても、セキュリティ対策のソフトを配布するとか注意喚起の告知を行うことが根本的な対応策ではないことは明白だ。もはやサービス提供者と利用者という個別の問題ではないのである。身も蓋もない言い方をすれば、お手上げなのである。


小言念仏

2014年10月23日 | Weblog

デービット・アトキンソンが『イギリス人アナリスト日本の国宝を守る』という本を出したので、早速読んでみた。本の中で日本の経営者にはサイエンスが無いと繰り返し主張しているのだが、その主張自体にも然程サイエンスがあるとは思えなかった。ゴールドマン・サックスでパートナーにまで上り詰めたという実績を誇りたい気持ちはわかるのだが、この本の装丁と同じように軽い中身にしか思えなかった。この講談社+α新書というのはこの手のものが多い。読んでいて落語の「小言念仏」を聴いているような心持ちになった。これ以上特に書くこともないのだが、これで終わると私のほうも小言念仏なので、一応章立てくらいは紹介しておくべきだろう。

はじめに ゴールドマン・サックスのイギリス人アナリストが、日本の伝統文化を守る会社の社長になった理由
  肝心の「理由」がよくわからない。「はじめに」の割にはページ数を多く割いている。内容は徒然なるままの自己紹介のようなもの。

第1章 外国人が理解できない「ミステリアスジャパニーズ現象」
  特に目新しいことが書かれているわけではない。著者が言いたいことも「ミステリアス」。

第2章 日本の「効率の悪さ」を改善する方法
  何がどう「効率の悪さ」なのか、ということが結局よくわからない。

第3章 日本の経営者には「サイエンス」が足りない
  書いてあることにも「サイエンス」が足りない

第4章 日本は本当に「おもてなし」が得意なのか
  箱根の旅館とクレジットカードの再発行手続きのことで「おもてなし」云々を言われてもねぇ、という感じ。

第5章 「文化財保護」で日本はまだまだ成長できる
  ここからがようやく本題かと思いきや、残すところ40ページしかない。本題はその程度の内容ということでもある。

第6章 「観光立国」日本が真の経済復活を果たす
  要するにイギリスを見習えということらしいのだが、あれで経済が復活していると言えるのかという素朴な疑問を抱くのは私だけだろうか。

おわりに
  これだけですか、という感じ。

ただ、与太話として聞く分には違和感はない。御説御尤と思えることばかりだった。結局、私のほうも小言念仏のようになってしまった。お互い様だ。 


先手必敗

2014年10月18日 | Weblog

PCのOSをYosemiteに変更した。いきなりJava runtime enviornmentをインストールしろだの、フリーズするだのPCの動きがぎこちなくなった。長年マックを使っているがジョブスが亡くなったあたりを境に使い勝手の良さが失われているように感じられる。Yosemiteに関しては、とにかく立ち上がりが悪い。よくこんなものを「製品」としてリリースしたものだと、アップルの傲慢さに呆れてしまう。Windowsのほうも8のときはぎくしゃくして、ほどなくして8.1が登場するという実態としては不祥事のようなことになっている。バグの所為なのか根本的に何かがおかしいのか知らないが、Yosemiteを導入しようと思っている人はもう少し待ったほうがよい。一番困るのは、例えばこうしてブログをサイト上で書いている途中で、何か他に用ができてPCを開いたまま放置したときに、ネットの接続が落ちてしまうことだ。このブログサイトには自動バックアップがあるので、接続が回復したときにある程度は復旧できるのだが、バックアップに漏れた部分はどうすることもできない。これは個人の雑用のPCなのでそれで何か生活上の不都合が起きるわけではないのだが、仕事で利用している人にとっては大きな問題だろう。セキュリティを強化したということは理解できるが、利用者の生活に対する配慮というか想像力がもう少し働かないものかと疑問に思う。

PCに限らず、近頃は所謂「初期不良」が当たり前になっているような気がする。要するに、製品やサービスを供給する側に自分たちの商品の完成度を詰めることがなくなっている、できなくなっていると言ったほうがいいのかもしれない。理由はいろいろあるだろうが、大元は悪意の存在を前提としなければならない社会になっているということだと思う。PCのOSに関しては、セキュリティにまつわる対応が本来の機能を円滑に発揮する際の障害になっているのだろうし、従前以上にフェイル・セーフ的な措置も強く求められているのだろう。相手を信頼して「その機器やサービスを利用して詐欺を行うことを想定しない」という前提に立てば、PCにせよ通信機器にせよ格段に使い勝手の良いものになるような気がする。

物事が複雑になれば、それだけ罠のようなものも多くなる。そうしたなかで新しいことをしようとすれば、予想していなかった問題が生じる確率も高くなる。先行者が取るリスクは増えるだろうが、それに見合ったリターンが得られるかどうかはわからない。しかし、供給者責任というものがついてまわる。障害が多いほど参入障壁は高くなるはずだが、テクノロジーの伝播は時代を追う毎に速くなっているのも事実だろう。先手必勝で先行者利益が得られると期待できるならイノベーションは活発になるが、リスクに見合うものがないと認識されてしまうと物事は進まなくなる。それが社会の成熟というものなのかもしれないが、積極果敢に新しいことを興そうと思わせるような空気を醸成しないと、人を騙してうまいことやってやろうという矮小な人間が跋扈するようになってしまう。悪意が蔓延してますます物事が興りにくくなる。悪循環に陥っている。


節目

2014年10月15日 | Weblog

何ヶ月ぶりかの草刈りだ。前回はいつだったか手元の記録を調べてみたら7月3日だった。暑い時期と何回かの台風を経ているので草は盛大に育っている。今年は10月に入ってから大きな台風に2度も襲われたが、そういうことがあると大きな時間の流れの節目を経たのだという実感が湧く。

同じ職場で働く契約社員の契約が切れた。更新されないことが本人に通知されたのは昨日のことだそうだ。突然のことで本人はどう感じたのか知らないが、傍目にはいかがなものかとの思いを禁じ得ない。この人は今年6月に1ヶ月契約で入社した。7月に契約更新となり今度は3ヶ月契約となった。懸案だった資格試験も今月7日に合格し、晴れて正社員と本人は思っていたらしい。

7月17日につまらないことでこの人が食ってかかってくることがあって、その時彼は「私はね、試験に受かった瞬間にVPになるんですよ。そうしたら、ここの職場の上下関係をもっとはっきりさせてみせますから。」と宣うたのである。VPというのは勤務先の職位の名称でVice Presidentの略である。この日、同じ職場でAssociateという職位の人に彼が指示をしたことがあって、それをそのAssociateは拒絶したことが気に入らなかったらしい。彼の入社の経緯は知らないが、職場の上司の個人的な引きによることは確かなようだ。彼曰くその上司は「まぶだち」なのだそうだ。「まぶだち」の権威を背景にかなり横柄な態度を取ったこともあり、本人の生来の性格もあり、周囲と軋轢を起こし、ついには彼に対する排斥運動が起こったのである。かなりまとまった数の社員が共同して上司に彼の行状を訴え、そうした騒動が本社管理部門に届いてしまったようだ。異例のことである。私は30年近く給与生活者として生きてきたが、このような民主的な運動で人事が動くのを目の当たりにするのはこれが初めてだ。

素朴に不思議に思うのは、これほどの反発を受けながら、彼がその反発を認識している様子が無かったことだ。人は見たいと思う現実しか見ない、とはよく言われる。今月に入り彼の契約が更新されないことが決まり、その決定はもちろん個人的なことなので正式に公表こそされなかったが我々の間では周知のこととなった。にもかかわらず、彼は契約が更新されないとは思っていなかったらしい。「試験に受かった瞬間」に彼が想定していたような展開にはならなかったことで何事か気づけばよさそうなものなのだが、そういうことはなかったようだ。なぜ気がつかないのか不思議でならないのだが、先週も相変わらず軋轢を起こしていた。

彼を引っ張った上司によれば、彼はvery smartなのだそうだが、そのsmartを一度も発揮することなく契約満了となった。その職位で当然持っていなければならない資格が無かったので仕事が無いのである。ただ職場に来て所定の時間を過ごして帰宅して、その拘束に対して給与が支払われる。そういう状態が4ヶ月続いただけだ。5月と8月に一人つづ辞めたときにはそのしわ寄せが残った我々に来たが、明日から何かが変わるということはなさそうだ。そんな節目の日であった。

 


一針入魂

2014年10月11日 | Weblog

日本民藝館でカンタと刺子の展覧会と岩立フォークテキスタイルミュージアムの岩立広子館長による講演会を聴いてきた。刺子は静かな流行らしく、少し前のことだが神楽坂でギャラリーを営んでいる人からこぎん刺しのワークショップを企画したら参加者がずいぶん集まったというようなことを聞いた。刺子というのは意匠の面白さももちろんあるが、刺子を施すことによって布が丈夫になったり汗をかいてもべとつかなくなったりといった機能向上の効果もあって、おそらく昔の家では家事の合間あるいは家事そのものとして刺子に精を出したのではないだろうか。戦争の時は「千人針」といって実用を超えた用途に用いられたりもした。千人針などは針を入れること自体に何事かの力を感じたということなのだろう。何もないところからそうした発想が生まれるはずはなく、日常使いの刺子に程度の差こそあれ人々が意匠や機能を超えた何かを感じていたということだ。

さて、カンタだが、インド亜大陸の東の付け根に位置するベンガル地方で見られた刺子のことだそうだ。使い古しのサリーやドゥーテを4~5枚重ね、表面に模様や絵を刺繍したものである。今回の民藝館の展覧会では大小80点ほどが展示されている。意匠は作り手の身近なもののようだが、多いのは中央に蓮の花、四隅にペイズリーを配し、曼荼羅のような構図に仕上げたものである。ペイズリーは、名前こそスコットランドの地名だが、もともとはインド、イランに由来する模様で「ペイズリー」と名がついたのは産業革命期にスコットランドのPaisleyでこの模様の織物が量産されたことに由来する。カンタを特徴付けるのはこうした構図ではなく、モチーフとモチーフの間に刺繍されている地紋なのだそうだ。あと、モチーフはフリーハンドである。道具や機械を使って奇麗な形をつくるのではなく、あくまで手仕事であることも正統派カンタの特徴なのである。

カンタは家庭内での廃品再生のひとつで、家庭内での使用が原則だ。それを売ってどうこうしようというのではなく、嫁入り道具のひとつにするとか、子供が生まれたときにおくるみに使う、というような使われ方をする。売り物ではないので流通することがなく、それ故に蒐集は容易ではない。岩立さんの蒐集歴は40年だそうだが、一枚も手に入らなかった年もあるという。流通していないので、その歴史も定かではないのだが、作られていた時期は19世紀から20世紀初頭にかけての100年ほどでしかないというのも蒐集を困難にする要因になっている。近年、NGOなどがカンタの復興を図っているそうだが、おそらく産業振興として手仕事を利用するという発想だろう。動機がそもそもカンタの精神ではない。どれほど見栄えのするものであろうと、そういうものは岩立さんのような蒐集家にとってはカンタとは認め難いのではないだろうか。

人間の行為の動機によって同じような外見の結果でも全く違った存在になるものである。よく自利とか他利ということを耳にするが、生き物の欲望とか行動原理は結局のところは自利であろう。ただ、「自」の領域が同じではないのである。あらゆるものを貨幣価値で表現する世の中においては、そうした自の違いが消し去られる方向に物事が進む。貨幣価値で表現される社会においては一物一価が原則で、価格差があればそれを仲介することで差額を利益として享受しようという者が現れて価格差が無くなってしまうからだ。本来なら仲介者は価格差の由来を理解できなければならい。理解できる感性と知性がなければならない。世の中がのんびりしていた時代なら、そうした価格差の由来、すなわちそのモノの価値というものが今よりはしっかりと吟味されていたのではないだろうか。地球の裏側のことが瞬時に伝えられるような時代になると、価値の見極めなどしている余裕は無くなってしまう。外見とか表面的な機能だけを抄い取って存在の根源などには関心を払わなくなる。手間隙の意味、そこに込められた想い、などといったロマンチックなものは見向きもされなくなるのである。例えば人間の社会であれば、生き物としての人間の生活が不自由なく営むことのできる物理的な環境を最低限の費用で実現するということが、市場での裁定の結果として選択されることになる。結果として規格化されたモノに囲まれた生活が出現する。規格化された生活のなかで暮らす者も規格化された生き方を強いられることになる。あるいは自ら進んで自分の生活を規格化しようとするようになる。規格が文化や文明というものなのかもしれない。動機はどうあれ、結果としてそれを目指してきたのが今の人間の社会なのだから。規格に合わないものは「無駄」だの「余計」だのと社会から排除されることになる。しかし、機械のような存在であるならいざ知らず、感性も知性もある生き物なら、その存在の根源は規格で表現できないもので形作られているのではないか。つまり、文明の行き着くところはその根源を消滅させることにはならないのか。

例えばカンタを見て、100人が100人とも美しいとか素晴らしいとは思わないだろう。全員がダメ出しをするようでは存在できないが、一人でも欲しいと思う人がいればそれだけで存在価値があるはずだ。作り手の一針一針の想いを感じ取ることのできる人がいればそれだけで生まれた甲斐があるはずだ。しかし、今の世の中は100人のうち50人80人できれば100人の獲得を目指すように出来つつあるような気がする。100人全員が欲しいと思うようなものが存在するとしたら、そこにはもはや感性や知性は存在しない。

 


孤食の風景

2014年10月06日 | Weblog

勤めからの帰り道、目が釘付けになる風景に出会ってしまった。

新宿で京王線の橋本行き急行に乗って発車を待っていた。車両のつなぎ目に近いドアの脇に進行方向に向かって立った。発車間際になって、そのつなぎ目に若い小柄な女性がやってきた。見た目はごく普通の勤め帰りのお嬢さんだ。耳に赤いイヤホン。イヤホンのコードは手にしたスマホにつながっている。ドアが閉まり電車が動き出すと、彼女は肩にかけた革の鞄からビニールに入った菓子パンを取り出し豪快に食べ始めた。小柄なので一口で食べることのできる量が私に比べて少ないが、文字通り「頬張って」食べている。時間も遅かったので小腹でも空いたのだろうと思っていた。やがて一つ目のパンを食べ終えて二つ目に取りかかった。次はおにぎりだ。次もおにぎり。そしてまたパンになった。私はつつじヶ丘で下車したが、その時までずっと口が動きっぱなしである。小腹が減る、というようなことではなく、それは彼女にとっての夕食なのだろう。太っているわけでもなく、むしろ細いほうだ。京王線の急行で新宿からつつじヶ丘までは約20分だ。20分間、携帯を眺めながらひたすら食い続けるというのは、なんだか人間のようではなかった。


名人

2014年10月05日 | Weblog

台風18号の影響で朝から雨だったので終日家の中で過ごした。たまたま昨日届いた落語協会のメルマガに天どんの「品川心中」が紹介されていたのでそれを聴いた。聴いてみて、本当はどういう噺だったかと思い、YouTubeで検索して圓生で聴いてみた。そこからあれもこれもと思いつくままに落語を聴いて妻と午後を過ごした。結局、次のような香盤になった。

天どん 「品川心中」
圓生 「品川心中」
文楽 「明烏」
志ん生 「おかめ団子」
馬生 「目黒のさんま」
小三治 「うどんや」
枝雀 「かぜうどん」
文楽 「大仏餅」 

よく「名人会」というものがある。アーカイブで好き勝手に香盤を作ればいつでも自分にとっての名人会ができあがる。「名人」のイメージというのは人それぞれだろうが、多少なりとも世間というものを知っていれば自分で「名人」だと思う奴などいないだろう。名人というのは他人様が決めるもので、自分で決めることではない。仕事のためとはいえ、「名人会」に「名人」として出演するにはかなりの勇気が要るはずだ。その勇気だけでも芸のうちではないかと思う。